koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの楽しいトレッキング 第19回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十九

ランタンヒマ-ル・トレッキング

 「ネパ-ルの楽しいトレッキング」は、トレッキングから始まり、途中でヒマラヤトレッキングや登山に同行するネパ-ルメンバ-について見てみた。続いて、ネパ-ルメンバ-のガイドとポ-タ-を見てみたが、その中でエベレストに1953年初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパを少し見てみた。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれ、チベットから移り住んだ民族の末裔だった。

1920年代からエベレスト登山が始まり、イギリス隊の初登頂までシェルパ族の活躍があった。

 最後に、シェルパ族のテンジン・ノルゲイが育ったダ-ジリンの街や、その周辺の国などの歴史を辿ってみたい。インドとチベットに挟まれた、ネパ-ル王国やその東側の国シッキム王国、そして又シッキムの東側に隣接するブ-タン王国などを見た。

今回は、ネパ-ルの楽しいトレッキングに戻ろう。

 

最初の海外が最初のネパ-ルヒマラヤ

わたしの最初に海外、最初のネパ-ルヒマラヤのトレッキングを見てみたい。

 1982年のポストモンス-ン季に、ネパ-ルのロ-ルワリンヒマ-ルに聳える6853mカ-タン峰遠征計画が進行中。当時わたしは山岳連盟の理事長で、連盟内にヒマラヤ遠征を目的の海外委員会を新設置。丁度その頃ネパ-ル政府が1979年に未踏峰を解禁。

 海外委員会の委員長を隊長に、わたしは何となく副隊長になってしまって、参加しないわけにいかなくなった。

 それで、遠征の前年1981年に目的の山の偵察隊が取り組まれる。ネパ-ルでは良くあることで、国内フライトが何らかの理由でキャンセルになる。首都カトマンドゥからロ-ルワリンヒマ-ルの近くの飛行場ルクラへ飛ぶのだが、天候不良で三日間連続でキャンセル。職場の休暇日数があり、偵察が困難。それで休暇延長できる他の隊員に偵察を任せて、トレッキングを楽しむことにした。

 

職場の登山有給休暇取得で半分遠征が成功

 わたしは金融機関に勤めていた。日本の経済は右肩上がりで、高度経済成長の真っ盛りだった。だから、金融機関職員は毎日残業でその半分はサ-ビス残業。有給休暇は病気以外に取ることは許されない。3週間の有給休暇は、「辞めて行ったら」と支店長の言。今考えるにどうしてこの境地を潜り抜けたのか定かでない。

 本番の1982年の遠征隊には40日間の有給休暇が必要。この時も「辞めて行ったら」と云われたはず。登山は初登頂し、札幌の小学校生とカトマンドゥの小学校生との絵画の交流など、新聞紙上で取り上げられたことで、職場はなんとか収まったように記憶している。

 二年連続で登山休暇を取ると、今度は「次はいつどこを登るのか」と職場。以後次々と休暇取得となる。1985年に家族アンナプルナヒマ-ル・トレッキング。1987年ソ連・パミ-ル・コルジェネフスカヤ峰7105m遠征。1991年アンナプルナ1峰8091m遠征と続く。

 

1950年代後半から1960年代の登山ブ-ム

 11年間で5回の海外登山をする幸運が訪れるとは考えもしなかった。もちろん、それまでに登山の知識と技術を身に着け、研究と実践してきたたまもの。

 わたしは高校生時代に札幌近郊の冬山を始めていた。今の高校生は、学校の登山部活動での岩登りや冬山登山は禁止されている。なんとかわいそうなことか。その延長に海外登山があるのだから。

 1956年に日本隊が8千m峰マナスルを初登頂し、日本中が登山やハイキング熱旺盛な時期だった。海外遠征の夢も持たない登山活動など、わたしには考えられなかっただろう。現在の高校生の登山活動は、国民体育大会で競って一番・二番を決める登山を行っている。歩き方やテントの設営方法など、いちいち点数を付けられるのだ。自然の中での衣食住を背負っての山中生活にどうやったら点数がつけられるのだろうか。

 山岳会や登山愛好者の学習研究活動と実践登山は、危険を困難に変え、目指すは「楽しい登山」だけで良い。「楽しい登山」の登山文化は私達市民一人一人の生活を充実させるだろう。

 

10年前から山ガ-ルで、再度の登山ブ-ム到来

 服飾メ-カ-が火をつけたと云われている「山ガ-ル」。若者達の登山ブ-ムが10年前から始まった。それまでの夏山の登山道には中高齢者登山者が溢れていた。若者はどこに行ったのか、どこに居るのか不思議な登山の世界だった。最近の札幌近郊の夏山は中高年者を探すのがゆるくない。20歳代30歳代の登山者で溢れている。頂上では若者達が、ビニ-ルを敷いてガススト-ブでインスタントラ-メンやコ-ヒ-を煎れる光景が見られてほほえましい。

 若者の登山ブ-ムは、高齢化で衰退著しかった山岳会や登山クラフの将来を輝かしく照らしている。山岳運動具店やアウトドア店などは、増々忙しそうだ。

ヒマラヤ・トレッキングの話が横道を歩き出しているので、元の道に戻ろう。

 

遠征隊の偵察山行が、一転ヒマラヤ・トレッキングに

 偵察山行と書いたが、わたしたち登山者は、日常行っている登山を「山行」と呼んでいる。ハッキリと明確な説明ではないが、山行には登山と下山があるからなのだろう。ゆえに、わたしは下山中に死亡したり、ドクタ-ストップでヘリコプタ-下山した人を、登山成功とは云わず登山敗退と呼んでいる。又々横道に行きかけた。

 

 初めてのヒマラヤはネパ-ルのランタンヒマ-ル。この頃、ランタン峪は世界一美しい渓谷と云われていた。

現在は地元住民の生活道路である自動車道路が開通していて、トレッキング途中まで車で入る。

 1981年当時は、ガイドとコックを連れてテントを持ち、大人数と大荷物のトレッキングだった。わたしたち3人に、ガイド1名、コック1名、コック見習いのカンチャ1名、現地で雇ったポ-タ-5名、総勢11名。

 ポ-タ-は家族一同だったと思う。ゆえに、女性のポ-タ-や子供に近い坊やも居る。ネパ-ルでは、女性のポ-タ-をシェルパニと云う。

 ホタルが飛び交う水田と大きな水力発電所のあるトリスリバザ-ルの町から出発し、目指すはキャンジンゴンパ村。村と云ってもヤクのミルクのチ-ズ作りの家一軒だけ。

では、写真で見てみる。

 

トリスリTrisuli――ドゥンチェDhunche1950m――シャブルベンシ-Syabru Bensi1460m――ラマホテルLama Hotel2340m――ゴラタベラGhora Tabera3020m――ランタン村Langtang3500m――キャンジンゴンパKyangjin Gompa3800m

 

カトマンドゥのホテル・ナラヤニ

現在もこのホテルはある

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カトマンドゥのエ-ジェント女社長の家

今ではこのご夫婦や息子夫婦たちと友人お付き合い

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初めてのネパ-ルの牛

額に第三の眼をもつシヴァ神の乗り物

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1981年当時はタクシ-よりもリクシャ-

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カトマンドゥ市内路上でアイスクリ-ム

氷入りをぐるぐる回し、コンデンスミルクで

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カトマンドゥ在住の友人

朝食にパンをかじりながらバナナを買う

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偵察行の大量の小銭のお金

ポ-タ-賃金や食料買い出しのため

1991年の大きな遠征隊は、ザック2個のルピ-

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次年登攀の山の偵察行

4人分の荷物の整理

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ルクラへフライトの荷物

機内へ乗り込み

有視界飛行のため天候悪化で三日間続けてフライトがキャンセル

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カトマンドゥ市内 レストラン

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第18回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十八

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 四回目

標題では「ネパ-ルの楽しいトレッキング」だが、しばらくはネパ-ルの登山等を見てみる。

 前回は、1953年エベレスト初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパについて少し見てみた。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれている。チベットから移り住んだ民族の末裔だ。

 そこで、ネパ-ルのトレッキングとはだいぶん離れて、横道を歩き出すが、シェルパ族のテンジン・ノルゲイが育ったダ-ジリンの街や、その周辺の国などの歴史を辿ってみたい。

 

ダ-ジリン紅茶

 ダ-ジリンは紅茶のダ-ジリンで有名。インドがイギリス・大英帝国の植民地だったので、現在でもイギリスの紅茶会社が有名になっている。イギリス・大英帝国がダ-ジリンで紅茶栽培する前は、現在の中国から紅茶を輸入していて、大枚の外貨を充てざるを得なかった。

 ダ-ジリンの紅茶と一言で云うが、標高が300m位のダ-ジリンとは違う市町村地域にも茶畑があり、標高2千mのダ-ジリン市まで、延々と茶畑が続くのだから圧倒される。

 ネパ-ルからダ-ジリンへは、ネパ-ルの最東の町カ-カルビッタKakarbhittakのイミグレ-ションで出国し、国境の川に掛かる橋を渡って、インドのイミグレ-ションの名前はダ-ジリンなのだ。このインド西ベンガル州の税関からは、ダ-ジリン市まで直線で70km標高差1700mもある。さすが世界のダ-ジリンティ-で、隣接市町村栽培茶を総称するる。

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 ダ-ジリンへ向かう交通機関は、標高差が激しいのでジ-プが良い。しかし、昔からここには蒸気機関車列車が運行されている。ダージリン・ヒマラヤ鉄道(Darjeeling Himalayan Railway)と云い、ネパ-ル語दार्जिलिंग-हिमालय रेलवे表示もされている。又の名をトイ・トレインと云って世界中の蒸気機関車フアンに親しまれている。この列車、小さい。おとぎの国に迷って来たような錯覚さえ覚える。機関車の車輪を支えて走るレール幅は軌間610mmと狭い。ナロゲ-ジ610と云うらしい。当然客車も機関車に合わせて小さく、小人の国の列車に乗車している様で面白い。

ここで質問。何故小さな機関車なのか?

