koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの道路と道路工事 その三

ネパ-ルの道路と道路工事 その三

前回はネパ-ルのカトマンドゥ市内の道路拡幅を見てみた。

今回は、カトマンドゥ市内の私が住んでいるラジンパット地域の、幹線道路ラジンパット道りの道路拡幅工事を見てみる。

カトマンドゥ市内の道路は、札幌市内のような碁盤の目道路とは違う。一本の大通りに対する十字路は普通にあるのだが、横に入る脇道は車が一台ようやく運転できる道路幅。対向車が来ると、どちらかがバックするしかない。

 

カ-ストによる道路の運転優先

T字路や十字路での優先車があるらしい。私がネパ-ル生活を始めたばかりの頃、大家さんがペ-パ-ドライバ-で、最初は運転手を雇っていた。この運転手、会社の往復にだけ運転するだけだったので、解雇。そこで、大家さんの彼、国際免許を持っていた私に「運転を教えてほしい」。それから一週間毎日午前1時間、午後1時間の小山教官の運転教室だった。その時から今日まで、ネパ-ルの車の運転手優先順があるのではないか、と感じていた。

まだ真意を確かめた訳ではないが、タクシ-運転手はほとんどが低所得者の下位カ-スト。

それに比べて自家用車を有する層は当然上位カ-ストになる。私が日頃感じているのは、これが交差点に入ると自家用車優先でタクシ-がブレ-キで減速する。T字路の直線にタクシ-、T字路から直線に自家用車が右左折するとする。日本なら自家用車が一時停止してから直線側にカ-ブするが、ネパ-ルのカ-スト上位車が優先なのだ。私が見ていると、なんと減速さえせずにスピ-トを上げるから驚く。

2015年4月のネパ-ル大地震後、ネパ-ル政府はの経済や労働環境回復策の一つとして、タクシ-運転手免許を新たに数千人増やすことにした。失業者が殺到したと聞いている。

ネパ-ルのタクシ-の車種は、日本のスズキ社の車が100%だった。インドの会社との合弁会社でマルチ・スズキ会社 Maruti suzukis と呼ぶ。それが昨年ネパ-ルに滞在して、韓国のヒュンダイのタクシ-が走っていてビックリした。

 

ネパ-ルの道路補修工事は、普通に車の通行中に

ネパ-ルでは、日本と同様に普通に道路の補修工事が行われている。

日本とはちょっと違うのが、通る車やバイクは工事個所を二車線道路を一車線にせず、車は道路工事個所を減速迂回するだけ。日本なら警備の人が交通整理などするが、それはなし。

 

カトマンドゥ市の道路拡幅都市計画に治外法権のフランス大使館

外国の大使館内は治外法権で、その国の法律が適用されない。大使館員はその国の法律で逮捕されない。私はここまでは分かるような気がする。

ところが、カトマンドゥのラジンパット通りの拡幅工事が始まったのだが、フランス大使館だけなんの工事も始まらない。ラジンパット通りに接している大使館は、フランスと日本、それとアメリカ大使館。フランスだけカトマンドゥ都市計画に協力しないのだ。

一車線を二車線道路に拡幅する。フランス大使館敷地は広大。道路用地買収に治外法権があっても、相手国の都市計画に協力する姿勢がないのだろう。

フランス大使館前だけ歩道が造られなかった。歩行者は距離約100mのここだけ車道を歩かなければならない。交通事故が起きないことを祈るばかりだ。

 

いよいよネパ-ルの歩行者の道路横断に道路交通法が適用

ネパ-ルには日本や他の国にある道路交通法の歩行者規則がなかった。

この程ネパ-ル警察交通局は、歩行者は信号に従い信号のない場所では横断歩道の歩行を義務付けた新しい規則の制定を発表したらしい。

私は1981年からネパ-ルを訪れ、ここ9年間はネパ-ルで生活をしている。車やバイクが途切れることがなく走っている道路の、横断方法をようやく身に着けることができた。

歩行者の交通事故多発で、ようやくネパ-ル政府が動き出した。それが、歩道橋と横断歩道以外を歩くと罰金200RSルピ-。1RS=1円。 今年5月から適用される法律を考えた。横断歩道を人が歩いている場合は、車とバイクは停止しなさい、とのこと。

