koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの楽しいトレッキング 第17回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十七

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 三回目

標題では「ネパ-ルの楽しいトレッキング」だが、しばらくはネパ-ルの登山を見てみる。

 前回は、ネパ-ル人山岳ガイドのシエルパ族を、イギリス隊エベレスト遠征の歴史から少し見てみた。

 今回は1953年エベレスト初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパについて少し見てみたい。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれている。チベットから移り住んだ民族の末裔だ。

 

エベレスト8,848m

エベレストはインドがつけた言葉。ネパ-ルではサガルマ-タ、チベット語ではチョモランマ。

頂上に立って、東西に向って立つとどちらかの足がネパ-ルとチベットに立つことになる。

慣例によってビザは必要ない。慣例でも何でもないが。

誰でも判っていることだが、世界の山々の最高峰。地球のテッペンになる。

 その標高は8、848mで、インドの測量局が測量した数字になっている。その測量局長官のジヨ-ジ・エベレストにちなんで付けられた名称。2015年4月25日のネパ-ル大地震で沈み込んだか持ち上がったか。インドは再測量の用意があると発表している。この地震時に、エベレストベ-スキャンプがプモリ峰に堆積していた氷河の崩壊で、氷河雪崩発生。19人が死亡している。この時にBCに滞在していた札幌在住の女性が足を骨折。今年5月に再挑戦し、エベレスト登頂した。私の登山の指向(思考)とは少し異なっているガイド登山だ。

 ネパ-ル登山のガイドやポ-タ-の話なのに、チョット横道に歩き出すところだった。「登山」と「ガイド登山」は違うのかどうか、などの話は後日に。

 

エベレスト初登頂

エベレストの初登頂は1953年5月29日午前11時30分。イギリス登山隊のエドマンド・ヒラリ-とシエルパのテンジン・ノルゲィ。このお二人、今は天国に居るが、どちらが頂上に立ったのか一生語ることはなかった。二人して、一緒に、一二の三で同時に踏むことは考えられないから、二人共その偉業の大きさが分っていたのかもしれない。

二人が登頂する前の26日に第一次登頂隊が頂上を目指したがダメ。酸素ボンベの酸素が無くなり8749mで撤退。ヒラリ-とテンジンは頂上を目指す二番目のメンバ-だった。

 この登山隊の規模は、登山家としてイギリス人11名、ニユ-ジ-ランド人2名、ネパ-ル人2名、シエルパ20名、ポ-タ-362名、合計400名の大登山隊。

 1921年に第1回目の登山隊がエベレストを目指しているから、第9次の登山隊で、32年かかったことになる。1907年にイギリス山岳会創立50周年記念で、エベレスト遠征計画が持ち上がっていたので、発案からは46年。

 初登頂する一年前の1952年に、スイス隊が頂上に迫っていたので、紙一重の差が栄光と残念の両サイドに分かれる。人類が自然に挑戦し、世界の多くのクライマ-が夢見ていた。

 1953年以降にもスイスやフランスが登山許可取得していた。最初に取りついたイギリス隊が栄光に輝いたのは、順当だったのだろう。 

 ネパ-ルの登山許可制度は、1990年以前は1ル-ト・1シ-ズン・1隊制度があった。現在はどこのヒマラヤ登山でも、BCには何隊も居て、ダブルブッキングだ。今年のエベレスト・プレモンス-ンは30隊以上500名が頂上を目指しているそうな。

 

登頂者のヒラリ-とテンジン

 さて、初登頂したヒラリ-さんとテンジンさん。人類が挑戦してきただけあって、その栄光は華々しい。と云ってもお酒におぼれたり、お金使いが荒くなったり、などの成金とは違う。さすが精神と肉体のスポ-ツ、登山の栄光者は地道な人生を歩んでいる。

 現在のイギリス王女が父親の死で女王になり、その16ケ月後のこの年6月2日に戴冠式を控えていた。5月29日のニユ-ジ-ランド人のヒラリ-登頂ニユ-スは、なんと6月2日の早朝にイギリスに伝わり、結婚していた若干26歳の女王へのプレゼントとなった。

