koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの道路と道路工事

ネパ-ルの道路と道路工事

日本の工事現場と変わらないのだけれど、ネパ-ルの道路工事を写真で見てみたい。

 年々人口が増大するカトマンドゥ市内は、その増加と比例して車やバイクが増加。私がネパ-ルを訪れたのは1981年。私が見て来た36年間、カトマンドゥ市内の道路網や道路幅は変わらないと思う。道路は同じだが車だけは一年一年と増加してきた。

 私がネパ-ルで生活していて、ネパ-ルの道路が変化している所と、変わらない部分がある様に思われる。カトマンドゥ市内の道路状況は、36年前の頃と最近6~7年前まではほとんど変化がなかったと云っても良いだろう。昔は数か所の十字路には信号があった。その信号、現在は一日の停電時間が長時間のため無用の長物と化している。

 市内の車の渋滞が日常化していて6年前くらいから、道路幅の拡張工事が始まる。それまでは、市内中心街周囲道路は片道一車線ばかりで、歩くのと変わらないスピ-ドの渋滞だった。

 市の中心が外れた道、外周一回りしているリングロ-ドは1981年当時にあったし、市内からカトマンドゥ盆地の他の市町村への幹線道路は2000年くらいから拡張工事が始まつていた。

 

日本の経済援助の道路工事

 市内から地方へ向かう大きな道路は3本ある。その一本西に向かう、第二の都市ポカラへのトリブバンハイウエ-。二番目は北西方向のカカニの丘を経由してランタンヒマ-ル方面へ向かう道路。それと市内から盆地内の東方向や東南方向へのアルニコハイウエ-がある。

 このアルニコハイウエ-は、カトマンドゥが栄える以前に王宮があったバクタプル市から他の古都へ進む道路。10年くらい前に日本の間組が施工して完成させた。途中までは横断歩道があって車を減速させずに飛ばすことができるが、しばらく行くと矢張り十字路では止めなければならない。

 ハイウエ-の名称だが、日本の高速道路とは違う。トリブバンハイウエ-はポカラまで200kmを7時間もかかる。私にはその意味は分かりかねるが、理由のない固有名詞なのだろう。

 

昔のレンカ道路

 ネパ-ルでは、特に目につく道路がある。それは、カトマンドゥ市内やバクタプル市内のレンガ道路。道路幅全体にレンガを敷き詰めている。広い5~6m幅の道路は見事。カトマンドゥ市内の至る所に見られる道路幅2m位の、狭い歩道専用のレンガ道路などは、レンガの減り具合で、その建設された時代を彷彿される贅沢さを感じることができる。

 レンガはアスファルト以前の時代のものだが、実は札幌にも時代を感じさせる面白い道路がある。それは、道庁前の通りで、現在は赤レンガ通りと呼ばれる200mくらいの道路。道路全体が赤レンガテラスになっていて、車の通行がストップになった。この道路、数年前に道路改築時に掘り起こしたら、なんと基礎に木が出てきた。それも、細い直径2~3cm角の四角い棒状を縦に並べたもの。掘り起こした時に丁度通って見ることができたが、その壮観さに見入ってしまった。道路工事で掘り起こした業者は、掘る前から判っていたのかどうか。分かっていなくてビックリしたのか新聞紙上で報道された。

 

チベットとの交易道路

 ネパ-ルの道路で特に感心させられるのは、トレッキングやヒマラヤ登山のキャラバンで歩く道路。これが歴史を感じるもので、石を敷き詰めたもの。石の減り具合から千年は使われているのではないか、と感じている。一個の石を一人で運ぶのは困難な大きさや重量。何十kmの延々と続く道路なのだから驚く。

 普通道路には、石油製品のアスファルトを敷きつめる。時代物のレンガ道路や石道路は、当然車が走ることを前提にしていないが、土の道路では雨季にグチャグチャになるし、乾季は土ボコリ道路になるのを防ぐことができる。ヒマラヤの裾を通る山岳の石道路は、チベットとの交易に活躍したことを物語っている。人は勿論、ドンキ-やヤクがチベットから塩、ネパ-ルから農作物を担いで歩いたのだろう。現在はトレッカ-や登山者のものを担いでいる。