ちなみに私が体得した道路の横断方法。車が走っている道路の、まず右側から来る車の少ない時に、右手を前に出し手のひらを運転手の見えるように、走らず止まらずのスピ-トで。道路の真ん中で、今度は左手を出して手のひを運転手に見えるように、一定のスピ-ドで渡る。

運転手は前の横断する人が一定のスピ-ドで歩いているのに合わせて、車も轢かない程度のスピ-ドで真っ直ぐ進む。

 

カトマンドゥ市内の渋滞は重症

左車線は左へ曲がる車のため空けてある

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2014年1月 ラジンパット通りの拡幅工事と工事終了の写真

左手前は五つ星ホテルのシャングリラホテル

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ラジンパット通りフランス大使館前

歩道がない。歩行者は車道を

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カトマンドウ市内の道路工事

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ネパ-ルの登山事情

ネパ-ルの登山事情 エベレスト8、848m

 先月の4月8日~9日に北海道海外登山研究会が開催された。この研究会は1980年代から毎年開催されている。北海道内の海外登山経験者や興味のある人達が4・5十名が集う。

 今年の研究会では、下記のネパ-ル政府(観光省登山局)から広報された検討事項が討議議題となった。

 

ネパ-ル政府が改定検討中の登山規則、近々閣議決定予定

残念、遅かったネパ-ル政府の判断

1.ガイド等を伴わない単独登山の禁止。
2.全盲、義足など身体に障害のある人々の安全確保の為原則登山禁止。
3.75歳以上の登山者の禁止。
4.8000m峰の登山する登山者は7000峰登頂経験をもつこと。
5.ヘリコプターは救助活動、ロープ等の登山用品を運ぶ以外にはベース・キャン  プより上部では使用できない。

 

これらの登山規則改定のための検討事項は、唐突に出されたものではない。

 3.75歳以上の年齢登山者の登山禁止事項は、サガルマ-タ(エベレスト)の最高齢登頂競争に終止符を打つことが目的。

 この改定を検討することは、もう2年前くらいからネパ-ル政府が表明していて、昨年2016年8月にも再度の広報をしていたのだ。

 ネパ-ル政府の決断遅れが、残念な結果を招いてしまった。今月5月6日、85歳のネパ-ル人がエベレストに挑みベ-スキャンプで死亡した。このネパ-ル人の氏名はミン・バハド-ル・シェルチャンさん。

 

今年2月にエベレストへ向かうことを発表していた

 今年86歳になるミン・バハドール・シェルチャンは再びエベレストを目指す。カトマンズで開かれたプレス・リリースによれば日本の三浦雄一郎さんの持つ最高齢登頂を破るべく4月1日よりBCに向かい5月中旬には登頂する計画である。シェルチャン氏は元グルカ兵としてイギリス軍に所属していた退役軍人で有る為、同時期に20名からなるグルカ兵と8名のイギリス軍人がサポートしながら別のチームとしてエベレストに向かう。

 1~5の登山規則改定検討事項は、その全てがエベレスト登山に当てはまるもので、これは2008年から世界の登山界で問題になっていたこと。5.ベ-スキャンプ以上のヘリコプタ-禁止事項は、2013年のエベレスト登山で顕在化していた。

 2008年プレモンス-ン季のエベレストは我国の三浦雄一郎さんが75歳で登頂した。この年に全述したネパ-ル人のミン・バハド-ル・シェルチャンさんが76歳での登頂で最高齢登頂者とされ、三浦さんの最高齢登頂を阻んで有名になっていた。

 ようするに最高齢登頂が、世界的な注目を集めた末に競争となってしまった。その競争が5年後2013年の三浦さんの80歳登頂で、再び競争に火をつけていた。この三浦さんのエベレスト登山は、登頂後のキャンプ2から下山中にレスキュ-ヘリで降りていた。

 私達登山を志す者は、レスキュ-隊による救助や登頂後の下山中の死亡などは、登山の敗退と呼んでいる。

 登山に勝利や敗退の言葉は相応しくないが、ベ-スキャンプに無事下山するまでを登山の範囲としているので、当然のことになっている。80歳でエベレストの頂上を踏み登頂を成し遂げたが、完全にBCへ下山できずに登山が成立していない。世界の登山界の解釈としてはこの年以降もミン・バハド-ル・シェルチャンさんのエベレスト最高齢登頂が続いていたことになる。のだが、三浦さんのレスキュ-下山がなかなか見えないものだから、この2013年から三浦さんが最高齢登頂者のうわさが広がっていた。

