koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの宮廷と寺院(仏塔) 第6回

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 第六回目

王宮の六回目  カトマンドゥ旧王宮 三回目

 前回は、カトマンドゥ市内中心地の王宮をダルバ-ル・スクエア-(王宮広場)の、2015年4月25日ネパ-ル大地震で破壊寸前に至った写真を見た。

 今回は、カトマンドゥ旧王宮内に掲示されている、ネパ-ルの歴代国王の肖像画や写真を見てみる。

 ここで見てみる国王は、カトマンドゥ盆地の3王と、その3王を戦いで戦勝して、ネパ-ル全土の統一した王、とその後の歴代国王。

中世からのネパ-ル王国の簡単な歴史は

 13世紀マッラ朝がネパ-ルを統治する。ここからネパ-ルの国王制度が始まる。この現在のカトマンドゥを中心とした王国の他にも、チベットと国境を接するロ-マンタンなどにも国王が居た。

1450年頃、バクタプル王からカトマンドゥ国王が独立。

1619年、カトマンドゥ王からパタン国王が独立し、三国時代となる。

1769年、第10代ゴルカ王のプリトウビ・ナラヤン・シャハ王が、、バクタプル国とカトマンドゥ国・パタン国の三国を攻め、ネパ-ルを統一する。シャハ王朝時代が始まる。

1846年、ジャンガ・バハドウ-ル・ラナが虐殺事件で宰相となる。ラナ家が実権を握り、シャハ王家は傀儡政権となる。

1951年、王政復古。1950年の開国に伴いインドに亡命していたトリブバン国王が帰国し王位につく。ラナ家支配が終わり、立憲君主制を宣言する。

2001年6月1日、ナラヤンヒティ王宮事件

 ネパ-ルでは1846年にも国王実験をめぐる虐殺じけんが起きてるが、2001年にも国王家内でのけん銃による国王虐殺事件が発生した。現在は国王退位で博物館となっているナラヤンヒティ王宮において、報道によると、長男で皇太子のディベンドラが、銃を発砲。結婚を反対した国王ビレンドラを含む9人を死亡させた。皇太子は自ら頭を撃ち自殺。しかし、この公式発表報道「ディペンドラ皇太子犯行後自殺説」に、現在でもネパ-ル国民のほとんどは信用していない。

 国王ビレンドラの死で、自殺したが重症の息子の皇太子ディベンドラが国王に即位。この新国王も二日後に息を引き取った。

そして最後に国王になったのはビレンドラ国王の弟ギャネンドラだった。

ナラヤンヒティ王宮事件の事実関係はどうなのだろうか

事実その1:ディベンドラ皇太子は右利きなのに、左のこめかみから銃の弾が撃たれていた。

事実その2:毎月のネパ-ル歴3金曜日に開催される王族一族の晩さん会での出来事。最新国王になったギャネンドラは、ポカラ市内に居た。

事実その3:出席者の国王一族のほとんどが亡くなったが、晩さん会に出席していたギャネンドラの一人息子のパラスは無傷。

事実その4:公式報告された、けん銃乱射のディベンドラ皇太子泥酔は、検視の結果アルコ-ルを検出されず。

ギャネンドラ新国王はネパ-ル民主化に抵抗するが、議会は王国廃止を決議

2002年10月4日、ギャネンドラ国王がク-デタ-成功。王党派のチャンドを首相に任命。

2004年6月、国民の大きな声に、再びネパ-ル会議派のデゥバを首相に任命。

2005年2月1日、国王は議会と内閣の権能を停止し、国王絶対君主制導入。戒厳令の非常事態宣言する。

12月、毛沢東派は他の7政党と連合を組み、ギャネンドラ国王と闘争に入る。

2006年4月、7政党と毛沢東派は、国民にゼネラルストライキを呼びかける。

4月24日、国王は議会復活と国民主権を発表し、コイララ制憲発足。

5月、毛沢東派のテロ指定を解除。

5月18日、議会は、国王賛美の国歌変更。ヒンドゥ-教の国教を廃止し政教分離を決議。

2007年1月15日、下院議会は暫定憲法を発布。

2008年4月10日、制憲選挙実施。

5月28日、 ネパール制憲議会招集され、新たな政体を連邦民主共和制宣言して正式に国王廃止。ギャネンドラ国王退位。元国王は、カトマンドゥの郊外に引っ越す。

 

