ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百四十七回目
10.カトマンドゥ市内に点在する寺院と仏塔
その第18回 メイピ-寺院の四回目
この寺院名は不明。たぶんヒンドゥ-教神様に因んだ名称なのだろうけれど、分からないので、わたしが勝手に地区名のメイピ-寺院と名づけた。写真を見てみる。
前々回に触れた、この寺院の参道にチベット仏教のタルチョ-が飾れていることで、神仏習合と説明した。神様を祀るヒンドゥ教寺院に、チベツト仏教が仲良くしている様子を神仏習合と称した。
それでは、日本の神仏習合はいかに。
なるべく史実を辿って、NHKのテレビ番組からみてみよう。
日本の神仏習合
我が国日本の古代歴は、それが文字になっていたり建物や仏像など、ほとんどの史実になるものがない。
日本書紀によれば、6世紀552年に仏教伝来。
欽明天皇時代、中国クララから仏像を持ち帰る。仏教は、日本の地方豪族たちの新しい文化として、異国の仏教伝来を豪族達が喜ぶ。
多度神宮寺資財帳によれば、日本書紀から200年の8世紀奈良時代。西暦763年天平宝字7年、伊勢国の多度大社における神のお告げが書かれている。それによれば、神が巫女(みこ)に乗り移り、「神も仏と同様につらい」と人々のつらさを解放するため、神が仏の姿で現れ。神が仏教に帰依、神の身を離れて仏になる。
寺院分布
日本の各地に寺院が建設される。最初は、クララから仏教伝来後の200年後から地方豪族に仏教が広まり、7世紀前半に近畿周辺に寺院が建設。7世紀後半以降、四国・九州・東北にまで寺院が広がる。8世紀前半には、文明開化の様に東北地方まで寺院が広まる。
平安初期、中国唐の国では、道教の神と仏の神仏習合が進んでいた。そのころ、日本では僧と地方豪族が仏教を取り入れ始め、仏教が広がる。
奈良の東大寺大仏建立。聖武天皇の大仏建設に、地方の神様・八幡さまが協力。西暦748年太平20年、豊前国の宇佐が金を発見し発掘。仏像造りの金とする。
八幡神が奈良の大仏を拝むようになる。西暦752年、大仏開眼。大仏の守り神として、八幡神が招かれる。
日本の神仏習合とは
神が仏教に帰依する。仏を守る守り神としての神。地方の豪族が建立する寺院や寺院内の仏があり、その豪族たちが大陸から朝鮮経由で仏を守る神様の宮や神像を寄進するようになる。
寺院(寺)の守り神としての休ケ岡八幡宮(やすみがおか)に、僧形八幡神像(もうみょう)が安置されている。目に見えなかった神が、僧の姿の仏像の木像となる。
密教の最高の仏は大日如来で、天照大神を指す。大日如来が日本の人々を救うために、天照大神に変身して日本に現れた、とされる。その証拠に、大神宮御正体厨子の箱の中には曼荼羅絵がある。これこそが天照大神の御正体。曼荼羅絵の真ん中に描かれているのは、大日如来(だいにちにょらい)。曼荼羅の裏側には、天照大神の御神体の鏡がある。それまでの神社や仏像を守る神の存在から一歩進み、「神仏習合」から、なんと表裏一体の「神仏」にまで進む。
我が国日本の神仏習合は、8世紀の地方豪族達の寺院や仏像を守る神、として全国に広まった。ようするに、仏様と神様が仲良くする時代が続いた。
それが、明治維新後の男の一人の天皇が、神事を経て神に昇天したと同時に、それまで神が守っていた全国の仏様の徹底的な破壊が始まった。信仰としての神仏習合は、一人の天皇の出現存在で、信仰破壊へと進むのである。
1868年3月28日、神仏分離令。明治維新後の王政復古により、天皇中心の天皇家理想の政治が復活。今から151年前、明治維新政府は、神仏習合禁止の神仏分離令を発布。天皇中心の国家神道国となり、事実上の天皇絶対政治となる。
1889年2月11日、大日本帝国憲法公布。男の天皇一人を唯一の主権者とする。天皇制を守るため、国民罰則規定の法律制定が進み、男の天皇の法規定が、全国隅々までの男尊女卑を推し進めることにもなる。
メイピ-・テンプル
レンガ積みのドアと窓枠が木彫刻の典型的な、ネパ-ルのネワ-ル族寺院建築文化
寺院入口
ヒンドゥ-教徒の女性信者、寺院内の清掃
寺院横の別棟寺院
ヒンドゥ-教の三大神だろうか
シヴァ神か