koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

英国 エリザベス・アレクサンドラ・メアリ-女王逝く

エリザベス女王 96歳が天国へ

わたしのブログに、イギリスのエリザベス女王について記述したことがある。

その文書が何時だったか、不明。

それは、この様なものだった、と思われる。

 「エリザベス女王戴冠式当日に、イギリス隊エベレスト初登頂、の報。戴冠式に花を添える」。

 それで、エリザベス女王が天国に召された、ことで、もう一度このエベレスト初登頂と戴冠式について、記してみる。

エリザベスの女王即位と戴冠式

 エリザベスは、父親の国王ジョ-ジ6世が1952年2月6日に死亡し、25歳でイギリス女王に即位する。

 イギリスの王位継承法は、男女に関わらず、第一子が王位を継承。日本の男尊女卑の皇室とは、1701年から全逆の民主主義国王制。

 ところが、だ。即位してから16ケ月後が戴冠式となった。戴冠式を延期する理由だが、わたしが憶測するには、1945年に第二次大戦から勝利したとはいえ、7年経ったとしても、ドイツ軍の猛攻撃にあったイギリス国土・国民は、貧しさ真っただ中。国土再建と国民経済再建真っ最中で、普通の戴冠式には及ばなかった、のだろう。

 ようやくエリザベスⅡ世の女王戴冠式が行われたのが、1953年6月2日。この日の早朝だった。5月29日に、第9次英国エベレスト登山隊エベレストに初登頂、の報がイギリス山岳会に。5月29日のニユ-ジ-ランド人のヒラリ-登頂ニユ-スは、なんと6月2日の早朝にイギリスに伝わり、結婚していた若干26歳の女王へのプレゼントとなった。女王即位を国内外に披露する戴冠式に多大なる花を添えた。

 それにしても、経済再建中のイギリスにあっても、1951年・1953年と莫大な遠征費用の掛かるエベレスト登山隊を派遣するイギリス国は、好奇心と向上心の国民を象徴してる、とわたしは考える。

メ-ルランナ-が走る

わたしは2度、ネパ-ルヒマラヤの登山隊で遠征してる。

 現在の様な人工衛星を返しての衛星電話の、ない時代。ネパ-ルの登山隊には、ネパ-ル人のメ-ルランナ-が雇用され、電話のある場所と登山隊ベ-スキャンプ間を、猛烈なスピ-ドで往復するのである。必要事項の伝達はもとより、日本からの手紙も運ぶ。

 おそらく、このイギリスのエベレスト登山隊のメ-ルランナ-は、5月29日にエベレスト初登頂するやいなや、電報を打てる場所へ走りに走ったのだろう。

 ネパ-ルからの初登頂の電報は、暗号だった、と云われている。

イギリスのエベレスト登山の歴史

第1回エベレスト遠征 1921年

以後17年間チベツト側から。起点はダ-ジリン。

ネパ-ルは鎖国チベット国のダライ・ダマが登山許可する。

 1920年イギリスはネパ-ルへサガルマ-タ登山計画を提出するが、ネパ-ルはラナ時代、の鎖国政策中で不許可、ダメ。

第2次エベレスト遠征 1922年

第3次エベレスト遠征 1924年

第4次エベレスト遠征 1933年

第5次エベレスト遠征 1935年

第6次エベレスト遠征 1936年

第7次エベレスト遠征 1938年 

第8次エベレスト遠征 1951年 初のネパ-ル側から。

 ネパ-ルは1950年に鎖国を解く。1949年に外務省を新設して登山隊の受け入れを始める。

第9次エベレスト遠征 1953年5月29日午前11時30分登頂。

 ジョン・ハント隊長の率いるエベレスト登山隊、隊員ヒラリ-と高所ガイドのテンジンが登頂。

 イギリスは1921年初の登山隊派遣から32年を経た1953年に、エベレスト登頂の栄光に輝いている。

 いや、イギリスはイギリス山岳会創立50周年の1907年にエベレスト遠征計画が行われていたから、計画からは46年間とも云える。第一次大戦で計画がとん挫、大戦後に再びイギリス山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となってエベレスト遠征計画が再開する。

エベレスト初登頂

 エベレストの初登頂は1953年5月29日午前11時30分。イギリス登山隊のエドマンド・ヒラリ-とシエルパのテンジン・ノルゲィ。このお二人、今は天国に居るが、どちらが頂上に立ったのか一生語ることはなかった。二人して、一緒に、一二の三で同時に踏むことは考えられないから、二人共その偉業の大きさが分っていたのかもしれない。