ディベンドラ皇太子に撃たれたとされているビレンドラ国王

国民からは熱烈な支持を得ていた、現在でも市民の家にはこの国王の写真がある

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二日間だけの国王ディベンドラ皇太子

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ネパ-ル最後の国王ギャネンドラ

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ネパ-ル歴代国王達

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第10代ゴルカ王のプリトウビ・ナラヤン・シャハ王、バクタプル国とカトマンドゥ国・パタン国の三国を攻め、ネパ-ルを統一する。シャハ王朝時代が始まる

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現ナラヤンヒティ博物館 旧ナラヤンヒティ王宮

国王廃止で王様はカトマンドゥ郊外に引っ越し

わたしはミユ-ジアムになって直ぐに入場、貴重な国王時代の物は一切持ち去られていた

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ネパ-ルの宮廷と寺院(仏塔) 第5回

ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 第五回目

王宮の五回目  カトマンドゥ旧王宮 二回目

 前回は、バクタプル国王の王宮の2015年4月25日ネパ-ル大地震で破壊寸前に至った写真を見た。

 今回もネパ-ル大地震で破壊された、カトマンドゥ市内中心地の王宮を写真で見てみる。

カトマンドゥ市内中心地の王宮をダルバ-ル・スクエア-(王宮広場)と呼ぶ。

 

カトマンドゥ盆地の世界文化遺産

 カトマンドゥ盆地の文化遺産は、1979年カトマンドゥ渓谷(盆地)として世界文化遺産登録されている。

 カトマンドゥ盆地内の7ケ所の世界文化遺産は、①パシュパティナート寺院 ②ハヌマン・ドカ(猿神と門=カトマンズ旧王宮広場) ③パタン旧王宮広場 ④バクタプール旧王宮広場 ⑤スワヤンブナート寺院 ⑥ボダナート寺院 ⑦チャングナラヤン寺院 

 ①から⑦は全てカトマンドウ盆地内にあり、盆地内にまとまってこれだけ沢山の世界文化遺産があるのは世界でもネパールだけ。

  

地震前と地震後のハヌマン・ドカ(猿神と門=カトマンズ旧王宮広場)写真を見てみる

ハヌマン・ドカ(神猿と門) 地震

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地震

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地震

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地震

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地震

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地震

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レンガの壁

中世紀の建築は、柱も壁もレンガ造り レンガ壁は薄い所で40cmの厚さ

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旧王宮左隣の白い建物の西洋風のファサ-ド 19世紀のラナ家専制時代に増築された

地震前の旧王宮 現在は左トリブバン博物館  右マヘンドラ博物館

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地震

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地震

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地震

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地震

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地震後 中は全てレンガ造り

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ネパ-ルの宮廷と寺院 第4回

ネパ-ルの王宮と寺院(神院) 第四回目

王宮の四回目  バクタプル旧王宮 二回目 (大地震の前と後)

 前回は、1450年頃、カトマンドゥ市内中心地に建築された王宮を写真で見た。

今回は、前々回写真で見た、バクタプル国王の王宮の2015年4月25日ネパ-ル大地震で破壊寸前に至った写真を見てみる。

 バクタプルはカトマンズ盆地内でカトマンドゥ、パタンに次いで三番目に大きな市。この古都は889年に創建され盆地全体の首都であった。

 中世期に建築された王宮は、レンガ造りのため、地震の揺れに弱い。地震震源地はカトマンドゥから北西方向へ90kmのゴルカ地方だったが、カトマンドゥ盆地内の古い建物のほとんどが崩れ落ち、倒壊した。

 わたしは、2016年の秋にカトマンドゥを訪ねた。バクタプル旧王宮も、ご多分に漏れず旧王宮のレンガ壁にヒビが入り、倒壊防止のためにつっかえ棒を立てて応急処置していた。