6月6日には、女王エリザベス2世がエベレスト隊とネパ-ルメンバ-への勲章授与を発表。

登頂者テンジンには特別にジヨ-ジメダルを授与。

 隊長のジョン・ハントと登頂者のヒラリ-には、大英帝国勲章ナイトの勲位を授与、サ-(Sir)の称号が与えられた。

ヒラリ-(Sir Edmund Percival Hillary)基金

 アメリカやイギリスは寄付の国と云われる。お金持ちの市民は、福祉や教育やスポ-ツ活動へのカンパ活動が盛ん。サ-と云われるようになったヒラリ-さんは、多くの寄付を集め、ネパ-ルの山岳地、特にエベレストの麓に住む就学児童への教育活動を始める。

ダ-ジリンのテンジン・ノルゲィ登山学校

一方、テンジンさんは、1954年にダ-ジリンに登山学校を設立。

 この頃、ネパ-ルでは、130年間の鎖国政策から1950年に開国し、国民に登山や観光などの概念はなかった。国民に無いのだからネパ-ル政府は関心さえもなかった。

 長い間チベット地域からエベレスト登山を行ってきた外国隊は、ダ-ジリンに居るシエルパ族を登山の案内人とし、隊荷物を運ぶのもシエルパ族だった。

 ネパ-ルがネパ-ルヒマラヤの登山隊を旺盛にする意図でヒマラヤン・ソサエティを1956年にカトマンドゥに設立。観光の意味も分からなかった政府官僚はなにをしたら良いのかも分からない始末。テンジンに入会依頼するが、インド国籍のテンジンから断わられる。ネパ-ル政府はダ-ジリンに出向いてシエルパ族をあつめざるを得なかった。

 ネパ-ルは1969年に政府内に観光省を新設。ヒマラヤン・ソサエティに代わってネパ-ル山岳会を設立。1977年に観光省登山課を新設。ようやく登山やトレッキングや観光が何なのか、国の役に立つのかが分かってきた。1998年にシャイレンドラメラジ・シャルマンさんが初代課長に就任。私の友人の経営するエ-ジエント会社にこのシャルマ氏の学友が勤めていた。

話は、又々横道を歩き出している。この続きは後程。

 

参考資料

エベレスト登頂  ジョン・ハント

シエルパ  根深誠

わが山エベレスト  テンジン自伝

ヒラリ-自伝  エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル  トニ-・ハ-ゲン

 

ヒラリ-とテンジン

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エベレスト 8848m

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テンジン登頂

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ダ-ジリンの街

後峰はカンチェンジュンガ峰(ネパ-ルとインドの国境の山)

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テンジン・ノルゲィ・シェルパ

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ダライ・ラマとテンジン一家

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女王エリザベス2世の勲章とメダル

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テンジン・ノルゲィ死去1986年5月9日

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第16回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十六 

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 二回目

 前回は、私達がヒマラヤ登山やトレッキングでお世話になるネパ-ルメンバ-のトレッキングガイドとポ-タ-を見てみた。

今回はヒマラヤ登山のガイドとポ-タ-を見てみる。

 

ネパ-ルヒマラヤ登山のガイドとポ-タ-の歴史はどうなっているのだろう。

ネパ-ルの登山メンバ-であるガイドの歴史は、それほど昔ではない。

ネパ-ルは130年間鎖国政策を取っていた。その鎖国を解いて開国したのは1950年。

この1950年前後のエベレスト登山とネパ-ル人ガイドの関係から調査してみた。

 

エベレスト登山とネパ-ル人ガイド・シエルパ族

ネパ-ル民族の歴史

ネパ-ルにシェルパと呼ばれる民族が生活している。

 現在のネパ-ル人民族は、その歴史から三種に見て取れる。まずその一つは、インドからネパ-ルに移り住んだ民族。インド系ネパ-ル人と云われている。ヒンドゥ-教のカ-ストの最高位カ-スト・ブラ-マン民族など。

