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ネパ-ルの雪崩 その4 アンナプルナⅠ峰の雪崩 第3回目

ネパ-ルの雪崩 その四 アンナプルナⅠ峰の雪崩 第三回目

 前回はネパ-ルヒマラヤのアンナプルナⅠ峰の雪崩、1950年フランス隊、1970年イギリス隊、1987年群馬岳連隊について見てみた。

 今回は、私が参加した1991年ポストモンス-ン季の、アンナプルナⅠ峰8091m北面アタック中に起きた雪崩について見てみたい。(前々回に、ポストモンス-ンと書いたつもりがプレモンス-ンと間違って書いていた)

 

ネパ-ルの雨季モンス-ン季節

 ネパ-ルの雨季にあたるモンス-ン季節は5月中ごろから9月20日前後まで続く。雨季と云っても一日中雨が降っているのではなく、私が雨期の期間にネパ-ルで生活しての体験では、早朝や夜間にも降ったことがあるが、ほぼ午後2時~3時頃から降り始め、2時間程度猛烈に降る。雨の量が多いから、降っている場所の気流は下降気流で、そのために雷も強烈に鳴り響くことになる。雷はピカ・ドドドォンと激しく落ちる。雲の動きを見ていると、厚い雲が移動して、雨の範囲も移動しているのが分かる。

 雨季に入る日や雨期明けは、インドの気象協会が発表し、ネパ-ルの人達がそのインドの広報で知ることになる。雨の時期は自然現象なので、相当日数がずれる年があって、雨期明けが10月10日近くになったこともある。最近は雨季が終わるのが判る様になった。たいていは2日間くらいどしゃ降りの雨が続いて、その後に晴天になるので雨期明けが身近に分かる。

 

雨期明け前のBC入り 寒気のジエット気流前に頂上アタック

 1991年のアンナプルナ登山は、雨期明け前の9月初めからキャラバンを開始して、ベ-スキャンプ入りした。普通のヒマラヤ登山のタクティクスは、寒さが厳しくなる前に頂上アタック日を設定する。8千m峰の頂上付近は、ポストモンス-ンから冬季に入る時期に徐々に寒気が入り込んで、寒さが厳しくなってアタックできなくなる。11月に入ると冬のジェットストリ-ムと云われる極寒気帯が7千m以上に入り込む。

 ヒマラヤの高峰登山では「タクティクス」と云われる言葉が、作戦・計画・対策に使われる。このタクティクスの言語、戦争時に使われる戦争作戦のこと。

 

キャラバンや登山日数が少ないアンナプルナⅠ峰

 世界に14座ある8千m峰で、なぜアンナプルナⅠ峰を目指したのか。これはただ一つ、私達の8千m峰を目指すために集まった仲間の全員が勤労者のため。職場の休暇の範囲で登頂を目指せる山の選定が行われた。

私の場合は最高の日数の有給休暇は、40日間+土曜・日曜日・祝日を加えて60日間。

 ネパ-ルの首都カトマンドゥから山のBCまでのキヤラバン日数が少ない山、それがアンナプルナⅠ峰だった。カトマンドゥから山のBCまでのキヤラバン日数は、10日間を要する。私はとてもこの日数では参加できず、山の近くまでフライトして5日間の短日数キャラバンでの入山となった。

 

ネパ-ルに到着前に、国際線飛行機事故

アンナプルナⅠ峰では雪崩事故に遭遇することになる。

 私は、職場の休暇日数がギリギリで、先発隊で出発できず後発隊となった。ところがこの後発隊は、フイリピンのマニラ空港着陸時に乗っていた飛行機がオ-バ-ラン事故を起こした。

 アンナプルナⅠ峰北海道隊は11名の隊員。往復の飛行機代金を節約するため、格安航空のエジプト航空会社便で、成田発マニラ経由でタイのバンコク着フライトとした。ところが、フイリピンのマニラ空港で給油と搭乗客の追加のために着陸態勢を取った時だった。急ブレ-キをかけるではないか。北海道の冬道のブレ-キと同じで、ポンピング・ブレ-キ。普通は徐々にスピ-ドを緩めるのに、グゥ-ググっと前のめりになるほど、そしてだ、こんどは急ハンドルで機体が横滑りするほどの勢いで回った。

機内では「火を使わないで下さい」のアナウンス。

機から降りてみてびっくり。機体の前輪が草地にめり込んでいた。

こうして、マニラのホテルで二泊、余計な日にちを取られてしまった。

 

後発隊の皆から三日遅れのBC入り いつものこと高度順応遅れ

韓国隊が雪崩死亡事故でBCから引き上げに出会う

ネパ-ルの首都カトマンドゥからアンナプルナヒマ-ルの玄関口ポカラまでバス移動。 そして先発隊はここから一週間のキャラバンを。私達後発隊は身軽で、ここからジョムソンまでフライト。

その日のうちに徒歩でレテ村のマナステロッジ着。

 私はここからが登山の最初の困難な高度順応になる。いつものことだが、4千m越えの順応が皆より遅れる。

 二人のロ-カルポ-タ-を引き連れて、二泊三日のキャラバンを始めると、約50人のポ-タ-が皆空身で後から追い付いてきた。アンナプルナⅠ峰で事故があったことを知る。

大勢のポ-タ-と一緒にBC入りして、先発隊のみんなとようやく合流することができた。

 BCのコックに、二人のポ-タ-に食事を食べさせる指示し、賃金を支払いながら事故の様子を聞く。

 北海道隊よりも先にBC入りして、クライミング中の韓国隊がキャンプ3設営後、キャンプ4へル-トメイキングしている最中に雪崩発生。先頭のネパ-ルメンバ-高所ガイド頭のサ-ダ-一人だけが無事。残りのネパ-ルメンバ-4人と韓国隊員2人の合計6人が雪崩で行方不明。

 既にベ-スキャンプで仮葬儀が済まされていた。北海道隊のメンバ-も参列してしめやかに行われたとのこと。

 

