koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの楽しいトレッキング 第2回

ネパ-ルの楽しいトレッキング アンナプルナヒマ-ル その二

 前回は、アンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルに挟まれたカリ・ガンダキ河沿いの新道路に沿ったトレッキングを見てみた。

 今回はアンナプルナヒマ-ルの奥地ジョムソンから下りながらのトレッキング。マルファ町からを見てみる。

 ジョムソンから奥地のロ-マンタンは、1350年頃にチベットから移り住んだ人達が王国をつくっていた。ジョムソンから下ったマルファの町はいつ頃から人が住むようになったのだろうか。日本の明治時代から日本人が、チベットへの侵入を伺うための一時滞在の町になった。

 1990年代から道路建設が進み、2000年代からここに住む多くの住民の生活が良い意味で一変する。徒歩でしかカトマンドゥを往復できなかった環境が、待ちに待った自動車道路完成。

 しかし、1950年代から続いた、この地アンナプルナヒマ-ルの美しいヒマラヤを眺める外国人のトレッキングは自動車道路開通で衰退。と同時にトレッカ-をあてにして生計を立てていた一部のネパ-ル人の生活も一変する。

 現在は、秘境ロ-マンタンの外国人入域禁止が解け、多くのトレッカ-が訪れていたのだが、2008年のネパ-ル王政廃止に伴うロ-マンタン王退位や、同時に自動車道路開通で自動車の砂埃の道路を歩くトレッカ-は敬遠。結果、自動車でロ-マンタンへの訪問者が多い。

私達高齢者は、歩かずともヒマラヤの8千m峰を眺めれる地になっている。これはこれで感謝だ。

それでは、カリ・ガンダキ河のマルファ町から下りを写真で見てみる。

 

マルファの街

さすが美しい白壁の町を通る道路の拡幅はせず、自動車道路は街の左側100mに新道を造った

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マルファの町 標高2832m

白壁で有名  バティ(ロッジ)が沢山ある

明治時代に日本の僧侶河口慧海が、チベットの経典を求めて長期滞在した

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バティ(ロッジ)

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マルファで偶然にカトマンドゥで友達付き合いしている友人達と出会う

左端はシェルパ族でエベレスト街道近くに住んでいる

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河口慧海ハウス ミユ-ジアムになっている

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河口の使ったキッチンと食器など

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一時チベット人 Tibetan になっていた河口慧海のパスポ-ト  

秘境チベット鎖国していた

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河口慧海の写真

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河口のカメラ

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河口慧海が旅行に使用

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マルファ町の高台に仏教僧院・寺院

手前にリンゴ園

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マルファ町周辺には蕎麦畑 刈取り風景

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ソバのごみ取り

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道路脇の仏典岩

オム・マニ・ペメ・フム 

私は汚い沼に咲く美しい蓮の花になりたい

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ニルギリ峰に朝日

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カリガンダキ河の右岸に自動車道路 ダウラギリⅠ峰8167m

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家畜・水牛のエサか トウモロコシを運ぶ女性

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 

ネパ-ルの楽しいトレッキング アンナプルナヒマ-ル

前回は、昔からあるネパ-ルヒマラヤの生活道路と1990年代に建設された自動車道路を見てみた。

今回は、この最近建設された自動車道路のあるヒマラヤのトレッキングを見てみたい。

 アンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルに挟まれたカリ・ガンダキ河沿いに新しい道路が完成した。

 昔からある自転車も通れない階段の上り下りのある道路を、むりやり自動車道路建設した場所がある一方。新道路から脇に逸れ迂回する、昔からの道路のトレッキングもある。この自動車の通り過ぎるホコリから逃れての旧道トレッキングは、昔からのヒマラヤやそこに住む人々に出会える楽しさがある。

それではカリ・ダンガキ川沿いのトレッキングを写真で見てみる。

 まずはカトマンドゥから車で、飛行場のある町ジョムソンへ。そこから徒歩のトレッキングでレテの町まで引き返す。

 

カトマンドゥ発ポカラ行 グリ-ンバス Greenne 7時間かかる

片道25ドルのノンストップバス  ミネラルウオ-タ-1本と昼食付

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トレッキングはポカラ発から始まる。ジョムソンまで11時間30分

まずポカラからタクシ-でベニまで。約60km 1000RS(1RS=1円)

