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1982年カ-タン峰北海道登山隊40周年隊員の会開催、その4回目

ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ル・カ-タン峰遠征40周年の集い・四回目

 2022年11月25日午後3時から、札幌ガ-デンパレスで、40年前に初登頂した北海道カ-タン峰登山隊の集いが開催された。

 前々回から、40年前のネパ-ルヒマラヤ・カ-タン峰登山をアップし始めた。

 北海道道央地区勤労者山岳連盟初のヒマラヤ登山は、1978年連盟内に海外委員会を設置して検討を始めた。まず最初にヒマラヤ登山に興味のある会員によびかけを行い、委員会委員の募集。集まった委員会において、ヒマラヤの山々の多くを占めるネパ-ルとインド、そしてパキスタンや中国などに焦点を当て検討。その結果は、プロセツ手続きの容易なネパ-ルの6千m峰を目指す。一人でも多くの6千m峰登山経験者を目指すことを、1980年3月開催の道央地区連盟定期総会で決定。

ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰を目指す       

 この時期、前回に書いた通り、1981年5月丁度ネパ-ル政府は数十の未踏峰未解禁峰の解禁を発表。

 未踏峰未解禁峰の解禁発表前の1980年には、標高が6千m後半の6853mのカ-タン峰解禁の情報があり、早速目指すことになる。

 ネパ-ル登山規則には、6500以上と以下では、許可申請届出先が異なっている。6500m以上のヒマ-ル(山)はネパ-ル政府観光省登山局へ申請。当時は、申請順に一シ-ズン、一ル-ト、一隊の規則で、許可された。1990年からは、ダブルブッキングOKとなり、申請された全ての登山隊に許可が下りている。

 標高が6500mより低い山は、ネパ-ル登山協会への申請となる。ネパ-ル政府の係官リエゾンオフイサ-が登山隊の監視役としてベ-スキヤンプまで付いてくるのは6500m以上の山。

 隊員は13名とドクタ-一人の14名。隊長・副隊長や会計・装備準備担当・食糧担当・気象担当、などの担当者を決定して準備活動が始まる。40年前のヒマラヤ登山は、ネパ-ル政府への登山許可申請を早くしないと、他の登山隊に許可が下りて登れなくなるので3年前・2年前の申請になにらざるを得なかった。それで、準備に時間をかけれるし、訓練山行も二年間じっくりと取り組めた。

一年前の偵察隊の派遣

 未踏峰の解禁に合わせて登山申請したカ-タン峰は、頂上へ至るより容易に登れるル-トなど、資料が皆無だった。頂上を目指すル-トを決定していないと、ベ-スキヤンプの位置や登攀装備などの予定ができない。カ-タン峰は隣のヌンブ-ル峰の頂上と双耳峰になっている。既に登られている北西側ヌンブ-ル峰側は分かっているので、東側と南側の偵察が必要になった。

 カ-タンの聳える一帯は地元でドックンダ-ヒマ-ルと呼ばれていて、ヌンブ-ルとカ-タン、それとキャリオルン峰の三山の連峰になっている。

 未踏のカ-タンは我々の北海道隊で、南隣のキャリオルン峰は日本の兵庫隊が申請していた。

 1982年本隊の丁度一年前1981年に、私が偵察隊長としてカ-タンの南側と東側の偵察に出発。

 ネパ-ルの首都カトマンドゥのトリブバンエア-ポ-トから約30分のフライトで、ロ-ルワリンヒマ-ルの東隣のク-ンブヒマ-ルのルクラ飛行場に飛び。ロ-ルワリンヒマ-ルとク-ンブヒマ-ルの境界になっているモロラ(モロ峠)を越えてルムディンカルカ(放牧地)経由で、最低限でもカ-タン峰ベ-スキヤンプ予定地の偵察、が偵察隊の任務だった。

 1982年の隊長は、この偵察隊に同行して、ネパ-ル政府観光省登山課を訪問して登山許可の確認。他の偵察隊員5人はルクラフライトにトライ。それが、有視界飛行のフライトなので、雲が垂れ込めていて3日間続けてフライトがキヤンセル。わたしを含めて3人が飛べず。その後職場の休暇の関係で、2人だけが偵察にいくこととなった。

フラトできなかった3人は加藤保夫さんと尾崎隆さんと帰国

 ルクラフライトが3日間キヤンセルの偵察隊3人は、急遽ネパ-ルの山体験目的のトレッキングに出発。世界一美しい渓谷、と呼ばれているランタンを歩くことになる。

 帰国の時だった。丁度マナスル峰8163m登頂してフライト帰国便が同じだった、加藤保夫さんと尾崎隆さんにネパ-ルのエ-ジエント業の社長が、「北海道の3人はネパ-ル初めてなので、成田まで一緒に行ってほしい」、とお願いしてくれた。

 わたし達3人は、タイのバンコク経由成田まで、世界的登山家と一緒で楽しいひと時を過ごすことになる。わたしはバンコクで加藤・尾崎さんと一緒のホテル部屋に宿泊。 シヤワ-室から出てきた加藤さんの、両足指のない足を驚きの目で見る。足指のもっと上の足の甲から足指切断だった。

 加藤保夫さんは、1973年ポストモンス-ンと1980年プレモンス-ン季節の2シ-ズンに、ネパ-ル側とチベット側の両方からエベレスト登頂。その結果が両足指10本指切断。加藤さんはこの時の1年数か月後の1982年12月27日エベレスト3シ-ズン登頂の輝かしい栄冠と共に、頂上直下でビバ-クし遭難。永遠にエベレストから還えることはなかった。

 尾崎隆さんは、1980年にエベレスト北壁から登頂。2011年エベレスト南東稜の8500m、頂上を目の前にして死亡。

 今回は、カ-タン峰登山の様子を後回しにして、このお二人加藤保夫さんと尾崎隆さんの写真など、アップする。

 

ネパ-ルからの帰路、タイ・バンコクのレストラン

 

加藤保夫、エベレスト冬季登頂 1982年12月27日

加藤保夫、エベレスト遭難

加藤保夫・雪煙をめざして

1982年エベレスト登山直前に執筆

加藤保夫・エベレストに消えた息子よ

母親の執筆

加藤保夫・エベレストに死す

加藤保夫さんからの年賀状

ネパ-ル・エベレスト街道の加藤保夫の碑、エベレストを眺める場所に