そして、今年の、ミン・バハド-ル・シェルチャンさんの再チャレンジとなった。

 三浦さんは、60歳を過ぎて札幌市内の藻岩山に登るのも大変で、ご自分の健康と体力のために登山を始められた、と私は聞いている。ご本人は、エベレストの最高齢登頂競争など心当たりもないのではないかと思う。80歳登頂のあと、キャンプ2でドクタ-ストップだった。私が考えるに、下山中キャンプ2までは遭難一歩手前だったのでは。よく生還できたものだ。エベレストのBC以上でその登下降時に一番危険で困難なル-トが、氷河のセラック帯と云われるBCとキヤンプ1の間。

高齢者の高峰登山には経験豊富なドクタ-の同行が欠かせないことも分かった。

 

失態だったネパ-ル政府

確かに、検討中と公表することで、多くの登山者が忖度するのかもしれない。

 ネパ-ル政府は安全登山の見地から、1~5の諸問題がネパ-ルの登山に現存している情況を完全に把握していた。ミン・バハド-ル・シェルチャンさんが今年の2月にはエベレストにチャレンジする旨を表明していたのだから、3.75歳以上の登山者の禁止と5.ヘリコプターは救助活動、ロープ等の登山用品を運ぶ以外にはベース・キャンプより上部では使用できない。の両方を決定し公表していれば、みすみす犠牲者を出さずにすんでいただろう。BC以上のヘリ使用は、登りや下山時の使用には登頂証明書を出さない旨を、この事項の思想を過去に遡っての適用を閣議決定してほしかった。そうすれば高齢者登頂競争を事前に防げただろう。

ネパ-ル政府に対する思いを、私はこのように思い考えている。いかがだろうか。

 サガルマ-タ8、848mの頂上には、いくら人生経験があっても、いくら登山経験があっても、人間の滞在を許さない山自然がある。

 今年の1月、エベレストベ-スキャンプで、登山隊に同行していたリエゾンオフイサ-が高山病で死亡した。亜熱帯気候のカトマンドゥで生活している登山経験のないネパ-ルの公務員が、氷点下20度Cで空気が二分の一、それもテント生活で、普通に生活などできやしない。チョット考えれば分かりそうなものだ。

 エベレスト登山の15歳に満たない登山者の登山も禁止する、ことの検討も行われているらしい。大賛成だ。 

 

タンボチェ村3、867mからエベレストを望む

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エベレスト(左) ロ-ツェ(右)

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エベレストビユ-ホテルのテラスの窓に映るエベレスト

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エベレスト登山で死亡したネパ-ルメンバ-の碑

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エベレストの氷河セラック帯 キャンプ1の上部

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サガルマ-タ(エベレスト)8、848m

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ネパ-ルの道路と道路工事 その2

ネパ-ルの道路と道路工事 その二

 

カトマンドゥは車とバイクで溢れている

 私がネパ-ルを最初に訪れたのは1981年。この時には、もうネパ-ル中からカトマンドゥへの人口流出は始まっていた。それは、特にタライ平野の農業地帯からの流入だった。この頃はまだ農業の近代化が始まったばかりで、農産物の収穫が少なく貧しい農家が多かった。ネパ-ルはヒンドゥ教の国。ヒンドゥ教の教義と階級社会のカ-スト制度で、最上級カ-ストのブラ-マンと呼ばれる大地主の元、小農地を耕す農民達の次男坊や三男坊・四男などが働き口を求めて首都カトマンドゥに集まっていた。

 カトマンドゥの労働力の需給バランスは、現在でも労働者が余っている状況。だが、車やバイクは道路に溢れんばかり。

 

カトマンドゥ市内の幹線道路は片道二車線に

 1990年ころから始まったネパ-ルの民主化は、2007年暫定憲法を制定、2008年に王制廃止し、ようやく国の形が整う。そしてそれまでの課題の一つにようやく手を付ける。2010年ころから車の渋滞していた幹線道路の拡幅工事が始まった。それから5年で片道一車線の市内幹線道路が倍の二車線道路幅になった。

