koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第155回     カトマンドゥ市内の寺院と仏塔

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 百五十五回目

カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔

11.スワヤンブナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 6回目

 

 前回は、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-地域の入口が3ケ所あって、北西側入り口の様子の写真を見た。

 今回は、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-のある小高い丘の下にある東側の入口と、この仏塔まで登る400段の階段の写真を見てみる。

 階段は400段に少し足りない数らしい。カトマンドゥ盆地内には、幾つかの寺院へは階段を昇らなければ行き着かない場所がある。

山や丘の上の寺院

 カトマンドゥ市内から20km東方向にある町、サク-Sankhuの丘の上の大きなヒンドゥ-教寺院は、612段の階段を登る。そして、カトマンドゥ市内からアルニコ・ハイウエ-を通って東南方向へ40kmの町、パナウティPanautiに寺院群があり、そこから355段の階段を登ると小さなヒンドゥ-教寺院がある。

 ここの仏塔への階段も400段近い。カトマンドウから200km西のポカラへ行く途中のマナカマナManakamnaの寺院は、ゴンドラで登り山の上にある。

 現在では、ネパ-ルの道路が整備されているが、1950年の鎖国を解いての開国までは、国内に車道がなく馬や牛、そして徒歩の移動だった。特にチベットとインドの交易の中継地点としてのネパ-ルだったので、その街道は峠あり沢道ありで、山の頂付近の寺院は珍しくなかったのだろう。

 

スワヤンブナ-ト・ストゥパ-

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丘の上のスワヤンブナ-ト・ストゥパ-

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スワヤンブナ-ト・ストゥパ-入口の門

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門をくぐると仏教仏像

後方にはチベット仏教マニ車  丘の裾をマニ車が取り囲む

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小中学校高学年の遠足か

ネパ-ルの学校は10年制

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階段脇のゾウや馬の像

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階段途中でお土産屋さんに声をかけられる

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スワヤンブナ-トはモンキ-テンプル

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スワヤンブナ-トの頭の冠が見え始める

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400段近い階段を登るとスワヤンブナ-トや寺院など

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第154回     カトマンドゥ市内の寺院と仏塔

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 百五十四回目

カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔

11.スワヤンブナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 5回目

 

 前回まで、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-の建立当時の歴史とその説明、その次に世界文化遺産登録に触れた。

 ネパ-ルの首都カトマンドゥの中心街を一周とりまく様にリングロ-ドが走っている。北西方向のその道路脇の内側にスワヤンブナ-ト・ストゥパ-敷地がある。

 ちょうど小高い丘になっていて、道路側は丘の上。東側カトマンドゥ中心街方向は丘の下になり、この仏塔まで登るには400段の階段を昇る。

 丘の上のスワヤンブナ-ト・ストゥパ-へは、三か所の入り口がある。街から約3kmあるので、街でタクシ-を拾うと、遠回りのリングロ-ドや階段を昇る入口ではなく、階段入口の脇からの道を時計回りに登って、一番仏塔に近い西側の入口に運んでくれる。

 今回は、仏塔まで一番遠くにある入口、リングロ-ド入口からの写真を見てみる。

 

スワヤンブナ-ト仏塔

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リングロ-ドからスワヤンブナ-ト敷地に入ると、三体の大きな仏像が出迎え

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スワヤンブナ-ト・ストゥパ-は猿が住みつき、別名モンキ-・テンプル

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仏教寺院の五色のタルチョ-がたくさんはためく

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チベット仏教マニ車

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林のなかを通り抜ける

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仏教仏像

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チベット仏教のお坊さん

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第153回     カトマンドゥ市内の寺院と仏塔

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 百五十三回目

カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔

11.スワヤンブナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 4回目

 

 前々回は、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-建立当時の歴史、前回は、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-の説明と写真を見た。

 今回は、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-が世界文化遺産登録されたこと、と顔色の変化の写真を見てみる。

 ネパ-ルの世界遺産登録は、全国に4カ所。その登録の歴史過程から。

ネパ-ルの世界遺産

 ネパ-ルの世界遺産は全国に四か所。その内二か所が自然遺産で、他の二か所が文化遺産

1.世界自然遺産 サガルマータ国立公園सगरमाथा 1979年登録

2.世界文化遺産 カトマンドゥ盆地の七ケ所काठमाडौं उपत्यका 1979年登録

3.世界自然遺産 チトワン国立公園चितवन राष्ट्रिय निकुञ्ज 1984年登録

4.世界文化遺産 ルンビニलुम्बिनी 1997年登録

 

