koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルのバザ-ル 第70回

ネパ-ルのバザ-ル・商店街・商売 第七十回
9.カトマンドゥ市内・メイピ-地区のバザ-ル 五回目
メイピ-地区の畑


 今回でメイピ-地区の商売バザ-ルの写真五回目。
 今回は、バザ-ルとは少し違うがメイピ-地区の水田と畑。
 カトマンドゥ市内は1950年代までは、ほとんどが田園都市だったのだろう。
 いや、カトマンドゥ盆地全域が、水田と畑と、牛の牧草地がほとんどの面積を占めていたのだろう。
 1950年に王制復興し、インドへ亡命してた国王が帰り、130年間の鎖国を解いて開国したネパ-ル。
国際連合の支援が始まって、ネパ-ル全土の道路整備などの国造りが始まる前後のこ と。
現在のカトマンドゥ市内を観ると、点々と水田や畑が垣間見られる。古い1950年代に近い写真には、ほとんどが畑のカトマンドゥ
カトマンドゥの牧草地と牛
 ヒンドゥ-教のカ-ストの最高位カ-ストは、カトマンドゥでは多くが農家だった。この農家、家の一階で牛を飼い、住み込みの牛飼いを雇用。雇用と云ってもカ-スト制度の支配だろう。農家の家の周りは、勿論農地なのだが、飼っている牛が食べる牧草地があったはず。
 シヴァ神の乗り物の名前をナンディと云う雌牛は神聖な動物。そして、農家の牛の牛乳は、売り物で収入源。最高位カ-ストの農家の地位を保つ現金収入でもあった。宗教的にも農家の経営的にも、牛は貴重な動物とされた歴史がある。1990年のネパ-ル民主化が始まるまでは、牛刑法が法律としてあり、牛を叩いたり殺すと懲役刑や死刑になった。
 現在のカトマンドゥでも、牛にアチラコチラで出会う。最近、自動車の多い本通りの道路では滅多に会わなくなった牛も、裏小路では普通に出遭う。現在でも、これらの牛が生存できるくらいの食む牧草は、カトマンドゥのアチラコチラの空き地にある。
 わたしが借家を借りて住むメイピ-地区には、牧草地は見当たらない、ので、今回は畑の様子写真を見てみる。次回に水田の写真。

 

ポストモンス-ン季節10月のオクラの畑

たしの札幌の家では、毎年6月に花オクラの種を庭に植え、このネパ-ルのオクラの花と同じ植物を鑑賞している

f:id:koyaken4852:20200314152420j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152516j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152535j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152557j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152626j:plain

カトマンドゥ日本食レストランの昼食弁当ランチ
オクラの和え物





f:id:koyaken4852:20200314152728j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152738j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152819j:plain

ロッコリ-の畑の取り入れ

f:id:koyaken4852:20200314152923j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152936j:plain

f:id:koyaken4852:20200314152954j:plain

f:id:koyaken4852:20200314153022j:plain

f:id:koyaken4852:20200314153034j:plain

f:id:koyaken4852:20200314153056j:plain

f:id:koyaken4852:20200314153120j:plain

バナナの木

f:id:koyaken4852:20200314153158j:plain

f:id:koyaken4852:20200314153207j:plain

大豆
枝豆の収穫

f:id:koyaken4852:20200314153257j:plain

f:id:koyaken4852:20200314153305j:plain

家前には収穫した唐辛子干す

f:id:koyaken4852:20200314153353j:plain

ネパ-ル・カトマンドゥ中心街の地図

f:id:koyaken4852:20200229113509p:plain