ネパ-ルの楽しいトレッキング 第77回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十七回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十八回目

 前回は、2014年プレモンス-ン季、エベレストのベ-スキャンプからキヤンプ1間のアイス・フオ-ル地帯を襲った氷河雪崩事故について触れてみた。

 今回は、最近のネパ-ルヒマラヤにおけるトレッキングや登山での大量遭難3件のうち、最後の三番目に触れてみる。

 2015年プレモンス-ン季4月25日お昼少し前、ネパ-ルを襲った大地震でエベレストのベ-スキャンプが大変なことになった。地震の揺れが懸垂氷河の崩落を招き19人死亡の氷河雪崩事故が発生。

 

ネパ-ル大地震の氷河雪崩は、落下途中で粉々になり猛吹雪となってエベレスト・ベ-スキヤンプを襲った

 エベレスト・ベ-スキャンプは、エベレストやロ-ツェから流れ下るク-ンブ氷河の右岸(上部を見て左側)5364m地点にある。BCのテントなどは、氷河の氷の上に設営する。

 このBCを襲った雪崩は、35回に亘って写真などで見たエベレスト街道トレッキング(ク-ンブヒマラヤ)の最終目的地、カラ・パタ-ル5550mの裏山になるプモリ峰7165mのBC側稜線状下部の氷河が落下したもの。

 前回のエベレストベ-スキャンプとキャンプ1間のアイス・フオ-ルを襲った氷河雪崩は、動く氷河は急斜面にせり出して、そのせり出した部分が自然落下したもの。今回のベ-スキヤンプに向かって落下した氷河は、急斜面にあった氷河が、地震の揺れで動いて落下したもの。

 前回の2014年の氷河雪崩は、わたしが1991年にアンナプルナⅠ峰8091mのアタック中に遭遇した氷河雪崩と一緒。

アンナプルナⅠ峰のベ-スキャンプを襲った氷河雪崩

 わたしが襲われた氷河雪崩は、アンナプルナⅠ峰のベ-スキヤンプに隊員全員が朝食後にテントの外でくつろいでいる時だった。BCを挟んでアンナプルナⅠ峰の反対側ニルギリヒマ-ルの北端ティリチョ・ピ-クTilicho Peak 7134m頂上直下からせり出していた氷河は、せり出した部分が折れて落下した。落下距離約2000m、BCまでの距離約5000m、大きな東京ド-ムの何分の一かの氷が、ほぼ垂直に落下。氷は粉々になって雪状の猛吹雪がBCを通り抜けて行った。

 日向ぼっこしていた隊員やネパ-ルメンバ-は、全員が「逃げろ-」の掛け声と共に、BC後方にある直径5mほどの数個ある岩陰に隠れて無事。スペイン隊の一人が、逃げる途中に足を挫いて負傷。我々のテント3張がペシャンコになり、外に干してあったシュラフ一個が吹雪に飛ばされて行方不明の被害。

 我々の高所ガイド達がABCへ荷物を下ろしに登っていたが、ABCに居て無事だった。BCとABC(アドバンス・ベ-スキャンプ)間のル-ト上にフイックスしていたロ-プはズタズタ切断されていた。

 エベレストベ-スキャンプを襲った氷河雪崩は、ベ-スキヤンプに居た19人を、吹っ飛ばしたり、テントごと吹き飛ばして死亡させた。負傷者の状況はネパ-ル政府が発表していないので不明。ネパ-ル政府は国全体が大地震のために、山岳方面の状況にかまっている暇もなかったのだろう。しかし、ここエベレストにはネパ-ル軍のヘリコプタ-がいち早く救援で飛んで来てる。

 又、私の友人はランタンヒマ-ルのランタン・リ峰の登山中で、ここにもネパ-ル軍のヘリが素早く救援隊を送り込んできた、と後日私に語ってくれた。

救援機のアメリカ・オスプレ-は役立たず

 ネパ-ル大地震では世界中から素早い救援体制が取られた。カトマンドゥのトリブバンエア-ポ-トには海外の救援機が次々と着陸して、ネパ-ル行の民間機は出発地を飛び立てない程だった。アメリカの派遣したオスプレ-は問題を引き起こしていた。沖縄の海に落ちたあのオスプレ-。機体と比較して大き過ぎるプロペラの、あの異様な姿のヘリ兼飛行機。オスプレ-機の被災地へ着陸体制時にそれは起きた。家々は被災して壊れかかっている。レンガ壁は崩れていた。そこにヘリと同じ様に着陸しようとした。異様に大きいプロペラは大風になって被災したガレキなどを吹き飛ばしてしまった。