解答。

 標高差1700mを平地からダ-ジリン町へ50kmを登攀しなければならない。途中あらゆる場所でS字カ-ブがあり、多くの場所でジグザク走行する。ときにはル-プ状のレ-ル軌道を一回りする。ジグザクして高度を稼ぐ登り方では、先頭の機関車を突っ込んで止まり、次にバックして突っ込み、そして又機関車を先頭にして出発したりだ。分かるかな。

 

 私の乗ったジ-プは、のろのろとダ-ジリン目指して登って行く。そこえこのダージリン・ヒマラヤ鉄道の列車が追い越したり追い越されたりで、さすがインドのダ-ジリンに来たことの楽しさを味あわせてくれた。列車の中の乗客は狭い小人の国列車内で大きく見える。

 この鉄道、紅茶の運搬だけが役割だったわけではない。インドは亜熱帯気候。私もここに来る途中や、ネパ-ルの西方のタライ平野で45度Cの気温を味じわったことがある。そうです。ダ-ジリンはインド人の避暑地なのです。一年中ク-ラ-の設置がいらない涼しく暮らせる。その為に鉄路を開いた。

 

ダ-ジリンの波乱万丈

 ダ-ジリン地域が植民地だったり、現在では隣州のシッキム州の一部で民主化の波で国王を憲法から排除したり、色々と歴史の波に浮いたり沈んだりの地域だった。

その歴史を箇条書する。

昔はシッキムの一部だった。 

1642年チベツトがダライ・ダマ政権により統一されると、チベット仏教ニンマ派の高僧と同派を奉ずるチベット人 の一部がシッキムの地に亡命。シッキム王国を建国。

1780年代後半、ネパ-ルから来たグルン族がダ-ジリンとカリンポンに侵攻、1788年までに一帯を支配。

イギリス領インド帝国時代、イギリス東インド会社がネパールに侵攻したグルカ戦争1814年~1816年でスガウリ条約が結ばれる。

シッキムの王ツグプ・ナムゲルがダージリンとカリンポンの奪還に成功。

1849年シッキムは南部のダージリン地方を当時の3万5千RSルピ-でイギリスへ割譲。

 

ここでダ-ジリンは終了するが、シッキムが気になるので次に見てみる

1866年シッキムやダ-ジリンはイギリス・インド総督府の避暑地となった。

 1888年茶葉栽培のためにネパ-ル人が労働力として大量に移住し、1642年以前からの原住民ブティヤ人を凌ぐ人口を擁するようになった。シッキムの茶葉はダ-ジリンから輸栽培されたので、味がダ-ジリンと同じ。

 1947年にインド連邦がイギリス植民地から独立すると、シッキムにおけるイギリスの地位はインドが継承することとなった。1950年にシッキムはインド・シッキム条約を結び、外交と防衛、通信をインドに委ねる保護国になった。また同条約に基づき、シッキム王国は民主化を進めることが規定。

 以後シッキム王国はインドとの関係を保ちつつ、激しい民主化運動と国王の必死な王国存続の綱引きを展開する。なにせ人口の75%と多数がネパ-ル系シッキム人、最終の民主化成功を導き出した。

 1950年ここから、シッキム王国の民主化が始まる。そして、その民主化がブ-タン王国へ移り、その後1990年前後からネパ-ルの民主化が始まる。

 

地続き3国の民主化、鍵握るネパ-ル人

ブ-タンの民主化は?

シッキム王国は1975年に国王退位。ネパ-ル王国は2008年に国王が退位した。 

 ブ-タン王国にはネパ-ル系ブ-タン人は15%だったので、数で劣る民主化運動派のネパ-ル系ブ-タン人は異教徒として国外追放される末路となった。

 日本の江戸時代にキリスト教徒に踏み絵をして異教徒狩りをしているが、ブ-タン王国のヒンドゥ-教異教徒狩りは、国王警察の拷問だと聞いている。国王はチベット仏教のみを信仰していた。

 国外追放されたヒンドゥ教徒10万人は、現在ネパ-ルのブ-タン避難民村で暮らしている。当時のブ-タンの人口は85万人と云われていたが75万人に減じた。

 その後ブ-タンは国王絶対制を憲法改正して立憲君主制に変更、チベット仏教を国教と規定。まだ国王としては若いブ-タン国王は息子に王位を譲って隠居してしまった。

国王と国民の決定的対立。血を流す民主化は二勝一敗。

 ネパ-ル最東の隣がインドのシッキム州とダ-ジリン市、その隣がブ-タン王国。その3国今なおネパ-ル語とデバナガ-リ文字(ネパ-ル語の文字)が国民の言語となっている。

イヤ-、「楽しいネパ-ルトレッキング」が大分横道に逸れて歩いてしまった。

次回はネパ-ルヒマラヤのトレッキングをぜひ見てみたい。

 

参考文献

エベレスト登頂  ジョン・ハント

シエルパ  根深誠

わが山エベレスト  テンジン自伝

ヒラリ-自伝  エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル  トニ-・ハ-ゲン

  

トイ・トレイン ダ-ジリン鉄道

自動車道路の車と抜きつ抜かれつ

 

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機関車に人  坂道上りで空回りしない様に砂を線路にまく

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ネパ-ルからインドへ入国

ダ-ジリン市まで70kmあるが、イミグレ-ションオフイスの名称はダ-ジリンDarjiling

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ダ-ジリンの街からカンチェンジュンガ峰Kanchenjunga8586m

山の頂上の左側はネパ-ル。右側はインド・シッキム州

ダ-ジリン市はインド・西ベガル州 

ダ-ジリンの左隣の町は国境を挟んでネパ-ルのイラム町、続く茶畑に国境の線は見えない、イラム茶はネパ-ルのお茶、イラムの西隣ダンクタ茶も売出し中

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ダ-ジリンの街

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ダ-ジリンで一番大きなお茶屋さん

大量に茶葉を買う

以後10年くらい毎年ダイレクトメ-ルが来た

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ダ-ジリンの茶畑

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インドの標高300mの町バグドグラ町の茶畑

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ネパ-ル・イラムの茶畑

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ダ-ジリンのお茶工場

茶葉は4月1日が刈取り開始日

ちょうどこの日にダ-ジリン滞在

早速工場見学

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ネパ-ル暫定憲法2007年発布

ネパ-ルの国王退位2008年

ブ-タン絶対王政から立憲君主へ2008年7月

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第17回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十七

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 三回目

標題では「ネパ-ルの楽しいトレッキング」だが、しばらくはネパ-ルの登山を見てみる。

 前回は、ネパ-ル人山岳ガイドのシエルパ族を、イギリス隊エベレスト遠征の歴史から少し見てみた。

 今回は1953年エベレスト初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパについて少し見てみたい。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれている。チベットから移り住んだ民族の末裔だ。

 

エベレスト8,848m

エベレストはインドがつけた言葉。ネパ-ルではサガルマ-タ、チベット語ではチョモランマ。

頂上に立って、東西に向って立つとどちらかの足がネパ-ルとチベットに立つことになる。

慣例によってビザは必要ない。慣例でも何でもないが。

誰でも判っていることだが、世界の山々の最高峰。地球のテッペンになる。

 その標高は8、848mで、インドの測量局が測量した数字になっている。その測量局長官のジヨ-ジ・エベレストにちなんで付けられた名称。2015年4月25日のネパ-ル大地震で沈み込んだか持ち上がったか。インドは再測量の用意があると発表している。この地震時に、エベレストベ-スキャンプがプモリ峰に堆積していた氷河の崩壊で、氷河雪崩発生。19人が死亡している。この時にBCに滞在していた札幌在住の女性が足を骨折。今年5月に再挑戦し、エベレスト登頂した。私の登山の指向(思考)とは少し異なっているガイド登山だ。

 ネパ-ル登山のガイドやポ-タ-の話なのに、チョット横道に歩き出すところだった。「登山」と「ガイド登山」は違うのかどうか、などの話は後日に。

 

エベレスト初登頂

エベレストの初登頂は1953年5月29日午前11時30分。イギリス登山隊のエドマンド・ヒラリ-とシエルパのテンジン・ノルゲィ。このお二人、今は天国に居るが、どちらが頂上に立ったのか一生語ることはなかった。二人して、一緒に、一二の三で同時に踏むことは考えられないから、二人共その偉業の大きさが分っていたのかもしれない。

二人が登頂する前の26日に第一次登頂隊が頂上を目指したがダメ。酸素ボンベの酸素が無くなり8749mで撤退。ヒラリ-とテンジンは頂上を目指す二番目のメンバ-だった。

 この登山隊の規模は、登山家としてイギリス人11名、ニユ-ジ-ランド人2名、ネパ-ル人2名、シエルパ20名、ポ-タ-362名、合計400名の大登山隊。

 1921年に第1回目の登山隊がエベレストを目指しているから、第9次の登山隊で、32年かかったことになる。1907年にイギリス山岳会創立50周年記念で、エベレスト遠征計画が持ち上がっていたので、発案からは46年。