 今回の地震の以前にも1934年地震で大きな地震がネパ-ルで発生していて、その時にも文化遺産の建物が倒壊し、多くの寺院などが再建されないままになっていた。

 地震から一年以上も経過しているにもかかわらず、つっかえ棒のままで、ほとんど手つかず状態だ。

 ネパ-ルの文化遺産建築物の多くは、風雨で傷んだ部分の改修が行われている。その費用100%は国際連合ユネスコや海外の資金に頼っている。今回も海外からの資金援助の申し込みが数千億単位あるが、2016年の一年間で地震災害復興に使用された援助金は、たつたの90億円に過ぎない現状だ。

 ネパ-ル政府は、1990年からの民主化による国王退位や、新しい議会(下院議会)発足に新憲法制定など混乱期にある。とは言え、多くの犠牲者を出した災害復興は、政府や自治体の最優先課題・政策なのに、ほとんど進捗しない情況はなんなんだろうか。わたしには理解不能だ。

 2011年日本の東日本震災後の原子力発電破壊から、福島が復興しないのと同じに見える。日本の場合は、人間の作った悪魔の原発が、その本性を現しての災害で、旧ソビエトのチェリノブイリ原発事故と同様に、人間の手で元に戻せるものでない。チェリノブイリ同様に福島一部地域は半永久に住民を寄せ付けないだろう。そして、日本政府の国民向けのはかない希望に反して、破壊された福島原発は永久棺に閉じ込められるのだろう。

ネパ-ルの大地震から日本の福島原発まで、話が横道を歩き出してしまった。元に戻ろう。

 

地震前と後のバクタプル旧王宮

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撮影禁止の黄金門内部もつっかえ棒

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ネパ-ルの宮廷と寺院 第3回

ネパ-ルの王宮と寺院(神院) 第三回目

王宮の二回目  カトマンドゥ旧王宮 一回目

前回は、13世紀からカトマンドゥ盆地を席巻したバクタプル国王の王宮を写真で見てみた。

 今回は王宮の二回目。1450年頃、現在のカトマンドゥ市内ダルバ-ル・スクエア-(宮殿広場)にカトマンドゥ国王が独立する。バクタプル王の息子や兄弟が独立して、他の地に支配地を確保した。カトマンドゥ2王時代だ。

ネパ-ルでダルバ-ル・スクエア-と云えば、このカトマンドゥ市内の王宮を指す。

 カトマンドゥ旧王宮も、ルワ-ル族文化が開花し繁栄した時期。王宮は木彫で飾られ、王宮周囲は多くのヒンドゥ-教寺院で囲まれている。この寺院群も綺羅びらやかな木彫彫刻で飾られている。

 

ハヌマン・ドカ

 王宮正面玄関にあたる門前には、赤い布を纏ったサル像が設置されている。世界文化遺産登録名は、王宮と周囲の寺院群を含めて登録されているが、その公称はハヌマン・ドカ。ハヌマンはヒンドゥ-教の猿の神様を指し、王宮の門を「ドカ」と云う。ここの門は、二頭の大きな獅子に守られている。

前回のバクタプル王宮の門は、黄金のドカだった。

 

カトマンドゥ旧王宮

 カトマンドゥ市内の西側に位置する。現在の建物は、17世紀のマッラ王朝時代に建てられた。

 神猿のハヌマンは、ラ-マ-ヤナ物語にちなんで戦争に勝利をもたらす英雄として扱われる神。

 カトマンドゥ市内東側にある外人街のタメルから、札幌の狸小路商店街同様のバザ-ルが連なり、広場になっているタヒティ チョ-クやアサン チョ-クなどを抜けて、辿り着いたところに寺院が点在するダルバ-ル広場の中央部に旧王宮がある。

 旧王宮は門を入るとナサル・チョ-クと呼ばれる広場があり、その広場を囲む様に北側にパンチャ・ムクヒ・ハヌマン寺院、南側にパサンタブル・ダルバ-ル、西側にトリブバン博物館、東側にマヘンドラ博物館がある。

 パンチャ・ムクヒ・ハヌマン寺院は五重の円形屋根の建物で、パサンタブル・ダルバ-ルの建物は9階建になっている。私が中に入って登ってみて数えたところ最上部は8階だった。

