koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの新型コロナウイルス情報 第14回

ネパ-ルの新型コロナウイルス情報の14回目                            

 ネパ-ルの新型コロナウイルスに関する情報は、国内の行動規制の解除が進みつつあるようだ。

 先月下旬にネパ-ル政府は、下記の外国人の入国に関する規則を発表した。

 また一方、エベレスト登山についての国内の規則も発表したので、ネパ-ル全土の登山やトレッキングの受け入れ体制を整えつつあるのだろう。

 

ネパ-ル政府・観光省は、新型コロナウイルスの蔓延防止に伴い入国者へ下記事項の指示をした
1.すべての入国者は入国に際し出発地において96時間以内に取得したPCR検査の陰性証明書を提出しなければならない。ただし5歳以下の幼児には免除される。
2.また入国者は空港にて再度PCR検査を受けなければならない。陽性の場合には検疫所に留め置かれ必要な措置がとられる。
3.陸路で入国する者にも同様な措置を取る。
4.ワクチンを既に接種した者は、これらのすべてを免除する。
5.入国者は必ず旅行保険に加入していなければならない。

登山隊に随行するネパ-ル政府のリエゾンオフイサ-の、GPS携帯と活用

 観光省は今春からエベレスト登山隊やリエゾン・オフィサ-(政府連絡官)にGPSを持たせることにした。
 これはエベレスト登山隊は虚偽の登山報告が多く、リエゾン・オフィサ-は登山隊に同行することなく費用をこれも虚偽の請求している為とのことである。例えば、エベレストのベ-スキヤンプまで登山隊に同行する筈のが、BCではテント暮らしのために、最終人家にもぐりこんで、登山隊の帰路時に合流してカトマンドゥに帰着、なのだ。

 ネパ-ル・カトマンドゥのコスモトレック(株)からの観光省プレス・リリースの要約情報です

 

ネパ-ル・コバン村からダウラギリⅠ峰 8167m

 

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ネパ-ル・カトマンドゥ・ボダナ-ト ストウ-パ

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ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ル・カ-タン峰6853mのC2からエベレスト

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サケ捕獲権確認請求訴訟 第三回

 

ラポロアイヌネイション 浦幌アイヌ協会の十勝川シャケ捕獲権裁判 公判三回目

 昨日3月4日午後2時、札幌地方裁判所において三回目の裁判が行われた。

 裁判は、標題の通り浦幌町アイヌコタン組織が浦幌十勝川河口部で、昔からサケを採ってきた、その権利を確認したい、との訴訟請求理由で、2020年8月17日に裁判が始まった。

 このアイヌ協会が団体として主張する権利は、特段に法律や条例に規定されていない。規定されている唯一と云えるのは、国際連合の条約に、先住民族の固有の権利、と規定されている。日本国政府も、この国連「固有権」を議会で承認されている。「アイヌが先住民」の法律もあるので、この「先住民族の固有の権利」は我が国で有効な法律権だ。

日本国政府は、知らない、と主張

 日本国と北海道を被告とするこの裁判、第二回目と三回目には原告の主張に対して被告の主張は「特段認めるわけでもなく否定もしない」というもの。原告の主張に対して、認否せずの主張だった。ようするに肯定も否定もせずの「反論せず」だった。国は、知らない、と言う。

 合わせて被告は、現行の北海道の条例には漁業権を持つ漁師が条例に従った捕獲ができるのであって、アイヌが勝手にサケを捕獲できない、とも主張した。

 今回の三回目の裁判では、高木裁判長が被告に「サケ捕獲権が法律の定めがないからといって直ちに権利がないとはいえない」と、被告の国に、次回には反論するように促す場面があった。

 江戸時代には、北海道は外国だった日本。江戸幕府が北海道に領地拡大と、明治維新後の明治4年の日本人戸籍が確立されて、アイヌ達がいつの間にか、強制的に日本人になった。

先住民族と移民との関係

 アメリカなど、イギリスなどから、新しい大陸へ多くの人々が移り住んだ、地球規模の移民。

 日本以外の諸外国では、先住民達の居留地が契約で買い取られたり、自然資源の活用には先住民に使用料が支払われて契約が成立してきた歴史がある。それでは、わが国はとみると、アイヌ居留地の北海道を植民地化した江戸幕府と明治政府。アイヌとの契約はなく、侵略以外のなにものでもなかった歴史。今から、アイヌの地の北海道を買い取るとしたら、何十兆円か一千兆円も支払わなければならない、のかもしれない。そして、サケなどの資源の捕獲権などを買い取る、莫大な金額になるだろう。これらは、わたしが勝手に考えていることだが。