この15年間で、この山岳歩道が自動車道路に変貌をとげてもいる。 

 

カトマンドゥから東へアルニコハイウエ-

日本の間組が道路工事  飛行機から撮影

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプルの旧王宮広場もレンガ造り

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル カロパニ村2520m

左上にアンナプルナⅠ峰

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル

マルファ村2632m 明治時代にチベット仏教経典を学びに河口慧海僧侶が滞在していた

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登山隊の荷を運ぶドンキ-(ロバ)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

アンナプルナヒマ-ル ヒルンチュリ峰(左)とマチャプチャレ峰(右)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

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ネパ-ルの雪崩 その11 インド・ジャオンリ峰の雪崩 第10回目

ネパ-ルの雪崩 その十一 中国・ミニヤコンガ峰7、556mの雪崩 第十回目

前回はインドのガンゴトリヒマラヤのジャオンリ峰・6632mの雪崩事故を見た。

 このブログの標題は「ネパ-ルの雪崩」となっているが、ネパ-ルの山だけでなくパキスタやインド・中国ヒマラヤの雪崩も見てみる。

今回は中国・ミニヤコンガ峰7、556mの雪崩事故を見てみる。

前回、1981年ミニヤコンガ峰の8人の行方不明者を出した滑落事故を見た。

 この中国のミニヤ・コンガ峰では、1994年9月に日本隊が雪崩事故で4人が行方不明になっている。

 ミニヤ・コンガ峰はチベットの東端に位置し、四川省成都から車で二日間入る。ここから更に車で、最近の木材運搬のための林道を1~2時間。車から降りて一日でベ-スキャンプ地に到着する。

 1981年の北海道隊は、車で二日間、キャラバンを五日間も行っているから、林道建設で五日間も日数を短縮していることが分かる。

 登山隊は総勢7名。1981年と同様に北東稜からの登頂を目指し、5850mキヤンプ3設営後上部の6050mまでのル-ト整備に4名が行動中、BC間の音信を絶つ。その後捜索するが発見できず行方不明。雪崩による遭難行方不明とされた。この時の四人の内の隊員一名は、私が連盟理事長をしている時の加盟会所属会員で、ピッケルクランポン(アイゼン)などの製造販売業者の梶田製作所に就職で愛知県の山岳会会員だった。彼は地元の工業高校山岳部時代から登山を始めている。

 又他の隊員一名は、私が雪崩事故防止活動をしている時に、北海道大学の低温科学研究所で雪崩の研究中で、私と一緒に活動をしていた。

死亡隊員中北海道出身者が二名居たので、1995年4月に札幌と白糠で追悼会やお葬式が行われた。

 

雪崩研究と雪崩講習会

 「ネパ-ルの雪崩」の標題で世界各地のヒマラヤの雪崩を見てきた。氷河雪崩や表層雪崩は雪面などを一見しただけでは、そこがなだれるかどうか、どの程度の雪崩の規模になるのか、判断はできない。ここで、私が「できない」と断定したのは、「難しい」などの程度ではなく、科学的な知見と技術での判断が必要になるから。

 よく冬山登山ベテランと云われる人は、雪面を一目見て「なだれる・なだれない」の判断ができる、と豪語しているのを聞いたことがある。日本の積雪期登山とその登山史からは、雪や雪崩の知識を身に着けない、登山期間だけベテランの多くの岳人がこうして命を落としてきた歴史がある。

 北海道での登山者の雪崩研究や雪崩講習会は1970年代後半ころから始まった。今日では多くの登山愛好者が雪崩講習会を受講して、安全登山を行っている。

 私の所属するNPO法人北海道雪崩研究会主催講習会は、今年の雪崩講習会で第22回を数え、その受講者数は総計で1、087名になっている。現在では講習会受講者が、容易に自分自身が雪崩に遭わないための知識と技術を身に着けられる様な講習会が開催されている、と云える。1970年代からそうだった訳ではなく、この間も多くの登山者が雪崩に遭い死亡している。

 