 私の住むラジンパット地域のラジンパット通りは片道二車線道路となって車の渋滞は解消された。ラジンパット通りは、旧王宮から始まり、インド大使館やイギリス大使館・フランス・デンマ-ク・日本・アメリカ大使館と約7km。ちょっと離れるが中国やロシア大使館が近くに在る大使館銀座通りなのだ。

 

路地裏の細道も道路拡幅工事

 そして、大通りから路地の細道にも手を加える様になる。私の住んでいるフラットから徒歩で2~3分の路地裏に政党の党首の住まいが有る。そこの道路は車が交差できない狭さ。早速道路幅を広げることになった。

 

ネパ-ルは有無を言わせない強制土地収用

 道路を一車線から二車線に拡張するためには、道路沿いの家の立ち退きが必要になる。ネパ-ルでは道路用地の土地収用では、家の立ち退きは一切行われない。要するに必要なだけの家の取り壊しが行われるだけ。拡幅の測量を行い、家々一軒づつの取り壊し(立ち退き)を〇○Cmと強制される。

 実は私は経験者で、市の道路拡幅計画で、更地の土地を市に販売(収容された)したことがある。日本での市道の土地収用は、まず土地所有者に道路計画と土地の収用予定が知らされる。次いで、市職員が来て対面での説明。その場で土地所有者がOKすれば、即必要書類に署名捺印で手続き終了となる。「すこし考えさせて」との返答なら、何時いつまでにOKかダメかの返答が求められる。市の対応は決して事をこじらせない様に進められる。

 私の経験した市の収容手続は、1平方mの価格提示後に収用法にもとづいた道路予定地の買い取り。家が建っていても更地であっても、道路予定地とそれ以外の部分がある。道路にならない部分は土地の所有者の意向で買い取ってくれる。家が建っている場合は、同等の面積の新築建築費と引っ越し費用、それと立木などの移転費用が支払われる。

 では、ネパ-ルの道路用地の土地収用はどうなのか。日本とは全く異なる。道路になる部分のみの収用となり、立っている建物は道路予定部分のみを所有者が取り壊さなければならない。例えば、家の半分が道路用地に引っかかったとする。日本なら、当然新しく建物を建築しなければ一家が住めないので、一軒全部の取り壊しが行われるが、ネパ-ルでは半分になった家に住むか、又は半分の補償費で一軒分を自分で新築しなければならないのだ。

  

道路拡幅前のラジンパット通り・私の友人経営のネパ-ルレストラン

店の前に椅子とテ-ブルを出す3m程の余裕が有り、店をこわさずに済む

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カトマンドゥ市から強制土地収用の0.1mが表示される

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50cmを取り壊さなければならない

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ラジンパット通り道路工事中 右側の歩道は完成 左側歩道は未完成

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ラジンパット通り 道路拡張工事中 片道一車線を二車線に

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ネパ-ルの道路と道路工事

ネパ-ルの道路と道路工事

日本の工事現場と変わらないのだけれど、ネパ-ルの道路工事を写真で見てみたい。

 年々人口が増大するカトマンドゥ市内は、その増加と比例して車やバイクが増加。私がネパ-ルを訪れたのは1981年。私が見て来た36年間、カトマンドゥ市内の道路網や道路幅は変わらないと思う。道路は同じだが車だけは一年一年と増加してきた。

 私がネパ-ルで生活していて、ネパ-ルの道路が変化している所と、変わらない部分がある様に思われる。カトマンドゥ市内の道路状況は、36年前の頃と最近6~7年前まではほとんど変化がなかったと云っても良いだろう。昔は数か所の十字路には信号があった。その信号、現在は一日の停電時間が長時間のため無用の長物と化している。

 市内の車の渋滞が日常化していて6年前くらいから、道路幅の拡張工事が始まる。それまでは、市内中心街周囲道路は片道一車線ばかりで、歩くのと変わらないスピ-ドの渋滞だった。

 市の中心が外れた道、外周一回りしているリングロ-ドは1981年当時にあったし、市内からカトマンドゥ盆地の他の市町村への幹線道路は2000年くらいから拡張工事が始まつていた。

 

日本の経済援助の道路工事

 市内から地方へ向かう大きな道路は3本ある。その一本西に向かう、第二の都市ポカラへのトリブバンハイウエ-。二番目は北西方向のカカニの丘を経由してランタンヒマ-ル方面へ向かう道路。それと市内から盆地内の東方向や東南方向へのアルニコハイウエ-がある。