アンナプルナⅠ峰 8091m

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キャラバン ロ-カルポ-タ-達

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アンナプルナⅠ峰 北海道隊ベ-スキャンプ風景

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プジャ ベ-スキャンプで行われる安全祈願

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ベ-スキャンプにネパ-ル・北海道の旗

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韓国隊6名死亡の雪崩後の雪煙

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アンナプルナⅠ峰北面で遭難死した人達の墓標

右下には日本人遭難死の名前

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ネパ-ルの雪崩 その3 アンナプルナⅠ峰の2回目

ネパ-ルの雪崩 その三 アンナプルナⅠ峰の二回目

前回はネパ-ルヒマラヤのアンナプルナⅠ峰の雪崩について見てみた。

 今回は前回に続いて、世界の8千m峰14座のうち、初めて登られたアンナプルナⅠ峰の雪崩について,写真で見てみたい。

ネパ-ル・アンナプルナヒマ-ル

 アンナプルナⅠ峰は、ネパ-ルのヒマラヤのほぼ中央部分の50kmに及ぶ山脈。普通山脈と云えばほぼ真っ直ぐな連山を想像するが、ここのアンナプルナヒマ-ルは円形に6千m以上の山が15座も連なっている。円形でその中の内院に入る出入り口が一ケ所ある。

 ヒマ-ルが一望できる大きな街のポカラ市から見ると、マチャプチャレ峰6993mの山裾左側から内院への登路がある。マチャプチャレ峰から時計の逆回りに、カンダルバチニ峰6248m・ラムジュンヒマ-ル峰6983m・アンナプルナⅡ峰7937m・アンナプルナⅣ峰7525m・アンナプルナⅢ峰7555m・グレッシャ-ド-ム峰7069m・ガンガプルナ峰7454m・グレイシャ-ド-ム峰7193m・シングチュリ峰6499m・カングシャ-カング峰7485m・アンナプルナⅠ峰8091m・ファング峰7647m・アンナプルナソウス峰7219m・ヒウンチュリ峰6441mと続く。

 

アンナプルナⅠ峰の雪崩

前回、アンナプルナⅠ峰の初登頂はフランス隊が1950年、と書いた。

 この初登頂したフランス隊の二人は、下山時に雪崩に遭遇。また天候悪化のためにビバ-クを余儀なくされた。頂上付近で手袋を紛失たエルゾ-クと、もう一人のラシュナルは壮絶な下山を体験する。二人(モ-リス・エルゾ-グは両手の指全部とルイ・ラシュナルは10本)の隊員で合計30本の指を凍傷で失った。フランス隊の隊長モ-リス・エルゾ-グはベ-スキャンプからポ-タ-の背中でカトマンドゥまで運ばれた。

フランス隊の隊員全員はフランス帰国後に、スポ-ツ活動に貢献するガイ・ウイルデンシュタイン賞を受賞。エルゾ-クはネパ-ルのグルカ戦功勲章を受章。

その後エルゾ-グはフランスのスポ-ツ省大臣まで上り詰めている。

フランスの登山の歴史は、日本の明治時代に始まったアルピニズムより100年近く前を歩いていた。フランスは登山愛好者が大臣になる文化度と云えるだろう。

 

海外の高校生登山指導制度

 先日の高校生の那須温泉ファミリ-スキ-場コ-ス外雪崩死亡事故でも、事故直後から県警察が業務上過失の犯人捜しをしているような状況だ。検証する外部識者の検討委員会が始まっている。積極的な安全登山のための高校生講習会制度を提言してほしいものだ。

 イギリスでも高校生が大勢死亡する登山事故が発生していた。そのことがイギリスの高校生への指導体制の改革へと進んだ。イギリスの教育委員会にあたる組織は、高校生安全登山講習会指導方法を国家資格制度の指導員制度新設で改善した。日本の文部省や教育委員会も、より安全登山を目指して頑張ってほしいと願っている。

 

話が横道を歩き出したので、元に戻る。

アンナプルナはネパ-ル語でअन्नपूर्ण (annapūrṇa)で豊穣の女神の意味。

 登山活動から見てみると、北面は雪崩多発、南面は急峻な壁でここも雪崩と滑落の事故がおきそう。

死亡率が8千m峰14座で最高。登頂率は最低になっている。

 アンナプルナⅠ峰の初登頂は1950年フランス隊。この時は北面登攀だった。南壁の初登は、1970年5月イギリス隊で隊員はアメリカ人など21人混合隊。この時は、ヒマラヤの壁登攀競争が始まったばかりで、ドイツがナンガバルバットのルパ-ル壁、日本がエベレスト南壁を目指していた時代。

 

1970年イギリス隊でも雪崩死亡事故

 1970年イギリス隊がアンナプルナⅠ峰南壁遠征隊を決めた年は、ネパ-ルが全山の登山禁止をしていた4年間から、解禁再開して直ぐ。ネパ-ルヒマラヤの幾つかの頂上は、チベットと国境を接している。1968年ネパ-ルは4年間の登山禁止を解禁再開。チベット自治区中華人民共和国の建国以後、ダライ・ダマ14世がネパ-ル経由でインドへ亡命など、チベットとネパ-ル国境問題が続いていた。

 そして、1989年までネパ-ルの登山は、一山・一ル-ト・一シ-ズン・1隊ル-ルがあった。私達が1982年にロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰の登山申請をネパ-ル政府にしたのは、1979年だった。そして、1991年のアンナプルナⅠ峰北面の登山申請も2年前。1990年からル-ルが変わり。要するにダブルブッキングOKになった。3年も前に申請しなければ、他の国や他のパ-ティ-に先取りされるので、先着順だったのだ。

 1970年イギリス隊、アンナプルナⅠ峰南壁遠征隊は登頂したが、雪崩死亡事故に遭い遺体が発見できずに帰路のキャラバンを始めている。

 

1987年12月、日本隊がアンナプルナⅠ峰南壁冬季初登攀

登頂から下山中、二人が滑落死亡

 日本の群馬岳連はヒマラヤ遠征を度々成功させていた。アンナプルナⅠ峰南壁を1984年~85年にかけての冬季初登頂を目指すが、登頂できずに1987年に最チャレンジ。登攀途中のキャンプが予想通りに雪崩に襲われたが、隊員達は無事。

 12月20日に4人が登頂したが同日下山途中、帰りつくキャンプのテント間近で二人が「アイゼンが岩にこすれ、赤い火花が暗闇に散る、の報告書」滑落してしまう。

 

アンナプルナ地形図

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アンナプルナⅠ峰北面 ABC(アドバンスベ-スキャンプより)

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処女峰アンナプルナ エルゾ-ク著 世界で1100万部のベストセラ-

以後の写真はこの本より

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ポカラの国際山岳博物館展示写真

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1950年に130年間の鎖国を解いたネパ-ル

自動車が一台もなく、自動車道路は建設されていなかった

カトマンドゥからポカラまで200km。馬車も川の渡渉ができずに、徒歩で2週間かかった

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アンナプルナ南壁 ボニントン著

以後の写真はこの本より

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アンナプルナ南壁

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憧憬の白き壁 群馬岳連 冬季南壁初登攀

以後の写真はこの本より

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2枚一組の南壁写真

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ポカラ飛行場 砂利道の滑走路

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アンナプルナⅠ峰北面

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ネパ-ルの雪崩 その2 アンナプルナⅠ峰

ネパ-ルの雪崩 その二 アンナプルナⅠ峰

前回はネパ-ルのランタンヒマ-ルの雪崩を写真で見てみた。

 2015年4月25日のネパ-ル大地震があり、ヒマラヤ山岳上部の氷河が地震の揺れで大規模に崩れた。氷河の氷がそのまま流れ下ったのと、氷が流れ下る過程で小さな氷に砕かれて吹雪となって台風並みの強風となって村を襲った様子などの写真を見た。村全体を氷と土砂で押し流し村が跡形もなく削り取られた。それから2年が経過したその場所の写真では、その上に氷と土砂が覆いかぶさっている様子が見て取れた。多少氷が解けた以外は当時と変わらないような写真だった。

 地震の発生が丁度お昼頃だったので、春のラリ-グラスの満開を見ながらの多くのトレッカ-が居ただろう。現地の住民とトレッカ-合わせて約300名が死亡・行方不明になった。

 ネパ-ルの石楠花は日本のとは大分違い、大木の林が大輪の花を咲かせる。白色や真っ赤な花が咲きみだれるのは見事だ。3月のヒマラヤ低地帯から咲き始め3千mを超える地帯は4月末までが見ごろとなる。

 

日本の雪崩とヒマラヤの雪崩

 雪崩は、日本国内では二種類に分かれる。雪崩を引き起こす弱層の上に降った積雪がなだれる新雪表層雪崩。それと他の一つは、地面から上部の積雪層の全てがなだれる全層雪崩

 世界的には日本の二種類の雪崩に加えて、氷河が在るヨ-ロッパアルプスやヒマラヤ地帯の氷河雪崩の三種類となる。

 氷河は比較的傾斜の緩い斜面では、一日に数十cmから数m流れ下っている。地球上では氷河期とそれ以外の現在の様な温暖期が繰り返していて、氷河の最末端の舌端が溜まる期間と短くなる期間があるらしい。現在は世界のどこの氷河も、先端の舌端が温暖で溶けている情況が報告されている。

 南極の傾斜の無い所では、氷河期に積もった雪が分厚い氷河となって残り、その部分が現在の温暖期で上部が解けることで、宇宙から降り注いだ隕石が多く発見されている。私の知人で南極観測隊員経験者が居て、南極観測時に隕石探しをして持ち帰った物を見せてもらったことがある。

 

ヒマラヤの氷河雪崩はどの様にしてなだれるのだろう

 この私の書いた文書では、「雪崩」となだれる、を区別して使用している。名詞としての雪崩は漢字表記し、動詞としてはひらかなを使うようにしている。

 急傾斜斜面で流れ下る氷河は、時として崩れる。それがハンググレッチャ-アブランチ(懸垂氷河雪崩)。斜面に迫り出した氷の塊が、自重で折れて急斜面を滑落しながら落ちてくるか、ほぼ90度の斜面であれば空中に飛び出して落下・転落しながら落ちることになる。

 滑落や転落しながら落ちてくる氷雪崩は、傾斜の緩い場所まで氷のままのこともあるが、途中で氷が砕けて小さな氷になったり、ほぼ雪状態に砕けて猛吹雪状態になる場合など、自由と云おうかその変化は様々だ。

 以前、北海道大学の低温科学研究所で氷河雪崩の研究をしていると聞いたことがある。科学的な解明が進めば氷河雪崩の事故は減るのだが、予算不足なのか積極的な研究をする人が少ないのか、研究結果の発表はなされていない。聞いた時からもう20年近く経過しているので、私達ヒマラヤ登山をしている者にとっては残念至極。どのくらいの厚さの氷河が、どのくらいの温度でどのくらい迫り出したら折れて崩れるのか、知りたいものだ。

 

アンナプルⅠ峰の雪崩

 私が1991年プレモンス-ン季にアンナプルナⅠ峰8091m北面登山の時は、表層雪崩が数回発生した。私達の北海道登山隊よりも先行していた韓国隊が、標高6千mから7千mのキャンプ3からキャンプ4間で発生した表層雪崩で、ネパ-ルメンバ-4名と韓国隊員2名の6名が行方不明。

 氷河雪崩も数回経験することになる。私たちの隊の3人が行動中、標高4千mから5千mのキャンプ1からキャンプ2間でなだれて一名が埋没した。アンナプルナⅠ峰は有名な鎌の形をした地形に鎌(かま)氷河と呼ばれる氷河がせり出している。1950年6月にフランス隊がここアンナプルナⅠ峰を、世界で8千m峰の初登頂をした時にも、この鎌氷河が崩れて雪崩に遭っている。

 1950年はネパ-ルが130年間の鎖国から開国した年。イギリス隊がエベレストを初登頂するのは、それから3年後。日本隊が8千m峰のマナスル峰8163mを登頂するのは1956年。