 今回のアイヌの人たちが主張するのは、何十兆円の話ではなく、江戸時代から続いてきたアイヌの人たちの儀式に使うサケを採りたいと、些細な言い分だ。自分たちが食するためのサケを採りたい、と「国際連合規定の先住民の固有権利」なのだ、そうな。

 

第3回裁判報告会

札幌資料館

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報道各社のカメラ

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原告の弁護団

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原告たち

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ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第8回 

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂おめでとう その八回目

魔の山 K2 その

 ネパ-ル人隊の世界第二位の高峰パキスタンのK2冬季初登頂の、おめでたいことから始まったこのブログ、もう8回目。

 K2登頂の日本隊20周年記念登山パキスタン・スキムブルム峰の氷河雪崩6名死亡事故から、ネパ-ル・アンナプルナⅠ峰氷河雪崩に、横道をしばらく歩いてしまった。

 ここで、パキスタンのK2峰に戻そう。

 世界の8千m峰14座の内、その山容から死亡率の高い山は、なんといってもネパ-ルのアンナプルナⅠ峰。それに次いで高所の為の酸素不足が原因と合わせて、急峻さの困難と雪崩が原因の死亡事故多発がパキスタンのK2峰だ。

 

1986年のK2

 わたしの所蔵する山岳書籍のうち、K2に関する本は数冊。勿論その全ての本はノンフイクション。その内の2冊について少し、ここでブログに書き込み掲載する。

その一冊目は「K2 嵐の夏」。

 パキスタンカラコルムに聳える世界第2の高峰K2峰・8611mは、その山容がピラミット型で、麓からピ-クへ辿る周囲全ての斜度は40度~65度。急峻なル-トゆえの転滑落事故に加え、8500mを超えるデスゾ-ンと呼ばれる酸素濃度が平地の三分の一の酸素不足事故。そして、降り続く雪は、斜面の傾斜角度が急峻がゆえに、その場所に留まらない雪崩の危険。3重要件の魔の山の条件が満たされている。

 本の題名「The Endless Knot」は、日本語版で「K2 嵐の夏」。日本語版出版は2000年9月で、著作者はクライマ-でオ-ストリア生まれの、8千m峰初登頂でも有名なクルト・ディ-ムベルガ-Kurt Diemberger氏。氏は1957年パキスタン・ブロ-ド・ピ-ク初登頂やネパ-ルヒマラヤのダウラギリⅠ峰・1960年スイス隊で初登頂など華々しい山行暦。

 著書の内容は、1986年K2登山の様子と、なんと13名の死亡者を出したK2夏シ-ズの詳細が詰まっている。13人のうち、パ-トナ-のジュリ-の死亡も。

 著者のK2登山は、1983年に撮影登山のパ-トナ-のジュリ-・トゥリス女史と、フランチェスコ・サントン率いるクォ-タ8000隊K2中国側登山隊に参加。この時は最終キヤンプで悪天に見舞われ、二人で撤退。

 その次の年、二人が参加するスイスK2登山隊は、登頂断念。二人はすぐ近くのブロ-ド・ピ-クに転進。8047mの頂上に立つ。

 1957年にヘルマンブ-ルと登頂したクルト・ディ-ムベルガ-は、二度目のブロ-ド・ピ-クだつた。25歳で一回目登頂のクルト・ディ-ムベルガ-は、52歳になっていた。

 1986年のK2登山でも、クルト・ディ-ムベルガ-(54歳)とジュリ-・テュリス(47歳)と撮影目的で参加。イタリア出身のアゴスティ-ノ率いるクォ-タ8000隊へ参加。登頂後に、嵐につかまる経験を経て、この著作となつた。

 この年のK2登山隊は、アブルッチ稜から頂上を目指す隊がフランス国際隊とオ-ストリア隊・韓国隊の3隊。そして、南南西稜がクォ-タ8000隊とアメリカ隊・ポ-ランド隊・レナ-トカザロット隊の4隊。北西稜のイギリス隊。南壁のドイツ隊。中国側のアメリカ隊。総勢10隊を含む14の企画隊と、世界のヒマラヤ登山の約半数がK2に集まった。この10隊のうち数隊は、パキスタン府から複数ル-トの許可をとっている。そして、多くの登山隊には、独自に単独で、複数名で行動する小グル-プがいる。