雪崩研究と雪崩講習会は雪崩死亡事故を激減させた

 それでは、雪崩講習会開始前と、その後に雪崩死亡事故が減少しているのだろうか。山岳連盟が統計を取り検証しているので見てみたい。

 北海道の山岳団体が会員数や山岳事故数・死亡者数などから「雪崩事故や雪崩死亡数」を分析している。

 雪崩講習会を始める前の10年間と、始めてからの11年間を比較して雪崩事故や雪崩事故死亡者数を現わしている。講習会を始める前の雪崩死亡者は4件7人だったのが以後は1件1人に減少、雪崩事故数も9件17人から4件4人に激減。前期10年間の初年度の会員数は467人、後期11年間の中間年の会員数が888人で、事故数は前期10年間68件79人と後期11年間133件145人。21年間の前半と後半とでは会員数が190%の増加に比較して事故数が195%ですから、ほぼ会員数の増加分だけ比例して事故も増えた勘定になる。雪山での事故数や夏山での事故数でも同様の傾向がうかがわれる中で、事故中の雪崩事故だけが減少していた。これらの事実は、雪崩に関する研究活動や講習会開催の成果そのものだった。全体の雪崩事故と雪崩死亡者数が、すごく明らかに減少していた。

 

ヒンドゥ教徒の雪崩死亡事故

 2014年プレモンス-ン季のネパ-ル・サガルマ-タ(エベレスト)で氷河雪崩が発生。ベ-スキャンプからキャンプ1への荷揚げ中のネパ-ル人ハイポ-タ-13人が死亡、三人が行方不明になった。大きなアクシデントで約30隊約300名の外国人がBCに居たが、全隊が登山中止を決定した。

 三名行方不明のネパ-ル人の捜索が行われたが、発見されることはなかった。ネパ-ル人の多くはヒンドゥ教徒。ヒンドゥ教の教えに輪廻転生がある。これは私が勝手に解釈していることだが、「生きているうちに功徳を多く重ねることで、又人間に生まれ変わる」とされている様だが。

 この輪廻転生、ヒンドゥ教徒が死んだときに遺体が無い場合はダメなのだ。雪崩に埋没して発見されないのなら、輪廻転生が叶わない。本人は死亡していて判らないのだが、ご家族は何かに生まれ変わらずにどこかに迷っていることを困惑しているのだ。

 私には、死体が無くて迷うのがヒンドウ教の教義に反するのかとうか分からないが、雪崩事故で遺体が埋没したままでは困る。何とかしなければとは考えているのだが。 

 

以後は中国ミニヤ・コンガ峰登山と遭難の記録などによる

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ミニヤ・コンガ峰北東稜と頂上7556m

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札幌での遭難者追悼会

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チョモランマ(エベレスト)峰8848m

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北海道雪崩講習会 総合理論講習会

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北海道雪崩講習会 実習講習会受講者一同

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ネパ-ルの雪崩 その10 インド・ジャオンリ峰の雪崩 第9回目

ネパ-ルの雪崩 その十 インド・ガンゴトリヒマラヤ・ジャオンリ峰6、632mの雪崩 第九回目

前回はインドのニルカンタ峰の北壁を襲った氷河雪崩を見た。

 このブログの標題は「ネパ-ルの雪崩」となっているが、ネパ-ルの山だけでなくパキスタやインドヒマラヤの雪崩も見てみる。

今回はインドガンゴトリヒマラヤのジャオンリ峰・6632mの雪崩事故を見てみる。

1981年9月、北海道同人女性隊5名がインドのジヤオンリ峰を目指した。

 ベ-スキャンプに医師の隊員一名を残し、キヤンプ2を4名が出発。インドのガイド2名を加え6名が、2名づつロ-プにつながる。5630mのC2から6千mの稜線までほぼ直上。

 稜上を頂上目指して右上トラバ-スしている時「ズシン」と雪崩発生。幅100mで約200m流される。一名が半身埋没し、自分でピッケルなどで掘り出し無事。ガイド一名も無事。隊員三人とガイド一名が行方不明となる。助かった一人は、ロ-プで繋がっている一人を掘り出すが助からず、BCまでガイド一名と一緒に下山する。

 

 この時の女性隊隊長は、私が山岳連盟の理事長をしていた連盟加盟山岳会の会員だった。北海道在住女性だけの同人組織の遠征隊で、他の山岳会会員も居て、遭難事故後の遭難対策札幌本部に毎日詰めていたのを思い出す。

 北海道で登山活動をしている女性だけで、ヒマラヤ登山を目指し5年前に同人組織を立ち上げての遠征だった。

 この次の年1982年のポストモンス-ン季に、私の所属する連盟隊がネパ-ル遠征を予定していて、その隊にも彼女が参加するかもしれない情況だった。1982年ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰6853m遠征には私が副隊長で参加した。この山は処女峰で初登頂することができた。

 この年1981年、インドのジャオンリ峰遭難事故が起きる前の5月にも海外登山の死亡事故があった。1981年5月、中国ミニヤ・コンガ峰(貢嘎山)日中友好登山隊は、25名の登山隊員で7、556mの北東稜から頂上を目指した。

 キャンプ4を12名の頂上第一次アタック隊が出発。一名が滑落。続いて7名が一本のロ-プに繋がったまま北壁側に滑落。8名全員が行方不明。

北海道の登山界は、最悪の年となってしまった。

 

以後はインド・ジャオンリ峰遠征報告書による

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インド・ジャオンリ峰 6、632m 

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シャオンリ峰 

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稜線に出たところが雪崩発生点

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中国・ミニヤコンガ峰 1981年

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中国・ミニヤコンガ峰北壁

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ミニヤコンガ峰北東稜

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ネパ-ルの雪崩 その9 インド・ニルカンタ峰の雪崩 第8回目

ネパ-ルの雪崩 その九 インド・ガルワ-ルヒマラヤ・ニルカンタ峰の雪崩 第八回目

前回はパキスタンのスキムブルム峰のベ-スキャンプ(BC)を襲った氷雪崩を見た。

 このブログの標題は「ネパ-ルの雪崩」となっているが、ネパ-ルの山だけでなくパキスタやインドヒマラヤの雪崩も見てみる。

 

インド・ガルワ-ルヒマラヤ・ニルカンタ峰 6、596m峰の氷河雪崩 6名行方不明

 1993年9月30日、7名の北海道帯広登山隊はニルカンタ峰を登攀していた。キヤンプ2から上部のキャンプ3を目指してル-ト工作中。ニルカンタ峰北東稜の氷河が北壁側に落ち、雪崩となって北壁登攀中の6名を襲った。他の一名は前日からの高度障害でキヤンプ2で様子見をしていた。

 6名は北東稜から北壁側にトラバ-スして直上し、C3建設のため再度上部の北東稜に戻るル-トメイキング中。16時過ぎにC2に居た隊員がテント内で雪崩の大きな音を聞く。テントから出て見ると、北壁側に雪崩の雪煙が高く舞い上がるのを見る。この日6名はC2に戻ることはなかった。その後、C2からベ-スキャンプのコックとインド係官のリエゾンオフイサ-へ連絡を取り合う。

次の日、C2の隊員は双眼鏡で北壁を眺めるが、何一つ生存情況を見つけることができなかった。

 隊員一名とインド人コックとリエゾンが下山。インド関係機関へ事故遭難を知らせ、ヘリコプタ-の捜索を依頼。

 ヘリの空中捜索で、北壁下部に雪崩のデブリとザック2個や登山靴を発見するが、次の日のヘリ捜索では新しい雪崩痕があり、前日のザックや靴は見えなかった。 

この行方不明の登山隊員に私の山友人がいた。

 

リエゾンオフイサ-(LO)

 インドやネパ-ルでの海外登山隊は、政府の係官が随行する。この政府係官をリエゾンオフイサ-と呼ぶ。

 ネパ-ルは、エベレストなど8千m峰14座のうち8座が聳える登山観光国。登山の諸々の約束事が法律で規定されている。その法律に基づいた詳細規定は、プロセスとして内閣閣議において大臣全員の承認で決定され、広報されている。