 旧王宮広場全体はハヌマン・ドカを中心に多くの寺院などの建物がある。南側にはクマリの館と現在はお土産品売り場の広い広場、処狭しとビッシリと土産品が並ぶ広場がある。

 西側には、カスタマンダブ寺院・ガル-ダ像・ナラヤン寺院・シヴァ寺院・シヴァバ-ルヴァティ寺院などが並ぶ。

 北側はジャガナ-ト寺院・カ-ラバイラブ像・パンチャムクヒハヌマン寺院・タレジュ寺院がある。

 ダルバ-ル広場からなお西に移動すると、下町内に白い塔のビムセンタワ-(ダ-ラハラ)が建っている。

 

旧王宮

内部はレンガと木造で9階建 

マヘンドラ博物館 King mahendra memorial museum

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旧王宮左隣の白い建物の西洋風のファサ-ド 19世紀のラナ家専制時代に増築された

左トリブバン博物館  右マヘンドラ博物館

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王宮の西側

この白い建物は、東側の17世紀のマッラ王朝時代木造建築に19世紀ラナ家専制時代に増築された。西洋風のファサ-トと云われる

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ハヌマン・ドカ(神猿と門)Hanuman Dhoka

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ハヌマン・ドカ

お祭りには多くの参拝者が礼拝

サリ-姿の婦人は靴やスリッパを脱いで

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王宮を囲むように寺院群

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王宮入り口の警備兵隊

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ナサル・チョ-ク

ナサル広場と訳され、広場は中庭になっている。この中庭を利用して、外国元首などの歓迎行事が行われる。

上部の四重の塔は、中が9階建てのバサンタプル王宮(ダルバ-ル)

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ナサル・チョ-ク中庭の北側には、五重の円形屋根のパンチャ・ムクヒ・ハヌマン寺院

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入り口門や中庭に面して神像などの中世彫刻が並ぶ

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日本の神社や寺院では、隠しておく様な性的な卑猥な神像

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9階建てのバサンタプル王宮 木造つくり内部

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ネパ-ルの宮廷と寺院 第2回

ネパ-ルの王宮と寺院(神院) 第二回目

王宮の一回目

 ネパ-ル語でダルバ-ルは宮廷のこと。王旧には広場がある。王宮広場をネパ-ル語でダルバ-ル・スクエア-。

 

カトマンドゥ盆地内の三国時代

王宮広場内には、必ずと云うほど数々のヒンドゥ-教寺院が隣接して建築されている。

 カトマンドゥ盆地内のマッラ王朝の国王時代は、13世紀から始まった。13世紀からのバドガオン国王から1450年頃、現在のカトマンドゥ市内ダルバ-ル・スクエア-にカトマンドゥ国王が独立する。次いで、1619年、カトマンドゥ王からパタン国王が独立し、カトマンドゥ盆地三国時代となる。カトマンドゥエリアにはネパ-ル系ネパ-ル人のネワ-ル族が多く住み、三国時代はネワ-ル文化花盛りの時代でもあった。(ヒンドウ-教の教義カ-ストの最高位カ-ストは、ネワ-ル族とインド系ネパ-ル人のブラ-マン族の二族)

ネワ-ル族文化を築いた時代

 ネワ-ル文化は、王宮や寺院などの建築様式から始まり、仏像制作に始まって、金銀細工などの工芸品等々、ネパ-ルのあらゆる先進文化を築いた。カトマンドゥ盆地三国時代とネワ-ル文化が丁度時代的な重なりを見て、現在でもネパ-ルの文化遺産であり、国際連合ユネスコ世界文化遺産登録されている。

 現在でも、ネワ-ル族の建築した文化財の修理修復作業は、全てネワ-ル族が携わっている。

 カトマンドゥ市の隣のパタン市には、ネワ-ル族の名前がシャキャと呼ばれる一族が仏像を制作してる。また、ネパ-ルの生き神様と呼ばれ、額に第三の眼を持つクマリは、シャキャ一族の幼い少女が選ばれる。