 初登頂する一年前の1952年に、スイス隊が頂上に迫っていたので、紙一重の差が栄光と残念の両サイドに分かれる。人類が自然に挑戦し、世界の多くのクライマ-が夢見ていた。

 1953年以降にもスイスやフランスが登山許可取得していた。最初に取りついたイギリス隊が栄光に輝いたのは、順当だったのだろう。 

 ネパ-ルの登山許可制度は、1990年以前は1ル-ト・1シ-ズン・1隊制度があった。現在はどこのヒマラヤ登山でも、BCには何隊も居て、ダブルブッキングだ。今年のエベレスト・プレモンス-ンは30隊以上500名が頂上を目指しているそうな。

 

登頂者のヒラリ-とテンジン

 さて、初登頂したヒラリ-さんとテンジンさん。人類が挑戦してきただけあって、その栄光は華々しい。と云ってもお酒におぼれたり、お金使いが荒くなったり、などの成金とは違う。さすが精神と肉体のスポ-ツ、登山の栄光者は地道な人生を歩んでいる。

 現在のイギリス王女が父親の死で女王になり、その16ケ月後のこの年6月2日に戴冠式を控えていた。5月29日のニユ-ジ-ランド人のヒラリ-登頂ニユ-スは、なんと6月2日の早朝にイギリスに伝わり、結婚していた若干26歳の女王へのプレゼントとなった。

6月6日には、女王エリザベス2世がエベレスト隊とネパ-ルメンバ-への勲章授与を発表。

登頂者テンジンには特別にジヨ-ジメダルを授与。

 隊長のジョン・ハントと登頂者のヒラリ-には、大英帝国勲章ナイトの勲位を授与、サ-(Sir)の称号が与えられた。

ヒラリ-(Sir Edmund Percival Hillary)基金

 アメリカやイギリスは寄付の国と云われる。お金持ちの市民は、福祉や教育やスポ-ツ活動へのカンパ活動が盛ん。サ-と云われるようになったヒラリ-さんは、多くの寄付を集め、ネパ-ルの山岳地、特にエベレストの麓に住む就学児童への教育活動を始める。

ダ-ジリンのテンジン・ノルゲィ登山学校

一方、テンジンさんは、1954年にダ-ジリンに登山学校を設立。

 この頃、ネパ-ルでは、130年間の鎖国政策から1950年に開国し、国民に登山や観光などの概念はなかった。国民に無いのだからネパ-ル政府は関心さえもなかった。

 長い間チベット地域からエベレスト登山を行ってきた外国隊は、ダ-ジリンに居るシエルパ族を登山の案内人とし、隊荷物を運ぶのもシエルパ族だった。

 ネパ-ルがネパ-ルヒマラヤの登山隊を旺盛にする意図でヒマラヤン・ソサエティを1956年にカトマンドゥに設立。観光の意味も分からなかった政府官僚はなにをしたら良いのかも分からない始末。テンジンに入会依頼するが、インド国籍のテンジンから断わられる。ネパ-ル政府はダ-ジリンに出向いてシエルパ族をあつめざるを得なかった。

 ネパ-ルは1969年に政府内に観光省を新設。ヒマラヤン・ソサエティに代わってネパ-ル山岳会を設立。1977年に観光省登山課を新設。ようやく登山やトレッキングや観光が何なのか、国の役に立つのかが分かってきた。1998年にシャイレンドラメラジ・シャルマンさんが初代課長に就任。私の友人の経営するエ-ジエント会社にこのシャルマ氏の学友が勤めていた。

話は、又々横道を歩き出している。この続きは後程。

 

参考資料

エベレスト登頂  ジョン・ハント

シエルパ  根深誠

わが山エベレスト  テンジン自伝

ヒラリ-自伝  エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル  トニ-・ハ-ゲン

 

ヒラリ-とテンジン

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エベレスト 8848m

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テンジン登頂

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ダ-ジリンの街

後峰はカンチェンジュンガ峰(ネパ-ルとインドの国境の山)

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テンジン・ノルゲィ・シェルパ

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ダライ・ラマとテンジン一家

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女王エリザベス2世の勲章とメダル

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テンジン・ノルゲィ死去1986年5月9日

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第16回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十六 

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 二回目

 前回は、私達がヒマラヤ登山やトレッキングでお世話になるネパ-ルメンバ-のトレッキングガイドとポ-タ-を見てみた。

今回はヒマラヤ登山のガイドとポ-タ-を見てみる。

 

ネパ-ルヒマラヤ登山のガイドとポ-タ-の歴史はどうなっているのだろう。

ネパ-ルの登山メンバ-であるガイドの歴史は、それほど昔ではない。

ネパ-ルは130年間鎖国政策を取っていた。その鎖国を解いて開国したのは1950年。

この1950年前後のエベレスト登山とネパ-ル人ガイドの関係から調査してみた。

 