 ネパ-ルでは登山許可申請のできる山を、メジャ-エクスペディション・ピ-クとライトエクスペディション・ピ-クに二区分している。メジャ-エクスペディション・ピ-クは、ネパ-ル観光省登山局に許可申請し登山料を支払う。又、ライトエクスペディション・ピ-クはネパ-ル登山協会へ申請し登山料を支払う。この区分する基準は6500m以上か以下の標高。互いに以上以下は混合した山もあるがほぼこの通り。

 登山隊にリエゾンが同行するのが、メジャ-エクスペディション・ピ-クの6500m以上の山に限られる。リエゾンの役割は、登山隊が申請し許可された内容通りに行動しているかどうかを見守(監視)ること。例えば、登山隊の滞在した場所にゴミを残置した場合は、事前に登山局にゴミ処理に関するデポジット金を預けたものが返却されなくなる。

 結構真面目なリエゾンがBCまで付いてくるが、BC手前の村くらいまでしか来なくなり、最近ではカトマンドゥから動かない事例も発覚して問題になっていた。

 登山隊はリエゾンに20万~30万RSルピ-を支払う。ネパ-ルの公務員の初任給は24,000RSルピ-(定期昇給は年に60RSと少ない)なのでその金額の大きさが分かるだろう。1RS=1円。

 カトマンドゥ在住の日本人で、私の友人が居てネパ-ル山岳協会会員なのだが、リエゾン制度の廃止を提言。だが、安月給公務員の既得権化しているこの制度、とても廃止はできないとのこと。

 今年の1月に、冬季エベレスト隊に同行したリエゾンがBC約5千mで、高山病のために死亡している。公務とはいえBCまでの本格的なキヤラバンを行うし、命がけの仕事。

 

ネパ-ル観光省登山局がネパ-ル山岳協会を相手取り行政訴訟

 ネパ-ル政府に登山許可申請が始まって以来、ライト登山はネパ-ル山岳協会が担当してきた。この山岳協会は民間団体扱い。

数年前、突然だった、観光省は民間の山岳協会が許認可権をもつのは違法、と裁判を始める。

 一審の判決、「観光省登山局が全ての登山許可権を持つ」。ネパ-ル山岳協会は登山許可権と登山料の収入を失うのか。登山協会は最高裁判所に上告。2016年1月だったと思う、最終判決の最高裁判所判決、「一審判決を破棄し元通りに、ライトエクスペディションの登山申請はネパ-ル登山協会へ、登山料は登山協会へ納付」。

 私はネパ-ル登山協会の会長さんと夕食を一緒にしたことがある。名刺を交換して、氏名の前にオフイサ-と書いてあった。登山協会の会長職は公務員だった。なるほど、リエゾンオフイサ-と同様に、登山と関わる公務員なのだから裁判所も既得権を優先したのだ。民間団体なのに会長の仕事が公務とは?。

 

以下はニルカンタ峰登山隊 登山事故報告書・追悼集より

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ニルカンタ峰北東稜 

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崩落前の懸垂氷河と崩落後

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C2からル-ト工作予定と北壁側に崩れた氷河の図

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ネパ-ルの雪崩 その8 パキスタ・スキムブルム峰の雪崩 第7回目

ネパ-ルの雪崩 その八 パキスタ・スキムブルム峰の雪崩 第七回目

前回はアンナプルナⅠ峰北海道隊のBCが襲われた氷河雪崩を見た。

 このブログの標題に「ネパ-ルの雪崩」となっているが、ネパ-ルの山でなくパキスタやインドヒマラヤの氷河雪崩を見てみる。又後日、ネパ-ル以外の山の雪崩も見てみよう。

 

スキムブルム峰氷河雪崩

 今回は1997年パキスタンのスキムブルム峰・7360mのベ-スキャンプ(BC)を襲った氷雪崩を見る。ヒマラヤの高峰の5千m以上には、降り積もった雪が解けずに氷となる。それが山の斜面傾斜に応じて少しづつ下流に動く氷河となる。

 山の斜面の傾斜角度が鋭く傾斜90度に近くなると、この氷河が下部の地形に左右されて、クレパスやセラックになったり、河の様な流れにならずに空中にせり出す。そのせり出した氷の塊が割れ、先端が転滑落しながら落下する。