 著名な登山家、イエジ・ククチカやユ-ゴスラビアのトモチェセンなどがベ-スキヤンプに入村。

 「K2 嵐の夏」の内容は、クルト・ディ-ムベルガ-本人のK2アタック中にも、滑落や雪崩で死亡遭難事故が発生。本人が混成チ-ムとして頂上アタック後の、下山最中8千mキャンプが嵐に巻き込まれた。1986年夏のK2・8611峰は、なんと13人の犠牲者をその山に呑み込む、その詳細全て。

魔の山K2遭難事故3原因

 まずその一つ目は、急峻斜度が故の転落滑落。二番目は、これも急峻斜面の雪崩。そして三番目は、デス・ゾ-ンの酸素切れの高度障害と高山病。この三種の山岳遭難事故に結びつく原因は、ヒマラヤ遭難原因の殆ど100%近くを占める。

 この本の著者は、暴風雪と低酸素で凍傷になり、登山の後遺症の突発性肺塞栓症に罹り、帰国航空機内ではマラリアの伝染病にまで罹患してる。

手指の凍傷原因や下山の様子を著書で次の様に記述してる

 K2に登頂後、C4に下降できずに8,400mでビバ-ク。ようやくC4に辿り着いた8月4日の午後4時から暴風が吹き荒れることになる。5日間も7800mのC4テントに閉じ込められ、テント内の燃料のガスボンベ残量はゼロ。もちろん食料は尽きていた。

 「8月9日、K2にとりついて12日目、C4。・・・目覚めてはじめて気が付いた‐‐片手を雪の中に突っ込んだまま眠っていた。何本か、指先の感覚がまるでない。凍傷になっている。」「中指の先端が、青黒くぷっくり膨れている・・・こいつは、もう手遅れだ」。

 「この指みたいに、少しずつ死んでいくなんて、ごめんだ。いや、本当にこいつは、先行きを暗示しているのだろうか? 外には。相変わらず嵐が吠え猛って--今のところ、逃げ出せる可能性は皆無だ」。

 8月9日の上部と連絡の取れないベ-スキヤンプでは、上部に居る筈の7名全員が遭難死、と判断していた。

 8月10日、「荒れ狂っていた天気が、ようやく青空を見せた。必死の下山が始まる。テント内の隊員は、動こうともしないし、歩き始めた者も、朦朧と歩きを止める」。6人中テントで死亡したジュリ-以外の5人が下りの深雪ラッセル。途中3人になり、次のキヤンプに辿り着いたのは2人だけ。

魔の山K2 1986年のK2は27名が登頂、遭難死亡者は13名

K2女性初登頂

 1986年のK2は、大量の遭難死者をだしたが、一方では27人の大量の登頂者も。そしてここで特記するのは、女性のK2初登頂者。

 6月18日にベ-スキヤンプを出発。6月23日10時15分、。ポ-ランド人女性のワンダ・ルトキェヴィッチが登頂。なんと、その頂上直下200mの所で、リリエンヌ・バラ-ルとモ-リス・バラ-ル夫妻が、ス-プを飲んでいて、彼女はその二人を見ながら休息をとらずに頂上を目指した。リリエンヌ・バラ-ルは、K2がまだ誰一人女性の登頂者がいないことを、十分すぎるくらい熟知していた筈なのに。

 前夜2人用テントで4人が泊り、一睡もせずに歩き出し、頂上直下で休まざるを得なかったくらいの女性第二登のリリエンヌ・バラ-ルは、下山中に死亡。

 そして、これらの事柄は物語にもなっているほど。

 作家であるミッシェル・パルマンティ絵は、このフランス隊4人パ-ティの遠征費用の半分を負担し、リリエンヌ・バラ-ルの女性K2初登頂者物語を書き、出版する予定だった、のだ。バラ-ル夫妻が女性のワンダ・ルトキェヴィッチにフランス隊へ加わる呼びかけ、を聞いた作家ミッシェル・パルマンティエが、怒り狂った、そうな。この話は、次回にでも。