 アメリカの救援機オスプレ-は、一度も被災地に着陸することなく帰国したらしい。日本政府は自衛隊にオスプレ-の購入を決めたらしい。国内の被災地救援活動も自衛隊の役割。オスプレ-が被災地で二次被害の活躍が見えるようだ。

話が横道を歩き出してしまった。元の道に戻る。

 ネパ-ル地震は、エベレストの登頂を目指していた登山隊の夢を奪ったばかりか、一瞬にして19人を死亡させた。

 前年2014年4月に起きた氷河雪崩は、ネパ-ルメンバ-13人死亡、3人行方不明で、以後登山中止となった。二年続けて登山が全面中止となってしまつた。

 前年の遭難死亡事故はネパ-ルヒマラヤ登山で最大の事故だった。一年後に同じ場所エベレストで前年の死亡事故最大を更新した。

 2015年のエベレスト登山では、札幌在住の女性が氷河雪崩の爆風に飛ばされて足を骨折負傷している。この女性、この年の11月にわたしの所属している山岳連盟主催の登山研究集会記念講演会で見かけた。今年2017年5月、彼女はガイド登山でエベレストに再挑戦し登頂した。

エベレスト登頂者は毎年数百人

 エベレストの登山は、大きな遭難事故があっても、まだ多くの登山者が詰めかけている。今年は一部報道では375名が登頂し、ネパ-ルメンバ-を含めて600名と伝えている。

 わたしが今年の登頂数は、ネパ-ル政府発表の確かな数字として捉えているのは、ネパ-ル側からの登頂者数は222名、ネパ-ル人ガイト233名、合計455名。

8年間のネパ-ル側からの登頂者数

2010年  468名

2011年  278

2012   393

2013   578

2014     6

2015     0

2016   451

2017   455

1953年にイギリス隊が初登頂して2017年までの累計登頂総数は5324名

 

エベレスト8848m

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エベレスト・ベ-スキャンプ 5300m

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エベレストBCからキヤンプ1への登路 アイス・フオ-ル地帯

2014年4月の氷河雪崩が襲った一帯

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2015年4月 氷河雪崩の発生点になったプモリ峰から続く山々

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1991年 アンナプルナⅠ峰のBCを襲った氷河雪崩

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第76回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十六回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十七回目

前回は、ネパ-ルヒマラヤの登山やトレッキングの死亡事故を見てみた。

 2014年10月13日~14日、大型低気圧によるアンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルで、トレッカ-43人遭難死の状況を見たが、以後も2回に亘ってエベレストの遭難事故を見てみる。。

 今回は2014年プレモンス-ン季、エベレストのベ-スキャンプからキヤンプ1間のセラック地帯を襲った氷河雪崩事故。13人死亡し行方不明3人だった。16人全てがベ-スキャンプから荷揚げ途中のネパ-ルメンバ-。

 この大量遭難死亡事故で、BCとキャンプ1間の通行を禁止したため、約30隊325名のエベレスト登山が、全て中止になった。

その後、BCとキャンプ2間をヘリで荷揚げし、登頂した隊があって問題化した。

 

2014年プレモンス-ン季、エベレストのベ-スキャンプからキヤンプ1間のセラック地帯を襲った氷河雪崩事故

 2014年4月18日。エベレストの南東稜コ-スの5300mベ-スキャンプから5900mキャンプ1間のアイスフオ-ル帯で、ル-ト工作や荷揚げに従事していたネパ-ルメンバ-が、流れ下る氷河の右岸側上部の懸垂氷河の崩落雪崩に遭遇。ネパ-ル人13名が死亡、3名が行方不明になった。一事故としてはネパ-ルヒマラヤで最大の遭難となってしまった。

 エベレストのプレ季節の登頂予定は、5月の暖かくなってから、雪の降るモンス-ン前に予定されていて、4月18日はどの登山隊も上部キャンプの設営と、各自の高度順応を始めたばかしのはず。