 この落下する氷河は、その場所の角度が急斜面だと途中で氷が粉々に粉砕され爆風となって下る。この爆風が登山している人や、登山中のBCや上部キャンプのテントを吹き飛ばす。

 スキムブルム神奈川県ヒマラヤ登山隊は、1977年にパキスタンカラコルムヒマ-ルのK2峰登頂隊員が、登頂20周年記念とした企画した登山隊。スキムブルム峰・7360mの登頂後にベ-スキャンプで就寝中の午前1時過ぎ、スキムブルム峰のBCより上部の氷河が崩れ、爆風となってBCを襲った。なんとほとんどのテントが飛ばされて氷河に叩きつけられ、隊員6人が死亡。4人が負傷した。

 

K2登頂

 K2はパキスタンのヒマラヤに聳える8611m・世界第2位の高峰。日本隊としては1977年に初めて登頂した。この隊39名の隊員が参加。隊荷の全てをBCまで運ぶのに600名のロ-カルポ-タ-を雇用している。この登山隊の報告書は手元に無いので、登頂した広島三郎さんの発行著書を写真で見てみる。

 

ロ-カルポ-タ-と高所ポ-タ-

 私はヒマラヤで荷運びをする人のことを、ロ-カルポ-タ-と高所ポ-タ-と呼んで区別している。相当以前のヒマラヤ登山計画書や報告書には低所ポ-タ-や高所ポ-タ-と書いてある。

 ロ-カルポ-タ-は、遠征隊が車で入れる所から、隊荷運びのために現地の住民やドンキ-などを雇う。4千m前後からはヤクに運んでもらう。

 高所ポ-タ-は、登山隊がBC以上のキャンプを設営して、そのBCでの衣食住の隊にを運ばせる人。私は高所で隊員と同様なル-トメ-キングなどをする人を高所ガイドと呼んでいる。

 普通、高所ポ-タ-はこの高所ガイドの見習いが行うことが多いようだ。高所ポ-タ-はガイドと同様にクランポン歩行やピッケル操作、そしてロ-プワ-クを身に着けていなければならない。

 高所での隊荷を運ぶのにヤクを雇うことがある。私の友人の奥さんはヤクドライバ-をしている。エベレスト街道のナムチェの町から歩いて2時間にタ-メ村があり、そこに夫婦と二男の三人暮らしのシェルパ族。カトマンドゥのエ-ジェントから電話で仕事の知らせが入る。一日でルクラ町のヒラリ-・テンジン飛行場に行き、次の日にはカトマンドゥでお客さんと打ち合わせができる。このご主人とは時々カトマンドゥなどで会う。私はタ-メ村まで会いに行って、お昼ご飯を作ってもらったことがある。以前この友人は、日本隊の高所ガイドをしていて日本人には超有名ガイド。5年ほど前に、登山中クレパスを飛び越えようとして足を捻挫。この登山隊、このガイドを頼りにした登山計画だったので、それで登山中止となってしまった。そのことがありヒマラヤ登山のガイドを辞めて、その後トレッキングガイドに専任。長男坊はチベット仏教のお坊さん。奥さんは二頭のヤクを飼っていて、登山隊専属の荷運びをしている。ヤクは人のポ-タ-の二倍の荷物を運ぶ。ポ-タ-は最高で30kgなので、ヤクは60kgまで。収入は二倍。二頭いるから人間の4人分の収入になる。

 

1977年8月、K2・8611m登頂

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K2 8611m

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スキムブルム峰 7360m

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ネパ-ルのヤク

3500m以上に生息 低地に降りると死亡する

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友人のシェルパ族のガイド(左) 次男(右) 奥さんは仕事で留守

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ネパ-ルの雪崩 その7 アンナプルナⅠ峰の雪崩 第6回目