6月21日午前5時30分

 突然だつた、登山ル-ト上部で桁外れな雪崩発生。なだれた斜面は、そっくり積雪がなく、登山ル-トを含めて灰色氷だけ。アメリカ人のアラン・ペニトンとジヨ-ン・スモ-リッヒの2人が巻き込まれていた。ジヨ-ン・スモ-リッヒは何万トンのデブリに埋没。アラン・ペニトンの遺体が発見され、ベ-スキヤンプ近くの「ギルキ-追悼ケルン」に埋葬。K2遭難死の13番目と14番目の犠牲者なった。アメリカ隊は解散。

 6月23日、ポ-ランド女性のワンダ・ルトキェヴィッチとパリのジャ-ナリスト、ミシェル・パルメンティエの2人がK2登頂。そしてモ-リス・バラ-ルとリリエンヌ・バラ-ル夫婦の2人。合計4人が登頂。

 また一方、南南西稜からバスク隊の2人も登頂。

 ワンダとミシェルが7700まで下って来て、上のバラ-ル夫婦が8300mに二日間ビバ-クして下山困難と著者クルト・ディ-ムベルガ-に伝えた。

 その後、リリエンヌ・バラ-ルが雪崩のデブリの中に発見。モ-リスは見つからなかった。これで4人が死亡。

 7月3日にベ-スキヤンプを出発したイエジ・ククチカとタデゥシュ・ピョトロフスキ-は、南壁から8日に初登頂。8300mでビバ-ク。C3へ下降中、ピョトロフスキ-の両足アイゼンが外れて滑落。死亡した。

 7月12日に登山開始したポ-ランド隊のレナ-ト・カ-ザロットは、14日にC3に到達。16日にベ-スキヤンプのゴレツタ夫人とのトランシ-バ-通信が途絶え。

 16日午後7時、下山中に40m滑落したクレパスからベ-スキヤンプへ救助要請。救助隊はロ-プ下降し救出。救出中にレナ-ト・カ-ザロットは死亡。

 8月3日18時、ポ-ランド隊登頂。

 23時30分、ポ-ランド隊のヴォイチェフ・ヴルシはフイックスロ-プ伝いに下降中に、滑落死亡。8100m付近の韓国隊が設置したフイックスロ-プの末端が何も処理されていなく、下降器かカラビナがスッポ抜けて滑落。

 この後、著者のクルト・ディ-ムベルガ-は登頂した後、ロ-プの一番下の末端に大きな結び目を作って下降してる。

ギュウギュウ詰めテントで出発を一日延期が大遭難に

 オ-ストリア隊が7800mのC4より上部にフイックスロ-プを張る仕事をする代わりに、韓国隊のテントに同居してもらう約束をして、3人がC4に上がってきた。韓国隊テントは3人様一張に3人居るのだ。韓国隊員一人下山する。あとのオ-ストリア人2人は、著者のクルトとジュリ-の2人用テントに3人目のオ-ストリア人が入ってきた。もう一人のオ-ストリア人は、少し下に張ってあるアラン・ラウスとムロフカの2人用テントに3人目として入った。