 そして、元々ネパ-ルに住んでいたタル-民族や、首都カトマンドゥ盆地の原住民ネワ-ル民族など。

最後に、チベットから移り住んだ山岳少数民族シェルパ族やライ族・グルン族など。

 現在では、案内人のことをシェルパと呼び、この言葉は国際語になりつつあるようだ。登山やトレッキング時にシェルパ族を案内人として雇用する。登山の案内人をシェルパと云う登山愛好者がいるが、私はガイドと呼ぶようにしている。その訳は、登山案内人にはライ族やグルン族などの呼び方が他の民族が居るから。それとシェルパ族はエベレスト登山で名をはせ、危険を伴うヒマラヤ登山で勇敢な案内人としての歴史もある。1950年前後のネパ-ル登山案内人は、シエルパ族しか居なかった。

 

エベレスト登山の歴史

 ネパ-ルヒマラヤの登山案内人のシエルパ族の説明には、エベレストの登山の歴史について触れないわけにはいかない。

イギリス隊のエベレスト遠征

第1回エベレスト遠征 1921年 以後17年間 チベット側から 起点はダ-ジリン

第2次エベレスト遠征 1922年

第3次エベレスト遠征 1924年

第4次エベレスト遠征 1933年

第5次エベレスト遠征 1935年

第6次エベレスト遠征 1936年

第7次エベレスト遠征 1938年 

第8次エベレスト遠征 1951年 初のネパ-ル側から

第9次エベレスト遠征 1953年5月29日午前11時30分登頂

 ジョン・ハント隊長の率いるエベレスト登山隊、ヒラリ-とテンジンが登頂

 

 イギリスは1921年初の登山隊派遣から32年を経た1953年に、エベレスト登頂の栄光に輝いている。

 いや、イギリスはイギリス山岳会創立50周年の1907年にエベレスト遠征計画が行われていたから、計画からは46年間とも云える。第一次世界大戦で計画がとん挫、大戦後に再びイギリス山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となってエベレスト遠征計画が再開する。

シエルパ族登場

1920年イギリスはネパ-ルへサガルマ-タ登山計画を提出するが、ネパ-ルはラナ時代 の鎖国政策中で不許可、ダメ。

 そこで、チベットのダライ・ダマに許可申請し許可される。ここでネパ-ル側からのキャラバンや登山ができず、チベト側からの遠征となる。チベットは独立国だった。

 ここで初めてシエルパ族が登場する。現在のインド・ダ-ジリンに居たシエルパ族は、チベツトから移り住んだ民族で、チベット経由のエベレスト登山に最適な山案内と隊荷物のボッカをするポ-タ-役となった。

現在のインド領ダ-ジリンは、それ以前にはシッキム王国の一部だった。

 当時、インドはイギリス政府の植民地で、標高2千mの紅茶の茶葉産地ダ-ジリンはカルカッタ政庁の夏の避暑地の拠点となっていた。

以後イギリスや各国の登山隊もダ-ジリンを拠点地とした。

 1924年から第4次エベレスト遠征の1933年まで9年間のブランクがある。第三次遠征隊が許可のないチベット・ロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ダマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山許可が出なかった。

1938年の8次以降は、第二次世界大戦の影響で登山隊の派遣が見送られた。

 1950年ネパ-ルが鎖国を解き開国。1951年にはインドの援助でインド亡命していたトリブバン王がネパ-ルへ帰り王政復帰する。

ネパ-ルは1949年に外務省を新設して登山隊の受け入れ態勢を整える。

 

参考文献

エベレスト登頂 ジョン・ハント

シエルパ 根深誠

わが山エベレスト テンジン自伝

ヒラリ-自伝 エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

 

ネパ-ル側のサガルマ-タ 8848m

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チベット側のチョモランマ

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テンジン・ノルゲイ・シエルパ  エベレスト初登頂

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1953年 登山隊長のジヨン・ハント

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エベレスト初登頂 エドマンド・ヒラリ-

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テンジン・ノルゲィ・シエルパ

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第15回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十五回目 

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 一回目

 前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング六回目、ネパ-ルからの帰りタイのバンコクで一遊びを見てみた。

 今回は、5月20日の「ネパ-ルの楽しいトレッキング」で、ネパ-ル人のガイドとポ-タ-について見てみたことで、ネパ-ル人の登山案内人のガイドと登山に運びのポ-タ-の歴史を見てみたい。

 現在のネパ-ルでは、私達がヒマラヤ登山やトレッキングでお世話になるネパ-ルメンバ-達がいる。

 