ネパ-ルの雪崩 その七 アンナプルナⅠ峰の雪崩 第六回目

前々回はアンナプルナⅠ峰北面を襲う雪崩を写真で見てみた。

前回は北海道隊の隊員一名が埋没した雪崩について見た。

今回は、1991年10月アンナプルナⅠ峰北面のベ-スキャンプを襲った氷河雪崩を見てみる。

 この氷河雪崩、その発生点の氷河の破断面のある所と、私達が登山中に生活しているBCとの距離は、標高差約2千m、距離約5千m。この距離を最初はほぼ垂直90度の壁を、東京ド-ムの何分の一かの氷の塊が転げ落ちる。この氷塊は落下途中、傾斜の少し緩くなった斜面に当たって、粉々になり、そして降り積もる程の雪状態にまでになる。勢いづいているから突風の猛吹雪。

 雪崩の速度は最初の2千m弱を20秒、総距離5kmを70秒かかっている。最初は時速300km以上になる。初速が時速0kmからだから20秒後のほぼ傾斜の緩い斜面にぶつかる直前の時速は500kmにも達していただろう。

アンナプルナⅠ峰など6千m以上のピ-ク15座のアンナプルナヒマ-ルは、直線状の山脈でなく円形の50kmに及ぶ距離の山群。そのⅠ峰の西側に高峰4座のニルギリヒマ-ルがある。南方からニルギリ南峰6839m、続いて北側に向かってニルギリ峰6940m、ニルギリ北峰7061m、ティリチョ・ピ-ク7134mと続く。このティリチョ・ピ-クとアンナプルナⅠ峰の丁度中間にベ-スキャンプとアドバンスベ-スキャンプが作られていた。アンナプルナⅠ峰北面から流れ下る氷河は、峪状のABCを通ってBCの脇を下っている。

 BCからアンナプルナ氷河沿いにABC方向を見上げると、右上にアンナの頂上、左上にティリチョ・ピ-クを見上げることになる。

 この日も、ティリチョ・ピ-クの稜線上から氷河が転げ落ち、小さな雪崩が落ちていた。登山終了して隊員全員がBCで朝食を終えて、快晴の暖かい朝方、皆がテントから出て日向ぼっこ中だった。

 直前の小雪崩方向を見ていた私は、大きな氷の塊が「ゴロ-」と転げ落ちる様子を見た。何といおうか、背筋が寒くなる様と云おうか、どうしたら良いのかその後の行動を考えようとしたのだろうか。一瞬だった「皆逃げろ-」と叫んでいた。

 BCの氷河の流れ下るのに沿って大きな直径5mほどの大きな岩が数個ある。全員がこの岩陰に隠れることができた。

岩陰に身を伏せたが、どれ程の突風なのか、飛ばされるのかどうか。猛吹雪が通り過ぎて行った。

 負傷者はスペイン隊員一人、逃げる時に足を挫いていた。BCに設営のテント3張がペシャンコ。大きなキッチンのテントも潰れ、BC中央のネパ-ルと北海道の旗は数十mも飛ばされていた。外に干してあったシュラフ一個は、皆で捜索したがついに発見できなかった。

一人、この大雪崩を動画撮影していたメンバ-がいた。身に迫ってようやく避難した。

 

アドバンスベ-スキャンプ(ABC)

 普通、ヒマラヤ登山では、ロ-カルポ-タ-やドンキ-・ヤクなどが荷を背負って入れる所をBCとする。アドバンスベ-スキャンプとは、ロ-カルポ-タ-は登れないが隊のコックが登れる場所のこと。実質隊のBCとなる。

 

ネパ-ルヒマラヤ・アンナプルナⅠ峰BCを襲う氷河雪崩

動画はブログにアップする方法が分からないので、後日に

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ネパ-ルの雪崩 その6 アンナプルナⅠ峰の雪崩 第5回目

ネパ-ルの雪崩 その六 アンナプルナⅠ峰の雪崩 第五回目

前回はアンナプルナⅠ峰北面を襲う雪崩を写真で見てみた。

今回はなだれている写真はない。

 1991年アンナプルナⅠ峰北海道登山隊は、ダッチリブル-トにキヤンプ2を設営。3名の隊員が、ダッチリブと云う支尾根状から韓国隊6人が雪崩で死亡した頂上へ真っ直ぐ伸びる氷河状への登道をル-トメイキングしていた。そして、キャンプ1からキャンプ2への荷揚げ隊も同時に行動していた。この荷揚げ隊が行動していたル-トは、その上部がアンナプルナ初登ル-トの鎌氷河の下部になっている。