 

雪崩の形態別分類では、1.表層雪崩 2.底雪崩 3.氷河雪崩

 ヒマラヤの急斜面を流れ下る氷河は、何時いかなる場合に崩落するのか、未だに科学的な解明がなされていない。

 ここのアイスフオ-ル帯は、セラックとクレパスが合いまみれる一帯になっている。セラックとは氷柱のことで、その大きさはビルデイング大から極小のまでいろいろ。クレパスは、氷が流れ下る途中でできるの割れ目のこと。ヒドンクレパスと云われる割れ目が分からないものもあり、突然その上を歩いて踏み抜き転落することがある。

 このアイスフオ-ル帯は、エベレストのノ-マルル-ト南東稜コ-ス全体で、一番登攀困難な場所とされている。そこに荷揚げのためにネパ-ルメンバ-の高所ポ-タ-やガイド達が登攀している時、その上部の懸垂氷河が崩落した。氷の塊が落下する過程で、砕けて小さな氷になったり雪状になってネパ-ルメンバを襲った。

 

サガルマ-タ環境管理委員会がアイス・フオ-ルのル-ト整備

 現在のエベレスト登山ではル-トメイキイングはいらない。サガルマ-タ環境委員会SPCC(Sagarmatha Pollution Control Committee)と云う民間団体がアイス・フオ-ル帯のル-トを整備して、登山隊の人数に応じて通行料を徴収して久しい。現在はベ-スキャンプから頂上までの困難・危険地帯の全てのル-トを整備している。

 この制度については、法律や規則がある訳でなく、単なる民間の活動。その内容は団体名が指すように、多くの登山隊がそれぞれ勝手にル-トを作ると、おおくのロ-プがスイックスされて残置される。残置ロ-プはゴミとなり環境悪化になるから、と云う理由での活動。

しかし、単に利用料徴取の営利団体とも取れなくもない。

 何年か前に、利用料を払わずに、自分でル-ト工作して登ったパ-ティ-がいた。サガルマ-タ環境委員会メンバ-と暴力喧嘩沙汰になって負傷してしまった。ネパ-ル政府は仲介するのかと思われたが、喧嘩両成敗でもなく、うやむやになったらしい。

 自分でル-トを作って登山するのが「登山」なのだが、ここエベレスト南東稜ル-トでは「登山」の概念が意味不明。気象遭難や高山病さえなければ、耐久力体力があれば誰でも登頂可能らしい。

 

ヒンドゥ-教の教義の輪廻転生  エベレスト遭難で行方不明の3名は成仏できない

このエベレスト氷河雪崩事故で3名のネパ-ル人が行方不明になっている。

 わたしは一年のうち数か月をネパ-ルで生活している。ネパ-ル人の友人やネパ-ルで暮らしている日本人と親しく話す機会が多い。ヒンドゥ-教の輪廻転生は、生まれ変わるのだからお墓はいらないらしい。カトマンドゥ市内のパシュパティナ-ト寺院で焼かれた遺体の骨は、全てガンジス川の支流バグマティ-川に捨てられる。

 ネパ-ルの友人と話していると、遺体の無いヒンドゥ-教徒は輪廻転生しないと云うではないか。行方不明の3人にとっては、エベレストが永遠のお墓になってしまった。

 パシュパティナ-ト寺院はインド大陸四大シヴァ寺院の一つで、ヒンドゥ-教の神シヴァを祀るネパ-ル最大の寺院。隣接した火葬台を複数備える火葬場があり、灰は川に流される。バグマティ川はヒンズーの聖地であるインドのバラ-ナシを流れるガンジス川に通ずる支流にあたるため、ここのガ-トで荼毘に付せば母なる大河ガンガーへと戻ってゆくと考えられている。ゆえに、遺灰をこの川に流すのがネパールのヒンズー教徒の願望である。バグマティ川の中では火葬が行われている脇で身体を清める者もあれば、洗濯をする女の姿も見受けられる。高位のものほど上流の火葬台で焼かれる。国王(現在は一人の国民)もここで焼かれ、遺骨はバグマティ川へ流された。

 