ベニからガサまで路線バス。30km 私達はネパ-ル人料金で

ガサからジョムソンまで路線バス。25km

ポカラの街はずれからアンナプルナ南峰(左)・ヒルンチュリ峰・マチャプチャレ峰

10月のポカラは水田の季節

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ポカラ~ジョムソン間の新しい自動車道路

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ジョムソン着  チェックポストで係官から、アンナプルナ自然保護区入域許可書とトレッキング許可書のチェック

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 TIMS(Trekker's Information Management System トレッカー情報管理システム・トレッキング登録制)エベレスト・アンナプルナ・ランタン方面に適用。

登録料は  1.トレッキング会社経由の場合は 一人10USドル
2.個人で申請する場合は     一人20USドル

 

 2014年10月14日 インドからの台風崩れの大型低気圧がネパ-経由でチベットへ抜ける。アンナプルナ山域の上部4千m以上で猛吹雪、一日で120cmの降雪。トレッカ-43人が死亡。 多くの家畜のヤクも死んだ

このTIMSシステムで、チェックポストでの入山者の確認が行われた。

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自然保護地域入域許可書

CONSERVATION AREA 自然保護地域

 

1

ANNAPURNA CONSERVATION AREA

RS.2000

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飛行場のあるジョムソンの町 

ホテルやバティ(ロッジ)は自動車道路の建設前は町が無かった

古くからの住民はここから500m離れた所に住んでいる

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飛行場からニルギリヒマ-ル

ニルギリ北峰 7061m

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ムクチナ-トへの標識 

ジョムソン2743m→ムクチナ-ト3798mまで15km

歩くと一日、ジ-プで一時間

カグベニ2807mからムスタン方面へ

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ジョムソンからダウラギリⅠ峰  धौलागिरीサンスクリット語で白い山) 8167m

左下への稜線は東稜  中央の稜線が登山のノ-マルル-ト北東稜

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ジョムソンとその下の町マルファでは、長野県人の指導でリンゴの栽培

ここで買うと運送費分の一番安価 

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リンゴの苗が植えられ、家畜の被害防止でカルカになっている

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りんご園

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ネパ-ルの道路と道路工事 その4

ネパ-ルの道路と道路工事 その四

 前回は、カトマンドゥ市内の私が住んでいるラジンパット地域の、幹線道路ラジンパット道りの道路拡幅工事を見てみた。

 

ヒマラヤの生活道路と自動車道路

 ネパ-ルの道路なら、何といっても山岳道路。ヒマラヤの村から村へ縫うように造られている道だろう。ネパ-ルの山間部には、いつごろから付けられたのか分からないくらい昔からの道路がある。前々回はアンナプルナヒマ-ルの奥地の車の通れない道路を見た。

 アンナプルナヒマ-ルは、ジョムソン村を中心に、今ではネパ-ルの第2の都市ポカラからジョムソン、そしてジョムソンからロ-マンタンやムクチナ-トへの道。1995年くらいまでは車が通れない、バイクもダメな道路だった。それが1990年代後半から、中国などの援助で車道の建設が始まり、2000年に入って、アンナプルナ方面のカリガンダキ河沿いに、そしてランタンヒマ-ル方面に自動車道路が完成した。

 私達外国人は、登山やトレッキングでヒマラヤを訪れる。決して車の通る道路をトレッキングするためにネパ-ルへ行くわけではない。ので、この道路は素晴らしい景色のヒマラヤを眺める目的では、幻滅の道路と云える。

 

秘境ムスタンまで延びた自動車道路

 昔から急ぐ場合は奥地の飛行場までフライトした。しかし、アンナプルナ方面に限っては、現在ではその最奥地チベットの国境地帯のロ-マンタンやムクチナ-トまで自動車道路が完成している。ムクチナ-トは標高3798mでロ-マンタン(ムスタン)は3730mで、車で一気に入ると高山病になってしまう。

 ムスタン地区の首都ロ-マンタンを少し説明。1350年にチベツトから移住したチベット人によって王国ができる。第二次大戦後の中国共産党による中華人民共和国の設国と、それに伴う仏教弾圧と独立国チベットの中国併合に伴うチベット動乱以後は外人入国禁止。1991年10月にようやく外人の入国開放。この間に一人だけ外国人が入国している。それは、カトマンドゥのトリブヴァン王の許可書を持参したスイス人のトニ-・ハ-ゲンさん。