王宮の一回目 古都バクタプル王宮

 バクタプルはカトマンドゥ市から東南に12km。初代国王の宮殿がある。バクタプルは別名バドガオン。

 バドガオンは「信仰の町」「帰依者の町」の意味。 

 初代の国王なので、一応カトマンドゥ盆地全域を支配していた。カトマンドゥ以外にもネパ-ル全土には、多くの自治地域として地方国王が居た。

 1950年にネパ-ルが鎖国から開国した時点で、外国人がネパ-ルの調査をした。その時のネパ-ル国家予算は、現在の旧王宮に住んでいたシャハ王朝の末裔トリブバン国王の家計簿が国家予算だったと報告されている。国の財務を司どる財務省などなく、家計簿担当が居るだけだったのだろうか。ゆえに、各々地方ちほうで、税が徴収されていたのだろうか。

 今でもわたしにとっては、ネパ-ルが不思議の国だが、ネパ-ルの歴史も、わたしには不思議な国としか思えない。

 

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 文化遺産としての実際の世界文化遺産は旧王宮広場とレンガ道路伝いに200m南側の寺院群と800m東方面にある寺院群の総称。

 旧王宮には「55窓の宮殿」の美しい彫刻が施された窓が並び、55窓の内側は王の寝所となっていた。

 カトマンドゥ盆地の3国王が戦争で敗れる。この3王国、バクタプルから分家みたいにして築かれたものだから、武力の蓄えもなく他の国から仕掛けられた戦争で、アッという間の敗戦。

 1769年カトマンドゥから西に90kmのゴルカの王ブリトゥビ・ナラヤン・シャハが、バクタプル・カトマンドゥ・パタンを攻め戦勝し、シャハ王朝時代を築く。このシャハ王、ネパ-ルを統一する最初の王様。

 この時の3王が敗れた戦争、カトマンドゥとパタンの王様はバクタプル王の住む王宮内の黄金の門に逃げ入つたと伝えられている。

 

バクタプ-ル入口門

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左からゴ-ルデンゲ-トと55窓宮殿 ブパティンドラ マッラ王像右にパシュパティ-寺院

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王宮と黄金の門          白い建物の裏に王様の部屋がある(写真撮影禁止になっている)

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黄金の門と王宮55窓の宮殿

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現在の黄金の門と前にあるランジット マッラ王像

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現在の写真 黄金の門の前にあるランジット マッラ王像

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1950年代に撮られた写真 黄金の門の前にあるランジット マッラ王像

「ネパ-ル」トニ-・ハ-ゲン

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1950年代に撮られた写真  バクタプル・スン ドカ(黄金の門)

スン ドカ(黄金の門)は、1756年ランジット マッラ王によって着工された

王宮の門でネワ-ル族の金細工最高芸術品

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現在の黄金の門

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ネパ-ルの宮廷と寺院 第1回

ネパ-ルの王宮と寺院(神院)

ネパ-ル語でダルバ-ルは宮廷のこと。

 カトマンドゥ市内には、2008年に国王を退位した場所の旧王宮と、カトマンドゥ盆地内に1769年まで国王が支配していた旧王宮が三か所ある。

 その他にも、ネパ-ル国内には王様が居た自治地域があって、その場所にも旧王宮が存在する。アンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルの奥地、中国のチベットと国境を接する、ムスタン郡には昔からムスタン王が居た。

 ムスタン王は、2008年のネパ-ル国王の退位と同時に、自治区支配者としての王を退位した。

ネパ-ルには、数多くの王宮がある。いや、この言い方では少し間違っている。

 

ネパ-ルの王宮の全ては、旧王宮。

現在は、ネパ-ルの憲法に国王の規定がないので、旧王宮と呼ぶのが相応しい。

 2007年1月15日に暫定憲法が下院議会で定められた。同時に議会決議の内容は、新憲法を制定するための制憲選挙の実行と、選挙後の議会開会時に国王の退位を決定すること。