 アンナプルナⅠ峰はフランス隊の初登頂以後、多くの登山隊が雪崩死亡事故に遭うことになる。

そして今日まで、8千m峰では登頂者比較では最悪の死亡事故率の山となってしまった。

2010年頃の統計では登頂者数157名に対して死亡者数60名で38%の死亡率となる。

 なんと8千m峰では断トツに高い死亡率を表している。死亡率の高さは、登攀の困難さをも内因させ、統計を見れば一目瞭然8千m峰14座中登頂者数は最低。

 私達北海道隊の取りついたアンナプルナⅠ峰北面は雪崩に最適な角度の斜面なのだろう。懸垂氷河雪崩は傾斜は関係ないかもしれないが。アンナプルナⅠ峰の他の登攀できるル-トは南面となるが、これが8千m峰の中でも一番急斜面で、取りつきから頂稜まで一直線の壁となっている。

以下に日本ヒマラヤ協会のヒマラヤ山域の登山と遭難事故についての統計を見る。

 

千m峰の登頂者数と死亡者の数、死亡率を以下に見てみる

 8千m峰  登頂者数  死亡者数  死亡率

エベレスト  5104名 219名  4.29%

K2      302名  80名 26.49% 

カンチエンジユンガ       243名  40名 16.46% 

ロ-ツェ    396名  12名  3.03%

チョ・オユ-     2790名  43名  1.54%

ダウラギリⅠ     417名  62名 14.87%

マナスル       297名  58名 19.53%

ナンガパルバット       326名  68名 20.86%

アンナプルナⅠ     157名  60名 38.22%

ガッシャ-ブルムⅠ      298名  26名  8.72%

ブロ-ドピ-ク          358名  20名  5.59%

ガッシャ-ブルムⅡ      872名  20名  2.29%

シシャパンマ     285名  24名  8.42%

 

これは日本隊のヒマラヤ登山と死亡率の統計

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 2004年までの53年間をまとめている。8千m峰の死亡率はなんと2.3%。100名がエアポ-トで元気いっぱいに「行ってきます」と飛び立つが、その内2人は帰ってこない現実がある。6千m峰以上の山でも2%で似たり寄ったり。

 他のスポ-ツでは絶対にありえない。例えば野球なら、1チ-ム監督を入れて10名、一試合20名でセリ-グとパリ-グの12チ-ムが6試合で120名なので、一日で2人が野球中に死ぬ。

 日本人のヒマラヤ登山の死亡原因を見てみる。死亡総数288人中123人が雪崩で死亡している。行方不明が31人なので、この31人を他の死亡原因ごとに割り振りすると、雪崩死亡者数が137人で全体の47.5%になる。

 8千m峰の死亡率が2.3%なので、その内の47.5%が雪崩死亡率で1.1%になる。日本人100名がヒマラヤ登山をするとその一人が雪崩で死亡することを現している。

 

 ネパ-ルのラリ-グラス(石楠花)

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どこの家でも枝ごと活けてある

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ネパ-ルヒマラヤの最高峰サガルマ-タ峰(エベレスト)8848m

ロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰6853mのキヤンプ2からの眺望

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アンナプルナⅠ峰8091m 北海道隊 1991年10月

頂上下部の鎌形から氷河がせり出している

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アンナプルナⅠ峰 キャラバン途中のニルギリ南峰のトロブギン峠から

左から二番目アンナ頂上の右側の尖ったのはハング峰

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ネパ-ルの雪崩 ランタンヒマ-ル

ネパ-ルの雪崩 ランタンヒマ-ル

 前回までに3回に亘って、栃木県内の高校7校の登山部が参加して開催した春山安全講習会と、この高校生達が巻き込まれた那須温泉ファミリ-スキ-場コ-ス外雪崩死亡事故について、その内容について私の考えを若干書いてみた。

 前回は私が経験した道内の雪崩事故や、ネパ-ルヒマラヤのアンナプルナⅠ峰の雪崩について触れた。

 

ネパ-ル・ランタンヒマ-ルの雪崩

今回はネパ-ルのランタンヒマ-ルの雪崩を写真で見てみる。 

 私はネパ-ルヒマラヤ登山のためにネパ-ルを訪れている。その最初は、1981年に次の年にアタックするロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰6853mの偵察だった。 しかし、ロ-ルワリンの玄関口のルクラまでのフライトが、天候不順のため連続三日間キャンセルになり、ランタンヒマ-ルのトレッキングとなってしまつた。職場の休暇に都合がつくメンバ-が偵察に行ってくれた。

 

楽しいネパ-ル

 以後私は、登山とトレッキングで3~4年に一度平均でネパ-ル通いをし、会社の定年退職を機に首都のカトマンドゥ市内にフラットを借りて、ここ9年間札幌とネパ-ルを行ったり来たりしている。1985年に小学校の一年生と四年生の息子と女房、それと当時北海道自然保護連合の事務局を担当していた大学生3名を誘って、7名で三週間のネパ-ルトレッキングを楽しんだ。

 このトレッキングを契機に絵描きの女房が、ネパ-ルのスケッチ旅行に出かけて行くようになり、以後女房は毎年一か月間くらいの日程でネパ-ルへ通うようになった。女房は個展「ネパ-ルの絵画展」を7回開催するに至っている。

 私は1981年からネパ-ルを訪れているが、それはあくまで楽しむため。最近はネパ-ルの友人に「嫌なことはしない」「きらいなことは避ける」と云いながら生活している。こう云うと殆ど何もしない様に聞こえるかもしれないが、友人から頼まれて、山岳運動具店のモンベルカトマンドゥ店造りに、現場監督として一か月もかけて汗を流している。実はこれは私にとって「楽しい」生活の範疇に入る事柄だからだ。借家のフラットの部屋も自分好みに、大家さんの許可を得て改造したりした。

 