山岳ガイド

 まずガイド達。二種類のガイドがいる。それは、トレッキングの案内をしてくれるガイドと、登山で高所のガイドをしてくれる高所ガイドに分けることができる。

 

ガイドの序列

 このネパ-ルヒマラヤの案内人のガイド達、最初からガイド資格があるわけではない。ほとんどのガイドは、最初にポ-タ-から始まる。そして順序では、コック見習いのカンチャを経験してコックに昇格する。そして最終のガイドになる。

 

ガイドの仕事

 私がネパ-ルの登山やトレッキングで経験した事柄からの、ガイドの仕事内容は、まず地元の人やバティ(ロッジ)使用の時の通訳。バスやチャ-タ車の運転手との通訳と行先の支持。車から徒歩に変わる時に雇用する地元のポ-タ-の確保。そして、行く先々の宿泊バティの予約などが主な仕事になる。

 こう説明すると、お客さんへのガイドはどした、となる。そうなのです。ネパ-ルのガイドは、市町村や寺院・仏塔などの歴史や内容の解説・説明はしないのです。結論から言うと、支払う日当の額からは、あまりにも少額過ぎて多くを期待できないのが現実。

 少し以前数年前までのガイドの賃金は、一日500RSルピ-だった。その頃のネパ-ルの公務員の初任給が18,000RSだったので、それ相当な額と思える。しかしだ、私のカトマンドゥでの借家は一か月30,000RSなので、いかにネパ-ル人の賃金ベ-スが安いかお分かりになるだろう。1RS=1円

 

観光とトレッキングガイドの仕事の内容

 これまでのガイドの仕事は、トレッキングや観光のガイド。次いでヒマラヤ登山のガイドを私なりに説明したい。

 私はパックの登山やトレッキングをしたことがない。日本国内の旅行業者のパック旅行は例外扱いとして、ネパ-ルのエ-ジェントを利用しての登山とトレッキングの場合、私はガイドとネパ-ル国内のフライトの手配だけをエ-ジェントにお願いする。時にはガイドの給料も私が払うことが多い。

 

正式なパックの場合。お客様である私達がエ-ジェント会社に総額のお金を支払う。

その内訳は、①国立公園などの入園料、 ②トレッキングシステムTIMS登録料金、 ③フライト・バス料金、 ④都市のホテル料金、 ⑤ガイドの日当と食事代金、 ⑥ポ-タ-の日当、 ⑦お客さん自分のバテイ料金と食事代金、 ⑧ガイドとポ-タ-の傷害保険代金、 ⑨エ-ジェントのハンドリングフイ-(手数料)①~⑧の合計の10%、

 ⑥のポ-タ-の日当は、ポ-タ-自身が自分の食糧を持参することが多いので、ガイド日当よりも金額が多い。又、ガイドとポ-タ-の宿泊費はタダが基本。宿泊の部屋は取らずに、食堂などでシュラフに潜り込んで寝る。私はガイド連れで都市の宿泊をする場合は、ホテルのオ-ナ-と直接交渉して、お客の部屋以外で宿泊できる部屋を無料で使わせてもらえる様に交渉をすることにしている。ホテル内レストランなどでごろ寝させる訳にはいかない。

 このパックの場合は、出発前にガイドと日程の相談をする。ですので、ほとんどのトレッキングは決まった日程通りにこなすことになる。

 

パックでない私の場合。私がネパ-ルで行っている方法。パックの①②③のみエ-ジェントに依頼する。その他は、ガイドを通訳として私自身が都度交渉しながら歩いている。ガイドには食事ごとお腹いっぱい食べるように言いつけて出発する。そして、都度の支払のために、ガイドに数万RSルピ-を事前に預けて、支払いを任せている。

 パックでなく日程も自由。私は、ガイドと日程について打ち合わせはする。だが、出発してしまうと日程は自由。泊まる村の様子が良ければ連泊。予定の宿泊村に早く着き、泊まりたくない様子の村なら、次の村まで歩くことにする。おそらくガイドは大変な忙しい目に合うだろう。宿泊場の予約はできない。

 こうして、全日程通りに行動したことがない。日程より早く、帰りのフライトをキャンセルして、路線バスで帰ったこともあり、次の日のフライトチケットで一日早いフライトをしたりだ。この場合、ガイドには通訳をしてもらうが、私よりもガイドの交渉力が試される。