パシュパティナ-ト寺院

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火葬台ガ-トで荼毘に付す

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アンナプルナⅠ峰8091mのベ-スキャンプを襲う氷河雪崩

標高差2千m距離5千Mを一気に駆け下り、猛吹雪となって駆け抜けた

ベ-スキャンプに居た全員が大岩場に逃げて無事

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第75回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十五回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十六回目

前回は、シェルパ族が約3千人くらい暮している、エベレスト街道の畑を耕す農家の写真で見た。

 エベレスト街道トレッキングを36回写真で見てみた。ネパ-ルの山岳について「ネパ-ルの楽しいトレッキング」として75回に亘って、写真をみてきた。ネパ-ルの山岳を舞台にした歴史は、楽しいばかりではない。ヒマラヤの登山の歴史から、日本人の遭難や事故で死亡したクライマ-は2%になっている。

 

ネパ-ルヒマラヤの登山やトレッキングの死亡事故

 死亡率2%と聞いても、実際の数をピンと感じないかもしれない。日本のエアポ-トから、元気よく「行ってきます」と旅立つ50人の内一人が帰ってこない。日数など比較対象できないが、野球の試合でピンチヒッタ-や投手交代など入れて、両チ-ム25名で試合をして、2試合すると一人は確実に死亡する勘定になる。登山が単純にスポ-ツと云えない理由が分かるだろうか。

 ヒマラヤ登山で死亡事故が起きると、必ずテレビや新聞紙上に掲載され騒がれる。しかし、ヒマラヤのトレッキングで高山病などで死亡しても、ほとんどは報道されることはない。結構な数のトレッカ-が死亡している。数多くのヒマラヤトレッキングをしている人なら、現地のロッジなどで、同宿のトレッカ-の悲劇を聞いたり見たりしている筈。

 

今回を含めて、3件のヒマラヤ大量遭難事故を見てみたい。

 2014年10月13日~14日、インドを襲ったハリケ-ン(台風)がインド大陸を北上し、ネパ-ルのトレッカ-43人を死亡させた。台風はネパ-ルのほぼ中央を大型の熱帯低気圧となってチベットへ駆け抜けた。

 それと、2014年プレモンス-ン季エベレストのベ-スキャンプからキヤンプ1間のセラック地帯を襲い、13人死亡、行方不明3人の氷河雪崩事故。

 三番目は2015年プレモンス-ン季4月25日、ネパ-ル大地震でエベレストのベ-スキャンプを襲い、19人死亡の氷河雪崩事故。

 

大型低気圧によるアンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルで、トレッカ-43人遭難死

 わたしは10年前から一年のうち数か月をネパ-ルで暮らしている。それは2014年10月のことだった。10月12日ネパ-ルのカトマンドゥで借りているフラットでテレビを見ていた。テレビはインドでの台風の被害を映していた。台風の進路は、インド大陸の右側から大陸のど真ん中を突き進んで、勢力を保ったまま大陸中央まで進み、そして方向を上に90度変えて上部へ向かった。インド大陸の東から上陸して中央まで進んだ台風は、90度方向転換して北進した、と云える。日本に近づいた台風が、沖縄に接近すると方向を90度変えて九州方面に進むのと似ている。

インド大陸を北進すると、その先はネパ-ル。

 ネパ-ルヒマラヤの乾季に、10年前後に一度くらいの頻度で大型の低気圧が来て、4千m以上に大量の降雪をもたらし、大量遭難事故がある。わたしの記憶では、エベレスト街道でも大量降雪で雪崩が発生。ロッジに宿泊していたトレッカ-が大勢死亡したことを記憶していた。

 今回のインド経由の大型低気圧は、ネパ-ルのどこを通るのか、この時点では分からなかった。そして10月13日。この日のカトマンドゥは朝から、モンス-ン季の降雨と同様などしゃ降りの雨に襲われていた。これがまる二日続くことになる。

 モンス-ン季のネパ-ルは、毎日降雪があるが、たいてい15時頃から降り始めて夕方には止む。雷はゴロゴロでどしゃ降りとしとしとが互い違いに続く。ネパ-ルの夏で雨が降らないのは、わたしの経験ではひと夏に一日あるかないかだ。