楽しくないネパ-ルの雪崩

 前回のブログで触れたネパ-ルヒマラヤの雪崩は、私がネパ-ルで生活する「楽しい」の、全く逆のことになる。山岳の雪崩は、そこに生活する人達やそこで登山活動する人にとっては、生死を分ける脅威になる。

 今回から、この「楽しくない」ネパ-ルの雪崩について、多くの写真で見てみたいと思っている。幸いに、私が写したネパ-ルの雪崩写真や、友人知人などが届けてくれた雪崩写真が沢山ある。

 雪崩は雪が崩れると書く。雪は氷の結晶からできているので、氷と雪が崩れることを雪崩と呼んでいる。私は雪崩講習会に携わって約23年。NPO法人北海道雪崩研究会を立ち上げて、昨年の5月まで会長として雪と雪崩の研究に邁進してきた。この間に研究会は、雪崩講習会の講師資格を持つ会員を約40人養成し、毎年3日間の北海道雪崩講習会を開催して、北海道の積雪期雪崩事故防止活動をしている。研究会の研究活動は、国内の雪や雪崩の専門家の多くの皆さんと協同関係があり、最近では毎年カナダの専門家との協働活動もしている。

 

ネパ-ル・ランタンヒマ-ルの雪崩

 ネパ-ルは北海道の約二倍の国土面積。世界最高峰エベレストが鎮座しているので、山岳国と思われがちだが実は農業国。インドの国境に接しているタライ(テライ)平野は、亜熱帯気候で三毛作が可能な稲作国。

 タライからチベット側へは、インド亜大陸ができる過程で、ブ-タン・ネパ-ル・インドパキスタンなどへ伸びるヒマラヤが形成され、ネパ-ルの山岳地帯は、中国のチベット高原に国境がある。

 ランタンヒマ-ルは、ネパ-ルの山岳地帯の十分の一くらいになるだろうか。7千m峰が聳え、ランタン川が流れるランタン渓谷は世界一の美しい渓谷と云われている。

 今回写真で見る雪崩跡は、ランタンヒマ-ルに聳えるランタン・リ峰と、登山隊やトレッキングで訪れるランタン村。2015年4月25日のネパ-ル大地震で、ヒマラヤの氷河が崩れ、村を襲った様子などを見てみる。

 ランタン・リ峰にアタックしていた私の友人は、ちょうどその日は天候悪化で、登山隊メンバ-全員がベ-スキャンプに居て難を免れた。しかし、ランタン・リ峰頂上周辺の氷河が地震ではがされ雪崩となって駆け下った。幸いにもBCを襲うことなく、設営していたテントは無事。

 BCに居た全員がネパ-ル軍のヘリコプタ-で救出され、ヘリに二度乗り換えてカトマンドゥへ降り立っている。

 そして、救助中のヘリから見るランタン村は壊滅していた、と友人は写真を送ってきた。村人とトレッカ-合わせて約300名が、雪崩の犠牲となった。

 前回も触れたが、カトマンドゥ大学教授の私の知人が今年4月2日に写した写真には、氷河雪崩がランタン谷を埋め、その氷と土砂の堆積物は、今後10年間は溶けないだろう、とメ-ルで解説している。この大学教授は、1970年代からランタン谷に入って氷河の研究をしていた。今回は20年ぶりのランタンヒマ-ルとのこと。

 

ランタン・リ峰とベ-スキャンプ 友人の撮影

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地震前のランタン・リ  友人の撮影

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地震後のランタン・リ、頂上の氷がはがれている  友人の撮影

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キャンジン村 1981年10月 まだ家が無く村ではない、テント設営

ロ-カルポ-タ-は子連れの一家

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キャンジン村 2002年3月 トレッキングの宿として村ができた

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キャンジン村 2015年4月25日地震後の氷河雪崩の爆風で屋根が飛ばされている 友人の撮影

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キャンジン村住民はテントに避難  友人の撮影

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キャンジン村 2017年4月 屋根など再建復旧されている 知人の撮影

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ランタン村 1981年10月 この村の右側には家は無かった

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ランタン村 2002年3月 この村全体が新たに建設された 右上に旧村がある  地震で手前の数軒が若干家の形を残していた(この後の写真)

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ランタン村の旧村は吹き飛ばされ、氷と土砂の堆積物に埋まった 2015年4月の地震直後のレスキュ-ヘリから友人の撮影

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ランタン村の新村は右側数軒だけ形を残し吹き飛ばされ、この左側に旧村を覆う堆積物(この前の写真) 2015年4月の地震直後のレスキュ-ヘリから友人の撮影

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ランタン村とその下部のランタン川に堆積する氷と土砂 2017年4月知人撮影

知人のブログ文書より=第1回目の雪崩は、現地にいた大阪市立大学のランタン・リ峰登山隊の報告で、地震直後の正午ごろにランタン・リ峰頂上部が崩れ、雪崩をひきおこし、ランタン村を襲ったことが分かっている。

ランタン川に堆積した氷河の氷と土砂は川の流れで溶けた。川の両岸に残っている

川の左上部にランタン村があった

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ネパ-ルの雪崩 ランタンヒマ-ル

ネパ-ルの雪崩 ランタンヒマ-ル

 前回までに3回に亘って、栃木県内の高校7校の登山部が参加して開催した春山安全講習会と、この高校生達が巻き込まれた那須温泉ファミリ-スキ-場コ-ス外雪崩死亡事故について、その内容について私の考えを若干書いてみた。

 前回は私が経験した道内の雪崩事故や、ネパ-ルヒマラヤのアンナプルナⅠ峰の雪崩について触れた。

 

ネパ-ル・ランタンヒマ-ルの雪崩

今回はネパ-ルのランタンヒマ-ルの雪崩を写真で見てみる。 

 私はネパ-ルヒマラヤ登山のためにネパ-ルを訪れている。その最初は、1981年に次の年にアタックするロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰6853mの偵察だった。 しかし、ロ-ルワリンの玄関口のルクラまでのフライトが、天候不順のため連続三日間キャンセルになり、ランタンヒマ-ルのトレッキングとなってしまつた。職場の休暇に都合がつくメンバ-が偵察に行ってくれた。

