ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 百五十一回目
カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔
11.スワヤンブナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 2回目
前回から、カトマンドゥ市内のスワヤンブナ-ト仏塔の写真を見ている。
前回この仏塔の名称を、わたしなりにスワヤンヴゥナ-トと書いたが、この名前では「検索」できないので、今回から通常の名称スワヤンブナ-ト仏塔をつかうこととする。
今回は、少し勉強してみたので、スワヤンブナ-ト仏塔の建立から今日までの歴史に触れたい。
スワヤンブナ-ト・ストゥパ-は、紀元前250年に建立
そもそもの建立は、普通に思うほど以上に古い。
古代に遡り、全インド亜大陸を最初に統一して帝国を築いたとされる王様がいる。この王アショカ王が紀元前約250年頃に建立している。なんと今から2,269年前にさかのぼる。
その前に、歴史事実としての歴実を辿る。アショカ王は紀元前249年に、お釈迦様ブッダの生誕地現在のネパ-ル・ルンビニを訪れている。その後、ブッダの辿った現在のカトマンドゥを訪れ、このストゥパ-と、カトマンドゥの隣町パタンにも4塚(ストゥパ-)を建立している。
なぜ、アショカの建設と分かるのか
当時、ルンビニの釈迦生誕地を訪れたアショカ王は、その場所に大きな土饅頭型の塚と石柱を残した。この塚、当時はストゥパ-とは呼んでいなかったのだろう。
古代インドで仏教を守護したアショカ大王は、ブッダが悟りを開いたインドの、ブッダの辿った当時のインド各地を訪れていた。当時のルンビニは「ルンミンデ-イ-」と呼び、インドとネパ-ルの国境がなく、インド領だつたのでは。
アショカ王の宗教守護は、仏教だけでなく、バラモン教やジャイナ教・ア-ジ-ヴィカ教など、対等に位置づけていたらしい。
2千年以上前のこと。当然に塚や石柱は、その地の繁栄や衰退があって、土に埋もれるのが当然
ところがその後、現在の中国の文献、中国の唐の玄奘三蔵がインドへの旅を記した「大唐西域記」に、ここルンビニ訪問記があった。
「大唐西域記」は、紀元629年から645年の17年間、インドや現在のネパ-ルの旅行を記したもの。旅行の目的は、仏教の仏典の収集。
唐の玄奘三蔵は現在のネパ-ル・ルンビニを訪れ、アショカ王の建てた石柱を発見してる。「大唐西域記」に記されているのは、「石柱を発見、アショカ王の記した文書の、ここがブッダの誕生地であることと、租税を八分の一に免除することなどが古代文字で書かれている」と書かれている。そして、雷に打たれたのだろう、石柱は折れていた、とも記されていた。
アショカ王の建立した石柱は、アショカ王柱やアショカ王塔と呼ばれる。インド各地には、数十の石柱と塚があるらしい。
釈迦の生誕の地ルンビニは、石柱が発掘された事で特定された。石柱には、ここがブッダの誕生地であることと、石柱には紀元前249年と記され、古代文字のパ-リ語で「王よ、神々の友たるものよ、温顔なる君は、戴冠式20年の後に親しくこの地に来訪し、敬意を捧げた。この地こそ釈迦族の聖人、仏陀生誕の地なればなり。ブッダ生誕地を記念し、租税を8分の一に減免する」と記されている。
石柱にはさまざまな文章が書かれていた。現存する仏典と一致しないものも多い。仏教思想の変遷の跡が認められる。
また、漢訳の仏典で菩薩に相当する部分が、石柱ではブッダとなっており、大乗の菩薩思想が登場する以前の資料としても注目される。
玄奘三蔵が訪れた、それでも埋もれた塚と石柱。それを発掘した人がいた
1895年(96年)、ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルンビニの藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。
スワヤンブナ-ト・仏塔の歴史事実を説明するのに、横道を歩くの如く、回り道した。
インドの大王アショカ王は、ブッダの足跡を辿って、現在のカトマンドゥ盆地を紀元前250年に訪れていた。
わたしが勝手に推測するには、カトマンドゥ市内にボダナ-ト仏塔とスワヤンブナ-ト仏塔、そして、隣町のパタンに4仏塔を建立した。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館・ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
スワヤンブナ-ト・ストゥパ-
1950年頃のネパ-ル人
復元されたルンビニのアショカ石柱
パタン市内 アショカ・ストゥパ- 1950年ころの写真
スワヤンブナ-ト仏塔
五色のタルチョ-がはためくスワヤンブナ-ト・ストゥパ-