 昔のロ-マンタンは王様の居る小自治王国で、それが、なんと2008年10月7日ネパ-ルの王政廃止(藩王制廃止)に伴ってこの小国の王も一市民となり、自動車道路でアッという間に訪れることができることとなった。

1350年から続いたムスタン王制の、最後の王はジグメーパルバル・ビスタ王。

 昔の秘境であるムスタン地区ロ-マンタンまでトレッキングをしたい場合。昔と現在を比較してみよう。

 

トレッカ-にとっては幻滅の自動車道路、現地の住民の足

 まず昔の場合。ポカラ市までバスかフライトで。そして日数に限りのある人は、ポカラからジョムソン2743mまで25分のフライト。ポカラからジョムソンまで歩くと7日間はかかる。そしてジョムソンからロ-マンタンまで徒歩7日間。全行程徒歩だと14日間。

 現在だと、ポカラから飛行機を使わず全行程を車で。私が2009年10月にジョムソンを往復した時は、ポカラを朝の朝食も食べずに7時に立ち、路線バスで途中二度乗り換えして夜になりそうな午後6時30分にジョムソン着。そこからは一日でロ-マンタンに着くので、全行程2日間で着いてしまう。

 トレッカ-が幻滅と思うこの自動車道路、現地の村々に住む人達にとつては、待ちに待った自動車道路。そして、外人でも高齢者にとっは、全くありがたい道路だった。私と女房、そして親戚と友人の足が悪く長距離歩けないメンバ-含めて四人。2014年ジョムソンまで飛んで、そこから車を利用して、なんと徒歩の最長歩いた距離はたったの100m。それで7千m峰や8千m峰を麓から見上げるようにしてトレッキングを行うことができた。カトマンドゥから4泊5日の歩かないトレッキングだった。このトレッキング、際どいフライトにも挑戦してみた。

 

旅行代理店がダメです、という一日で飛行機の乗り継ぎ

 カトマンドゥからジョムソンまで、途中ポカラで飛行機を乗り継いでのフライト。カトマンドゥのエ-ジェント(トレッキング代理店)は、一日での乗り継ぎフライトチケットは手配できません、ときた。私も確かに分かる。カトマンドゥ発が遅延してポカラ発に間に合わなかった場合は困る。仕方がない。自分でトライすることにした。フライトがポカラに着陸。即ネパ-ル人ガイドに、「次の日のジョムソン行チケット5人分で、今日中のポカラ発ジョムソン行フライト空き席」調べを指示。

 私達のガイド、エベレストに7回登頂のシェルパ族ガイドは、「次の便のフライトに空きがあった」「今出発します」と走ってくる。普通のフライトは、お客さんの機内持ち込み手荷物と預け荷物の重量を計るのだが、急いで乗り込むので軽量をパス。ヒマラヤ最奥のジョムソン飛行場への小さな双発飛行機の乗客は私達5人だけの貸し切りだった。そして、普段は綿の耳栓と飴玉を配るのだが、それが無い。聞いてみると、帰りのジョムソン発のフライトは満席で帰って来るのだそう。

 ジョムソンに着いてから、エ-ジェントに電話。そして、ポカラに宿泊の手配をしていたホテル・リバ-パ-クのプラカシ・パンチィ社長にも電話。ポカラのホテルは私が良いホテルを探していて見つけたところ。定宿にしている。社長が日本に6年間、奥さんは7年間出稼ぎで滞在。日本で長女が誕生している夫婦。日本で稼いだ資金で、ポカラの借地にホテル建設。そこで約10年間儲けた資金を頭金にしてホテル新館を2013年に完成している。トレッキング行に宿泊するのを帰りに一泊多く泊まるから、と電話で伝える。

 

多くのトレッカ-や登山者はパッケ-ジ。私はフリ-

 私は1981年からネパ-ル通いをしている。その間ネパ-ルのエ-ジェントにはパックで登山やトレッキングをお願いしたことはない。今回はフライトの手配とガイド一人を頼んだだけ。フライトは値段が高いが、フライトしないトレッキングなら、エ-ジェントパック料金の三分の一の費用でできる。2009年に女房と二人でカトマンドゥ発着10泊11日のトレッキングで総費用700$ドルだった。最近では私がガイドをして、ネパ-ル人ガイドは専ら通訳をしてもらっている。