この時、わたしの友人夫婦がアンナプルナ街道トレッキングで入山中だった。日程を聞いていなかったので、何処を歩いているのか分からない。友人はパソコンメ-ルを日本の携帯で見れるように設定してあったはず。直ぐにPCメ-ルで、「動くな」と発信。彼からは、トレッキングからポカラに下山して、わたしのネパ-ル携帯に電話があった。10月14日、ロッジ前の道が河の様になって流れていた、と。そして、他のヨ-ロッパ人のトレッカ-達は、雨の中歩いている人達がいたそう。

アンナプルナ外周コ-スで猛吹雪と大量降雪

 そして、10月15日のテレビは大騒ぎ。16日からの新聞は一面からアンナプルナ方面の大雪によるトレッカ-の遭難を伝えていた。14日一日で120cmの降雪。この時期のトレッキング街道は雪が無く、毎日晴天で、昼間はTシャツ一枚でも歩けるのだ。

 アンナプルナヒマ-ルは、山々が一周している。内院トレッキングと云うコ-スが有るくらいで、そのかわり外周のトレッキングもある。この外周は、標高5500mの峠越えがあり、この頃は4千m以上が降雪の温度になる。

 このアンナプルナ外周コ-スの4千m以上で大量遭難していた。このコ-スの標高の髙い場所は人家が無い。せいぜい3千m位まで畑や家畜の農家があるが、それ以上は登山者やトレッカ-の世界となる。ヤクを飼っている農家は、11月頃から冬に向けて寒くなるが、10月中は4千m前後の牧草地にヤクを放牧している。この多くのヤクも吹雪と降雪の犠牲になったと報道された。

 最近のトレッカ-は要所要所にあるロッジ泊まりがほとんど。テント持参のパ-ティ-はない。テントが有ったら助かっていただろうに。

 アンナプルナヒマ-ルの西となりの、ダウラギリⅠ峰ベ-スキャンプでも雪崩死亡事故が発生していた。

 わたしは毎日新聞とテレビ報道に目を向けていた。トレッカ-の死亡数が43人まで数えることができた。それ以上の死亡者数なのだろうが、それ以上の報道はなかった。ネパ-ル政府は軍の出動で、ヘリコプタ-での救助救出活動をした。アンナプルナ街道の飛行場のあるジョムソンに遺体や疲れたトレッカ-を乗せたヘリが着陸、テレビ報道されていた。

 

日本隊のヒマラヤ死亡事故率調査 日本ヒマラヤ協会

1952年~2004年(53年間)

6千m~8千m峰の登山隊員数から死亡率2%

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アンナプルナヒマ-ル地形図 上部にアンナプルナ外周トレッキングコ-ス

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ネパ-ルのトレッカ-遭難を報道するテレビ

 

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第74回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十四回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十五回目

前回は、エベレスト街道をポストモンス-ン季に歩いて、街道沿いに咲き誇っていた花々を写真で見た。

今回はシェルパ族が約3千人くらい暮している、エベレスト街道の畑を耕す農家の写真で見てみる。

 現在のエベレスト街道はソルク-ンブヒマラヤ地域。1953年にエベレストがここネパ-ル側から登頂されると、登山隊やトレッカ-が押しかけてくるようになった。それまでのこの地域はシェルパ族が自給自足していた農業地帯だった。

 現在では、この地域の主な産業は観光業。ロッジやホテルのバティ経営や、お土産屋やレストランなど、全てが外人相手の商売。しかし、それは街道沿いのこと。街道から一歩入った村々は、まだ農家が多い。ここの農家が育てた野菜などが、登山者やトレッカ-の胃に収まっている。

 

現在のヒマラヤ観光の国ネパ-ル政府は、観光を意識したのは1960年代から

 ネパ-ルは1950年に開国した。それまではなんと130年間もの鎖国政策で、外人の一人も入国させなかった歴史がある。国境を接するインド人は行き来していたのだろうが。

 そして、1950年にイギリス隊のエベレスト遠征は、それまでのチベット側からのエベレストアタックをネパ-ル側に転身した。1949年に開国目の前にして、外務省がイギリスに登山許可。エベレスト登頂した遠征は11隊目。