 今回写真を見るスワヤンブナ-ト・ストゥパ-は、2.のカトマンドゥ盆地の中のひとつ。

 カトマンドゥ盆地の世界文化遺産は、登録正式名称は日本語で「カトマンドゥ渓谷」だった。「渓谷」では実際のカトマンドゥ周辺の地形でないので、わたしは「カトマンドゥ盆地」と呼んでいる。

 ちなみに、カトマンドゥ盆地内に散らばってある世界遺産は。

カトマンドゥ世界文化遺産7カ所

1.パシュパティナート寺院広場 Pashupatinath (Temple of livingbeings)

2.ハヌマン・ドカ(猿神と門=カトマンズ旧王宮広場)Hanumandhoka

3.パタン旧王宮広場

4.バクタプ-ル旧王宮広場

5.スワヤンブナート仏塔

6.ボダナート仏塔

7.チャングナラヤン寺院

1~7は全てカトマンドウ盆地内にあ.る。盆地内にまとまってこれだけ沢山の世界文化遺産があるのは世界でもネパールだけ、と珍しい。

 

ちなみに、世界文化遺産登録基準(評価基準)は下記の通り

1.人類の創造的資質を示す傑作。

2.建築や技術、記念碑、都市計画・景観設計の発展において、ある期間または世界の文化圏内での価値観の交流を示すもの。

3.現存する、あるいは消滅した文化的伝統、文明の存在に関する独特な証拠を伝えるもの。

4.人類の歴史上の重要な段階を示す建築様式、建築・科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本。

5.ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落や土地・海上利用の顕著な見本。もしくは、危機に晒されている、人類と環境の交流を示すもの。

6.顕著な普遍的価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的・文化的作品と直接または実質的関連があるもの。

 

カトマンドゥ盆地の世界文化遺産登録された理由

国際連合ユネスコは以下の理由で世界文化遺産登録した。

1. 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

2. 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

3.顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの。この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている。

スワヤンブナ-トの顔やスカ-トの変遷

 スワヤンブナ-ト仏塔は、理由は分からないが、四面にあるブツダに起因する見据える目や、その顔の上のスカ-トの色など変化がある。そして、歴史的には自然災害などで全体が壊れ、大修復作業が行われている。

 わたしは、ネパ-ルにある目玉仏塔の顔に見える4面の上の幕のことを、スカ-トと呼んでいる。理由はないのだが、ハチマキでは色気も何もない、ので顔の上半分を隠すスカ-トだ。ひたいやおでこにスカ-トとは、何かへんかな。

スカ-トの色が変わる。そして、目の形や位置も変わる。目と鼻の位置も

ちなみに、鼻は数字の9に近いが、ネパ-ル語の1.ネパ-ル数字の1は、無限大を表わす

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第152回     カトマンドゥ市内の寺院と仏塔

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 百五十二回目

カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔

11.スワヤンブナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 3回目

 

 前回は、スワヤンブナ-ト・ストゥパ-建立当時の歴史と、その写真を見た。

 今回は前回と似て、歴史からのスワヤンブナ-ト・ストゥパ-の説明と写真を見てみる。

 スワヤンブ-ナ-トは、カトマンドゥのリングロ-ドのすぐ内側で中心街の西方3kmにあり、400段に近い階段の丘の上に建つストゥーパ(仏塔)様式の仏教寺院。

 東南アジア最古の文化遺産で、この寺院からはカトマンドゥの市街が一望される。

 現在はサルが多いことから「モンキーテンプル」とも呼ばれている。

 ストゥーバ(仏塔)の高さは9m、直径18mで大きな目玉が描かれている。四面についた目は森羅万象を見通す仏陀の目で「みすえる知恵の目」である。仏塔の周りには、寺院など複数の建物が囲んでいる。

 現在は、チベット仏教の印タルチョ-が張り巡らされている。タルチョ-の小布は、経文が印刷され、黄、緑、赤、白、青の五色からなる。これらの五色は、黄が大地、緑が水、赤が火、白が風、青が大地、で大宇宙を表わしている。

スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-の意味

 スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-を直訳すると「自存者寺院」。その意味は万物の創造者。ブッタのシヤリラ(遺骨)が分骨された本物の仏舎利塔ではなく、初念仏とされている。初念仏の意味は、前回の150回で触れた、このストゥパ-の歴史に関わること。このスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-の建立年は紀元前250年。当時は宗教の礼拝する対象のブッダや寺院が一般的でなく、ブッダを信仰対象にしたり仏像を寺院に安置していなかった。ネパ-ルには仏像や寺院の無い時代。

 ネパ-ル語でボ-ドナ-トは正覚寺院のこと。

 このスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-が、現在の様なチベット仏教徒の巡礼地になるまでには、相当の十数世紀を経た後のこと。チベット人が、インドとの塩と農作物の交易時代に、中継地のネパ-ルに滞在していて、カトマンドゥのネワ-ル建築様式などと、ここのスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-やボダナ-ト・ストゥパ-などに憧れての出来事。

 ようするに、チベット人チベット以上の宗教上や文化の発達したネパ-ルとの文化交流で、スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-が巡礼などでチベット仏教寺院化したと言える。

 なお、この仏塔は建立歴史から、正確にはストゥーパではない、とわたしは考えている。マハ・チャイテャと呼ばれるものだろう。チャイテャを直訳すると「塚」で、規模が大きく大チャイテャ。紀元前250年に、インドの大王アショカ王が建立した時は、単なる塚でしかなかった。今では、歴史的な改造が加えられ、チベット仏教徒の巡礼地となり、目玉寺のスワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-となっている。

チベット仏教寺院としての、目玉寺スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-

 ネパ-ル国内のチベット仏教徒は9%といわれている。ちなみに、ヒンドゥ-教徒は81%。

 現在のここの敷地内は、全てがチベット仏教関係の建築物で成り立っている。スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-仏塔の隣の西北隅にある建築物のお堂は、その形状からヒンドゥ-教の寺院に似ているが、この寺院は鬼子母神堂(ハリティ)と呼ばれる仏教寺院である。一見すると、仏教の仏塔とヒンドゥー教の寺院が共存していると思われるが違う。

スワヤンブ-ナ-ト・ストゥパ-の起源など不明

 現在は仏塔の墓室を開くことは禁じられている。1825年に頭部の宝珠を支える木製の支柱が嵐で割れたことがある。その時、交換のために開かれたが仏塔の起源や建立年を記録した物などを調査する機会があった。残念ながら調査をしなかった。またとないチャンスを逃してしまった。

 2015年4月25日のネパ-ル大地震で、目玉以下の台座になる土饅頭型土台が大きくひび割れ、改修名目での調査ができたがしていない。そもそも仏塔の開室禁止は現代の諾否の問題で、建立した当時からの約束事でもなんでもない。開室して調査することで、建立関係の物や開室許諾の文書が見つかるかもしれないのだ。

 

参考資料

在ネパ-ル日本大使館・ホ-ムペ-ジ

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

ネパ-ル 地球の歩き方

カトマンドゥ・デイ・ドリ-ム 佐々木幹郎

ネパ-ル紀行 三瓶清朝

ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ

ネパ-ル アジア読本 

NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局

 

スワヤンブナ-ト仏塔

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1950年ころ  カトマンドゥ市内の畑地(現在は街中)から丘の上のスワヤンブナ-ト・ストウパ-

ヒマラヤはガネッシュ・ヒマ-ル

カトマンドゥの市内から、遠くにヒマラヤではなく、見上げ様にヒマラヤ(もちろん現在でも)

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現在のカトマンドゥ市内から見るスワヤンブナ-ト・ストゥパ-

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スワヤンブナ-ト・ストゥパ-からカトマンドゥ市内を俯瞰

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リングロ-ドの外側の住宅街

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第151回 カトマンドゥ市内の寺院と仏塔

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 百五十一回目

カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔

11.スワヤンブナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 2回目

 

 前回から、カトマンドゥ市内のスワヤンブナ-ト仏塔の写真を見ている。

 前回この仏塔の名称を、わたしなりにスワヤンヴゥナ-トと書いたが、この名前では「検索」できないので、今回から通常の名称スワヤンブナ-ト仏塔をつかうこととする。

 今回は、少し勉強してみたので、スワヤンブナ-ト仏塔の建立から今日までの歴史に触れたい。

 