 

楽しいネパ-ル

 以後私は、登山とトレッキングで3~4年に一度平均でネパ-ル通いをし、会社の定年退職を機に首都のカトマンドゥ市内にフラットを借りて、ここ9年間札幌とネパ-ルを行ったり来たりしている。1985年に小学校の一年生と四年生の息子と女房、それと当時北海道自然保護連合の事務局を担当していた大学生3名を誘って、7名で三週間のネパ-ルトレッキングを楽しんだ。

 このトレッキングを契機に絵描きの女房が、ネパ-ルのスケッチ旅行に出かけて行くようになり、以後女房は毎年一か月間くらいの日程でネパ-ルへ通うようになった。女房は個展「ネパ-ルの絵画展」を7回開催するに至っている。

 私は1981年からネパ-ルを訪れているが、それはあくまで楽しむため。最近はネパ-ルの友人に「嫌なことはしない」「きらいなことは避ける」と云いながら生活している。こう云うと殆ど何もしない様に聞こえるかもしれないが、友人から頼まれて、山岳運動具店のモンベルカトマンドゥ店造りに、現場監督として一か月もかけて汗を流している。実はこれは私にとって「楽しい」生活の範疇に入る事柄だからだ。借家のフラットの部屋も自分好みに、大家さんの許可を得て改造したりした。

 

楽しくないネパ-ルの雪崩

 前回のブログで触れたネパ-ルヒマラヤの雪崩は、私がネパ-ルで生活する「楽しい」の、全く逆のことになる。山岳の雪崩は、そこに生活する人達やそこで登山活動する人にとっては、生死を分ける脅威になる。

 今回から、この「楽しくない」ネパ-ルの雪崩について、多くの写真で見てみたいと思っている。幸いに、私が写したネパ-ルの雪崩写真や、友人知人などが届けてくれた雪崩写真が沢山ある。

 雪崩は雪が崩れると書く。雪は氷の結晶からできているので、氷と雪が崩れることを雪崩と呼んでいる。私は雪崩講習会に携わって約23年。NPO法人北海道雪崩研究会を立ち上げて、昨年の5月まで会長として雪と雪崩の研究に邁進してきた。この間に研究会は、雪崩講習会の講師資格を持つ会員を約40人養成し、毎年3日間の北海道雪崩講習会を開催して、北海道の積雪期雪崩事故防止活動をしている。研究会の研究活動は、国内の雪や雪崩の専門家の多くの皆さんと協同関係があり、最近では毎年カナダの専門家との協働活動もしている。

 

ネパ-ル・ランタンヒマ-ルの雪崩

 ネパ-ルは北海道の約二倍の国土面積。世界最高峰エベレストが鎮座しているので、山岳国と思われがちだが実は農業国。インドの国境に接しているタライ(テライ)平野は、亜熱帯気候で三毛作が可能な稲作国。

 タライからチベット側へは、インド亜大陸ができる過程で、ブ-タン・ネパ-ル・インドパキスタンなどへ伸びるヒマラヤが形成され、ネパ-ルの山岳地帯は、中国のチベット高原に国境がある。

 ランタンヒマ-ルは、ネパ-ルの山岳地帯の十分の一くらいになるだろうか。7千m峰が聳え、ランタン川が流れるランタン渓谷は世界一の美しい渓谷と云われている。

 今回写真で見る雪崩跡は、ランタンヒマ-ルに聳えるランタン・リ峰と、登山隊やトレッキングで訪れるランタン村。2015年4月25日のネパ-ル大地震で、ヒマラヤの氷河が崩れ、村を襲った様子などを見てみる。

 ランタン・リ峰にアタックしていた私の友人は、ちょうどその日は天候悪化で、登山隊メンバ-全員がベ-スキャンプに居て難を免れた。しかし、ランタン・リ峰頂上周辺の氷河が地震ではがされ雪崩となって駆け下った。幸いにもBCを襲うことなく、設営していたテントは無事。

 BCに居た全員がネパ-ル軍のヘリコプタ-で救出され、ヘリに二度乗り換えてカトマンドゥへ降り立っている。

 そして、救助中のヘリから見るランタン村は壊滅していた、と友人は写真を送ってきた。村人とトレッカ-合わせて約300名が、雪崩の犠牲となった。

 前回も触れたが、カトマンドゥ大学教授の私の知人が今年4月2日に写した写真には、氷河雪崩がランタン谷を埋め、その氷と土砂の堆積物は、今後10年間は溶けないだろう、とメ-ルで解説している。この大学教授は、1970年代からランタン谷に入って氷河の研究をしていた。今回は20年ぶりのランタンヒマ-ルとのこと。

 

ランタン・リ峰とベ-スキャンプ 友人の撮影

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地震前のランタン・リ  友人の撮影

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地震後のランタン・リ、頂上の氷がはがれている  友人の撮影

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キャンジン村 1981年10月 まだ家が無く村ではない、テント設営

ロ-カルポ-タ-は子連れの一家

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キャンジン村 2002年3月 トレッキングの宿として村ができた

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キャンジン村 2015年4月25日地震後の氷河雪崩の爆風で屋根が飛ばされている 友人の撮影

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キャンジン村住民はテントに避難  友人の撮影

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キャンジン村 2017年4月 屋根など再建復旧されている 知人の撮影

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ランタン村 1981年10月 この村の右側には家は無かった

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ランタン村 2002年3月 この村全体が新たに建設された 右上に旧村がある  地震で手前の数軒が若干家の形を残していた(この後の写真)

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ランタン村の旧村は吹き飛ばされ、氷と土砂の堆積物に埋まった 2015年4月の地震直後のレスキュ-ヘリから友人の撮影

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ランタン村の新村は右側数軒だけ形を残し吹き飛ばされ、この左側に旧村を覆う堆積物(この前の写真) 2015年4月の地震直後のレスキュ-ヘリから友人の撮影

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ランタン村とその下部のランタン川に堆積する氷と土砂 2017年4月知人撮影