 このオ-ストリア隊のテント無し行動が、以後の大量遭難に。著者は「失われた登頂日」としている。

 8月3日、オ-ストリア隊は登頂すべく7800mのC4を出発が、夕方引き返した。それで、この日もC4のテントは寝れないほどの超過密となる。

 韓国隊は酸素ボンベを使用して、16時15分登頂。

 8月4日7時、C4の6人が出発。

 2人のオ-ストリア隊のヴィリ・バゥア-とアルフレット・イミツァ-が登頂。

アラン・ラウスが登頂するがムロフカは途中で疲労困憊し下山。

 ムロフカを途中で抜いた著者のクルトと相棒のジュリ-の2人、午後5時30分登頂。頂上は灰色のマントに包まれつつあった。

 午後6時に下山開始、下山途中雪崩に流されたが無事。

 下山途中でビバ-クとなる。

 8月5日、C4のテントに全員帰着する、が13時30分、6人は最悪の悪天に捕まってしまう。

 降雪によりクルトとジュリ-のテントが潰され、3人用テントに4人が入ることとなる。

 8月8日朝、暴風雪に閉じ込められたC4のテントの中で、著者クルトのパ-トナ-のジュリ-・トゥリスが死亡。

 8月8日、天候回復して晴天。

 テント内で死亡のジュリ-を残し5人下山開始。

 2人が100m下ったあたりで、オ-ストリア隊アルフレット・イミツァ-が雪面にうつ伏せに、そしてハンネスの動きが止まり2人死亡。

 8月10日、クルト・ディ-ムベルガ-はC3から7250mへ下降の途中、右手指の凍傷で、小便するズボンのジッパ-が下げられず。

6700mのC2へ午後10時着。ヴィリが水を作ってくれた。ヴィリの両手指は凍傷。著者クルト・ディ-ムベルガ-の右手親指だけセ-フ。左足の感覚なし。

 ムロフカがC2に下山せず死亡確認。ムロフカの遺体は、次の年の日本隊がフイックスロ-ブに垂れ下がる死体を発見。ギルキ-追悼ケルンに埋葬。

2人だけ生存生還

 8月11日、クルト・ディ-ムベルガ-は下降に便利な自分のエイト環を発見し、正午にC2出発。夜中、オ-ストリア隊のヴィリ・バゥア-がベ-スキヤンプへ下山して寄越してくれた、救助隊のジム・カランのヘットライトの目映ゆい光芒が闇を貫いて、こちらに投げかけられ、著作者クルト・ディ-ムベルガ-のK2高度差2700mの生 還行が終わる。

 

魔の山K2についての書籍「K2 嵐の夏」に続いて、次回は5人ののK2登頂者女性クライマ-についての「非情の頂」。

 

ギルキ-追悼ケルン

 1953年、K2登山中に行方不明になった、アラン・ギルギ-の追悼ケルン。

K2のベ-スキヤンプ近くに、石を積み上げて作られ、その後に遭難事故死亡者の名前板レリ-フ場所となる。

 

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K2頂上直下の懸垂氷河

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ギルキ-追悼ケルン

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チムニ-を登攀するリリエンヌ・バラ-ル

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K2女性初登頂者のポ-ランド人女性ワンダ・ルトキェヴィッチ、イエジ・ククチカと 

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右側2人、著者のクルト・ディ-ムベルガ-Kurt iembergerとパ-トナ-のジュリ-・トゥリス

著書から

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ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第7回

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂おめでとう その七回目

アンナプルナⅠ峰1991年大規模雪崩と1950年フランス隊第三キヤンプの雪崩

 ネパ-ル人隊の世界第二位の高峰パキスタンのK2冬季初登頂の、おめでたいことから始まった、のが、もう7回目。

 前々回からアンナプルナⅠ峰BCを襲う氷河雪崩や、1991年韓国隊の6名死亡雪崩事故の写真を見た。

 今回もアンナプルナⅠ峰北面を襲う雪崩写真を見てみる。

 北海道隊は1991年ポストモンス-ン季に、アンナプルナⅠ峰北面の登攀中、鎌氷河からの雪崩と北面全体の雪崩、そしてベ-スキャンプが襲われる氷河雪崩に遭うこととなった。実際には私は氷河雪崩に遭い、距離5千m前方からモクモクと雪煙を挙げて襲ってくる雪崩から一目散に走って逃げた。

 それ以前にも発生した雪崩に隊員一名が埋没。登攀ル-トのC1からC2へ荷揚中、一人は一目散に逃げ無事だった隊員が、スカッフ・コ-ル。雪の中から声が聞こえた。シャベルなど無く手で声の部分を掘り出されて無事。

 今回の写真は、登攀ル-トのC1からC2周囲全体が雪崩に巻き込まれる大規模な雪崩。その写真を見る。

 

アンナプルⅠ峰雪崩に遭遇した最初の人

 

 1950年6月、フランス隊はここアンナプルナⅠ峰を、世界で8千m峰の初登頂をした時にも、この鎌氷河がなだれて雪崩に遭っている。フランス隊のモ-リス・エルゾ-グとルイ・ラシュナルが、登頂後の下山時に雪崩に遭遇。

 モ-リス・エルゾ-グは頂上で手袋を紛失。この時はルイ・ラシュナルと合わせて手足の指30本を凍傷で失っている。

 エルゾ-クはこの後、ポカラ――カトマンドゥへの帰路途中に両手指の切断手術、ポ-タ-達に担がれての、登頂凱旋となった。指を失ったエルゾ-クは、「第二のアンナプルナがある」の名言を残し、シャモニ-市長や国民会議議員・青年スポ-ツ省大臣などの人生を飾ることとなる。