 このアルニコハイウエ-は、カトマンドゥが栄える以前に王宮があったバクタプル市から他の古都へ進む道路。10年くらい前に日本の間組が施工して完成させた。途中までは横断歩道があって車を減速させずに飛ばすことができるが、しばらく行くと矢張り十字路では止めなければならない。

 ハイウエ-の名称だが、日本の高速道路とは違う。トリブバンハイウエ-はポカラまで200kmを7時間もかかる。私にはその意味は分かりかねるが、理由のない固有名詞なのだろう。

 

昔のレンカ道路

 ネパ-ルでは、特に目につく道路がある。それは、カトマンドゥ市内やバクタプル市内のレンガ道路。道路幅全体にレンガを敷き詰めている。広い5~6m幅の道路は見事。カトマンドゥ市内の至る所に見られる道路幅2m位の、狭い歩道専用のレンガ道路などは、レンガの減り具合で、その建設された時代を彷彿される贅沢さを感じることができる。

 レンガはアスファルト以前の時代のものだが、実は札幌にも時代を感じさせる面白い道路がある。それは、道庁前の通りで、現在は赤レンガ通りと呼ばれる200mくらいの道路。道路全体が赤レンガテラスになっていて、車の通行がストップになった。この道路、数年前に道路改築時に掘り起こしたら、なんと基礎に木が出てきた。それも、細い直径2~3cm角の四角い棒状を縦に並べたもの。掘り起こした時に丁度通って見ることができたが、その壮観さに見入ってしまった。道路工事で掘り起こした業者は、掘る前から判っていたのかどうか。分かっていなくてビックリしたのか新聞紙上で報道された。

 

チベットとの交易道路

 ネパ-ルの道路で特に感心させられるのは、トレッキングやヒマラヤ登山のキャラバンで歩く道路。これが歴史を感じるもので、石を敷き詰めたもの。石の減り具合から千年は使われているのではないか、と感じている。一個の石を一人で運ぶのは困難な大きさや重量。何十kmの延々と続く道路なのだから驚く。

 普通道路には、石油製品のアスファルトを敷きつめる。時代物のレンガ道路や石道路は、当然車が走ることを前提にしていないが、土の道路では雨季にグチャグチャになるし、乾季は土ボコリ道路になるのを防ぐことができる。ヒマラヤの裾を通る山岳の石道路は、チベットとの交易に活躍したことを物語っている。人は勿論、ドンキ-やヤクがチベットから塩、ネパ-ルから農作物を担いで歩いたのだろう。現在はトレッカ-や登山者のものを担いでいる。

この15年間で、この山岳歩道が自動車道路に変貌をとげてもいる。 

 

カトマンドゥから東へアルニコハイウエ-

日本の間組が道路工事  飛行機から撮影

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプルの旧王宮広場もレンガ造り

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル カロパニ村2520m

左上にアンナプルナⅠ峰

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル

マルファ村2632m 明治時代にチベット仏教経典を学びに河口慧海僧侶が滞在していた

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登山隊の荷を運ぶドンキ-(ロバ)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

アンナプルナヒマ-ル ヒルンチュリ峰(左)とマチャプチャレ峰(右)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

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ネパ-ルの道路と道路工事

ネパ-ルの道路と道路工事

日本の工事現場と変わらないのだけれど、ネパ-ルの道路工事を写真で見てみたい。

 年々人口が増大するカトマンドゥ市内は、その増加と比例して車やバイクが増加。私がネパ-ルを訪れたのは1981年。私が見て来た36年間、カトマンドゥ市内の道路網や道路幅は変わらないと思う。道路は同じだが車だけは一年一年と増加してきた。

 私がネパ-ルで生活していて、ネパ-ルの道路が変化している所と、変わらない部分がある様に思われる。カトマンドゥ市内の道路状況は、36年前の頃と最近6~7年前まではほとんど変化がなかったと云っても良いだろう。昔は数か所の十字路には信号があった。その信号、現在は一日の停電時間が長時間のため無用の長物と化している。

 市内の車の渋滞が日常化していて6年前くらいから、道路幅の拡張工事が始まる。それまでは、市内中心街周囲道路は片道一車線ばかりで、歩くのと変わらないスピ-ドの渋滞だった。

