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ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第2回

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂おめでとう その2回目

 前回、2011年1月16日、遂に世界二位の高峰K2が冬季初登頂された、ことをアップした。それも、世界の登山界で登山文化国の仲間入りを目指していたネパ-ル人隊の快挙。これで、ネパ-ル登山界も発信力や発言力など、登山文化国国際水準になるのだろう。

ネパ-ルが国際登山文化エリアへの仲間入り

 ネパ-ルは、世界8千m峰14座のうち8座が鎮座する国。1950年に130年の鎖国を解いて開国した国内は、ヒマラヤ登山や観光などの概念さえもなく、エベレス初登頂を目指すイギリス隊のポ-タ-やガイドの仕事しかなかった時代。勿論、欧米の先進的文化や産業技術にも遅れ、自動車はネパ-ル国王や高級官僚などの玩具の役で、自動車道路もない状況だった。ネパ-ル国が登山に対して、観光業としてのガイドやポ-タ-の生業の政策を確立するのは1970年代に入ってから。ごく最近までエベレストに登頂するネパ-ル人のほとんどが高所ガイドや高所ポ-タ-の仕事上の登頂だった。ネパ-ル人のアルピニストは皆無だったのだ。

 わたしのネパ-ル人の友人に、エベレストとK2の両峰を登頂したグルン族の彼がいる。そのグルン族の彼、K2の登頂は日本勤労者山岳連盟のK2登山隊の高所ガイドとして雇われての日本人隊員等の、ル-トメイキングやポ-タ-としての登頂だった。その後彼は、ネパ-ル山岳協会役員時代に、グルン族サガルマ-タ・エクスペディションとしてエベレストにアタック。家庭を支える経済的生業ではなく、アルピニストとしてついに登頂した。

 ネパ-ル人隊のK2・8611mの冬季初登頂は、世界の登山文化圏への仲間入りを果たしただけでなく、アルピニズム国のネパ-ルとしての地位を確固とするのだろう。

 実は、わが国日本は、このネパ-ルと同様な登山の歴史があった。江戸時代の鎖国政策により、欧米の経済産業や文化と遮断されていた時代、アルピニズムや山岳ハイキングなどの文化はなく、明治時代になって初めて欧米人が日本の山を登るガイド役、で登山を始めた。そして、当時日本の上流社会人に初めて登山文化が芽生えた歴史がある。信仰登山から山頂の登頂を目指すアルピニズムへの変遷、この話は後に機会があったら触れたい。                                                                                            

今回は、2峰8,611mについて少し調べてみた。

 K2峰8611mは、パキスタンと中国の国境に聳える山。中国名は大きい山を意味するチョゴリ喬戈里峰。

 登山は、比較的容易に登れるパキスタン側から多く行われている。K2はパキスタンのギルギット・バルティスタン州のカラコルム山脈に位置する。

 イギリスの統治時代、インド測量局のト-マス・ジョ-ジ・モントゴメリ-が1856年から、カラコルム山脈の測量を開始。カラコルムKaraoramの頭文字のKを取って順にK1、 K2、K3、K4、K5と測量番号を付けた。その後、K2以外の山には新たに名前が付けられたり、現地の名前が採用されたりしたが、K2だけは測量番号がそのまま山名に残った、とされている。

 ちなみに、K1からK5の山の名前は、K1、マッシャ-ブルム。K3、ブロ-ドピ-ク。K4、ガッシャ-ブルムⅡ峰。K5、ガッシャ-ブルムⅠ峰。

K2は、世界の屋根と呼ばれるエベレストの8,848mに次ぐ、世界第二位の高峰8,611m。

K2の登山史

◎1902年、イギリス・オ-ストリア・スイス3国合同オスカ-・エッケンシュタイ     ン隊6人。東面5700mにC10設営し、東北稜6525mまで。初めてのK2アタック。

◎1909年、イタリア・アブレッツィ公隊3人。東南稜6250mまで。後に東南稜はアブレッツィ稜と呼ばれる。

◎1938年、アメリカ隊が当時イキリス統治時代のダ-ジリンから6人のシェルパ族を引き連れて7530mにC7。7900mまで。

◎1939年、アメリカ隊6人とシェルパ族ガイド9人。8380mまで。C7スティのヴオルフとシェルパ3人が行方不明。

◎1953年、第二次大戦後アタック再開。アメリカ隊8人とフンザのガイド6人。7700まで。隊員ギルキ-死亡。この年イギリス隊のエベレストとナンガパルバットにヘルマンブ-ルが登頂。1990年まで1シ-ズン・1コ-ス・1隊の許可制限が続く。

◎1954年7月31日、イタリア隊が隊員11人と撮影班7人の18人が南東稜から、リ-ノ・ラチェデッリとアキッレ・コンパニョ-ニの2人が初登頂。AM6時C9の8050mを出発PM6時に登頂。PM11時にC8の7630に帰着。現地ロ-カルポ-タ-は502人。
◎以後1960年にアメリカ・ドイツ・パキスタン合同隊が7300mまで。インド・パキスタン戦争を挟んで。1975年にアメリカ隊が6700mまで。1976年、ポ-ランド隊18人が8400mまで。

◎1977年8月8日、日本山岳協会31人隊は、7人が登頂。

8月4日の第一次登頂アタック隊が失敗後。第二次登頂アタック隊の広重恒夫・中村省爾・高塚武由の3人が登頂。8月9日、広島三郎・小野寺正英・山本英夫パキスタン隊員アシュラフ・アマンの4人が登頂。パキスタン人のアシュラフ・アマンは、パキスタン人の初登頂。日本から15トンの隊荷物を送り、ポ-タ-が800人。ホ-タ-の食料運搬に新たにポ-タ-70人が雇われた。

◎その後の日本人の登頂。

1981年、早稲田大学隊大谷映芳とジ-ル・サビルが西稜から初登頂。1982年、日本山岳協会合同隊の坂下直枝・吉野寛・柳沢幸弘が14日に。15日に4人の7人が無酸素登頂。中国側からの初登頂。1996年7月29日、戸高雅史が南東稜クラシックル-トから無酸素登頂。1996年8月12日と14日に日本山岳会青年部隊が12人の最大人数登頂。2000年7月30日、山野井泰史が南南東リブより無酸素登頂。2004年8月16日、北海道どさんこ同人会隊の松本政英含む5人が南南東リブより登頂。2006年8月1日、東海大学山岳部の小松由佳が女性8人目の登頂。青木達哉が21歳最年少登頂。

次回は、魔の山と言われるK2の遭難の歴史を辿ってみたい。

K2・8611m峰

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K2のル-ト図

  

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