知人のブログ文書より=第1回目の雪崩は、現地にいた大阪市立大学のランタン・リ峰登山隊の報告で、地震直後の正午ごろにランタン・リ峰頂上部が崩れ、雪崩をひきおこし、ランタン村を襲ったことが分かっている。

ランタン川に堆積した氷河の氷と土砂は川の流れで溶けた。川の両岸に残っている

川の左上部にランタン村があった

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那須温泉ファミリ-スキ-場コ-ス外雪崩死亡事故 その3

那須温泉ファミリ-スキ-場コ-ス外雪崩死亡事故 その三

4月7日と13日に高校生雪崩死亡事故について書いた。その三回目。

 本日4月20日に雪崩死亡事故のあった現場で、残置していた装備などの捜索が行われたらしい。、当時事故の死亡者や負傷者の救出で精いっぱいだったのだろう。地元の警察や消防、そして地元の山岳団体や消防団などで組織する地元遭難対策協議会のメンバ-は、雪下に埋まっている登山装備などの掘り起し回収をせずに下山していた。

今回は地元県警察が遺留品捜索として行っている。

 

雪崩死亡事故の概要

 2017年3月27日午前8時30分ころ、栃木県那須町那須温泉ファミリ-スキ-場のコ-ス外上部で雪崩発生。

 栃木県内の高校7校の登山部が参加して春山安全講習会を開催。講習会当日は7校を5班に分けて講習をしていた。

 参加していた指導員教師を含む48名が雪崩に遭遇。男子高校生7人と男子教員1人の8名が死亡。生徒と教師合わせて40名が負傷した。死亡したのは、県立大田原高校の生徒と教員。

 

私も雪崩事故で回収不能のザックを置いてきたことがある

私も雪崩事故で、自分の装備を雪崩のデブリに埋められ、回収せずに帰宅したことがある。

 1991年2月10日だった。北海道の岩内の海岸にある雷電海岸の二ルンゼでの出来事。この年、ポストモンス-ン季にネパ-ルヒマラヤのアンナプルナⅠ峰北面登山の訓練山行で、雷電海岸にずらっと並んだ氷瀑の内の二ルンゼでロ-プフイックスと荷揚げの訓練を行っていた。前日の9日土曜日に、ルンゼ状の川が凍った約60mのほぼ90度傾斜の氷の河にロ-プを定着させて。10日朝からロ-プをユマ-ル(ロ-プにセットして楽に登る器具)歩行する荷揚げの訓練中だった。

 私は、60mを登り切り、その上傾斜の緩い100mくらいを登ろうとしているところに雪崩が発生。足元に自分のザックを置いて、次に60mを登攀してくるメンバ-を待っていた。その足元に置いたザックが雪崩と共に流されていったのだ。

情況は次の様子。

 まずフイックスされた60mロ-プを、ユマ-ルで2ピッチ上り、傾斜の緩い斜面で直径2~3Cmの小灌木に捨て縄プル-ジックでセルフビレ-をとった。私の後続にメンバ-2名が居たので、この二人を私より先行させて、私が下の60mロ-プの回収をしようとしていた。私の前にもユマ-ルで行動しているメンバ-が一名居た。

 突然だった、前方の100mフイックスロ-プのまだ前方の支尾根で見えない方から「雪崩だ-」の声が聞こえ。山の上側の前方を振り向いたのだが、既に雪崩が眼前に迫っていた。

 一歩も逃げる暇がなかった。一瞬で気絶したらしい。気が付いた時は、60m氷瀑の落ち口に、前方を歩いている筈の一名がフイックスロ-プのアンカ-の近くに居た。私より数m下に居るのだ。

 私はセルフビレ-を取った時に、自分のユマ-ルをロ-プから外してした。ビレ-を取った小灌木は、プル-ジック結びのロ-プがきつく巻き付いたことで、木の皮が10Cmも引きはがされていた。よくも小灌木が折れたり、根から抜けたりしなかっもの。私は気を失っていたので憶えていないが、セルフビレ-で動けない私を雪崩が突き抜けて行った勢いは相当なものだったろう。

 私より前方を歩いていて私より下に流された彼女は、札幌医大まで救急車で運ばれた。その夜に脊髄骨折の手術が行われ、以後車椅子生活を続けている。

 

足元のザックは有るはずもない

足元に置いておいたザックには、自動車のキ-や財布なども入っていた。

 5月ゴ-ルデンウイ-ク後だった。警察から電話。「あなたのザックを拾った人が、地元の交番に落し物として届け出がありました」「届け出た人の住所・氏名が分かりますので、入っていた現金の何分の一の謝礼をして下さい」。

 ロ-プフイックスしていた上部からの雪崩、一瞬に60mのジャンプ台を飛び越え。私の後にユマ-リングしていたメンバ-は、全体が真っ暗になったとビックリしていた。表層雪崩の雪は、氷瀑の60mを飛び越えて、その下の森林帯にデブリとなって残っていたはず。こんな所に、登山道などない積雪を残す春の海岸ぶちに、誰が何の用事で来たのだろう。どのようにして私が探しに行く前に見つけれたものか。

 パ-トナ-の手術中に、私もドクタ-から診察を受けていた。左胸に鈍痛。夜間のためレントゲン技師が居ないので触診。あばら骨が3本以上折れていれば、痛みがすごい。肺に刺さっている兆候はない。一二本ヒビか骨折なら、このまま。会社はしばらく痛みが取れるまで休んだら。とのこと。

秋には60日間の有給休暇の予定なので、ここで有給を使う訳にはいかない。

 私はこの後、頸椎の上から4番目と5番目の左後ろ側がつぶれているのが判明。3年後、南整形外科に2ケ月間も入院治療することとなる。

 

ネパ-ルの雪崩

 この年1991年、ネパ-ル・アンナプルナⅠ峰登山でも雪崩に悩まされることとなる。私達の日本隊の他に、アメリカ隊・韓国隊・スペイン隊、そしてオ-ストリア隊がアンナプルナⅠ峰北面に取りついていた。ダツチリブル-トからキャンプ3、そしてキャンプ4の設営で韓国人2人とネパ-ル高所ガイド5名の7名がル-トメイキング中、表層雪崩発生。ル-ト工作先頭に居たガイド頭サ-ダ-一人が生き残っただけで、韓国隊員2名とネパ-ル人ガイド4名の6名が行方不明になった。