 

次回はアンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルの中間を流れ下るカリガンダキ河のトレッキングを写真で見てみたい。

 

カトマンドゥ発ポカラ行 グリ-ンバス Greenne

片道25ドル ミネラルウオ-タ-1本と昼食付

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ポカラ~ジョムソン間の新しい自動車道路

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ジョムソンの町 自動車道路の建設前は町が無かった

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カリガンダキ河の右岸に自動車道路 ダウラギリⅠ峰8167m 

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自動車道路から離れ、旧道の地元生活道路へ

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ポカラ~ジョムソン間の自動車道路

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カトマンドゥ~ポカラ ブッダエア-

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チャレンジ 一日でフライト乗り継ぎ成功 シムリックエア-ライン

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貸し切りの機内

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ネパ-ルの道路と道路工事 その三

ネパ-ルの道路と道路工事 その三

前回はネパ-ルのカトマンドゥ市内の道路拡幅を見てみた。

今回は、カトマンドゥ市内の私が住んでいるラジンパット地域の、幹線道路ラジンパット道りの道路拡幅工事を見てみる。

カトマンドゥ市内の道路は、札幌市内のような碁盤の目道路とは違う。一本の大通りに対する十字路は普通にあるのだが、横に入る脇道は車が一台ようやく運転できる道路幅。対向車が来ると、どちらかがバックするしかない。

 

カ-ストによる道路の運転優先

T字路や十字路での優先車があるらしい。私がネパ-ル生活を始めたばかりの頃、大家さんがペ-パ-ドライバ-で、最初は運転手を雇っていた。この運転手、会社の往復にだけ運転するだけだったので、解雇。そこで、大家さんの彼、国際免許を持っていた私に「運転を教えてほしい」。それから一週間毎日午前1時間、午後1時間の小山教官の運転教室だった。その時から今日まで、ネパ-ルの車の運転手優先順があるのではないか、と感じていた。

まだ真意を確かめた訳ではないが、タクシ-運転手はほとんどが低所得者の下位カ-スト。

それに比べて自家用車を有する層は当然上位カ-ストになる。私が日頃感じているのは、これが交差点に入ると自家用車優先でタクシ-がブレ-キで減速する。T字路の直線にタクシ-、T字路から直線に自家用車が右左折するとする。日本なら自家用車が一時停止してから直線側にカ-ブするが、ネパ-ルのカ-スト上位車が優先なのだ。私が見ていると、なんと減速さえせずにスピ-トを上げるから驚く。

2015年4月のネパ-ル大地震後、ネパ-ル政府はの経済や労働環境回復策の一つとして、タクシ-運転手免許を新たに数千人増やすことにした。失業者が殺到したと聞いている。

ネパ-ルのタクシ-の車種は、日本のスズキ社の車が100%だった。インドの会社との合弁会社でマルチ・スズキ会社 Maruti suzukis と呼ぶ。それが昨年ネパ-ルに滞在して、韓国のヒュンダイのタクシ-が走っていてビックリした。

 

ネパ-ルの道路補修工事は、普通に車の通行中に

ネパ-ルでは、日本と同様に普通に道路の補修工事が行われている。

日本とはちょっと違うのが、通る車やバイクは工事個所を二車線道路を一車線にせず、車は道路工事個所を減速迂回するだけ。日本なら警備の人が交通整理などするが、それはなし。

 

カトマンドゥ市の道路拡幅都市計画に治外法権のフランス大使館

外国の大使館内は治外法権で、その国の法律が適用されない。大使館員はその国の法律で逮捕されない。私はここまでは分かるような気がする。

ところが、カトマンドゥのラジンパット通りの拡幅工事が始まったのだが、フランス大使館だけなんの工事も始まらない。ラジンパット通りに接している大使館は、フランスと日本、それとアメリカ大使館。フランスだけカトマンドゥ都市計画に協力しないのだ。

一車線を二車線道路に拡幅する。フランス大使館敷地は広大。道路用地買収に治外法権があっても、相手国の都市計画に協力する姿勢がないのだろう。

フランス大使館前だけ歩道が造られなかった。歩行者は距離約100mのここだけ車道を歩かなければならない。交通事故が起きないことを祈るばかりだ。

 