 それまでのイギリス隊はチベット側からのエベレストアタックだった。丁度日中戦争終結後、中国共産党がそれまでの施政者の蒋介石を台湾に追いやって政権を奪取。その後自治区だったチベットを中国に統合。中国はチベツト問題を抱えていたために、イギリス隊のエベレスト登山許可を出せなかった事情があった。ダライ・ダマ14世は中国政府の弾圧を避け、ネパ-ル経由でインドに脱出。

現在も中国はチベット問題を抱えていて、チベット側からのヒマラヤ登山許可が取りにくい年がある。

 第11次イギリス隊がエベレスト登頂に活躍したのが、ここソルク-ンブに住むシェルパ族。なにせ5300mのベ-スキャンプまで高度順応がいらない。シェルパ族は高度順化している。

 開国間もないネパ-ルは、飛行機や自動車(数台所有)はなかった。自動車道路は勿論ない。病院や学校もほとんどなかった。ごく最近まで国内の一般ネパ-ル人が、国内旅行をする観光など全くなかった。

 1953年以降エベレストの登頂を機会に、外国人がヒマラヤ観光で押しかけるようになった。それでもネパ-ル政府は外人相手の政策をしようとは考えもしなかった。なぜなら、1950年代、ネパ-ルに「観光」と云う概念がなかったと云えるのだろう。 インドに逃げていた国王がネパ-ルに帰ってきたのが1951年。王政復帰と云う。王国が復活した。王家はあるが、実質ネパ-ル政府の無い時代。王家の家計がネパ-ル政府の国家財政だった。

 シェルパ族は、エベレスト登頂と同時に登頂したテンジン・ノルゲイが中心となってダ-ジリンにシェルパの団体を組織して、すばやく以後の外国人登山隊やトレッカ-に対処したのに比べ、ネパ-ル政府はなんの手も打てなかった。外国人がネパ-ルヒマラヤに入るのに、ポ-タ-などネパ-ル人雇用で、カトマンドゥではなくクダ-ジリンに連絡していた時代が続いた。テンジンはダ-ジリンに登山学校を設立。

 

ネパ-ルは観光客で溢れている

2015年4月のネパ-ル大地震で、この年のネパ-ルを訪れる観光客は減少した。ネパ-ルの観光客はここ数年、最大数を数えている。欧米は勿論、韓国や中国からが増大している。今年に入って中国からのフライト国際便が5社になった。それも五社共に毎日一便の運航。日本から直行便はない。2014年に未踏峰104座が解禁になり、2016年からは増々世界中の登山者で活況を呈している。

私は10年前から一年のうち数か月をネパ-ルで暮らしている。いつも使っている飛行機会社は大韓航空。韓国から直行便はシ-ズンで週3便飛んでいる。

 

 エベレスト街道では、昔から美味しいジャガイモが有名。ここのジャガイモは、昔は北海道のと比較して小ぶりだったが、最近のは普通の大きさ。牛の糞などをすき込んでの、肥料が良くなったのだろう。

 1982年の遠征時には、ルクラの飛行場近くのバティ(ロッジ)で、塩ゆでを食べて美味しかったのを記憶している。ロッジ内のスト-ブを囲むような椅子の、座っている木の板を開けると、びっしりとジャガイモが貯蔵されていた。11月のルクラは標高2840mあり、これから冬を迎えて降雪がある程に気温が下がる。ジャガイモの貯蔵は、野外よりも家の中になるが、スト-ブの周りとは考えたもの。

 トレッキング街道を歩いていて、ジャガイモを細切りにして、干しているのを見かけた。ジャガイモの干し芋は聞いたことが無いので、片栗粉でも造っているのだろうか。

ルクラの農家は、雨期の収穫期を過ぎて、来シ-ズンのために一家で畑を耕していた。

 ルクラでは、帰りのフライトに一日余裕があったので、タンカを描く学校があり、見学させてもらった。生徒の画いたタンカは、見た目にもまだまだ正確さがなかったが50$ドルで購入。

 

千切りに切ったジャガイモを干している

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ナムチェバザ-ルから徒歩2時間 友人のペンパツェリン・シェルパの家の畑

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だいこんの花

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ルクラ村 一家そろって耕す  左の婦人の背には竹籠に入った赤ちゃんが

