koyaken4852のブログ

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ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第3回

ネパ-ル人の2登山合同隊、K2・8611mの冬季初登頂、おめでとう その三回目

 前回と前々回は、ネパ-ル人だけの、中国とパキスタンの国境に聳えるK2峰の冬季初登頂を書いた。

 そして、それは外国人に雇われて登山する姿から、自分のお金でアルピニストとして高峰登山への歴史となつた。

 1921年から始まったイギリス隊のエベレスト・エックスペディションに雇用されて、高所ポ-タ-から始まったネパ-ルのシェルパ族の、外国隊の雇用要員としての登山が、100年もの歴史へ経てようやく自ら享受する登山文化国の仲間入りだ。

 K2の標高は8,611m。世界のテッペンのエベレスト8,848mに次いで、世界第2位の高峰。そしてK2は「魔の山」と呼ばれ、世界のアルピニストに恐れられる山でもある。その山容を観れば一目瞭然。山の麓から頂上まで、傾斜角度が40度から65度と急傾斜のK2峰。それと比較して、ネパ-ル側とチベット側の両方から、ノ-マルル-トは容易な登攀路を見いだせるエベレスト。

この「魔の山K2」は後日に触れることとしたい。

 今回は、前回K2の登山史に触れ、第二登を果たした日本隊の様子を少し書いた、その内容の間違いに気付いたので、訂正したい。

 今回は、K2の第二登を果たした日本隊の様子を書いた書籍を見てみたい。なぜか、わたしのところにK2遠征隊の様子を映画にした「白き氷河の果てに」のご家族優待割引券がある。

K2・8,611m,第二登の日本隊

 K2の初登頂はイタリア隊。1954年7月31日、イタリア隊が隊員11人と撮影班7人の18人が南東稜から、リ-ノ・ラチェデッリとアキッレ・コンパニョ-ニの2人が初登頂。AM6時C9の8050mを出発PM6時に登頂。PM11時にC8の7630に帰着。現地ロ-カルポ-タ-は502人。

 そして、そのご23年後1977年に、日本隊が登頂する。前回、日本隊の隊員数を31人としたが、これが間違っていた。本当は39名だった。

 この日本山岳協会隊は、遠征登山報告書が出版されているのだろうが、わたしのところには無い。わたの持っているのは、この登山の登攀隊長の広島三郎さんの書籍「K2登頂 幸運と友情の山」。この「K2登頂 幸運と友情の山」の本に書かれているのは、総隊員数39名でそのうち実際に登攀するのは34名。名誉隊長など登攀しない5名がいた。そして、加えてこの登山隊は、長編記録映画の撮影にヒマラヤ登山未経験な9名と、パキスタン人のリエゾン・オフイサ-2名に加え登攀隊員3名。実際にベ-スキヤンプには39+9+5=53名だった。

K2日本隊の登山申請

 K2登頂を目指して、パキスタン政府に登山申請したのは1975年。昔、1990年以前のネパ-ルやインド・パキスタン・中国などのヒマラヤ圏の国々の登山許可は、1シ-ズン、1ル-ト、1登山隊、のル-ルがあった。これは、ヒマラヤ高峰登山が、このK2登山隊の隊員数の53名に代表されるようなヒマラヤ登山が普通だったから。現在の高峰登山は、高所順応を他の容易に登れる山で済ませて、一気に目標の山の登頂を目指す登山方法で、昔の高峰登山は極地方と呼びれる、登山隊員全員でベ-スキヤンプからキヤンプ1を設営。そして、C1へ全員で荷揚げ。次いで、C2建設と、段々と頂上を目指す。

 ようするにヒマラヤ圏の国々の登山事情は、大部隊多隊員数の登山隊がベ-スキャンプに入るキャラバン中のポ-タ-確保など、どうしてもダブルブッキングの数隊が同時に登山できる事情になかったのだ。

 1975年に登山申請した日本隊だったが、同時にポ-ランドやフランス・カナダなどが申請をだぶっていた。ここで、日本隊に登山許可がでたのは、これはわたしが勝手に考えたことだが、パキスタン人のリエゾン・オフイサ-2名に加え登攀隊員3名を加えて、日本・パキスタン合同登山隊としたこと。実際にパキスタン人の登山者一人が登頂して、パキスタン山岳会が国際登山界に仲間入りするキッカケになっている。

