ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 百五十二回目
カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔
11.スワヤンブナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 3回目
前回は、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-建立当時の歴史と、その写真を見た。
今回は前回と似て、歴史からのスワヤンブナ-ト・ストゥパ-の説明と写真を見てみる。
スワヤンブ-ナ-トは、カトマンドゥのリングロ-ドのすぐ内側で中心街の西方3kmにあり、400段に近い階段の丘の上に建つストゥーパ(仏塔)様式の仏教寺院。
東南アジア最古の文化遺産で、この寺院からはカトマンドゥの市街が一望される。
現在はサルが多いことから「モンキーテンプル」とも呼ばれている。
ストゥーバ(仏塔)の高さは9m、直径18mで大きな目玉が描かれている。四面についた目は森羅万象を見通す仏陀の目で「みすえる知恵の目」である。仏塔の周りには、寺院など複数の建物が囲んでいる。
現在は、チベット仏教の印タルチョ-が張り巡らされている。タルチョ-の小布は、経文が印刷され、黄、緑、赤、白、青の五色からなる。これらの五色は、黄が大地、緑が水、赤が火、白が風、青が大地、で大宇宙を表わしている。
スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-の意味
スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-を直訳すると「自存者寺院」。その意味は万物の創造者。ブッタのシヤリラ(遺骨)が分骨された本物の仏舎利塔ではなく、初念仏とされている。初念仏の意味は、前回の150回で触れた、このストゥパ-の歴史に関わること。このスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-の建立年は紀元前250年。当時は宗教の礼拝する対象のブッダや寺院が一般的でなく、ブッダを信仰対象にしたり仏像を寺院に安置していなかった。ネパ-ルには仏像や寺院の無い時代。
ネパ-ル語でボ-ドナ-トは正覚寺院のこと。
このスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-が、現在の様なチベット仏教徒の巡礼地になるまでには、相当の十数世紀を経た後のこと。チベット人が、インドとの塩と農作物の交易時代に、中継地のネパ-ルに滞在していて、カトマンドゥのネワ-ル建築様式などと、ここのスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-やボダナ-ト・ストゥパ-などに憧れての出来事。
ようするに、チベット人がチベット以上の宗教上や文化の発達したネパ-ルとの文化交流で、スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-が巡礼などでチベット仏教寺院化したと言える。
なお、この仏塔は建立歴史から、正確にはストゥーパではない、とわたしは考えている。マハ・チャイテャと呼ばれるものだろう。チャイテャを直訳すると「塚」で、規模が大きく大チャイテャ。紀元前250年に、インドの大王アショカ王が建立した時は、単なる塚でしかなかった。今では、歴史的な改造が加えられ、チベット仏教徒の巡礼地となり、目玉寺のスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-となっている。
チベット仏教寺院としての、目玉寺スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-
ネパ-ル国内のチベット仏教徒は9%といわれている。ちなみに、ヒンドゥ-教徒は81%。
現在のここの敷地内は、全てがチベット仏教関係の建築物で成り立っている。スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-仏塔の隣の西北隅にある建築物のお堂は、その形状からヒンドゥ-教の寺院に似ているが、この寺院は鬼子母神堂(ハリティ)と呼ばれる仏教寺院である。一見すると、仏教の仏塔とヒンドゥー教の寺院が共存していると思われるが違う。
スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-の起源など不明
現在は仏塔の墓室を開くことは禁じられている。1825年に頭部の宝珠を支える木製の支柱が嵐で割れたことがある。その時、交換のために開かれたが仏塔の起源や建立年を記録した物などを調査する機会があった。残念ながら調査をしなかった。またとないチャンスを逃してしまった。
2015年4月25日のネパ-ル大地震で、目玉以下の台座になる土饅頭型土台が大きくひび割れ、改修名目での調査ができたがしていない。そもそも仏塔の開室禁止は現代の諾否の問題で、建立した当時からの約束事でもなんでもない。開室して調査することで、建立関係の物や開室許諾の文書が見つかるかもしれないのだ。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館・ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
スワヤンブナ-ト仏塔
1950年ころ カトマンドゥ市内の畑地(現在は街中)から丘の上のスワヤンブナ-ト・ストウパ-
ヒマラヤはガネッシュ・ヒマ-ル
カトマンドゥの市内から、遠くにヒマラヤではなく、見上げ様にヒマラヤ(もちろん現在でも)
現在のカトマンドゥ市内から見るスワヤンブナ-ト・ストゥパ-
スワヤンブナ-ト・ストゥパ-からカトマンドゥ市内を俯瞰
リングロ-ドの外側の住宅街