 市の中心が外れた道、外周一回りしているリングロ-ドは1981年当時にあったし、市内からカトマンドゥ盆地の他の市町村への幹線道路は2000年くらいから拡張工事が始まつていた。

 

日本の経済援助の道路工事

 市内から地方へ向かう大きな道路は3本ある。その一本西に向かう、第二の都市ポカラへのトリブバンハイウエ-。二番目は北西方向のカカニの丘を経由してランタンヒマ-ル方面へ向かう道路。それと市内から盆地内の東方向や東南方向へのアルニコハイウエ-がある。

 このアルニコハイウエ-は、カトマンドゥが栄える以前に王宮があったバクタプル市から他の古都へ進む道路。10年くらい前に日本の間組が施工して完成させた。途中までは横断歩道があって車を減速させずに飛ばすことができるが、しばらく行くと矢張り十字路では止めなければならない。

 ハイウエ-の名称だが、日本の高速道路とは違う。トリブバンハイウエ-はポカラまで200kmを7時間もかかる。私にはその意味は分かりかねるが、理由のない固有名詞なのだろう。

 

昔のレンカ道路

 ネパ-ルでは、特に目につく道路がある。それは、カトマンドゥ市内やバクタプル市内のレンガ道路。道路幅全体にレンガを敷き詰めている。広い5~6m幅の道路は見事。カトマンドゥ市内の至る所に見られる道路幅2m位の、狭い歩道専用のレンガ道路などは、レンガの減り具合で、その建設された時代を彷彿される贅沢さを感じることができる。

 レンガはアスファルト以前の時代のものだが、実は札幌にも時代を感じさせる面白い道路がある。それは、道庁前の通りで、現在は赤レンガ通りと呼ばれる200mくらいの道路。道路全体が赤レンガテラスになっていて、車の通行がストップになった。この道路、数年前に道路改築時に掘り起こしたら、なんと基礎に木が出てきた。それも、細い直径2~3cm角の四角い棒状を縦に並べたもの。掘り起こした時に丁度通って見ることができたが、その壮観さに見入ってしまった。道路工事で掘り起こした業者は、掘る前から判っていたのかどうか。分かっていなくてビックリしたのか新聞紙上で報道された。

 

チベットとの交易道路

 ネパ-ルの道路で特に感心させられるのは、トレッキングやヒマラヤ登山のキャラバンで歩く道路。これが歴史を感じるもので、石を敷き詰めたもの。石の減り具合から千年は使われているのではないか、と感じている。一個の石を一人で運ぶのは困難な大きさや重量。何十kmの延々と続く道路なのだから驚く。

 普通道路には、石油製品のアスファルトを敷きつめる。時代物のレンガ道路や石道路は、当然車が走ることを前提にしていないが、土の道路では雨季にグチャグチャになるし、乾季は土ボコリ道路になるのを防ぐことができる。ヒマラヤの裾を通る山岳の石道路は、チベットとの交易に活躍したことを物語っている。人は勿論、ドンキ-やヤクがチベットから塩、ネパ-ルから農作物を担いで歩いたのだろう。現在はトレッカ-や登山者のものを担いでいる。

この15年間で、この山岳歩道が自動車道路に変貌をとげてもいる。 

 

カトマンドゥから東へアルニコハイウエ-

日本の間組が道路工事  飛行機から撮影

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている

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バクタプルの旧王宮広場もレンガ造り

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル カロパニ村2520m

左上にアンナプルナⅠ峰

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石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル

マルファ村2632m 明治時代にチベット仏教経典を学びに河口慧海僧侶が滞在していた

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登山隊の荷を運ぶドンキ-(ロバ)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

アンナプルナヒマ-ル ヒルンチュリ峰(左)とマチャプチャレ峰(右)

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石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン

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ネパ-ルの雪崩 その11 インド・ジャオンリ峰の雪崩 第10回目