スワヤンブナ-ト・ストゥパ-は、紀元前250年に建立

 そもそもの建立は、普通に思うほど以上に古い。

 古代に遡り、全インド亜大陸を最初に統一して帝国を築いたとされる王様がいる。この王アショカ王が紀元前約250年頃に建立している。なんと今から2,269年前にさかのぼる。

 その前に、歴史事実としての歴実を辿る。アショカ王は紀元前249年に、お釈迦様ブッダの生誕地現在のネパ-ル・ルンビニを訪れている。その後、ブッダの辿った現在のカトマンドゥを訪れ、このストゥパ-と、カトマンドゥの隣町パタンにも4塚(ストゥパ-)を建立している。

なぜ、アショカの建設と分かるのか

 当時、ルンビニの釈迦生誕地を訪れたアショカ王は、その場所に大きな土饅頭型の塚と石柱を残した。この塚、当時はストゥパ-とは呼んでいなかったのだろう。

 古代インドで仏教を守護したアショカ大王は、ブッダが悟りを開いたインドの、ブッダの辿った当時のインド各地を訪れていた。当時のルンビニは「ルンミンデ-イ-」と呼び、インドとネパ-ルの国境がなく、インド領だつたのでは。

 アショカ王の宗教守護は、仏教だけでなく、バラモン教ジャイナ教・ア-ジ-ヴィカ教など、対等に位置づけていたらしい。

2千年以上前のこと。当然に塚や石柱は、その地の繁栄や衰退があって、土に埋もれるのが当然

 ところがその後、現在の中国の文献、中国の唐の玄奘三蔵がインドへの旅を記した「大唐西域記」に、ここルンビニ訪問記があった。

 「大唐西域記」は、紀元629年から645年の17年間、インドや現在のネパ-ルの旅行を記したもの。旅行の目的は、仏教の仏典の収集。

 唐の玄奘三蔵は現在のネパ-ル・ルンビニを訪れ、アショカ王の建てた石柱を発見してる。「大唐西域記」に記されているのは、「石柱を発見、アショカ王の記した文書の、ここがブッダの誕生地であることと、租税を八分の一に免除することなどが古代文字で書かれている」と書かれている。そして、雷に打たれたのだろう、石柱は折れていた、とも記されていた。

アショカ王

 アショカ王の建立した石柱は、アショカ王柱やアショカ王塔と呼ばれる。インド各地には、数十の石柱と塚があるらしい。

 釈迦の生誕の地ルンビニは、石柱が発掘された事で特定された。石柱には、ここがブッダの誕生地であることと、石柱には紀元前249年と記され、古代文字のパ-リ語で「王よ、神々の友たるものよ、温顔なる君は、戴冠式20年の後に親しくこの地に来訪し、敬意を捧げた。この地こそ釈迦族の聖人、仏陀生誕の地なればなり。ブッダ生誕地を記念し、租税を8分の一に減免する」と記されている。

 石柱にはさまざまな文章が書かれていた。現存する仏典と一致しないものも多い。仏教思想の変遷の跡が認められる。

  また、漢訳の仏典で菩薩に相当する部分が、石柱ではブッダとなっており、大乗の菩薩思想が登場する以前の資料としても注目される。

玄奘三蔵が訪れた、それでも埋もれた塚と石柱。それを発掘した人がいた

 1895年(96年)、ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルンビニの藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。

 

 スワヤンブナ-ト・仏塔の歴史事実を説明するのに、横道を歩くの如く、回り道した。

 インドの大王アショカ王は、ブッダの足跡を辿って、現在のカトマンドゥ盆地を紀元前250年に訪れていた。

 わたしが勝手に推測するには、カトマンドゥ市内にボダナ-ト仏塔とスワヤンブナ-ト仏塔、そして、隣町のパタンに4仏塔を建立した。

 

参考資料

在ネパ-ル日本大使館・ホ-ムペ-ジ

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

ネパ-ル 地球の歩き方

カトマンドゥ・デイ・ドリ-ム 佐々木幹郎

ネパ-ル紀行 三瓶清朝

ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ

ネパ-ル アジア読本 

NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局

  