 フランス隊の隊員全員はフランス帰国後に、スポ-ツ活動貢献に与えられるガイ・ウイルデンシュタイン賞を受賞。エルゾ-クはネパ-ルのグルカ戦功勲章を受章。

 1950年はネパ-ルが130年間の鎖国から開国した年。イギリス隊がエベレストを初登頂するのは、それから3年後。日本隊が8千m峰のマナスル峰8163mを登頂するのは1956年。

 アンナプルナⅠ峰はフランス隊の初登頂以後、多くの登山隊が雪崩死亡事故に遭うことになる。

 そして今日まで、8千m峰では登頂者比較では最悪の死亡事故率の山となってしまった。

 アンナプルナⅠ峰についての2010年の統計では、登頂者数157名に対して死亡者数60名で38%の死亡率となる。2018年の統計では、死亡者率が少し減って266名の登頂者に対して死亡率27%の72名。

 なんとアンナプルナⅠ峰は、8千m峰では断トツに高い死亡率。統計を見れば一目瞭然8千m峰14座中登頂者数は最低。

 

ネパ-ル・アンナプルナ峰北面、ABC上部の登路から

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大雪崩発生

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1991年アンナプルナⅠ峰北海道隊

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1950年アンナプルナⅠ峰フランス隊

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アンナプルナⅠ峰鎌氷河下部ル-ト

第三キャンプで雪崩に遭遇

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両手凍傷のモ-リス・エルゾ-グ

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二つのタンカでカトマンドゥまで搬送されるモ-リス・エルゾ-グとルイ・ラシユナル

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ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第6回 

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂おめでとう その六回目

アンナプルナⅠ峰 韓国隊の氷河雪崩遭難事故

 ネパ-ル人隊の世界第二位の高峰パキスタンのK2冬季初登頂の、ネパ-ル山岳界の大変おめでたいことから始まった、のが、6回目。

 横道に外れて歩き出した、パキスタン・スキム・ブルム峰氷河雪崩とネパ-ル、アンナプルナⅠ峰BCを襲う氷河雪崩の写真を見た。

 前回は、わたし達北海道隊が登山終了してベ-スキヤンプに下山した、その次の日の午前10時ころに発生した、テイリツオ・ピ-クから発生した懸垂氷河雪崩の猛烈な写真を見た。

 今回も、横道にずれっ放しで、アンナプルナⅠ峰北海道登山隊の見た、韓国仁川登山隊の雪崩事故の写真を見てみる。

アンナプルナⅠ峰韓国仁川登山協会隊が雪崩事故で6名死亡

 1991年ポストモンス-ン9月のアンナプルナⅠ峰北面8091mアタック中だった。登山隊はわたし達北海道隊とスペイン隊、そして韓国達の3隊がアンナプルナⅠ峰登頂目指してル-トメイキング中。

 韓国隊は、先頭を切ってBCからABC、そしてC1からC2を建設。登頂直前の最終キャンプのC3へのル-ト工作中だった。

 韓国隊員2人とネパ-ルメンバ-の高所クライミングガイド5人の7名が、第3キヤンプのテントなどを背負い、ル-トにフイックスロ-プを設置しながらクライミング登行中。

大きな雪崩が発生。

 この下部アドバンス・ベ-スキヤンプで上部を見ていた北海道隊、が見た。雪崩の雪煙がアンナプルナ北面の下部の半分を覆うほどの、大規模雪崩。どうなったのか不明。現場から下ってきたのは、ネパ-ル人一人だけ。サ-ダ-と呼ばれるガイド頭だけだった。彼は、ル-トメイキングの先頭をクライミング中。その足元下部から雪崩発生。続いて登行していた後部の6人は、雪崩に巻き込まれたのだ。

 韓国隊員2人とネパ-ルメンバ-4人の6名が雪崩で行方不明。

世界の8千m14座のうち、死亡率最高のアンナプルナⅠ峰

 遭難事故が多く、魔の山と呼ばれているのはパキスタンのK2。

 しかし、登山遭難事故統計で一番危険な8千m峰はアンナプルナⅠ峰なのだ。それも雪崩事故死亡者が一番多い。

 世界の8千m峰で最初にフランス隊が登頂したのが、このアンナプルナⅠ峰で、その時にも登頂後の下山中に雪崩に巻き込まれたモ-リス・エルゾ-グが、手袋を雪崩で紛失して手指凍傷になった8千m峰登山事故歴史の始まり。