 同年12月27日、暫定議会において、ロ-ヤル・ネパ-ル国を連邦民主共和国にする暫定憲法改正が承認された。

2008年4月10日、全国統一制憲議会選挙。

5月28日、ネパ-ル制憲議会招集。

ここまでの経緯を経て、初回の議会開催において、国王がただの市民になった。

 政体を連邦民主共和国とし、王政廃止を議会決議。ギャネンドラ国王が退位し、ネパ-ルの最後の国王となった。

 わたしが自分の目で見た感想では、ネパ-ルの民主化の経過では、多くの国民の血が流されたが、最後の段階で無血革命が成功したと考えている。国王の絶対支配に、国民と議会がスクラムを組んでの民主化革命が、わたしの目の前で行われた。この目で見ることが叶った。しかし、ネパ-ルの国教だった宗教のヒンドゥ-教がネパ-ルからなくなった訳ではない。

 国王や支配層の支配根拠となっているヒンドゥ-教、ネパ-ル国民を社会的に縛る宗教は今後もネパ-ルに存在することになる。

ネパ-ルとネパ-ル国王と宗教の関係は後日、詳しく触れたい。

 

ネパ-ルの民主化

わたしはネパ-ル生活を始めて11年目になる。

 このネパ-ルの激動期から、ネパ-ル生活を始め、この政権選挙の時にもネパ-ル滞在していた。わたしは統一選挙日に、整然と選挙が行われたのを見ていた。それは、ヘリコプタ-の飛行停止、ツ-リスト車以外の車両運行停止、と選挙妨害を未然に防止する方法がとられ、街々で投票権用紙を持参した国民市民が、主権在民のための投票をしていた。

 わたしのネパ-ルでの日常は、首都カトマンドゥ市内はいつもバイクと車にあふれ、大通りは排気ガスで通行できないので裏通りを歩くようにしている。

選挙の日の大通りは、車の通行がまる一日なく、徒歩で歩き廻ることができた。

 

1990年代のネパ-ルの民主化

 ネパ-ルの歴史や民主化の歴史は、在カトマンドゥ日本大使館ホ-ムペ-ジにアップされている。その年代順を少し説明する。

ネパ-ルは、1950年に130年間の鎖国を解いて開国した。

ネパ-ルの民主化の始まりを見る前に、少しネパ-ルの中世の歴史を見る。

13世紀マッラ朝がネパ-ルを統治する。国王制度の始まり。

1450年頃、バクタプル王からカトマンドゥ国王が独立。

1619年、カトマンドゥ王からパタン国王が独立し、三国時代となる。

 1769年、第10代ゴルカ王のプリトウビ・ナラヤン・シャハ王が、、バクタプル国とカトマンドゥ国・パタン国の三国を攻め、ネパ-ルを統一する。シャハ王朝時代の始まり。2015年4月25日に発生したネパ-ル大地震震源地が、この国王の出身地のゴルカ町だった。

 1846年、ジャンガ・バハドウ-ル・ラナが虐殺事件で宰相となる。ラナ家が実権を握り、シャハ王家は傀儡政権となる。

 

ネパ-ルの民主化はどのようにして始まったのか

1951年、王政復古

 1950年の開国に伴いインドに亡命していたトリブバン国王が帰国し王位につく。ラナ家支配が終わり、立憲君主制を宣言する。

 わたしがネパ-ルの歴史を見て、民主化の始まりと判断したのは、このトリブバン国王の帰国と立憲君主制宣言に見られるように、絶対君主制からの民主化の芽が垣間見られること。

 要するに、議会の必要制度がなかったネパ-ルが、実質国王と議会の権限争いの始まりと見られる状況になった。その流れ決定的になったのが、1991年から始まるのマオイストがネパ-ル警察とドンパチを始めたこと。

その前のネパ-ル政治を少し説明すると。

 1959年、ネパ-ル初の総選挙で議会の政治改革主導が始まる。ヒンドゥ-教徒の国王の権限が強かった刑法や民法の法律改定が一挙に進む。

封建的諸制度の民主的改革期が始まるのだが、国王の反撃の始まりでもあった。

 1960年、マヘンドラ国王のク-デタ-成功。議会を解散する。なんと全閣僚を逮捕し、政治活動を禁止した。

 1962年、国王は新憲法を制定。政党活動の禁止。間接民主主義の「バンチャヤット制度」の制定。この「バンチャヤット制度」は、実質ヒンドゥ-教の国教化と国王に有利な政治の制度。