 

パックトレッキングと私のトレッキングの金額差。例を挙げて説明しよう。私の友人一人の7泊8日のトレッキング費用は1、190$ドルだった。私と女房の二人のカトマンドゥ発着10泊11日のトレッキング費用は合計700$ドル。決してけち臭い訳でない。おそらくだが、三分の一くらいの料金でトレッキングができる。私にとっては、高い安いは別としてもなんとも自由なのが一番良い。

 

トレッキングのポ-タ-

 何回もネパ-ルヒマラヤのトレッキングをしていると、ポ-タ-についても選択偽が増えてくる。フライトやバスなどでトレッキング出発地に到着すると、ポ-タ-達が集まってくる。初めのうちはガイドが選ぶポ-タ-を連れて歩くことになる。

 ガイドが一人の時は困ることが発生する。ポ-タ-がガイドの知人なら良いのだが。ほとんどはその時に会ったポ-タ-を雇う。するとガイドは、お客様の荷物を知らないポ-タ-に背負わせることになり、これがガイドにとっては心配。結果は、ガイドはお客さんをほったらかしにして、荷物が心配のためポ-タ-に付きっきりになってしまったりする。

 ポ-タ-はヒマラヤの景色を眺める必要もなく、スタスタと目的地目指して一目散。するとガイドも、ゆっくり歩くお客さんを置き去りにして先行してしまう。

 これが現地で雇用するポ-タ-の弊害といえる。これを防ぐにはカトマンドゥからポ-タ-を連れて行くのが良い。バス代金が掛かるが安心で楽しいトレッキングが保障されるだろう。

 又は、現地で親子か夫婦のポ-タ-を雇用すると少しは安心だ。ポストモンス-ン季のトレッキングであれば、集まってきたポ-タ-を雇わずに、近くの農家に出かけて農繁期を終えた家族に直接交渉する。年寄農家なら息子や娘をポ-タ-として雇うのも面白い。

 

次回はヒマラヤ登山の時のガイドとポ-タ-について見てみたい。

 

1981年 ランタンヒマ-ル トレッキング

お客さん3名 ガイド1人 コック2人 ポ-タ-5名

女性のポ-タ-も

まだ自動車道路のないランタンヒマ-ル

水力発電所のあるトリスリ・バザ-ル村にバスが着く

一泊した出発地のテント撤収

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目的地キャンジン・ゴンパ 3,800m

 ヤクのチ-ス作りの家が一軒ある

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ソルク-ンブヒマ-ル(エベレスト街道)

ポ-タ-がドッコに30kgの荷を背負い

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ヤクが荷運び ポ-タ-30kgの二倍60kg

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ルクラ町2840mの農家

11月なのに農地を一家で耕す

左の婦人の背には赤ちゃんが

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カラパタ-ル 5、550m  すぐ眼前にエベレスト8848m

後ろの山はブモリ峰 7165m

お客二人 ガイド一人 ポ-タ-一人

ポ-タ-は農家の息子

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サガルマ-タ(エベレスト)8848m

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第14回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十四 アンナプルナヒマ-ル十四回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング五回目を見てみた。

 続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング六回目だが、ネパ-ルからの帰りタイのバンコクで一遊び。

 この頃の日本の金融機関は12月31日が一年の最大の繁忙日。私の勤務していた所は、夕方5時ころに渉外担当者がお客様の所に出かけ、お客様の金庫を空にして戻ってくる。それからお客様から集めた現金・小切手などを締め前入金する。普段の日は締め前入金は3時で締める。

 こうして金融機関職員は、1月1日の空が明るくなるころに帰宅。年末に有給休暇は取れず、おのずと3週間のネパ-ルトレッキングは後ろの日にずれ込む。小学生の二人の息子は冬休み明けの登校日には、まだネパ-ルに居ることとなった。

冬休みに入って、早々と千葉の友人宅へ女房と子供二人。デイズニ-ランドで遊んでいた。

  