 8千m峰の死亡率は、アンナプルナⅠ峰が一番で、なんと27%が死んでいる。二番目はK2峰で22.9%。世界最高峰のエベレストは、3.2%と比較的に低い死亡者率。

 魔の山と呼ばれるのはK2とアンナプルナⅠ峰の二峰。死亡率が27%ということは、登頂した4人に1人が登山下山中に遭難事故で死亡してていることになる。

 登山が純粋なスポ-ツなら、例えば野球の試合で2チ-ムで1試合18人が、試合中に4.8人が死亡する。

 それでは、アンナプルナⅠ峰韓国隊の雪崩事故写真を見てみる。

 ちなみに、日本ヒマラヤ協会など種々のホ-ムペ-ジで発表されている8千m峰14座別の累計登頂者数と死亡率は下記の通り。

 

8千m峰14座別の累計登頂者数・1953年~2018年

8千m峰名   標高    累計登頂者数

ベレスト 8848m     9171人 (2019年885人・ネパ-ル側644+チベット側241人)

K2 8631m        367人

カンチェンジュンガ 8586m 373人

ロ-ツェ 8516m      785人

マカル- 8463m      454人

チョ・オユ- 8201m   3828人

ダウラギリⅠ 8167m    550人

マナスル 8163m     1742人

ナンガパルバット 8126m  400人

アンナプルナⅠ 8091m   266人

ガッシャブルムⅠ 8068m  350人

ブロ-ドピ-ク 8051m   406人

ガッシャブルムⅡ 8035m  100人

シシャパンマ 8027m    350人

 

8千m峰14座別の累計死亡率・1953年~2018年

8千m峰名   標高       死亡率

ベレスト 8848m       3.2%

K2 8631m        22.9%

カンチェンジュンガ 8586m 12.6%

ロ-ツェ 8516m       2.7%

マカル- 8463m       9.1%

チョ・オユ- 8201m     1.3%

ダウラギリⅠ 8167m    15.1%

マナスル 8163m       4.9%

ナンガパルバット 8126m  20.7%

アンナプルナⅠ 8091m   27.0%

ガッシャブルムⅠ 8068m   9.7%

ブロ-ドピ-ク 8051m    8.4%

ガッシャブルムⅡ 8035m   2.3%

シシャパンマ 8027m     8.9%

 

韓国隊6名死亡の雪崩の雪煙 

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雪崩発生したアンナプルナⅠ峰北面の部分

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ベ-スキヤンプの現地葬儀式

韓国隊隊長

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スペイン隊

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アンナプルナⅠ峰北面登山で死亡したクライマ-とネパ-ルガイドのレリ-フ

一番上部の二つが1991年韓国・仁川山岳連盟隊の韓国人2名()とネパ-ルメンバ-4名

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韓国隊墓標

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日本隊の墓標

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アンナプルナⅠ峰アドバンスベ-スキヤンプ(ABC)

手前が北海道隊 奥が韓国隊

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ABC ニルギリ・南峰6839mとニルギリ中央峰6940m()

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アンナプルナⅠ峰ベ-スキャンプ・左半分は北海道隊、右奥はスペイン隊

この後、北海道隊のテントが5張ほど増える

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登山開始前、ベ-スキャンプで行われるプジャ・安全祈願の儀式

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ABCからアンナプルナⅠ峰北面全景 8091m

頂上下部の氷河と岩の部分はカマ氷河と呼ばれる(草刈り鎌の形)

写真中央部の小規模な尾根は北海道隊のC2設置したダッリブル-ト(オランダ初めて使った)

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ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第5回 

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂、おめでとう その五回目

 標題がネパ-ル人隊の世界第二位の高峰パキスタンのK2冬季初登頂が、大変おめでたいことだったので、その報道をアップだった。が、横道に外れてK2の第二登になる日本隊登頂と、その後の20周年記念パキスタン・スキム・ブルム氷河雪崩事故をアップ。