いよいよネパ-ルの歩行者の道路横断に道路交通法が適用

ネパ-ルには日本や他の国にある道路交通法の歩行者規則がなかった。

この程ネパ-ル警察交通局は、歩行者は信号に従い信号のない場所では横断歩道の歩行を義務付けた新しい規則の制定を発表したらしい。

私は1981年からネパ-ルを訪れ、ここ9年間はネパ-ルで生活をしている。車やバイクが途切れることがなく走っている道路の、横断方法をようやく身に着けることができた。

歩行者の交通事故多発で、ようやくネパ-ル政府が動き出した。それが、歩道橋と横断歩道以外を歩くと罰金200RSルピ-。1RS=1円。 今年5月から適用される法律を考えた。横断歩道を人が歩いている場合は、車とバイクは停止しなさい、とのこと。

ちなみに私が体得した道路の横断方法。車が走っている道路の、まず右側から来る車の少ない時に、右手を前に出し手のひらを運転手の見えるように、走らず止まらずのスピ-トで。道路の真ん中で、今度は左手を出して手のひを運転手に見えるように、一定のスピ-ドで渡る。

運転手は前の横断する人が一定のスピ-ドで歩いているのに合わせて、車も轢かない程度のスピ-ドで真っ直ぐ進む。

 

カトマンドゥ市内の渋滞は重症

左車線は左へ曲がる車のため空けてある

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2014年1月 ラジンパット通りの拡幅工事と工事終了の写真

左手前は五つ星ホテルのシャングリラホテル

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ラジンパット通りフランス大使館前

歩道がない。歩行者は車道を

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カトマンドウ市内の道路工事

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ネパ-ルの登山事情

ネパ-ルの登山事情 エベレスト8、848m

 先月の4月8日~9日に北海道海外登山研究会が開催された。この研究会は1980年代から毎年開催されている。北海道内の海外登山経験者や興味のある人達が4・5十名が集う。

 今年の研究会では、下記のネパ-ル政府(観光省登山局)から広報された検討事項が討議議題となった。

 

ネパ-ル政府が改定検討中の登山規則、近々閣議決定予定

残念、遅かったネパ-ル政府の判断

1.ガイド等を伴わない単独登山の禁止。
2.全盲、義足など身体に障害のある人々の安全確保の為原則登山禁止。
3.75歳以上の登山者の禁止。
4.8000m峰の登山する登山者は7000峰登頂経験をもつこと。
5.ヘリコプターは救助活動、ロープ等の登山用品を運ぶ以外にはベース・キャン  プより上部では使用できない。

 

これらの登山規則改定のための検討事項は、唐突に出されたものではない。

 3.75歳以上の年齢登山者の登山禁止事項は、サガルマ-タ(エベレスト)の最高齢登頂競争に終止符を打つことが目的。

 この改定を検討することは、もう2年前くらいからネパ-ル政府が表明していて、昨年2016年8月にも再度の広報をしていたのだ。

 ネパ-ル政府の決断遅れが、残念な結果を招いてしまった。今月5月6日、85歳のネパ-ル人がエベレストに挑みベ-スキャンプで死亡した。このネパ-ル人の氏名はミン・バハド-ル・シェルチャンさん。

 

今年2月にエベレストへ向かうことを発表していた

 今年86歳になるミン・バハドール・シェルチャンは再びエベレストを目指す。カトマンズで開かれたプレス・リリースによれば日本の三浦雄一郎さんの持つ最高齢登頂を破るべく4月1日よりBCに向かい5月中旬には登頂する計画である。シェルチャン氏は元グルカ兵としてイギリス軍に所属していた退役軍人で有る為、同時期に20名からなるグルカ兵と8名のイギリス軍人がサポートしながら別のチームとしてエベレストに向かう。

 1~5の登山規則改定検討事項は、その全てがエベレスト登山に当てはまるもので、これは2008年から世界の登山界で問題になっていたこと。5.ベ-スキャンプ以上のヘリコプタ-禁止事項は、2013年のエベレスト登山で顕在化していた。

 2008年プレモンス-ン季のエベレストは我国の三浦雄一郎さんが75歳で登頂した。この年に全述したネパ-ル人のミン・バハド-ル・シェルチャンさんが76歳での登頂で最高齢登頂者とされ、三浦さんの最高齢登頂を阻んで有名になっていた。