スワヤンブナ-ト・ストゥパ-

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ネパ-ル・ルンビニアショカ王石柱の側には、土饅頭型の塚

1950年頃のネパ-ル人

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復元されたルンビニのアショカ石柱

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パタン市内 アショカ・ストゥパ- 1950年ころの写真

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スワヤンブナ-ト仏塔

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五色のタルチョ-がはためくスワヤンブナ-ト・ストゥパ-

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第150回 カトマンドゥ市内の寺院と仏塔

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔)

カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔

11.スワヤンヴゥナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath Stupa 1回目

 

 ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔の写真をアップし始めたのは、2018年2月18日(日)が第一回目。今回が150回目になる。

その間の前回までの写真の場所は以下の場所。

1.カトマンドゥ旧王宮

2.パタン旧王宮

3.ゴルカ旧王宮

4.ブダニ-ルカンタのヴィシュヌ神

5.ネパ-ル切手になった窓

6.キルティプルの寺院や仏塔

7.パシュパティナ-ト寺院

8.ボダナ-ト仏塔

8.ボダナ-ト・ストゥパ-周辺の僧院

9.タメ-ルから王宮の間の寺院と仏塔

10.メイピ-寺院

 

 スワヤンブナ-ト仏塔についての歴史や云われなど、後々触れることにして、今回は現在の写真をアップする。

 この標題の題字に、「スワヤンヴゥナ-ト・ストゥパ-Swayambhunath」と記した。

 普通に本当は、スワヤブナ-ト・ストゥ-パと書く。「ブ」を「ヴゥ」と、そして「ゥ-パ」を「ゥパ-」と記入してみた。「ヴゥ」は英語読みの「bhu」に近づけるとこうなる。そして、ストゥ-パをストゥパ-と書くのは、わたしが単に読みやすいから。わたしがネパ-ルで生活するようになって12年。その間ネパ-ル人や日本人のネパ-ル語読みを、わたし流に日常語カタカナに変換してみた。以上がそれぞれ他の書物などの普通のスペル(文字)と違う理由。

 普通に使用しているネパ-ル語。これは読み方がネパ-ル語であって、書き方は違う公称を使う。ネパ-ル語の書き方文字は「デバナガリ文字」。デバナガリ文字の歴史的元々は、インドで使用しているサンスクリット文字の原形が一緒で、国によって若干異なる書き方で分離した。

 分かり易い説明をすると、例えば日本の先住民のアイヌが話すアイヌ語。この言葉は「文字」を持たない。アイヌ語を文字にして書く場合、日本語のカタカナやひらがなで書くしかない。この場合、アイヌ語の文字は日本語、ということになる。例えが少し違って、なお分かりづらくなったか。

 なかなか、ネパ-ル語を日本人が喋る言葉のスペル(文字)にするには、個人差がでる。わたしの様な、わたし流あっても良いのでは、とわたしは考えるのだが。

 数回にわたって写真をアップする間、わたし流の書き方の「スワヤンヴゥナ-ト・ストゥパ-」と書いてみたい。

 

11.スワヤンヴゥナ-ト・ストゥパ-SwayambhunathStupa

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スワヤンヴゥナ-ト仏塔入場券

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第149回  カトマンドゥ市内の寺院と仏塔

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百四十九回目 

10.カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔

その第19回 メイピ-寺院の六回目

 

 わたしが、ネパ-ルで2013年と2018年に過ごしたカトマンドゥ市内メイピ-地区。

 そこの、私の生活していた借家から徒歩3分の場所にある寺院の写真、メイピ-寺院の写真は今回で最終回。

中世15世紀から花開くネワ-ル建築様式

 ネパ-ルのカトマンドゥ盆地先住民として、現在も多く住むネワ-ル族。そのネワ-ル人が造った、カトマンドゥ盆地周辺の王宮や寺院建築は、華麗な建築様式が残っている。

 15世紀から開花したネワ-ル文化の建築様式。実際には現在も残存しているのは16世紀以後のもの。

 1934年のネパ-ル大地震で多くの寺院や仏塔などが倒壊。このころのネパ-ルは国策として鎖国状態。ゆえに、現在の様な国際連合文化財保護支援がなく、多くの建築文化財が壊れたままに修復されずに解体された、と史実には記載されている。