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タンカ  ルクラのタンカ学校の生徒が描いたもの

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タンボチェ・ゴンパの天井に描かれていたタンカ

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第73回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十三回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十四回目

 前回は、1982年ポストモンス-ン季の、ソルク-ンブヒマ-ルの西となりロ-ルワリンヒマ-ルに聳えるカ-タン峰の登山を写真で見てみた。

前々回まででネパ-ルヒマラヤのエベレスト街道トレッキングは、全てのル-トを写真で見てみた。

今回はエベレスト街道をポストモンス-ン季に歩いて、街道沿いに咲き誇っていた花々を写真で見る。

 ネパ-ルの高山植物の見ごろは夏季。毎日雨が降る季節に花々が咲き乱れる。プレやポストモンス-ン季の気候は、大きな低気圧が来ない限りは、ほとんど降雨はない。毎日好天が続く。プレは段々と温かくなり、ポストは冬の寒さが日々増してくる。

 

ネパ-ルヒマラヤのお花の季節は山ひるの出る雨季

 雨季のネパ-ルヒマラヤは、私たち人間にとっては嫌な季節でもある。いやなのは「山蛭ひる」。動物の血を吸って子孫を残すのだ。血を吸うことでは蚊と同類となる。草原や木の上で、近くをどうぶつが通るのを待ち構えている。

 ひるが多いのは森林限界以前の標高地帯。ヒマラヤ山岳地帯では2千m前後で、木の下部を歩行すると、動物の通る気配を感じて「ポトリ」とひるが落ちてくる。そして、草原では、ここでも動物の通る気配が分かって、足にへばりつく。

 高山植物に興味のある人や、ヒマラヤの花の撮影で、モンス-ン季のネパ-ルヒマラヤを訪れる人が居る。日本で暮らしていては見られない、貴重なヒマラヤに咲く多くの高山植物を見る代わりに、ヒルに見舞われる。

 私がエベレスト街道を訪れた季節は10月~11月のポストモンス-ン季。エ-デルワイス(薄雪草)は枯れかかっていて、ちょうど見ご頃。エ-デルワイスはネパ-ルヒマラヤのどのコ-スでも、3千5百m前後の標高でこの頃見ることができる。

 

エ-デルワイス(薄雪草)

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ヒマラヤのブル-ポピ-(青いケシ) 花の季節を終え種を作る季節  雨季にはブル-の花を咲かせる

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ケシの花のスケッチ

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リンドウ

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第72回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十二回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十三回目

 前回は、エベレスト街道のナムチェバザ-ルで二泊したバティ(ロッジ)の二階から,ヤクの背に乗せる他の登山隊の荷物を発見した。1982年に使ったプラパ-ルが、この間23年間もネパ-ルで他の登山隊の荷運を運ぶのに使われていらしい。

 今回は1982年ポストモンス-ン季の、ソルク-ンブヒマ-ルの西となりロ-ルワリンヒマ-ルに聳えるカ-タン峰の登山を写真で見てみる。

 

ネパ-ルヒマラヤ カ-タン峰Khatang 6853mの登山は、ドクタ-一人を含む14名で挑んだ

1982年9月14日 先発隊出発 2名

9月16日 本隊6名出発

9月21日 本隊カトマンドゥを2台のトラックで出発

9月22日 ロ-カルポ-タ-100人余名でパニポカリをルクラ目指して出発

      ポ-タ-一人30kgの荷物 一人一日30RSルピ-(600円)

9月30日 ルクラ着

10月7日 一人を除き、ベ-スキャンプ4800m入り ルムデン氷河舌端にBC

 

9月29日 わたしを含む後発6名札幌を出発

10月4日 後発カトマンドゥ発ルクラ着 玉子800個もフライトで運ぶ

10月8日 ベ-スキャンプ開き

10月9日 登山開始

10月10日 後発ベ-スキャンプ4800m入り

10月16日 北東稜に取りつき、新雪が積もりナイフリッジのル-ト工作が困難、ナイフリッジのためキャンプ3設営困難

10月30日 登山届け出の登山期間が10月31日までなので、リエゾンオフイサ-に11月3日までの登山期間延長許可をもらう

11月1日 隊員2人 ネパ-ルガイド1人 カ-タン峰登頂

11月2日 隊員7人登頂

11月4日 下山開始

11月6日 ルクラ着

11月7日 となりの山キャリオルン峰登頂の兵庫県隊とルクラ飛行場の砂利道滑走路でソフトボ-ル大会を行う 傾斜した滑走路のため下り坂にボ-ルを打つとアウト

11月8日~13日 カトマンドゥ

11月12日 わたしと他の隊員1人帰国

11月14日 12名隊員帰国

 