 横道を歩きついでに、他の氷河雪崩事故の写真を見てみたい。

 これは、わたしがネパ-ルヒマラヤのアンナプルナⅠ峰8,091m遠征で遭遇した懸垂氷河雪崩の写真。

1991年10月アンナプルナⅠ峰北面登攀隊のベ-スキャンプを襲った氷河雪崩       

 この氷河雪崩、その発生点の氷河の破断面のある所と、私達が登山中に生活しているBCとの距離は、標高差約2千2百m、距離約5千m。この距離を最初はほぼ垂直90度の壁を、東京ド-ムの何分の一かの氷の塊がクラ-ッと転げ落ちる。この氷塊は落下途中、傾斜の少し緩くなった斜面に当たって、粉々になり、そして降り積もる程の雪状態にまでになる。この間、氷が落下するのだから勢いづいて突風の猛吹雪。

 爆風となった雪崩の速度は最初の2千m弱を20秒、総距離5kmを70秒かかっている。最初は時速300kmになるか。グラ-と転げ落ちる初速は時速0km近くからだから、20秒後のほぼ傾斜の緩い斜面にぶつかる直前の時速はものすごいものだろう。

 8千mを超えるのアンナプルナⅠ峰を筆頭に、6千m以上のピ-ク15座のアンナプルナヒマ-ルは、直線状の山脈でなく円を描く形の50kmに及ぶ距離の山群。その円形の山脈の西側に、高峰4座のニルギリヒマ-ルがある。南からニルギリ南峰6839m、続いて北側に向かってニルギリ中央峰6940m、ニルギリ北峰7061m、ティリチョ・ピ-ク7134mと続く。このティリチョ・ピ-クとアンナプルナⅠ峰の丁度中間にベ-スキャンプ(BC)とアドバンスベ-スキャンプ(ABC)が作られていた。アンナプルナⅠ峰北面から流れ下るアンナプルナ氷河は、峪状に設置したABCを通って、その下流のBC脇を下っている。

 BCからアンナプルナ氷河沿いにABC方向を見上げると、右上にアンナの頂上、左上にティリチョ・ピ-クを見上げることになる。

 この日も、ティリチョ・ピ-クの稜線上から小規模にハンググレッチャ-雪崩が落ちていた。登山終了して隊員全員がBCで朝食を終えて、下山の準備でポ-タ-一人ひとりが担ぐ荷物づくりの予定だった。

 快晴の暖かい朝方、皆がテントから出て日向ぼっこ中。直前の小雪崩方向を見ていた私は、大きな氷の塊が「ゴロ-」と転げ落ちる様子を見た。何といおうか、背筋が寒くなると云おうか、どうしたら良いのかその後の行動を考えようとしたのだろうか。一瞬だった「皆逃げろ-」と叫んでいた。

 BCの氷河の流れ下るのに沿ってBC後方に大きな直径5mほどの大きな岩が数個ある。全員がこの岩陰に隠れることができた。

 岩陰に身を伏せたが、どれ程の突風なのか、飛ばされるのかどうか。

 猛吹雪の爆風が通り過ぎて行った。

 負傷者はスペイン隊員一人、逃げる時に足を挫いていた。

 BCに設営のテント3張がフレ-ムが折れてペシャンコ。大きなキッチンのテントも潰れ、BC中央のネパ-ルと北海道の旗は数十mも飛ばされていた。外に干してあったシュラフ一個は、皆で捜索したがついに発見できなかった。

 一人、この大雪崩を動画撮影していたメンバ-がいた。爆風が身に迫ってようやく、全速力で避難した。

 この大雪崩の動画がある。ブログに動画のアップ方法が解らない。どなたか、教えて。

 ちなみに、雪崩とは関係ないが、「アンナプルナ」はネパ-ル語でअन्नपूर्ण  で「豊穣の女神」の意味。

 

それでは、アンナプルナ峰北海道隊のベ-スキヤンプを襲った、懸垂氷河雪崩の写真を見てみる

前回のスキム・ブルム峰氷河雪崩6名死亡事故の報道テレビで写った北海道隊遭遇の氷河雪崩

 

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アンナプルナⅠ峰北面 8,091m ABCから

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テイリツオ・ピ-クからアンナプルナⅠ峰BCを襲う大懸垂氷河雪崩

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雪崩につぶされた食堂テント

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アンナプルナⅠ峰ベ-スキヤンプ
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