エベレスト登山とネパ-ル人ガイド・シエルパ族

ネパ-ル民族の歴史

ネパ-ルにシェルパと呼ばれる民族が生活している。

 現在のネパ-ル人民族は、その歴史から三種に見て取れる。まずその一つは、インドからネパ-ルに移り住んだ民族。インド系ネパ-ル人と云われている。ヒンドゥ-教のカ-ストの最高位カ-スト・ブラ-マン民族など。

 そして、元々ネパ-ルに住んでいたタル-民族や、首都カトマンドゥ盆地の原住民ネワ-ル民族など。

最後に、チベットから移り住んだ山岳少数民族シェルパ族やライ族・グルン族など。

 現在では、案内人のことをシェルパと呼び、この言葉は国際語になりつつあるようだ。登山やトレッキング時にシェルパ族を案内人として雇用する。登山の案内人をシェルパと云う登山愛好者がいるが、私はガイドと呼ぶようにしている。その訳は、登山案内人にはライ族やグルン族などの呼び方が他の民族が居るから。それとシェルパ族はエベレスト登山で名をはせ、危険を伴うヒマラヤ登山で勇敢な案内人としての歴史もある。1950年前後のネパ-ル登山案内人は、シエルパ族しか居なかった。

 

エベレスト登山の歴史

 ネパ-ルヒマラヤの登山案内人のシエルパ族の説明には、エベレストの登山の歴史について触れないわけにはいかない。

イギリス隊のエベレスト遠征

第1回エベレスト遠征 1921年 以後17年間 チベット側から 起点はダ-ジリン

第2次エベレスト遠征 1922年

第3次エベレスト遠征 1924年

第4次エベレスト遠征 1933年

第5次エベレスト遠征 1935年

第6次エベレスト遠征 1936年

第7次エベレスト遠征 1938年 

第8次エベレスト遠征 1951年 初のネパ-ル側から

第9次エベレスト遠征 1953年5月29日午前11時30分登頂

 ジョン・ハント隊長の率いるエベレスト登山隊、ヒラリ-とテンジンが登頂

 

 イギリスは1921年初の登山隊派遣から32年を経た1953年に、エベレスト登頂の栄光に輝いている。

 いや、イギリスはイギリス山岳会創立50周年の1907年にエベレスト遠征計画が行われていたから、計画からは46年間とも云える。第一次世界大戦で計画がとん挫、大戦後に再びイギリス山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となってエベレスト遠征計画が再開する。

シエルパ族登場

1920年イギリスはネパ-ルへサガルマ-タ登山計画を提出するが、ネパ-ルはラナ時代 の鎖国政策中で不許可、ダメ。

 そこで、チベットのダライ・ダマに許可申請し許可される。ここでネパ-ル側からのキャラバンや登山ができず、チベト側からの遠征となる。チベットは独立国だった。

 ここで初めてシエルパ族が登場する。現在のインド・ダ-ジリンに居たシエルパ族は、チベツトから移り住んだ民族で、チベット経由のエベレスト登山に最適な山案内と隊荷物のボッカをするポ-タ-役となった。

現在のインド領ダ-ジリンは、それ以前にはシッキム王国の一部だった。

 当時、インドはイギリス政府の植民地で、標高2千mの紅茶の茶葉産地ダ-ジリンはカルカッタ政庁の夏の避暑地の拠点となっていた。

以後イギリスや各国の登山隊もダ-ジリンを拠点地とした。

 1924年から第4次エベレスト遠征の1933年まで9年間のブランクがある。第三次遠征隊が許可のないチベット・ロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ダマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山許可が出なかった。

1938年の8次以降は、第二次世界大戦の影響で登山隊の派遣が見送られた。

 1950年ネパ-ルが鎖国を解き開国。1951年にはインドの援助でインド亡命していたトリブバン王がネパ-ルへ帰り王政復帰する。

ネパ-ルは1949年に外務省を新設して登山隊の受け入れ態勢を整える。

 

参考文献

エベレスト登頂 ジョン・ハント

シエルパ 根深誠

わが山エベレスト テンジン自伝

ヒラリ-自伝 エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

 

ネパ-ル側のサガルマ-タ 8848m

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チベット側のチョモランマ

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テンジン・ノルゲイ・シエルパ  エベレスト初登頂

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1953年 登山隊長のジヨン・ハント

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エベレスト初登頂 エドマンド・ヒラリ-

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テンジン・ノルゲィ・シエルパ

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第15回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十五回目 

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 一回目

 前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング六回目、ネパ-ルからの帰りタイのバンコクで一遊びを見てみた。

 今回は、5月20日の「ネパ-ルの楽しいトレッキング」で、ネパ-ル人のガイドとポ-タ-について見てみたことで、ネパ-ル人の登山案内人のガイドと登山に運びのポ-タ-の歴史を見てみたい。