 1980年、「バンチャヤット制度」の是非を問う国民投票。僅差で制度継続となる。

 1990年2月18日、「バンチャヤット制度」廃止と複数政党制の復活を求めるジャナ・アンドランと呼ぶ民主化運動勃発。

 4月8日、国王は複数政党制の復活を認める。

 4月16日、「バンチャヤット制度」廃止を宣言。11月19日、議会は国民主権の新憲法制定。この新憲法「1990年憲法」と云う。

1991年5月21日、30年ぶりに議会総選挙。

 1996年、ネパ-ル内戦始まる。ネパ-ル共産党毛沢東主義派閥(マオイスト)は、王制打破を主張し人民戦争開始。

2001年1月、マオイスト人民解放軍を創設。

 2002年10月4日、ギャネンドラ国王ハク-デタ-成功。王党派のチャンドを首相に任命。

2004年6月、国民の大きな声に、再びネパ-ル会議派のデゥバを首相に任命。

 2005年2月1日、国王は議会と内閣の権能を停止し、国王絶対君主制導入。戒厳令の非常事態宣言する。

 12月、毛沢東派は他の7政党と連合を組み、ギャネンドラ国王と闘争に入る。

2006年4月、7政党と毛沢東派は、国民にゼネラルストライキを呼びかける。

 4月24日、国王は議会復活と国民主権を発表し、コイララ制憲発足。

 5月、毛沢東派のテロ指定を解除。

 5月18日、議会は、国王賛美の国歌変更。ヒンドゥ-教の国教を廃止し政教分離を決議。

2007年1月15日、下院議会は暫定憲法を発布。

2008年4月10日、制憲選挙実施。

 5月28日、 ネパール制憲議会招集され、新たな政体を連邦民主共和制宣言して正式に国王廃止。ギャネンドラ国王退位。元国王は、カトマンドゥの郊外に引っ越す。そして、今日まで自分で支払ったことが無い王宮の億単位の公共料金を支払うことになった。

 

 

ネパ-ルの制憲選挙の政党の総選挙風景 後方に国王像とカトマンドゥ・ダ-バ-スクエア

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政党の宣伝隊

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街の選挙風景

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政党の政策宣伝紙

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制憲選挙風景 2008年4月10日

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選挙の投票用紙を持って集まる

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制憲選挙日 車両規制で道路を走る車はない 2008年4月10日

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まだ国王が入居している王宮前道路 制憲選挙日 車両規制されている

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選挙日の王宮 現在はミユ-ジアム博物館

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ネパ-ルの樹木と花 第50回目 

ネパ-ルの樹木と花 第50回目 

ネパ-ルに咲く樹木の花と植物の花 その五十回目 

ネパ-ルの、わたしの名前の知らない花々など

 

前回はわたしが名の知らない花の写真を見た。

 今回で「ネパ-ルの樹木と花」の最終回。わたしが植物に興味があって、木や花の名称を知っていれば、もっと回を重ねたのだが残念。長い間登山活動をしてきたわりには、高山植物や花の名前を知らない。

 

わたしはネパ-ル暮らしを始めて11年目になる。

 ネパ-ルは亜熱帯気候で、南国の草花が咲きみだれる。ブ-ゲンビリアの木はいたる所に見られる。暖かい気候なので木の生長が早く、庭木の手入れも大変。

 庭木のブ-ゲンビリアが路地に伸びる。植木屋さんが伸びた枝を伐採。ブ-ゲンビリアは、伸びた枝先が美しいのだが。

 

植木屋さんが伸び過ぎたブ-ゲンビリアの伐採中

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カトマンドゥのインタ-ナショナル・ゲストハウスに大きなブ-ゲンビリアの木

5階にまで伸びる

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ネパ-ルの名前の知らない花

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標高2,800mルクラ村に咲く竹、竹のような花

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カトマンドゥ市内の花

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わたしの家の鉢植えにもある植物 名前を忘れた

11年前から生活している大家さんの庭に育つ

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ネパ-ルの蓮の花は、チベット仏教の花

「おむ・まに・ぺめ・ほむ」はチベット仏教の教文

「わたしは、泥の中にでも美しく咲く花のようになりたい」

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刈取り前の蕎麦畑の隣にはトウキビ畑

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家の庭には花

屋上にも花

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