 ようするに最高齢登頂が、世界的な注目を集めた末に競争となってしまった。その競争が5年後2013年の三浦さんの80歳登頂で、再び競争に火をつけていた。この三浦さんのエベレスト登山は、登頂後のキャンプ2から下山中にレスキュ-ヘリで降りていた。

 私達登山を志す者は、レスキュ-隊による救助や登頂後の下山中の死亡などは、登山の敗退と呼んでいる。

 登山に勝利や敗退の言葉は相応しくないが、ベ-スキャンプに無事下山するまでを登山の範囲としているので、当然のことになっている。80歳でエベレストの頂上を踏み登頂を成し遂げたが、完全にBCへ下山できずに登山が成立していない。世界の登山界の解釈としてはこの年以降もミン・バハド-ル・シェルチャンさんのエベレスト最高齢登頂が続いていたことになる。のだが、三浦さんのレスキュ-下山がなかなか見えないものだから、この2013年から三浦さんが最高齢登頂者のうわさが広がっていた。

そして、今年の、ミン・バハド-ル・シェルチャンさんの再チャレンジとなった。

 三浦さんは、60歳を過ぎて札幌市内の藻岩山に登るのも大変で、ご自分の健康と体力のために登山を始められた、と私は聞いている。ご本人は、エベレストの最高齢登頂競争など心当たりもないのではないかと思う。80歳登頂のあと、キャンプ2でドクタ-ストップだった。私が考えるに、下山中キャンプ2までは遭難一歩手前だったのでは。よく生還できたものだ。エベレストのBC以上でその登下降時に一番危険で困難なル-トが、氷河のセラック帯と云われるBCとキヤンプ1の間。

高齢者の高峰登山には経験豊富なドクタ-の同行が欠かせないことも分かった。

 

失態だったネパ-ル政府

確かに、検討中と公表することで、多くの登山者が忖度するのかもしれない。

 ネパ-ル政府は安全登山の見地から、1~5の諸問題がネパ-ルの登山に現存している情況を完全に把握していた。ミン・バハド-ル・シェルチャンさんが今年の2月にはエベレストにチャレンジする旨を表明していたのだから、3.75歳以上の登山者の禁止と5.ヘリコプターは救助活動、ロープ等の登山用品を運ぶ以外にはベース・キャンプより上部では使用できない。の両方を決定し公表していれば、みすみす犠牲者を出さずにすんでいただろう。BC以上のヘリ使用は、登りや下山時の使用には登頂証明書を出さない旨を、この事項の思想を過去に遡っての適用を閣議決定してほしかった。そうすれば高齢者登頂競争を事前に防げただろう。

ネパ-ル政府に対する思いを、私はこのように思い考えている。いかがだろうか。

 サガルマ-タ8、848mの頂上には、いくら人生経験があっても、いくら登山経験があっても、人間の滞在を許さない山自然がある。

 今年の1月、エベレストベ-スキャンプで、登山隊に同行していたリエゾンオフイサ-が高山病で死亡した。亜熱帯気候のカトマンドゥで生活している登山経験のないネパ-ルの公務員が、氷点下20度Cで空気が二分の一、それもテント生活で、普通に生活などできやしない。チョット考えれば分かりそうなものだ。

 エベレスト登山の15歳に満たない登山者の登山も禁止する、ことの検討も行われているらしい。大賛成だ。 

 

タンボチェ村3、867mからエベレストを望む

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エベレスト(左) ロ-ツェ(右)

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エベレストビユ-ホテルのテラスの窓に映るエベレスト

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エベレスト登山で死亡したネパ-ルメンバ-の碑

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エベレストの氷河セラック帯 キャンプ1の上部

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サガルマ-タ(エベレスト)8、848m

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ネパ-ルの道路と道路工事 その2

ネパ-ルの道路と道路工事 その二

 

