koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

1982年カ-タン峰北海道登山隊40周年隊員の会開催、その3回目

ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ル・カ-タン峰遠征40周年の集い・三回目

 前々回は、2022年11月25日午後3時から、札幌ガ-デンパレスで、40年前に初登頂した北海道カ-タン峰登山隊の集い開催、をアップ。

 前回から、40年前のネパ-ルヒマラヤ・カ-タン峰登山をアップし始めた。

 今回は、40年前のネパ-ルヒマラヤ登山の状況を、想い出して書いてみたい。

 現在のネパ-ルヒマラヤ登山は、世界中の登山愛好者がネパ-ル政府に登山届を提出し、ネパ-ル政府の許可を得て登山することができる。だが多少の例外があって、ネパ-ル登山規則には、単独登山禁止やエベレストでは超高齢者の登山を禁止、などの規定がある。

 40年前と今日とで異なるのは、一ル-ト・一シ-ズン、一隊の規則が1990からはダブルブッキングOKに変化しているし、日本国内の手続きの民主化への変化がある。

日本政府の登山者差別政策時代があった

 日本国内の何が民主化したのか。それは、日本の登山者がネパ-ル登山を行おうとすると、40年より少し前は日本政府外務省宛ての推薦状発行が日本山岳協会の加盟団体にしかなかった現実があった。要するに、日本政府は登山愛好者を差別する政策を執っていた。日本の海外登山に関しては、日本体育協会に加盟する日本山岳協会の会員だけが日本の登山愛好者で、その他の登山者を登山者と見做さない政策だった。

 この憲法違反の登山者差別政策に、裁判闘争も視野に、パビ-ル登山隊の直接ネパ-ル政府への登山申請活動だった。日本勤労者山岳連盟が日本政府の差別政策是正に行動を起こし。結果、日本勤労者山岳連盟への加盟団体にも、日本政府宛ての推薦状発行が実現。
 40年前の北海道カ-タン遠征隊は、民主化実現後のネパ-ル政府への登山申請となった。

日本のヒマラヤ登山大衆化

 わたし達北海道道央地区勤労者山岳連盟海外委員会が初のヒマラヤ遠征に取り組んだ時代は、ヒマラヤ登山の大衆化と伴にあった、と云えるだろう。

それは、二つの側面からの大衆化だ。

 まずヒマラヤ登山の大衆化とは何の人々を指すのか。それは我が国日本のヒマラヤ登山の主役は、1970年代半ば頃までは大学山岳部と日本山岳会が主流で、その主流のみのヒマラヤ登山が行われていた。何故そうだったのか。それは貧富の差そのもので、労働者階級の日本人にはヒマラヤ登山の費用が賄われなかった時代だったのである。

 1950年、フランス隊が8千m峰のアンナプルナⅠ峰を初登頂し、エベレストの初登頂が1953年にイギリス隊。そして日本隊が1956年にマナスル峰を初登頂した。日本の登山界は勿論、日本人の空前絶後とまで云われる登山ブ-ムを巻き起こすのだが、それは国内登山に限られていた。なぜなら、服装などの装備と交通費だけで登れる国内登山は安価なスポ-ツだったから。

 海外登山は、親がお金持ちの大学生か、お金に余裕のある日本山岳会会員などに限られていたし、新聞社が遠征費用のほとんどを出す登山隊に限られていた。

 それが、だ、1970年代後半になると、労働者・勤労者の年間所得も向上。年次有給休暇の権利行使が容易になるなど、なんとか海外登山が実現可能になったのだ。

二つ目のヒマラヤ大衆化は、ネパ-ル政府の未踏峰の解禁だった。

 当時の登山愛好者の登山目標は、1950年代からのヒマラヤ初登頂。

 ネパ-ルに限ると、ネパ-ル政府が登山可能とする山は、登山規則で発表されている山に限られていた。その公表されていた山のほとんど全てが登頂されていた。そこでネパ-ル政府は、数十山の未踏峰の山を発表。経済的にヒマラヤ登山可能になった日本の勤労者達が次々と登山申請。

 カ-タン北海道隊は、このネパ-ル未踏峰解禁に合わせて、登山申請に間に合ったのだ。

 

 

ワリンヒマ-ル・カ-タン峰6853m初登頂

右下にエベレスト8848mとロ-ツェ

カ-タ峰 日本山岳協会推薦状→外務省

日本山岳協会推薦状→ネパ-ル政府観光省登山課

ネパ-ル政府宛て英文の登山許可申請

わたしの女房が英文タイパ-で、英文タイプライタ-で作成

カ-タン峰 ネパ-ル政府 登頂証明書1982年

ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ル・カ-タン峰6853m登頂、バックの山はエベレスト8848m

 

カ-タ峰 予告北海道新聞 1981年11月