ネパ-ルの雪崩 その十一 中国・ミニヤコンガ峰7、556mの雪崩 第十回目

前回はインドのガンゴトリヒマラヤのジャオンリ峰・6632mの雪崩事故を見た。

 このブログの標題は「ネパ-ルの雪崩」となっているが、ネパ-ルの山だけでなくパキスタやインド・中国ヒマラヤの雪崩も見てみる。

今回は中国・ミニヤコンガ峰7、556mの雪崩事故を見てみる。

前回、1981年ミニヤコンガ峰の8人の行方不明者を出した滑落事故を見た。

 この中国のミニヤ・コンガ峰では、1994年9月に日本隊が雪崩事故で4人が行方不明になっている。

 ミニヤ・コンガ峰はチベットの東端に位置し、四川省成都から車で二日間入る。ここから更に車で、最近の木材運搬のための林道を1~2時間。車から降りて一日でベ-スキャンプ地に到着する。

 1981年の北海道隊は、車で二日間、キャラバンを五日間も行っているから、林道建設で五日間も日数を短縮していることが分かる。

 登山隊は総勢7名。1981年と同様に北東稜からの登頂を目指し、5850mキヤンプ3設営後上部の6050mまでのル-ト整備に4名が行動中、BC間の音信を絶つ。その後捜索するが発見できず行方不明。雪崩による遭難行方不明とされた。この時の四人の内の隊員一名は、私が連盟理事長をしている時の加盟会所属会員で、ピッケルクランポン(アイゼン)などの製造販売業者の梶田製作所に就職で愛知県の山岳会会員だった。彼は地元の工業高校山岳部時代から登山を始めている。

 又他の隊員一名は、私が雪崩事故防止活動をしている時に、北海道大学の低温科学研究所で雪崩の研究中で、私と一緒に活動をしていた。

死亡隊員中北海道出身者が二名居たので、1995年4月に札幌と白糠で追悼会やお葬式が行われた。

 

雪崩研究と雪崩講習会

 「ネパ-ルの雪崩」の標題で世界各地のヒマラヤの雪崩を見てきた。氷河雪崩や表層雪崩は雪面などを一見しただけでは、そこがなだれるかどうか、どの程度の雪崩の規模になるのか、判断はできない。ここで、私が「できない」と断定したのは、「難しい」などの程度ではなく、科学的な知見と技術での判断が必要になるから。

 よく冬山登山ベテランと云われる人は、雪面を一目見て「なだれる・なだれない」の判断ができる、と豪語しているのを聞いたことがある。日本の積雪期登山とその登山史からは、雪や雪崩の知識を身に着けない、登山期間だけベテランの多くの岳人がこうして命を落としてきた歴史がある。

 北海道での登山者の雪崩研究や雪崩講習会は1970年代後半ころから始まった。今日では多くの登山愛好者が雪崩講習会を受講して、安全登山を行っている。

 私の所属するNPO法人北海道雪崩研究会主催講習会は、今年の雪崩講習会で第22回を数え、その受講者数は総計で1、087名になっている。現在では講習会受講者が、容易に自分自身が雪崩に遭わないための知識と技術を身に着けられる様な講習会が開催されている、と云える。1970年代からそうだった訳ではなく、この間も多くの登山者が雪崩に遭い死亡している。

 

雪崩研究と雪崩講習会は雪崩死亡事故を激減させた

 それでは、雪崩講習会開始前と、その後に雪崩死亡事故が減少しているのだろうか。山岳連盟が統計を取り検証しているので見てみたい。

 北海道の山岳団体が会員数や山岳事故数・死亡者数などから「雪崩事故や雪崩死亡数」を分析している。

 雪崩講習会を始める前の10年間と、始めてからの11年間を比較して雪崩事故や雪崩事故死亡者数を現わしている。講習会を始める前の雪崩死亡者は4件7人だったのが以後は1件1人に減少、雪崩事故数も9件17人から4件4人に激減。前期10年間の初年度の会員数は467人、後期11年間の中間年の会員数が888人で、事故数は前期10年間68件79人と後期11年間133件145人。21年間の前半と後半とでは会員数が190%の増加に比較して事故数が195%ですから、ほぼ会員数の増加分だけ比例して事故も増えた勘定になる。雪山での事故数や夏山での事故数でも同様の傾向がうかがわれる中で、事故中の雪崩事故だけが減少していた。これらの事実は、雪崩に関する研究活動や講習会開催の成果そのものだった。全体の雪崩事故と雪崩死亡者数が、すごく明らかに減少していた。

 

