ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 第六回目
王宮の六回目 カトマンドゥ旧王宮 三回目
前回は、カトマンドゥ市内中心地の王宮をダルバ-ル・スクエア-(王宮広場)の、2015年4月25日ネパ-ル大地震で破壊寸前に至った写真を見た。
今回は、カトマンドゥ旧王宮内に掲示されている、ネパ-ルの歴代国王の肖像画や写真を見てみる。
ここで見てみる国王は、カトマンドゥ盆地の3王と、その3王を戦いで戦勝して、ネパ-ル全土の統一した王、とその後の歴代国王。
中世からのネパ-ル王国の簡単な歴史は
13世紀マッラ朝がネパ-ルを統治する。ここからネパ-ルの国王制度が始まる。この現在のカトマンドゥを中心とした王国の他にも、チベットと国境を接するロ-マンタンなどにも国王が居た。
1450年頃、バクタプル王からカトマンドゥ国王が独立。
1619年、カトマンドゥ王からパタン国王が独立し、三国時代となる。
1769年、第10代ゴルカ王のプリトウビ・ナラヤン・シャハ王が、、バクタプル国とカトマンドゥ国・パタン国の三国を攻め、ネパ-ルを統一する。シャハ王朝時代が始まる。
1846年、ジャンガ・バハドウ-ル・ラナが虐殺事件で宰相となる。ラナ家が実権を握り、シャハ王家は傀儡政権となる。
1951年、王政復古。1950年の開国に伴いインドに亡命していたトリブバン国王が帰国し王位につく。ラナ家支配が終わり、立憲君主制を宣言する。
2001年6月1日、ナラヤンヒティ王宮事件
ネパ-ルでは1846年にも国王実験をめぐる虐殺じけんが起きてるが、2001年にも国王家内でのけん銃による国王虐殺事件が発生した。現在は国王退位で博物館となっているナラヤンヒティ王宮において、報道によると、長男で皇太子のディベンドラが、銃を発砲。結婚を反対した国王ビレンドラを含む9人を死亡させた。皇太子は自ら頭を撃ち自殺。しかし、この公式発表報道「ディペンドラ皇太子犯行後自殺説」に、現在でもネパ-ル国民のほとんどは信用していない。
国王ビレンドラの死で、自殺したが重症の息子の皇太子ディベンドラが国王に即位。この新国王も二日後に息を引き取った。
そして最後に国王になったのはビレンドラ国王の弟ギャネンドラだった。
ナラヤンヒティ王宮事件の事実関係はどうなのだろうか
事実その1:ディベンドラ皇太子は右利きなのに、左のこめかみから銃の弾が撃たれていた。
事実その2:毎月のネパ-ル歴3金曜日に開催される王族一族の晩さん会での出来事。最新国王になったギャネンドラは、ポカラ市内に居た。
事実その3:出席者の国王一族のほとんどが亡くなったが、晩さん会に出席していたギャネンドラの一人息子のパラスは無傷。
事実その4:公式報告された、けん銃乱射のディベンドラ皇太子泥酔は、検視の結果アルコ-ルを検出されず。
ギャネンドラ新国王はネパ-ル民主化に抵抗するが、議会は王国廃止を決議
2002年10月4日、ギャネンドラ国王がク-デタ-成功。王党派のチャンドを首相に任命。
2004年6月、国民の大きな声に、再びネパ-ル会議派のデゥバを首相に任命。
2005年2月1日、国王は議会と内閣の権能を停止し、国王絶対君主制導入。戒厳令の非常事態宣言する。
12月、毛沢東派は他の7政党と連合を組み、ギャネンドラ国王と闘争に入る。
2006年4月、7政党と毛沢東派は、国民にゼネラルストライキを呼びかける。
4月24日、国王は議会復活と国民主権を発表し、コイララ制憲発足。
5月、毛沢東派のテロ指定を解除。
5月18日、議会は、国王賛美の国歌変更。ヒンドゥ-教の国教を廃止し政教分離を決議。
2007年1月15日、下院議会は暫定憲法を発布。
2008年4月10日、制憲選挙実施。
5月28日、 ネパール制憲議会招集され、新たな政体を連邦民主共和制宣言して正式に国王廃止。ギャネンドラ国王退位。元国王は、カトマンドゥの郊外に引っ越す。
ディベンドラ皇太子に撃たれたとされているビレンドラ国王
国民からは熱烈な支持を得ていた、現在でも市民の家にはこの国王の写真がある
二日間だけの国王ディベンドラ皇太子
ネパ-ル最後の国王ギャネンドラ
ネパ-ル歴代国王達
第10代ゴルカ王のプリトウビ・ナラヤン・シャハ王、バクタプル国とカトマンドゥ国・パタン国の三国を攻め、ネパ-ルを統一する。シャハ王朝時代が始まる
現ナラヤンヒティ博物館 旧ナラヤンヒティ王宮
国王廃止で王様はカトマンドゥ郊外に引っ越し
わたしはミユ-ジアムになって直ぐに入場、貴重な国王時代の物は一切持ち去られていた