 現在のネパ-ルでは、私達がヒマラヤ登山やトレッキングでお世話になるネパ-ルメンバ-達がいる。

 

山岳ガイド

 まずガイド達。二種類のガイドがいる。それは、トレッキングの案内をしてくれるガイドと、登山で高所のガイドをしてくれる高所ガイドに分けることができる。

 

ガイドの序列

 このネパ-ルヒマラヤの案内人のガイド達、最初からガイド資格があるわけではない。ほとんどのガイドは、最初にポ-タ-から始まる。そして順序では、コック見習いのカンチャを経験してコックに昇格する。そして最終のガイドになる。

 

ガイドの仕事

 私がネパ-ルの登山やトレッキングで経験した事柄からの、ガイドの仕事内容は、まず地元の人やバティ(ロッジ)使用の時の通訳。バスやチャ-タ車の運転手との通訳と行先の支持。車から徒歩に変わる時に雇用する地元のポ-タ-の確保。そして、行く先々の宿泊バティの予約などが主な仕事になる。

 こう説明すると、お客さんへのガイドはどした、となる。そうなのです。ネパ-ルのガイドは、市町村や寺院・仏塔などの歴史や内容の解説・説明はしないのです。結論から言うと、支払う日当の額からは、あまりにも少額過ぎて多くを期待できないのが現実。

 少し以前数年前までのガイドの賃金は、一日500RSルピ-だった。その頃のネパ-ルの公務員の初任給が18,000RSだったので、それ相当な額と思える。しかしだ、私のカトマンドゥでの借家は一か月30,000RSなので、いかにネパ-ル人の賃金ベ-スが安いかお分かりになるだろう。1RS=1円

 

観光とトレッキングガイドの仕事の内容

 これまでのガイドの仕事は、トレッキングや観光のガイド。次いでヒマラヤ登山のガイドを私なりに説明したい。

 私はパックの登山やトレッキングをしたことがない。日本国内の旅行業者のパック旅行は例外扱いとして、ネパ-ルのエ-ジェントを利用しての登山とトレッキングの場合、私はガイドとネパ-ル国内のフライトの手配だけをエ-ジェントにお願いする。時にはガイドの給料も私が払うことが多い。

 

正式なパックの場合。お客様である私達がエ-ジェント会社に総額のお金を支払う。

その内訳は、①国立公園などの入園料、 ②トレッキングシステムTIMS登録料金、 ③フライト・バス料金、 ④都市のホテル料金、 ⑤ガイドの日当と食事代金、 ⑥ポ-タ-の日当、 ⑦お客さん自分のバテイ料金と食事代金、 ⑧ガイドとポ-タ-の傷害保険代金、 ⑨エ-ジェントのハンドリングフイ-(手数料)①~⑧の合計の10%、

 ⑥のポ-タ-の日当は、ポ-タ-自身が自分の食糧を持参することが多いので、ガイド日当よりも金額が多い。又、ガイドとポ-タ-の宿泊費はタダが基本。宿泊の部屋は取らずに、食堂などでシュラフに潜り込んで寝る。私はガイド連れで都市の宿泊をする場合は、ホテルのオ-ナ-と直接交渉して、お客の部屋以外で宿泊できる部屋を無料で使わせてもらえる様に交渉をすることにしている。ホテル内レストランなどでごろ寝させる訳にはいかない。

 このパックの場合は、出発前にガイドと日程の相談をする。ですので、ほとんどのトレッキングは決まった日程通りにこなすことになる。

 

パックでない私の場合。私がネパ-ルで行っている方法。パックの①②③のみエ-ジェントに依頼する。その他は、ガイドを通訳として私自身が都度交渉しながら歩いている。ガイドには食事ごとお腹いっぱい食べるように言いつけて出発する。そして、都度の支払のために、ガイドに数万RSルピ-を事前に預けて、支払いを任せている。

 パックでなく日程も自由。私は、ガイドと日程について打ち合わせはする。だが、出発してしまうと日程は自由。泊まる村の様子が良ければ連泊。予定の宿泊村に早く着き、泊まりたくない様子の村なら、次の村まで歩くことにする。おそらくガイドは大変な忙しい目に合うだろう。宿泊場の予約はできない。

 こうして、全日程通りに行動したことがない。日程より早く、帰りのフライトをキャンセルして、路線バスで帰ったこともあり、次の日のフライトチケットで一日早いフライトをしたりだ。この場合、ガイドには通訳をしてもらうが、私よりもガイドの交渉力が試される。

 

パックトレッキングと私のトレッキングの金額差。例を挙げて説明しよう。私の友人一人の7泊8日のトレッキング費用は1、190$ドルだった。私と女房の二人のカトマンドゥ発着10泊11日のトレッキング費用は合計700$ドル。決してけち臭い訳でない。おそらくだが、三分の一くらいの料金でトレッキングができる。私にとっては、高い安いは別としてもなんとも自由なのが一番良い。