カ-タン峰報告書

カ-タン峰と左右に聳えるヌンブ-ル峰・キャリオルン峰の三山をドックンダ-ヒマ-ルと呼ぶ。この三山の氷河から流れ出る豊かな水をヌン(母の乳房)と呼び、生命の泉の源の三山を仰いでいる

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ネパ-ル政府の登山許可書

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ネパ-ル政府発行 カ-タン峰登頂証明書

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北海道カ-タン峰登山隊 ベ-スキャンプにて

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ロ-カルポ-タ-100余人 キャラバン始まる

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モロ・ラ(峠)越え

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キャラバン 多くの女性ポ-タ-(シェルパニ)がにぎやかに

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カ-タン峰北東稜

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キャンプ1と頂上

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降雪前のベ-スキャンプ

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降雪後のベ-スキャンプ

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ベ-スキャンプ~C1のセラック帯

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岩場を登ると北東稜

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北東稜

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未踏峰カ-タン峰6853m 初登頂

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頂上から隣の山ヌンブ-ル峰

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第71回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十一回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十二回目

 前回は、エベレスト街道トレッキングの途中で、振り返ってロ-ルワリンヒマ-ルに聳えるカ-タン峰6853mの頂上の頭を写真で見てみた。

 このカ-タン峰Khatang 6853mの頂上の頭だけの写真は、わたしが1982年に副隊長としてネパ-ル遠征した登山隊で登頂(処女峰初登頂)した山。

 今回はエベレスト街道のナムチェバザ-ルで二泊した。バティ(ロッジ)の二階からヤクの背に乗せる他の登山隊の荷物を見下ろしていたら、なんとなんと昔わたし達カ-タン峰遠征時に使用したプラパ-ルがあるではないか。

 わたしがエベレスト街道をトレッキングしたのは2005年、このプラパ-ルを使用したのが1982年。この間23年間もネパ-ルで他の登山隊の荷運びのために、このプラパ-ルが使われていらしい。

今回、カ-タン峰の登山写真を見る予定だったが、次回に観ることとする。

 

1982年カ-タン峰遠征には、登山隊長の緊張があった

 わたしはこの登山隊の副隊長だった。この登山隊の隊長は、地区連盟海外委員会の委員長。彼・登山隊長が後に語っていた。前年1981年の北海道隊2隊の海外登山の遭難死亡事故のため、出発から登山終了までが緊張しっぱなしで、自分は登頂目標せず登山隊員全員の指揮に徹した、と語った。

 

1981年海外登山北海道隊の遭難死亡事故・二隊

1.中国ミニヤ・コンガ峰貢嘎山7556m北海道登山隊の遭難・1981年3月~ 6月。

 隊員25人中8人死亡。全員がミニヤ・コンガ峰北壁に滑落。

2.インドヒマラヤ・ジャオンリ峰Jaonli 6632m北海道女性登山隊の遭難・1981年8月~10月。

 隊員5人中3人死亡。頂上稜線手前で表層雪崩死亡。

 

エベレスト街道・ナムチェのバティ(ロッジ)で見かけた、1982年使用のプラパ-ル

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カ-タン峰北海道隊のマ-ク  かわいい熊

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1982年北海道カ-タン峰登山隊のプラパ-ルを担ぐシェルパニ(女性のポ-タ-)

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1982年カ-タン峰登山隊先発隊 カトマンドゥからトラックで運ぶ

ジリの村で雇用するロ-カルポ-タ-が集まってくる

ここジリから飛行場のあるルクラまで、キャラバン一週間

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1981年 北海道ジャオンリ峰報告書

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インド・ジャオンリ峰 1981年北海道ジャオンリ峰報告書より

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1981年 中国ミニヤ・コンガ峰報告書

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中国ミニヤ・コンガ峰北東稜 1981年ミニヤ・コンガ峰報告書より

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