カトマンドゥは車とバイクで溢れている

 私がネパ-ルを最初に訪れたのは1981年。この時には、もうネパ-ル中からカトマンドゥへの人口流出は始まっていた。それは、特にタライ平野の農業地帯からの流入だった。この頃はまだ農業の近代化が始まったばかりで、農産物の収穫が少なく貧しい農家が多かった。ネパ-ルはヒンドゥ教の国。ヒンドゥ教の教義と階級社会のカ-スト制度で、最上級カ-ストのブラ-マンと呼ばれる大地主の元、小農地を耕す農民達の次男坊や三男坊・四男などが働き口を求めて首都カトマンドゥに集まっていた。

 カトマンドゥの労働力の需給バランスは、現在でも労働者が余っている状況。だが、車やバイクは道路に溢れんばかり。

 

カトマンドゥ市内の幹線道路は片道二車線に

 1990年ころから始まったネパ-ルの民主化は、2007年暫定憲法を制定、2008年に王制廃止し、ようやく国の形が整う。そしてそれまでの課題の一つにようやく手を付ける。2010年ころから車の渋滞していた幹線道路の拡幅工事が始まった。それから5年で片道一車線の市内幹線道路が倍の二車線道路幅になった。

 私の住むラジンパット地域のラジンパット通りは片道二車線道路となって車の渋滞は解消された。ラジンパット通りは、旧王宮から始まり、インド大使館やイギリス大使館・フランス・デンマ-ク・日本・アメリカ大使館と約7km。ちょっと離れるが中国やロシア大使館が近くに在る大使館銀座通りなのだ。

 

路地裏の細道も道路拡幅工事

 そして、大通りから路地の細道にも手を加える様になる。私の住んでいるフラットから徒歩で2~3分の路地裏に政党の党首の住まいが有る。そこの道路は車が交差できない狭さ。早速道路幅を広げることになった。

 

ネパ-ルは有無を言わせない強制土地収用

 道路を一車線から二車線に拡張するためには、道路沿いの家の立ち退きが必要になる。ネパ-ルでは道路用地の土地収用では、家の立ち退きは一切行われない。要するに必要なだけの家の取り壊しが行われるだけ。拡幅の測量を行い、家々一軒づつの取り壊し(立ち退き)を〇○Cmと強制される。

 実は私は経験者で、市の道路拡幅計画で、更地の土地を市に販売(収容された)したことがある。日本での市道の土地収用は、まず土地所有者に道路計画と土地の収用予定が知らされる。次いで、市職員が来て対面での説明。その場で土地所有者がOKすれば、即必要書類に署名捺印で手続き終了となる。「すこし考えさせて」との返答なら、何時いつまでにOKかダメかの返答が求められる。市の対応は決して事をこじらせない様に進められる。

 私の経験した市の収容手続は、1平方mの価格提示後に収用法にもとづいた道路予定地の買い取り。家が建っていても更地であっても、道路予定地とそれ以外の部分がある。道路にならない部分は土地の所有者の意向で買い取ってくれる。家が建っている場合は、同等の面積の新築建築費と引っ越し費用、それと立木などの移転費用が支払われる。

 では、ネパ-ルの道路用地の土地収用はどうなのか。日本とは全く異なる。道路になる部分のみの収用となり、立っている建物は道路予定部分のみを所有者が取り壊さなければならない。例えば、家の半分が道路用地に引っかかったとする。日本なら、当然新しく建物を建築しなければ一家が住めないので、一軒全部の取り壊しが行われるが、ネパ-ルでは半分になった家に住むか、又は半分の補償費で一軒分を自分で新築しなければならないのだ。

  

道路拡幅前のラジンパット通り・私の友人経営のネパ-ルレストラン

店の前に椅子とテ-ブルを出す3m程の余裕が有り、店をこわさずに済む

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カトマンドゥ市から強制土地収用の0.1mが表示される

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50cmを取り壊さなければならない

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ラジンパット通り道路工事中 右側の歩道は完成 左側歩道は未完成

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ラジンパット通り 道路拡張工事中 片道一車線を二車線に

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ネパ-ルの道路と道路工事

ネパ-ルの道路と道路工事

日本の工事現場と変わらないのだけれど、ネパ-ルの道路工事を写真で見てみたい。

 年々人口が増大するカトマンドゥ市内は、その増加と比例して車やバイクが増加。私がネパ-ルを訪れたのは1981年。私が見て来た36年間、カトマンドゥ市内の道路網や道路幅は変わらないと思う。道路は同じだが車だけは一年一年と増加してきた。