ヒンドゥ教徒の雪崩死亡事故

 2014年プレモンス-ン季のネパ-ル・サガルマ-タ(エベレスト)で氷河雪崩が発生。ベ-スキャンプからキャンプ1への荷揚げ中のネパ-ル人ハイポ-タ-13人が死亡、三人が行方不明になった。大きなアクシデントで約30隊約300名の外国人がBCに居たが、全隊が登山中止を決定した。

 三名行方不明のネパ-ル人の捜索が行われたが、発見されることはなかった。ネパ-ル人の多くはヒンドゥ教徒。ヒンドゥ教の教えに輪廻転生がある。これは私が勝手に解釈していることだが、「生きているうちに功徳を多く重ねることで、又人間に生まれ変わる」とされている様だが。

 この輪廻転生、ヒンドゥ教徒が死んだときに遺体が無い場合はダメなのだ。雪崩に埋没して発見されないのなら、輪廻転生が叶わない。本人は死亡していて判らないのだが、ご家族は何かに生まれ変わらずにどこかに迷っていることを困惑しているのだ。

 私には、死体が無くて迷うのがヒンドウ教の教義に反するのかとうか分からないが、雪崩事故で遺体が埋没したままでは困る。何とかしなければとは考えているのだが。 

 

以後は中国ミニヤ・コンガ峰登山と遭難の記録などによる

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ミニヤ・コンガ峰北東稜と頂上7556m

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札幌での遭難者追悼会

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チョモランマ(エベレスト)峰8848m

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北海道雪崩講習会 総合理論講習会

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北海道雪崩講習会 実習講習会受講者一同

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ネパ-ルの雪崩 その10 インド・ジャオンリ峰の雪崩 第9回目

ネパ-ルの雪崩 その十 インド・ガンゴトリヒマラヤ・ジャオンリ峰6、632mの雪崩 第九回目

前回はインドのニルカンタ峰の北壁を襲った氷河雪崩を見た。

 このブログの標題は「ネパ-ルの雪崩」となっているが、ネパ-ルの山だけでなくパキスタやインドヒマラヤの雪崩も見てみる。

今回はインドガンゴトリヒマラヤのジャオンリ峰・6632mの雪崩事故を見てみる。

1981年9月、北海道同人女性隊5名がインドのジヤオンリ峰を目指した。

 ベ-スキャンプに医師の隊員一名を残し、キヤンプ2を4名が出発。インドのガイド2名を加え6名が、2名づつロ-プにつながる。5630mのC2から6千mの稜線までほぼ直上。

 稜上を頂上目指して右上トラバ-スしている時「ズシン」と雪崩発生。幅100mで約200m流される。一名が半身埋没し、自分でピッケルなどで掘り出し無事。ガイド一名も無事。隊員三人とガイド一名が行方不明となる。助かった一人は、ロ-プで繋がっている一人を掘り出すが助からず、BCまでガイド一名と一緒に下山する。

 

 この時の女性隊隊長は、私が山岳連盟の理事長をしていた連盟加盟山岳会の会員だった。北海道在住女性だけの同人組織の遠征隊で、他の山岳会会員も居て、遭難事故後の遭難対策札幌本部に毎日詰めていたのを思い出す。

 北海道で登山活動をしている女性だけで、ヒマラヤ登山を目指し5年前に同人組織を立ち上げての遠征だった。

 この次の年1982年のポストモンス-ン季に、私の所属する連盟隊がネパ-ル遠征を予定していて、その隊にも彼女が参加するかもしれない情況だった。1982年ネパ-ル・ロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰6853m遠征には私が副隊長で参加した。この山は処女峰で初登頂することができた。

 この年1981年、インドのジャオンリ峰遭難事故が起きる前の5月にも海外登山の死亡事故があった。1981年5月、中国ミニヤ・コンガ峰(貢嘎山)日中友好登山隊は、25名の登山隊員で7、556mの北東稜から頂上を目指した。

 キャンプ4を12名の頂上第一次アタック隊が出発。一名が滑落。続いて7名が一本のロ-プに繋がったまま北壁側に滑落。8名全員が行方不明。

北海道の登山界は、最悪の年となってしまった。

 

以後はインド・ジャオンリ峰遠征報告書による

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インド・ジャオンリ峰 6、632m 

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シャオンリ峰 

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稜線に出たところが雪崩発生点

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中国・ミニヤコンガ峰 1981年

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中国・ミニヤコンガ峰北壁

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ミニヤコンガ峰北東稜

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