 このころの高峰登山隊は、その費用の捻出に苦労してる。1970年日本エベレスト隊は、多額費用を出してくれる後援団体に毎日新聞社。1973年第二次RCC(ロッククライミングクラブ)エベレスト南壁隊は朝日新聞社。1975年田部井淳子さん登頂のエベレスト女子隊は読売新聞社、だった。K2登山隊は、

 全国紙3社ではない西日本新聞社創刊100周年を記念して多額の拠出をした。この時、中日新聞北海道新聞にも後援の申し込みをしていた。北海道新聞が講演していたら、その後の登山界と北海道新聞社の関係が築けたのに、と全く残念。北海道札幌に住むわたしの感想だ。このころの地方紙3社は友好関係にあったらしい。その後、日本自転車振興会から2千2百万円の補助金が集まる。

前年に試登隊派遣

 1974年12月にK2登山計画を立案。1976年に試登隊が、1909年イタリア・アブレッツィ公隊3人が登頂めざして、東南稜6250mに達した、後に東南稜はアブレッツィ稜と呼ばれるル-トを偵察。

 この時の、7人の試登隊は、登山料として700ドル・21万円をパキスタン在大使館に支払っている。1977年の本隊の費用は1億円を超す。隊員39人の一人の拠出するお金は100万円だった。本隊を日・ネ合同隊としたが、勿論全額日本隊が費用を負担した。

 試登隊は、ポ-タ-60人でベ-スキャンプ入り。7100mまでの試登。

先発・本隊が日本出発からK2登頂

 1977年4月11日、3人の先発隊が船便の隊荷物受け取りのため日本出発。5月5日・6日、ラワルピンジへフライト。

 5月26日、スカルドから800人のポ-タ-と共に隊員出発。ボ-タ-は800人を雇用するが、まず最初に300人雇用の人選に1000人が集まる。パキスタンでは一家が一か月生活に要する費用は150RS~200RSルピ-なのに、このキャラバンでポ-タ-一人に払うのは1000RS(3万円)。

BCまでのキヤラバを3隊に分けて出発

 バルトロ氷河経由でゴドウィン・オ-スチン氷河にベ-スキャンプBC、300人のポ-タ-に支給する食料を運ぶのに、70人のポ-タ-が必要。

6月11日、標高5200mバルトロ氷河上BCに一次ポ-タ-隊到着。

6月16日、先発隊はC2へル-トメイキング中、他の全員BCに到着。

6月24日、C3建設。

7月12日、7420m、C4建設。

7月22日、7940m、C5。

8月2日、8130m、C6。

8月4日、第一次登頂隊・出発するが1時間後に天候悪化で引き返す。

8月8日、二次登頂隊、マイナス22度微風でAM5時C6を出発。PM6時登頂。PM11時30分C6帰着。

8月9日、3次隊4人は5時C6出発。PM2時15分登頂。この時に「K2登頂 幸運と友情の山」の本を出版した広島三郎さんも登頂。パキスタン人のアシュラフ・アマンも登頂。BCに居たリエゾン・オフイサ-のメジャ-・カマ-ルが、トランシ-バ-でアマンに「君はパキスタン登山に新しい歴史を作ったんだ」と呼び掛けている。この日、広島他3人はC5へ戻る予定だったが、下りに酸素が無くなり、幻想を見ながらの下山。2人はC6に行き着くのがやっとだった。

二次隊と三次隊と合わせて7名が登頂

 この時点で、K2登頂者数はイタリア初登頂2名を加えて9名。ちなみに、エベレストは1953年の初登頂ヒラリ-とテンジン2名を入れて60名。

次回は、このK2に登頂した広島三郎さんらが、その後パキスタンのスキムブルム峰遭難死を見てみる。

広島三郎さんの書籍「K2登頂 幸運と友情の山」

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映画「白き氷河の果てに」のご家族優待割引券

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K2 8611m

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K2 地図

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K2 登頂の様子 (テレビ映像)

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広島三郎さん

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