 私がネパ-ルで生活していて、ネパ-ルの道路が変化している所と、変わらない部分がある様に思われる。カトマンドゥ市内の道路状況は、36年前の頃と最近6~7年前まではほとんど変化がなかったと云っても良いだろう。昔は数か所の十字路には信号があった。その信号、現在は一日の停電時間が長時間のため無用の長物と化している。

 市内の車の渋滞が日常化していて6年前くらいから、道路幅の拡張工事が始まる。それまでは、市内中心街周囲道路は片道一車線ばかりで、歩くのと変わらないスピ-ドの渋滞だった。

 市の中心が外れた道、外周一回りしているリングロ-ドは1981年当時にあったし、市内からカトマンドゥ盆地の他の市町村への幹線道路は2000年くらいから拡張工事が始まつていた。

 

日本の経済援助の道路工事

 市内から地方へ向かう大きな道路は3本ある。その一本西に向かう、第二の都市ポカラへのトリブバンハイウエ-。二番目は北西方向のカカニの丘を経由してランタンヒマ-ル方面へ向かう道路。それと市内から盆地内の東方向や東南方向へのアルニコハイウエ-がある。

 このアルニコハイウエ-は、カトマンドゥが栄える以前に王宮があったバクタプル市から他の古都へ進む道路。10年くらい前に日本の間組が施工して完成させた。途中までは横断歩道があって車を減速させずに飛ばすことができるが、しばらく行くと矢張り十字路では止めなければならない。

 ハイウエ-の名称だが、日本の高速道路とは違う。トリブバンハイウエ-はポカラまで200kmを7時間もかかる。私にはその意味は分かりかねるが、理由のない固有名詞なのだろう。

 

昔のレンカ道路

 ネパ-ルでは、特に目につく道路がある。それは、カトマンドゥ市内やバクタプル市内のレンガ道路。道路幅全体にレンガを敷き詰めている。広い5~6m幅の道路は見事。カトマンドゥ市内の至る所に見られる道路幅2m位の、狭い歩道専用のレンガ道路などは、レンガの減り具合で、その建設された時代を彷彿される贅沢さを感じることができる。

 レンガはアスファルト以前の時代のものだが、実は札幌にも時代を感じさせる面白い道路がある。それは、道庁前の通りで、現在は赤レンガ通りと呼ばれる200mくらいの道路。道路全体が赤レンガテラスになっていて、車の通行がストップになった。この道路、数年前に道路改築時に掘り起こしたら、なんと基礎に木が出てきた。それも、細い直径2~3cm角の四角い棒状を縦に並べたもの。掘り起こした時に丁度通って見ることができたが、その壮観さに見入ってしまった。道路工事で掘り起こした業者は、掘る前から判っていたのかどうか。分かっていなくてビックリしたのか新聞紙上で報道された。

 

チベットとの交易道路

 ネパ-ルの道路で特に感心させられるのは、トレッキングやヒマラヤ登山のキャラバンで歩く道路。これが歴史を感じるもので、石を敷き詰めたもの。石の減り具合から千年は使われているのではないか、と感じている。一個の石を一人で運ぶのは困難な大きさや重量。何十kmの延々と続く道路なのだから驚く。

 普通道路には、石油製品のアスファルトを敷きつめる。時代物のレンガ道路や石道路は、当然車が走ることを前提にしていないが、土の道路では雨季にグチャグチャになるし、乾季は土ボコリ道路になるのを防ぐことができる。ヒマラヤの裾を通る山岳の石道路は、チベットとの交易に活躍したことを物語っている。人は勿論、ドンキ-やヤクがチベットから塩、ネパ-ルから農作物を担いで歩いたのだろう。現在はトレッカ-や登山者のものを担いでいる。

この15年間で、この山岳歩道が自動車道路に変貌をとげてもいる。 

 

カトマンドゥから東へアルニコハイウエ-

日本の間組が道路工事  飛行機から撮影

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプルの旧王宮広場もレンガ造り

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル カロパニ村2520m

左上にアンナプルナⅠ峰

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル

マルファ村2632m 明治時代にチベット仏教経典を学びに河口慧海僧侶が滞在していた

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登山隊の荷を運ぶドンキ-(ロバ)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

アンナプルナヒマ-ル ヒルンチュリ峰(左)とマチャプチャレ峰(右)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

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