ネパ-ル・アンナプルナヒマ-ルトレッキングからの帰りはタイのバンコク

バンコク・エアポ-トのホテル案内所に寄り、飛行機内で一緒の女性と同じホテルにチェックイン

北海道自然保護連合事務局の大学生3名は別行動、タイの有名海岸アユタヤビ-チへ

我々はバンコクの寺院めぐり

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門番・タイの兵隊さん

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バンコクの露店 朝ごはんから夕ご飯まで、いろいろな屋台が

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バンコクの果物屋

この南国の果物、千葉の友人宅へ大量に持ち込む

子ずれ家族は成田空港の税関を何のチェックもなく素通り、もしかして、輸入禁止

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第13回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十三 アンナプルナヒマ-ル十三回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング四回目を見てみた。

続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング五回目、ポカラからカトマンドゥへ路線バスで戻る。カトマンドゥ観光。

 

カトマンドゥ

ホテルのレストランで夕食

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ボダナ-ト

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ボダナ-トの台座からガネッシュヒマ-ルを望む

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スワヤンブナ-ト

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パタンの旧王宮広場

案内してくれる赤いセ-タ-のガイドは、1982年北海道ネパ-ル遠征のサ-ダ-

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第12回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十二 アンナプルナヒマ-ル十二回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング三回目を見てみた。

続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング四回目。

 

狩猟用の鉄砲

食用の野生動物はいないので護身用なのだろう

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ダンプスホテルDhampus 1799m

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水牛とマチャプチャレ峰6993m

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ダンプスは尾根状  アンナプルナヒマ-ルを眺望

左からマチャプチャレ峰 アンナプルナⅣ峰 アンナプルナⅡ峰 ラムジュンヒマ-ル

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ダンプス村からフェディPhedi 1220mへの下りに広がる段々畑

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フェディ着 河原で昼食

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フェディから出発地ポカラまで歩いてすぐ

ポ-タ-出発

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アンナプルナヒマ-ルのトレッキング出発地ポカラに戻る

ポカラ飛行場出入り口の道路を挟んだ向かいのホテル着

出かけるときは曇っていたポカラ、今日の天候はクリヤ-

ホテル中庭からヒマラヤの絶景

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ポカラ発 カトマンドゥ行路線バス

子供達とガイドはバスの屋上に乗って、途中のトイレタイムまで

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第11回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十一 アンナプルナヒマ-ル十一回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング二日目を見てみた。

続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング三日目。

 

朝 又石楠花林を歩く 標高が高く雪道

ダウラギリⅠ峰の遠望やアンナプルナヒマ-ルを眺めるプ-ンヒルPoon Hill 3198m目指して

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もうすぐプ-ンヒルの展望丘

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プウ-ンヒル着

右のアンナプルナ・サウスAnnapurna South 7219mを背に

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マチャプチャレM achhapuchhare 6993m

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中央のアンナプルナ・サウスAnnapurna South 7219m

右はヒウンチュリHiunchull 6441m

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早朝のプ-ンヒルからロッジに戻る

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凍てつく小川で顔洗い

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タダパニ村Tadapani 2721m

段々畑  家の屋根は薄い石を敷いている

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ガンドルンGhandrung1951mのスノ-・ビュ-ロッジ

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ネパ-ルのタバコ「ビリ-」の葉の植物

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1985年当時 ネパ-ルで販売されていたタバコ

Ganesh Biri ガネッシュ・ビリ-

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お昼ご飯

コック見習いのカンチャがお湯を沸しミルクティ作り

トレッキングや登山のチャイ(ミルクティ)は粉末のミルクを使う

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天気も良く、ゆっくりの昼食

ネパ-ル人は一日二食

 午前9時ころに朝食

 午後8時ころに夕食  

 朝起きるとチャイと簡単なおやつ

 3時・4時ころにもチャイとおやつ

ガイドやコック(カンチャ)達はこの昼食と夕食時に食べる。日本人の2倍以上の量を食べる

ポ-タ-達は、各自背負っているお客さんの荷持つの上に自分の食糧を背負っている。ゆえにガイドが二食付の賃金なので、自分で食糧を持参するポ-タ-賃金の方が高い

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ネパ-ルヒマラヤのスケッチ

この時のスケッチブックから、第1回ネパ-ル絵画展を開催

以後、2007年まで7回のネパ-ル個展を開催

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