 

トレッキングのポ-タ-

 何回もネパ-ルヒマラヤのトレッキングをしていると、ポ-タ-についても選択偽が増えてくる。フライトやバスなどでトレッキング出発地に到着すると、ポ-タ-達が集まってくる。初めのうちはガイドが選ぶポ-タ-を連れて歩くことになる。

 ガイドが一人の時は困ることが発生する。ポ-タ-がガイドの知人なら良いのだが。ほとんどはその時に会ったポ-タ-を雇う。するとガイドは、お客様の荷物を知らないポ-タ-に背負わせることになり、これがガイドにとっては心配。結果は、ガイドはお客さんをほったらかしにして、荷物が心配のためポ-タ-に付きっきりになってしまったりする。

 ポ-タ-はヒマラヤの景色を眺める必要もなく、スタスタと目的地目指して一目散。するとガイドも、ゆっくり歩くお客さんを置き去りにして先行してしまう。

 これが現地で雇用するポ-タ-の弊害といえる。これを防ぐにはカトマンドゥからポ-タ-を連れて行くのが良い。バス代金が掛かるが安心で楽しいトレッキングが保障されるだろう。

 又は、現地で親子か夫婦のポ-タ-を雇用すると少しは安心だ。ポストモンス-ン季のトレッキングであれば、集まってきたポ-タ-を雇わずに、近くの農家に出かけて農繁期を終えた家族に直接交渉する。年寄農家なら息子や娘をポ-タ-として雇うのも面白い。

 

次回はヒマラヤ登山の時のガイドとポ-タ-について見てみたい。

 

1981年 ランタンヒマ-ル トレッキング

お客さん3名 ガイド1人 コック2人 ポ-タ-5名

女性のポ-タ-も

まだ自動車道路のないランタンヒマ-ル

水力発電所のあるトリスリ・バザ-ル村にバスが着く

一泊した出発地のテント撤収

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目的地キャンジン・ゴンパ 3,800m

 ヤクのチ-ス作りの家が一軒ある

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ソルク-ンブヒマ-ル(エベレスト街道)

ポ-タ-がドッコに30kgの荷を背負い

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ヤクが荷運び ポ-タ-30kgの二倍60kg

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ルクラ町2840mの農家

11月なのに農地を一家で耕す

左の婦人の背には赤ちゃんが

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カラパタ-ル 5、550m  すぐ眼前にエベレスト8848m

後ろの山はブモリ峰 7165m

お客二人 ガイド一人 ポ-タ-一人

ポ-タ-は農家の息子

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サガルマ-タ(エベレスト)8848m

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第14回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十四 アンナプルナヒマ-ル十四回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング五回目を見てみた。

 続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング六回目だが、ネパ-ルからの帰りタイのバンコクで一遊び。

 この頃の日本の金融機関は12月31日が一年の最大の繁忙日。私の勤務していた所は、夕方5時ころに渉外担当者がお客様の所に出かけ、お客様の金庫を空にして戻ってくる。それからお客様から集めた現金・小切手などを締め前入金する。普段の日は締め前入金は3時で締める。

 こうして金融機関職員は、1月1日の空が明るくなるころに帰宅。年末に有給休暇は取れず、おのずと3週間のネパ-ルトレッキングは後ろの日にずれ込む。小学生の二人の息子は冬休み明けの登校日には、まだネパ-ルに居ることとなった。

冬休みに入って、早々と千葉の友人宅へ女房と子供二人。デイズニ-ランドで遊んでいた。

  

ネパ-ル・アンナプルナヒマ-ルトレッキングからの帰りはタイのバンコク

バンコク・エアポ-トのホテル案内所に寄り、飛行機内で一緒の女性と同じホテルにチェックイン

北海道自然保護連合事務局の大学生3名は別行動、タイの有名海岸アユタヤビ-チへ

我々はバンコクの寺院めぐり

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門番・タイの兵隊さん

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バンコクの露店 朝ごはんから夕ご飯まで、いろいろな屋台が

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バンコクの果物屋

この南国の果物、千葉の友人宅へ大量に持ち込む

子ずれ家族は成田空港の税関を何のチェックもなく素通り、もしかして、輸入禁止

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第13回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十三 アンナプルナヒマ-ル十三回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング四回目を見てみた。

続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング五回目、ポカラからカトマンドゥへ路線バスで戻る。カトマンドゥ観光。

 

カトマンドゥ

ホテルのレストランで夕食

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ボダナ-ト

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ボダナ-トの台座からガネッシュヒマ-ルを望む

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スワヤンブナ-ト

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パタンの旧王宮広場

案内してくれる赤いセ-タ-のガイドは、1982年北海道ネパ-ル遠征のサ-ダ-

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