koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの楽しいトレッキング 第74回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十四回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十五回目

前回は、エベレスト街道をポストモンス-ン季に歩いて、街道沿いに咲き誇っていた花々を写真で見た。

今回はシェルパ族が約3千人くらい暮している、エベレスト街道の畑を耕す農家の写真で見てみる。

 現在のエベレスト街道はソルク-ンブヒマラヤ地域。1953年にエベレストがここネパ-ル側から登頂されると、登山隊やトレッカ-が押しかけてくるようになった。それまでのこの地域はシェルパ族が自給自足していた農業地帯だった。

 現在では、この地域の主な産業は観光業。ロッジやホテルのバティ経営や、お土産屋やレストランなど、全てが外人相手の商売。しかし、それは街道沿いのこと。街道から一歩入った村々は、まだ農家が多い。ここの農家が育てた野菜などが、登山者やトレッカ-の胃に収まっている。

 

現在のヒマラヤ観光の国ネパ-ル政府は、観光を意識したのは1960年代から

 ネパ-ルは1950年に開国した。それまではなんと130年間もの鎖国政策で、外人の一人も入国させなかった歴史がある。国境を接するインド人は行き来していたのだろうが。

 そして、1950年にイギリス隊のエベレスト遠征は、それまでのチベット側からのエベレストアタックをネパ-ル側に転身した。1949年に開国目の前にして、外務省がイギリスに登山許可。エベレスト登頂した遠征は11隊目。

 それまでのイギリス隊はチベット側からのエベレストアタックだった。丁度日中戦争終結後、中国共産党がそれまでの施政者の蒋介石を台湾に追いやって政権を奪取。その後自治区だったチベットを中国に統合。中国はチベツト問題を抱えていたために、イギリス隊のエベレスト登山許可を出せなかった事情があった。ダライ・ダマ14世は中国政府の弾圧を避け、ネパ-ル経由でインドに脱出。

現在も中国はチベット問題を抱えていて、チベット側からのヒマラヤ登山許可が取りにくい年がある。

 第11次イギリス隊がエベレスト登頂に活躍したのが、ここソルク-ンブに住むシェルパ族。なにせ5300mのベ-スキャンプまで高度順応がいらない。シェルパ族は高度順化している。

 開国間もないネパ-ルは、飛行機や自動車(数台所有)はなかった。自動車道路は勿論ない。病院や学校もほとんどなかった。ごく最近まで国内の一般ネパ-ル人が、国内旅行をする観光など全くなかった。

 1953年以降エベレストの登頂を機会に、外国人がヒマラヤ観光で押しかけるようになった。それでもネパ-ル政府は外人相手の政策をしようとは考えもしなかった。なぜなら、1950年代、ネパ-ルに「観光」と云う概念がなかったと云えるのだろう。 インドに逃げていた国王がネパ-ルに帰ってきたのが1951年。王政復帰と云う。王国が復活した。王家はあるが、実質ネパ-ル政府の無い時代。王家の家計がネパ-ル政府の国家財政だった。

 シェルパ族は、エベレスト登頂と同時に登頂したテンジン・ノルゲイが中心となってダ-ジリンにシェルパの団体を組織して、すばやく以後の外国人登山隊やトレッカ-に対処したのに比べ、ネパ-ル政府はなんの手も打てなかった。外国人がネパ-ルヒマラヤに入るのに、ポ-タ-などネパ-ル人雇用で、カトマンドゥではなくクダ-ジリンに連絡していた時代が続いた。テンジンはダ-ジリンに登山学校を設立。

 

ネパ-ルは観光客で溢れている

2015年4月のネパ-ル大地震で、この年のネパ-ルを訪れる観光客は減少した。ネパ-ルの観光客はここ数年、最大数を数えている。欧米は勿論、韓国や中国からが増大している。今年に入って中国からのフライト国際便が5社になった。それも五社共に毎日一便の運航。日本から直行便はない。2014年に未踏峰104座が解禁になり、2016年からは増々世界中の登山者で活況を呈している。

私は10年前から一年のうち数か月をネパ-ルで暮らしている。いつも使っている飛行機会社は大韓航空。韓国から直行便はシ-ズンで週3便飛んでいる。

 

 エベレスト街道では、昔から美味しいジャガイモが有名。ここのジャガイモは、昔は北海道のと比較して小ぶりだったが、最近のは普通の大きさ。牛の糞などをすき込んでの、肥料が良くなったのだろう。

 1982年の遠征時には、ルクラの飛行場近くのバティ(ロッジ)で、塩ゆでを食べて美味しかったのを記憶している。ロッジ内のスト-ブを囲むような椅子の、座っている木の板を開けると、びっしりとジャガイモが貯蔵されていた。11月のルクラは標高2840mあり、これから冬を迎えて降雪がある程に気温が下がる。ジャガイモの貯蔵は、野外よりも家の中になるが、スト-ブの周りとは考えたもの。

 トレッキング街道を歩いていて、ジャガイモを細切りにして、干しているのを見かけた。ジャガイモの干し芋は聞いたことが無いので、片栗粉でも造っているのだろうか。

ルクラの農家は、雨期の収穫期を過ぎて、来シ-ズンのために一家で畑を耕していた。

 ルクラでは、帰りのフライトに一日余裕があったので、タンカを描く学校があり、見学させてもらった。生徒の画いたタンカは、見た目にもまだまだ正確さがなかったが50$ドルで購入。

 

千切りに切ったジャガイモを干している

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ナムチェバザ-ルから徒歩2時間 友人のペンパツェリン・シェルパの家の畑

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だいこんの花

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ルクラ村 一家そろって耕す  左の婦人の背には竹籠に入った赤ちゃんが

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タンカ  ルクラのタンカ学校の生徒が描いたもの

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タンボチェ・ゴンパの天井に描かれていたタンカ

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