 2015年4月25日に起きたネパ-ル大地震でも、同様な壊れかたの王宮や寺院・仏塔があった。今回の文化財倒壊は、直ぐに国連を中心に諸外国の支援活動で修復・修繕が始まり、2018年現在は、その範囲が全壊した物件の再建築が行われている。

 これらの修復作業に従事しているネパ-ル人は、実はネワ-ル族の人たちが100%。私のネパ-ルのライ族の友人は、このネパ-ル人の修理作業を視ていて、わたしに「どうしてネワ-ル族だけなのか」との質問があった。ネパ-ル人の、自分の国の文化財に対する教育や認識が判る実情だつた。

 

ネパ-ルのネワ-ル建築様式

 ネパ-ルの中世、15世紀末頃からのネパ-ル様式建築と云われているネワ-ル文化。

 ネワ-ル文化は、その建築様式が絢爛な王宮や寺院の建築に観られる。

 歴史的にはカトマンドゥ盆地のバドカオン、次いでカトマンドゥ。最後にパタンの王宮建設。カトマンドゥ3王時代が長く続いた。3王宮広場には寺院がひしめく様に建築されている。現在残っているだけでも10棟から20棟。

 王宮や寺院の屋根は瓦葺、壁や柱はレンガ積みの三階建て四階建て、カトマンドゥ王宮の内部は、木造建ての8階建。

 窓と出入り口は木彫を施した木造り。各階の境にも華麗な木彫の木造。

 中世ネパ-ルの彫刻家たちは、硬いネパ-ルの木に細かい格子模様や神々の姿を描いていた。

ネパ-ル建築の特徴

階塔建築と木彫芸術

 王宮や寺院の上にある塔望楼型建築。これは王権の象徴とされていた。

 ヒンドゥ-教寺院は、日本の仏教寺院と同様、三層・四層・五層の塔建築。

 ネパ-ルの王宮や寺院の塔建築は、ネパ-ル独特の様式。それは、屋根の軒先を斜めに支える木製の「方杖」が付いている。

 長さはほぼ4m、幅0.5m。軒先の2m間隔で並んで付けられている。この方杖の特徴は、その一本一本に華麗に色彩された男神や女神が彫刻されている。彫刻は様々で、先手観音の手が何本もある物、女神像や動物男像の下に、鮮明な男女媾合(こうごう)像や男女三人が絡み合う像など。犬や馬と男神が絡み合う像、男女の性器を愛撫し合う像、女が自分の性器を参拝者へ見せる像、等々現在のセックスそのもので、秘密にされなければならないものが多い。女性の性器を描く像は、落雷避けになっている。

 これらの多くの木彫芸術は、魔よけとか豊穣の豊作願いでもある。

 我が国日本でも、秘仏として人の目に触れない仏像がある。日本の仏像は単位像がほとんどだが、唯一の例外として、聖天(歓喜天)がある。有名なのは奈良県の生駒聖天(宝山字)と浅草の待乳山聖天まつちやま(本竜院)。どちらも双身の抱擁像が厨子の奥深くに秘仏として収められていて、わたしたちの眼に触れる機

 会はない。ヒマラヤ山脈を越えて、ヒンドゥ教の男神と女神は細々ととずいぶん長い旅をした。

ネパ-ル語でト-ラナ

 入り口の扉や窓の上に飾られる、扇型の半円形の木板や金属。

 仏像や神・獣が刻まれている神と仏が中央に彫刻されている。

ネパ-ル語でトゥンダ-ル

 軒先を支える方杖(ほおづえ)。

 王宮や寺院に見られ、寺院に祀られている神に関するさまざまな神獣や神像が彫られている。

ネパ-ル語でガジュ-ル

 金属製の屋根の頂にある先の尖ったもの。天から神様が降り立つ目印になる。金色のベル形や壺形・相輪・ 宝珠などの形が組み合わさっている。本尊のヴィシュヌ神の武器である三叉戟(さんさげき)が立っているものもある。

 

メイピ-寺院の六回目

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トゥンダ-ル

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ト-ラナ

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灯明 格子窓から寺院の中

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寺院の周りにも灯明台

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竹林のある標高50m上にはメイピ-寺院

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寺院の方角から、わたしの住んでいる家の南方を眺める 車の通行できない狭い道路

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