 3名がダッチリブへの向けて、鎌氷河の下部の斜面をトラバ-スしていた時だった。私はアドバンスBCでゆったりと日向ぼっこをしながら、最上部のル-ト工作隊と荷揚げ隊の両方を交互に双眼鏡で眺めていた。

 鎌氷河からせり出した氷の塊か、又はその下部の氷河かは見ていない。荷揚げ隊の上部に煙型雪崩特有の煙があがった。ここからは、ABCに居た全員が息をのみ、固唾をのむ瞬間だった。

 荷揚げ隊からトランシ-バ-で応答がある。「雪崩に○○が埋まったが、雪の中から声がして、素手でで掘り出し無事」。

 荷揚げ隊のトラバ-ス中、なだれているのが分かり一人は一目散に逃げ無事。一人居ないことが分かり、雪崩デブリを探していると雪の中から声が聞こえた。シャベルなど無く手で声の部分を掘り出す。

 キャンプ3設営を目指していたル-ト工作隊は、この日難ル-トのためキャンプ2に引き返した。

 

※ダッチリブル-ト

 アンナプルナⅠ峰北面の初登頂は1950年フランス隊。その後、この初登ル-トは鎌の形をした懸垂氷河からの雪崩が多いことが分かり、別ル-トを開拓する。それがオランダ隊だったことから、ダッチの名称と支尾根状のリブを合わせてダッチリブル-トと云われている。

 

※煙型雪崩

 雪崩の運動形態で三種類の雪崩がある。なだれ出した雪がゾロゾロとなだれるのが流れ型雪崩。そして雪煙があがるのを煙型雪崩と云う。この両方が合わさった混合型雪崩もある。今回の北海道隊が鎌氷河下部で遭った雪崩は、一人が埋まった雪が小さく砕かれた氷だったので、混合型雪崩だろう。

 

※スカッフ&コ-ル

 現在では、積雪期の山登りには三種の神器と云われている装備を携帯している。それは雪崩ビ-コンとプロ-ブとシャベルの三種類。ビ-コンは縦横10cm位の薄い箱型の電波送受信器。この箱の中にアンテナが3本とコンピュ-タ-が入っていて、雪崩に埋まった人の位置を特定する装置。訓練を積むと10cmほどの誤差で特定できる。雪面の位置を特定したら、棒状のプロ-ブで雪面から突き刺して、その先を身体に当てる。プロ-ブは以前ゾンデと云っていた。グラスファイバ-などの折り畳み式で、40cm×8本で320cmの深さまで探すことができる。プロ-ブが人の体にヒットしたら、それを抜かないで、その斜面下部方向からシャベルで掘り出す。

 スカッフ&コ-ルは、この三種の神器ビ-コンを持っていない人の捜索方法。雪崩痕のデブリ(雪の堆雪)の上から、手で表面の雪を数センチから数十センチ掻き分けて、身体の一部を見つけるスカッフ。それと雪の中の埋没者にめがけて、雪面から雪中に声で「オ-イ」と呼びかけるコ-ル

今回アンナの雪崩では、なんとこの呼びかけるコ-ルをする前に、デブリの中から声がした。

 私達はNPO法人北海道雪崩研究会で雪や雪崩の研究と、北海道雪崩講習会を主催し開催している。その研究と講習会で、このコ-ルをしていて、女性の声よりも男性の声が良く聞こえることを発見している。雪崩のデブリは雪が硬く締まった状態で、そこを人間の声が通り易いのは高音よりも低音なのだ。

 

アンナプルナⅠ峰 北面

 頂上下に鎌型の氷河、初登はその下部から左の流れ下る氷河雪面に左斜上している、ダッチリブル-トは写真中央部の小さな尾根状から、その上部の氷河雪面に登るル-ト

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雪崩三種の神器

雪崩ビ-コン

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プロ-ブ

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シャベル

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