koyaken4852のブログ

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1982年カ-タン峰北海道登山隊40周年隊員の会開催、その2回目

ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ル・カ-タン峰遠征40周年の集い・二回目

 前回は、2022年11月25日午後3時から、札幌ガ-デンパレスで、40年前に初登頂した北海道カ-タン峰登山隊の集い開催、をアップ。

 今回は、40年前のネパ-ルヒマラヤ・カ-タン峰登山をアップする。              

 1982年ポストモンス-ンのネパ-ルヒマラヤ遠征隊の名称は、北海道カ-タン峰登山隊。

 派遣組織は、北海道道央地区勤労者山岳連盟海外委員会。この連盟のヒマラヤ遠征は初だった。

北海道隊の海外登山に遭難相次ぐ

 わたし達のヒマラヤ登山隊は1982年、その⒈年前の1981年に二隊の北海道隊がヒマラヤ登山を行っていた。その二隊共に大量の遭難事故を起こしていた。

 中国ミニヤコンガ北海道登山隊は、滑落による死亡者一名と一本のロ-プに7人が連なって滑落死。合わせて8名が死亡と云う、日本のヒマラヤ遠征史でも類を見ない程の死亡遭難事故だった。他の一隊は全員女性のインドヒマラヤ・ジヤオンリ峰北海道登山隊。高所ガイド2名と隊員4名がル-トの先頭をメイキング中、新雪表層雪崩が発生。  ガイド1名と隊員1名は助かるが、ガイド1名と女性隊員3名、合わせて4名が死亡。

 この大量遭難の次の年、1982年アタックのわたし達の北海道登山隊は、絶対に遭難事故を起こせない情況、に追い込まれていた。

 当時のカ-タン登山隊の隊長は、40周年の集いのあいさつ時に、40年前の日本の登山界と海外登山の状況について「一人の隊員も死なせられない登山だった」、と語っている。

 隊長の重圧のプレッシャ-はいかほどだったことだろうか。

 

未踏峰だったカ-タン峰に北海道登山隊は大成功

 カ-タン峰北海道登山隊は、隊員13名とドクタ-が一名、の14名の登山隊。その内10名登頂で成功した。

 雇用したネパ-ルメンバ-は、ガイド頭のサ-ダ-とガイド二人。そしてコックとキッチンボ-イ二人。メ-ルランナ-一人と、ネパ-ル政府の係官リエゾンオフイサ-が一人。総勢8名のネパ-ル人。22名がベ-スキヤンプで生活することになる。

 リエゾンオフイサ-は、ネパ-ルの公務員が一人、登山隊に付いてくる。リエゾンの役割は、一定以上の標高のヒマ-ルの登山許可を得ると、その登山隊の監視役としての係官。登山隊がゴミを放置していないか、又許可を得たル-トの登下降通りか、許可日程通りか、等々を登山のベ-スキヤンプに居て視るのが役割。登山隊はリエゾンに、キヤラバン中やベ-スキヤンプで使用する装備の代金と、カトマンドゥ出発から帰還までの日当を支給する。45日間の登山期間でリエゾンに支給するお金は、公務員一年間の給料に匹敵する。

 わたし達の登山隊は登頂日を10月末日までの許可を得ていたが、ル-トメイキングに日数を費やし、リエゾンの承認を得て、11月の登頂となった。

 カ-タン峰登攀の様子は次回に。北海道隊のメンバ-とネパ-ルメンバ-を紹介する。

 

カ-タン峰・キャンプ1からスカイラインの北東稜

登山隊員とネパ-ルメンバ-の写真をアップ

隊長

副隊長のわたし

登山隊メンバ-

ドクタ-

リエゾンオフイサ-   

harat aj khadka

ガイド頭のテンリ・シエルパ

endi sherpa

高所ガイド2人

orsee sherpa

ng dawa Sherpa

コック

orbu sherpa

コック見習いのキッチンボ-イ二人

amgel sherpa

awa sherpa

メ-ルランナ-

 

1981年中国北海道ミニヤコンガ隊 報告書より

1981年インド・ジヤオンリ北海道隊