 2015年4月25日、ネパ-ル大地震は9千人の死者を出した。ネパ-ルはエベレストが聳える神々の座の国。ヒマラヤ地帯でも広範囲な被害に見舞われた。エベレストのベ-スキャンプを襲ったハンググレッシャ-アブランチは、エベレストを目指す外国人300人と多くのネパ-ルメンバ-を襲い18名が死亡し多くの負傷者を出した。札幌在住の女性もベ-スキャンプに居て、雪崩の猛吹雪に飛ばされ足を骨折している。

 他方、ランタンヒマ-ルのランタン村は、その数km上部の懸垂氷河の雪崩と土砂が村全体を襲った。村は跡形もなく削りれとられ、その下部のランタンコ-ラ(川)に堆積。村民と外国人トレッカ-など約300名が死亡・行方不明。現在カトマンドゥ大学教授の知人が地震から2年後の今年3月に視察と調査に訪れ、川に堆積している氷と土砂のデブリは、今後10年間は溶けないのでは、とつい一週間前に報告してきた。

 この大地震の一年前にもエベレストで懸垂氷河が崩れて大雪崩。ベ-スキャンプからキヤンプ1への荷揚げ中のネパ-ル高所ガイドやハイポ-タ-など13名死亡、3名行方不明になっている。

 ネパ-ルはネパ-ル人の八十数%がヒンドゥ教徒の国。ヒンドゥ教は死んでもお墓はない。輪廻転生がヒンドゥ教の教義になっていて、死んでも生まれ変わるからお墓はいらない。仏教徒?の私達には理解不能の輪廻転生だが、死んでも遺体が在ってのこと。行方不明では輪廻転生はできない。どうなるのだろうか。

 

以後はネパ-ルヒマラヤの雪崩を写真で見てみたい

 栃木県内の高校生登山部の雪崩事故について、私の感想や高校生登山についての意見を書き綴ってみた。以後には、ヒマラヤの雪崩を写真で見てみる。

 

今回は取りあえず写真を数枚見る 

小灌木にロ-プのプル-ジック結び

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私の高校生時代 春香山の銀嶺荘で山仲間4人 1月に一週間の山行f:id:koyaken4852:20170420211107p:plain

 

アンナプルナⅠ峰 1991年10月 ABC(アドバンスベ-スキャンプ)

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ランタンヒマ-ル ランタン村 1981年

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エベレスト ロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰キャンプ2から 1982年

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ネパ-ルのお祭り その11 ティハ-ル祭の6回目

ネパ-ルのお祭り その十一回目 ティハ-ル祭の六回目。

3月29日からこのブログに写真をアップできなくなった。

 ブログの会社とやり取りをしていたら、なんと突然に昨日17日から元に戻って写真掲載OKになった。

昨日からの再開二回目、ネパ-ルのお祭りティハ-ル祭の最終回。

 ティハ-ルはお金の神様ラッシミ神にあやかって、ネパ-ル人がティカの儀式を通じて、男性の健康と仕事の成功をプジャする、祈るお祭り。

 ネパ-ル人の仕事の成功を祈るだけに止まらず、カラスや犬・鳥などのティハ-ル日があり、犬の首に花輪が掛けられていたり、家の前に花や色粉でマンダラを描き、夜になるとマンダラに灯明を灯して、家の聖なる部屋まで道を描いて神を導く。

三日間の最終日の夜、町内会では大音響の音楽で皆踊りだし、子供達はバイリ-を楽しむ。

 バイリ-は、日本のお盆に行われる子供達の「ロ-ソク出せ出せよ」と家々を周るのと似ている。幼児から小学生くらいの着飾った男女が一団となって、歌を歌い踊りながらお小遣いを集めて歩く。

 ネパ-ルの一番大きなお祭りのダサイン大祭は15日間。その内8日間は官公庁や学校が休み、日本のお盆やお正月の様な、商店やレストランの店員達は故郷に生け贄のニワトリや羊を持参して里帰りする。路線バスの中はニワトリや羊がおとなしく乗車する風景が見られる。ダサイン大祭から一か月後くらいには、この三日間のティハ-ルが始まる。この時も商店やレストランはシャッタ-が閉じられて休み。

 ネパ-ルのお祭りで困るのは、商店やレストランが休んで食糧の調達ができなくなること。10年前から札幌とネパ-ルを行ったり来たりしている私は、初めの内、一斉に休むことを知らずに三食に困ったものだ。最近は事前に買い出しをして冷蔵庫や冷凍庫に買いだめしている。お祭りが終わっても、製造業が再開しなくてパンなどは数日待たなければならない。

 ネパ-ルの朝食はチャイを飲む。ミルクティ-のミルクは、商店が休むので調達できないが、乳製品の工場に販売窓口があって、ここはお祭りでも一日限りの休みで、他の日は短時間だがミルクなどの販売をしている。さすがに牛からの搾乳をお休みできないのだろう。

 

お祭りの準備で、道路に飾り付け

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旧王宮広場のカ-ラ・バイラブ Kala bairav

恐怖の神と云われるシヴァ神の化身

この神の前で嘘をつくと即座に死亡する。昔、この前で裁判が行われていたらしい

お祭りの灯明を買い、神に捧げて祈る

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ダルバ-ル・スクエアのタレジュ寺院 Taleju mandir

お祭りには内部まで開放され、入口には長蛇の行列ができる

お祭りのお供え物で祈りを捧げる

 

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ダルバ-ル・スクエア(王宮広場)のハヌマン・ドカ(猿神と門)Hanuman dhoka

お祭りで、靴を脱ぎ祈りを捧げる

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ティハ-ル祭のバイリ-。子供達が歌を歌い踊ってお小遣いを集める

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ティハ-ル祭の最終日 

町内会総出で踊る

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