 二人が登頂する前の26日に第一次登頂隊が頂上を目指したがダメ。酸素ボンベの酸素が無くなり8749mで撤退。ヒラリ-とテンジンは頂上を目指す二番目のメンバ-だった。

 この登山隊の規模は、登山家としてイギリス人11名、ニユ-ジ-ランド人2名、ネパ-ル人2名、シエルパ20名、ポ-タ-362名、合計400名の大登山隊。

 初登頂する一年前の1952年に、スイス隊が頂上に迫っていたので、紙一重の差が栄光と残念の両サイドに分かれる。人類が地球のテッペンの自然に挑戦し、世界の多くのクライマ-が夢見ていた。

 1953年以降にもスイスやフランスが登山許可取得していた。最初1921年に取りついたイギリス隊が栄光に輝いたのは、順当だったのだろう。

 ネパ-ルの登山許可制度は、1990年以前は1ル-ト・1シ-ズン・1隊制度があった。現在はどこのヒマラヤ登山でも、BCには何隊も居て、ダブルブッキングだ。今年のエベレスト・プレモンス-ンは30隊以上500名が頂上を目指しているそうな。

 

登頂者のヒラリ-とテンジ

 さて、初登頂したヒラリ-さんとテンジンさん。人類が挑戦してきただけあって、その栄光は華々しい。と云ってもお酒におぼれたり、お金使いが荒くなったり、などの成金とは違う。さすが精神と肉体のスポ-ツ、登山の栄光者は地道な人生を歩んでいる。

 戴冠式の4日後の6月6日には、女王エリザベス2世がエベレスト隊とネパ-ルメンバ-への勲章授与を発表。

登頂者テンジンには特別にジヨ-ジメダルを授与。

 隊長のジョン・ハントと登頂者のヒラリ-には、大英帝国勲章ナイトの勲位を授与、サ-(Sir)の称号が与えられた。労働者階級の二人は、一気にイギリス貴族階級へ昇華した。

ヒラリ-(Sir Edmund Percival Hillary)基金

 アメリカやイギリスは寄付の国と云われる。お金持ちの市民は、福祉や教育やスポ-ツ活動へのカンパ活動が盛ん。サ-と云われるようになったヒラリ-さんは、多くの寄付を集め、ネパ-ルの山岳地、特にエベレストの麓に住む就学児童への教育活動を始める。

 しかしだ、現在テンジン・ヒラリ-・エアポ-トを中心のこの一帯、チベット仏教の寺院が点在し、ここに住む児童の教育はチベット仏教僧院が行っていたのだが、それまでの教育制度を破壊してしまった。

ダ-ジリンのテンジン・ノルゲィ登山学校

 一方、テンジンさんは、1954年にダ-ジリンに登山学校を設立。

 この頃、ネパ-ルでは、130年間の鎖国政策から1950年に開国し、それまで国民に登山や観光などの概念はなかった。国民に無いのだからネパ-ル政府は関心さえもなかった。

 長い間チベット地域からエベレスト登山を行ってきた外国隊は、ダ-ジリンに居るシエルパ族を登山の案内人とし、隊荷物を運ぶのもシエルパ族だった。イギリス隊のエベレスト遠征は、ダ-ジリ発でチベット側からアタックしていた。

 ネパ-ルがネパ-ルヒマラヤの登山隊を旺盛にする意図でヒマラヤン・ソサエティを1956年にカトマンドゥに設立。観光の意味も分からなかった政府官僚はなにをしたら良いのかも分からない始末。テンジンに入会依頼するが、当時インド国籍のテンジンから断わられる。ネパ-ル政府はダ-ジリンに出向いてシエルパ族をあつめざるを得なかった。

 ネパ-ルは1969年に政府内に観光省を新設。ヒマラヤン・ソサエティに代わってネパ-ル山岳会を設立。1977年に観光省登山課を新設。ようやく登山やトレッキングや観光が何なのか、国の役に立つのかが分かってきた。

 

参考文献

エベレスト登頂 ジョン・ハント

シエルパ 根深誠

わが山エベレスト テンジン自伝

ヒラリ-自伝 エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

 

ネパ-ル側のサガルマ-タ 8848m

チベツト側のチョモランマ

テンジン・ノルゲイ・シエルパ  エベレスト初登頂

1953年 登山隊長のジヨン・ハント

エベレスト初登頂 エドマンド・ヒラリ-

テンジン・ノルゲイシェルパ

イギリスの勲章

エベレスト登頂 ジョン・ハント

シエルパ 根深誠

わが山エベレスト テンジン自伝

ヒラリ-自伝 エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン