koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第80回

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その八十回目

パタンの王宮と寺院や仏塔 その八回目

パタン旧王宮広場 2回目

パタン旧王宮

 

前回からパタン市の中心にあるパタン旧王宮広場の写真を見ている。

カトマンドゥ盆地内の七カ所の貴重な歴史建造物は、世界遺産登録されている。

ネパ-ルの世界遺産について、少し学習してみる

ネパ-ルの世界遺産は全国に四か所。その内二か所が自然遺産で、他の二か所が文化遺産

世界自然遺産 1.サガルマータ国立公園सगरमाथा

世界自然遺産 2.チトワン国立公園चितवन राष्ट्रिय निकुञ्ज
世界文化遺産 1.ルンビニलुम्बिनी

世界文化遺産 2.カトマンドゥ盆地の七ケ所काठमाडौं उपत्यका

  • パシュパティナート寺院広場 Pashupatinath (Temple of livingbeings)
  • ハヌマン・ドカ(猿神と門=カトマンズ旧王宮広場)Hanuman Dhoka
  • パタン旧王宮広場
  • バクタプール旧王宮広場
  • スワヤンブナート仏塔
  • ボダナート仏塔
  • チャングナラヤン寺院

世界遺産登録の手続

世界遺産登録はどのようなものか、又どのような手続きで登録されるのか。

 世界遺産は、1972年の第17回ユネスコ総会で採択、1975年に世界遺産条約が発効された。

世界遺産条約は、正式には「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」。

 文化遺産や自然遺産を人類全体のための遺産として損傷、破壊などの脅威から保護・保存していくために、国際的な協力及び援助の体制を確立することを目的とした条約。

 ネパ-ル政府が登録申請して、国際連合ユネスコに登録されたのは、1979年に自然遺産のサガルマ-タ国立公園エリアと文化遺産カトマンドゥ盆地の二か所。そして1984年に自然遺産チトワン国立公園エリア。次いで1997年に文化遺産のブッタ仏陀の生誕地ルンビニ

 ネパ-ル語のサガルマ-タはエベレストのこと。チトワンはネパ-ル憲法に王様が存在していた時代だったので、ロイヤル・チトワンの正式名称だった。

 カトマンドゥ盆地は頭初、ネパ-ル政府がユネスコに登録申請時にはカトマンドゥ周辺の自然の景観を含めた自然遺産と文化遺産の混合遺産の申請であったが、ユネスコは自然景観を抜きにした文化遺産として登録承認した。

それでは、日本の世界遺産を見てみる。

 日本政府は、この「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」を1992年に締結・国会で批准した。

 ネパ-ルで登録完了してから13年後だった。日本の自然環境保護に関しては、国立公園法に基づく公園指定がある。この国立公園法は、保護と利用という相反する目的があって、なかなか保護重点になっていない問題点が指摘されていた。

 世界遺産登録は保全が目的。ユネスコ世界遺産登録の遅れは、日本人の歴史遺産保護よりも観光や経済重視の表れ、のような気がするのはわたしだけだろうか。

世界の世界遺産の現状

世界遺産リストは、2017年現在1073件が登録されている。

 世界遺産条約の締約国は193ケ国で、その中で、国内に世界遺産保有する国は165ケ国。

世界遺産の種類とその数  

世界自然遺産 832ケ所 
世界文化遺産  206ケ所 

複合遺産 35ケ所 (文化と自然の両方の遺産) 

危機遺産 54ケ所 (一度登録されたが、その後倒壊などで壊れたが、抹消するに至らない遺産) 

登録を抹消された遺産 2ケ所

 

 ネパ-ルの文化遺産は、2015年4月25日午前11時56分、カトマンドゥの北西約70kmに位置するガンダキ県ゴルカ郡が震源地のネパ-ル大地震で一部倒壊した。ネパ-ル全体で9000人の死者を出し、世界文化遺産も当初の情況から著しく倒壊などの変化しているので、今後どうなるのか心配だ。

 カトマンドゥ盆地の世界文化遺産は、1979年登録以降に、カトマンドゥの急激な都市化と維持管理体制が貧弱などにより、一時期危機遺産の指定を受けていた。

 

参考資料

在ネパ-ル日本大使館ホ-ムペ-ジ

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

ネパ-ル 地球の歩き方

カトマンドゥ・デイ・ドリ-ム 佐々木幹郎

ネパ-ル紀行 三瓶清朝

ネパ-ル アジア読本 

NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局

 

パタン旧王宮

手前からスンダリ チョ-クとムル チョ-ク、その右奥にタレジュ寺院、その奥がデグタレ寺院

左奥の三重屋根はマニ・ケシャブ・ナラヤン チョ-ク

ネパ-ル語のチョークとは、中庭を囲む建物のこと

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手前の四角のスンダリ チョ-ク

17世紀に建造された王の住居。

 門の前にはハヌマーン(猿の神様)、ガネーシュ、ヴィシュヌの化身であるナルシンガ(ライオン)の像がある。

 わたしは未だにスンダリチョ-クに入場したことがない。中庭の中央は王の沐浴場になっているらしい。この沐浴場は1960年に修復され、浴槽の内側は繊細な彫刻が施され、噴水の噴出口にはヴィシュヌ神とラクシュミ神が乗り物であるガル-ダにのっている石像がある。浴槽の上にはクリシュナ寺院のミニチュアが置かれている。また、中庭の中央にある石の台座は、王が修行のためにその上で雨の日も風の日もその上に寝続けたと言われている。

 スンダリチョ-クの「スンダリ」は、ネパ-ルでよく女性に呼びかける言葉と同じ「美しい」という意味で、その名のとおり美しい中庭。

 

スンダリ チョ-クの奥となりのムル・チヨ-ク

旧王宮の3つの建物のうちで一番古く大きい。

現在の建物は1666年にシュリ・ニワス・マッラ王によって建立。

王の執務室になっていて、王位の継承などに使われていた。

建物の柱にはヒンドゥー教の神々が描かれている。

 

ムル・チヨ-クの右奥のタレジュ-寺院

 タレジュー寺院は、ネパ-ル一番大きなお祭りダサインの祭りに、水牛やヤギなどが生贄として捧げられる。

 

タレジュ-寺院の奥の四十屋根のデグタレ寺院は

デグタレ寺院はパタン・ダルバールスクエア-の中でも最も目を引く寺院。

何度も火災や地震により崩壊し、修復再建されている。

 7階建てに見えるが実際は5階建。近くにはガンジス川の女神とジャムナ川の女神の像もある。

 

左奥のマニ・ケシャブ・ナラヤン チョ-ク王宮・現在はパタン博物館

1734年に完成した、王宮の中の建物では一番新しいもの。

 かつて王が舞踏や音楽を楽しむ場所であったといわれている。それぞれの寺院入り口には門があり、ここの門は金色の装飾を持つので「スン・ドカ」と呼ばれている。ネパ-ル語の「スン・ドカ」は黄金の門の意味。この上にある金の窓から王は、広場に集まった民衆に姿を見せていた。

 現在の建物は1997年に改装され、現在はパタン博物館になっている。展示品の多くは、ヒンドゥー教の神像と仏教の仏像などの装飾品が展示されている。

旧王宮の民家に入り込んで怒られた

 マニ・ケシャブ・ナラヤン チョ-ク王宮は1734年に完成。ここは民家として使われていたが、1997年にパタン博物館になっている。

 私は1991年に民家のこの建物に入り込んだ。アンナプルナⅠ峰北海道遠征隊の副隊長でネパ-ルを訪れ、登山を終えて自転車でカトマンドゥ観光していた。旧王宮内部の階段を上っている途中、住人の女性にいきなり怒鳴られた。ネパ-ル語なのでなにを云っているのか分からない。

 寺院と思って入り、階段を上っていた。今ではここの住人に怒られたのを懐かしく想い出している。

 

パタン旧王宮について

14世紀から建造された、マッラ朝の歴代の王が住んだ王宮。

パタンの王宮は、チョーク(中庭を囲む建物)の建造物。

 パタン王宮は、王が即位する度に増築された。一番多い時には12のチョークがあったが、現在残っているのはこのうち一列に並んだ3つ。

 この王宮には謁見の間、会議室、客間、居室、浴室、台所、寺院、中庭などがある。これらは14世紀ごろから300年かかって造られた。その後、戦争や地震などにより壊れ、その度に再建修復している。

 

旧王宮の左側は寺院や仏塔

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第79回

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その七十九回目

パタンの王宮と寺院や仏塔 その七回目

パタン旧王宮広場

 

 前回は、もっとも王宮広場に近い寺院のマチェンドラナ-ト寺院 Machhendranath temple の写真を見た。

パタン市内の寺院などの写真を6回に亘って見てきた。

今回は、パタン市の中心にあり、世界遺産登録されている旧王宮広場の写真を見てみる。

 

パタン市はラリトプ-ルと呼ばれ、正式名称でLalitpur Sub-Metropolitan City。

ネパ-ル国内では、カトマンドゥ、ビラトナガル、ポカラの次に4番目に大きな都市です。

 ネパ-ルのラリトプ-ル地区のバグマティの南岸のカトマンズ渓谷に位置し、カトマンズからバグマティ河を挟んで二重の都市を形成している。

 1000年頃には約10万人の住民が住み、世界で10番目に大きな都市だった。2001年には166,674人の人口。現在は約30万人都市。

 

カトマンドゥ盆地3王時代

パタン王宮広場は、12~18世紀に建てられた寺院などが多い。

その中でも、主に16世紀から18世紀のマッラ王朝期に建立されている。

 ここの王様、1619年にカトマンドゥ王国から独立している。カトマンドゥ王からのパタン王の分家だ。国王の息子が独立したのか王の兄弟なのかは分からない。誰か知ってる方がおりましたらご教授お願いします。

そもそもは、13世紀からマッラ王がバクタプル王宮を建立した時から始まる。

 1450年にバクタプル王からカトマンドゥ王が独立する。バクタプル王からカトマンドゥ王が分家した。バクタプル王宮の位置は、カトマンドゥとパタンの東方8km。

その次にポカラ王も分家してカトマンドゥ盆地に3王国時代がやってくる。

 その後であるが、カトマンドゥ盆地の3国王が戦争で敗れる。1769年カトマンドゥから西に90kmのゴルカの王ブリトゥビ・ナラヤン・シャハが、バクタプル・カトマンドゥ・パタンを攻め戦勝し、シャハ王朝時代を築く。このシャハ王、ネパ-ルを統一する最初の王様。

 この時の3王が敗れた戦争、カトマンドゥとパタンの王様はバクタプル王の住む王宮内の黄金の門に逃げ入つたと伝えられている。バクタプル旧王宮は後日に写真で見ることとする。

それではパタン旧王宮広場を写真で見てみる。

 パタンの王宮広場、その広場を取り囲むように半径300m~500mに多くの寺院と仏塔も散在する。

王宮広場の南側の寺院は、ここまで6回で写真を見た。

 

写真の右側がパタン国王の居住建物

左側に寺院や仏塔などが並ぶ

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パタン市地図

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パタン旧王宮地図

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王宮広場

左下に外人に入場券を売るチェックポスト

入り口の門がある

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市内南側のバスパ-クから歩いて数百m

観光客はタクシ-で訪れるので、ここを歩くのは地元の市民

地元の商店街が続く

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パタン王宮広場入口の門

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王宮広場 パタン・ダ-バ-・スクエアの説明石版

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国王石柱

カトマンドゥ盆地で花開いたネワ-ル文化の金細工で出来ている

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第78回

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その七十八回目

パタンの王宮と寺院や仏塔 その六回目

マチェンドラナ-ト寺院 Machhendranath temple

 

 前回は、パタンの王宮広場の南側にあるジェスタバマ・マハヴィハ-ルミナス寺院の写真を見た。

 今回は、もっと王宮広場に近い寺院のマチェンドラナ-ト寺院 Machhendranath temple の写真を見てみる。

 マチェンドラナ-ト寺院 Machhendranath templeは、1673年に15世紀建立寺院が再建されている。

 寺院はラト・マチェンドラナ-トと呼ばれ、ラトはネパ-ル語で赤、寺院全体が赤く塗られている。

 シヴァ神の化身のマチェンドラナ-トは、雨と豊穣の神で、仏教徒観音菩薩なので、ヒンドゥ-教徒と仏教徒が礼拝する寺院。

 わたしは一度も見たことがないが、雨季のモンス-ン季前には、マチェンドラナ-ト祭りが行われる。祭り最中は、ご神体が巨大な山車に乗せられてパタン市内を巡行するらしい。

 

マチェンドラナ-ト寺院 Machhendranath temple

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パタン市内地図

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マチェンドラナ-ト寺院門

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二頭の獅子が寺院を守る

ネパ-ル語でトゥンダ-ル。屋根の軒先を斜めに支える木製の「方杖ほうづえ」。王宮や寺院に見られ、寺院に祀られている神に関するさまざまな神獣や神像が彫られている。長さはほぼ4m、幅0.5m。軒先の2m間隔で並んで付けられている。この方杖に特徴なのは、その一本一本に華麗に色彩された男神や女神が彫刻されている

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ネパ-ル語でト-ラナ。扉の上に飾られている、仏像や神・獣が刻まれている半円形の板。神と仏が中央に彫刻されている

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第77回

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その七十七回目

パタンの王宮と寺院や仏塔 その五目

 

前回は、パタンのマハボ-ダ寺院の写真を見た。

今回は、パタン王宮広場の南側にあるジェスタバルナ・マハヴィハ-ルミナス寺院 Jestha Varna Maha Vihar Minnath Tempelの写真を見てみる。

 

ジェスタバマ・マハヴィハ-ルミナス寺院 Jestha Varna Maha Vihar Minnath Tempel。

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寺院入口

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ネパ-ル語でガジュ-ル

屋根の頂にある先の尖った金属。天から神様が降り立つ目印になる。金色のベル形や壺形・相輪・宝珠などの形が組み合わさっている。本尊のヴィシュヌ神の武器である三叉戟(さんさげき)が立っているものもある

 

ネパ-ル語でドバシャ

屋根のテッペンから軒下に垂れ下がっている帯状の飾り、神仏が降り立つ道標・道筋

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ネパ-ル語でトゥンダ-ル

 軒先を支える方杖。ネパ-ル王宮・寺院の塔建築のネパ-ル独特の様式。屋根の軒先を斜めに支える木製の「方杖ほうづえ」が付いている。長さはほぼ4m、幅0.5m  

 軒先の2m間隔で並んで付けられている。この方杖に特徴なのは、その一本一本に華麗に色彩された男神や女神が彫刻されている。彫刻は様々で、先手観音の手が何本もある物、女神像や動物男像の下に、鮮明な男女媾合(こうごう)像や男女三人が絡み合う像など犬や馬と男神が絡み合う像、男女の性器を愛撫し合う像、女が自分の性器を参拝者へ見せる像。落雷避けの姿でもある

女が自分の性器を参拝者へ見せる像をネパ-ル人は、落雷避けの姿としている

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第76回

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その七十六回目

パタンの王宮と寺院や仏塔 その四目

マハボ-ダ寺院 Mahabouddha Temple

 

 前回は、パタンのラガンケル・バスパ-クから一番近くの寺院ルドラヴァルナ大聖堂の写真を見た。

 今回は、前回のルドラヴァルナ大聖堂からポカラ中心地の王宮広場に向かって直ぐ、マハボ-ダ寺院の写真を見てみる。

 マハボ-ダ寺院は、三千仏寺院とも呼ばれ、建築年は1564年から造り始め、完成は1600年。

インド・シカラ様式建物で、石細工に9000の仏像を彫った高さ30mの寺院。

 ネパ-ルの石仏像職人のアヴァイ・ラ-ジが、インドのブッダガヤ巡礼時に見た大塔を真似て、建造を始める。その後、子供や孫が建築を受け継いで完成させた。

 現在のマハボ-ダ寺院は、1934年の大地震で壊れ、修復再建されたもの。2015年4月25日のネパ-ル大地震でも石がずれて、修復や余震で大破しない様にしている。

ポカラの仏像職人、シャキャ族

ポカラはネワ-ル文化を支えた職人の町。

 金銀細工や木彫の他に、石細工職人なと、今でも多くの文化を受け継いだ職人が暮している。

インド・シカラ様式

 インド・シカラ様式は、石を積み上げた髙塔寺院で、石の一つひとつに仏像が彫られている。

 

マハボ-ダ寺院 Mahabouddha Temple

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すぐ横に少し小さな寺院がある

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マハボ-ダ寺院の正門

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寺院の入口を入ると並んでいる仏像

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2015年4月25日ネパ-ル大地震で壊れる

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寺院内で清掃

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ネパ-ル語でト-ラナ

木造なら扉の上に飾られているが、ここのト-ラナは石造り。仏像や神・獣が刻まれて

いる半円形の石板。神や仏が中央に彫刻されている

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第75回

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その七十五回目

パタンの王宮と寺院や仏塔 その三回目

ルドラヴァルナ大聖堂 Rudravarna Mahavihar Temple

 

前回は、パタン市地域に4塚があるアショカ・ストゥパのうち、3塚の写真を見た。

今回は、カトマンドゥ市内から大型の路線バスに乗り、パタンのラガンケル・バスパ-クに着いて、一番近くの寺院ルドラヴァルナ大聖堂の写真を見てみる。

パタン王宮広場を中心に、寺院群があるが、このルドラヴァルナ大聖堂は南側。

 

ルドラヴァルナ大聖堂 Rudravarna Mahavihar Temple

6世紀、リッチャヴィ王朝時代に建立。

現在は仏教(チベット仏教)寺院だが、ヒンドゥ-教の神像もある。

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ルドラヴァルナ寺院大僧院の表門のア-チなのか、門前に獅子二頭が守っている方が正門なのか

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ルドラヴァルナ大僧院門

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裏門もある

レンガ造りで、入口や窓などは典型的なネワ-ル文化建築

ネパ-ル語でト-ラナ、扉の上に飾られている、仏像や神・獣が刻まれている半円形の板。神と仏が中央に彫刻されている

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入り口から入ると大きな中庭がある

 

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前にはチベット仏教の大きなマニ車

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方杖 ほうづえ

ネパ-ル語でトゥンダ-ルの屋根の軒先を斜めに支える木製の「方杖ほうづえ」。長さはほぼ4m、軒先の2m間隔で並んで付けられている

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後ろにはチベット仏教マニ車

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国王像

後ろにはチベット仏教マニ車

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仏塔

手前にはチベット仏教マニ車

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ネパ-ルの宮廷と寺院・仏塔 第74回

ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その七十四回目

パタンの王宮と寺院や仏塔 その二回目

アショカ・ストゥパ

 

前回は、パタン市について、市内の寺院の写真など見た。

 今回は、299年からパタンに人が住み始めたが、その550年も前の紀元前に、インドの王様アショカ王が建立した土饅頭型の塚の写真を見てみる。

 パタン地域には、アショカ・ストゥパと呼ばれている4塚がある。紀元前249年~250年、初めてインドを統一したアショカ王が、現在のカトマンドゥ盆地を訪れて建立。

 アショカ王はネパ-ルのブッタ(釈迦)の生誕地ルンビニを訪れ、その後ブッタが現在のカトマンドゥを訪れているので、アショカ王も現在のカトマンドゥ盆地に来てスワヤンブナ-トとボダナ-トを建立し、カトマンドゥの隣の街パタンに4塚を建立している。

アショカ王

 紀元前のこのころ、インドの国境に近いお釈迦様生誕地ルンビニはインド文化圏であり、その後の現在のカトマンドゥはネパ-ルと言われていた。

 アショカ王はここパタンで4塚と、現在のカトマンドゥ市内にスワヤンブナ-トとボダナ-トの、これも塚を建てている。この塚(現在は仏塔)はネパ-ル語でチャイチィヤと呼ばれ、パタン地域のアショカ王建立4塚は地球の4つの時代を表現していると云われている。

現在では「仏塔」と呼ぶが、当時はただの土饅頭の塚であったようだ。

 わたしは10年間札幌とネパ-ルを行き来してきた。その間にこの地パタン市内を見てきたが、四塚在るとされるアショカ・ストゥパのうち三塚を見るだけ。残りの一塚はどこにあるのだろうか、探し続けている。

 スワヤンブ-ナ-トは、万物の創造者と言う意味で、直訳すると「自存者寺院」。ブッタのシヤリラ(遺骨)が分骨された本物の仏舎利塔ではなく初念仏である。

スワヤンブ-ナ-トは規模が大きく、大チャイティヤ。

 アショカ王は、インドのマウリア朝第3代の王。サンスクリット語でअशोक 。その意味は無憂〈むう〉。在位は紀元前268年頃から紀元前232年頃。漢訳では阿育王と書かれる。古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。

 どうしてアショカ王がネパ-ルを訪れたかは、中国の唐代の玄奘三蔵の著書「大唐西域記」に記されている。

玄奘三蔵の著書「大唐西域記

 玄奘三蔵は、629年にインド圏を旅し、経典などを収集して、645年に帰っている。その間に657部の経典や他に仏像などを持ち帰る。経典の三分の一を翻訳。その後、旅行記として「大唐西域記」を書く。

 636年、玄奘三蔵がこの石柱を訪れたことが記されている「大唐西域記」には次の記述がある。

 三蔵がお釈迦様の生誕地を訪れると、そこにはインドのアショカ王の建立した石柱が建っていた。

 インドのアショカ王が、お釈迦様の生誕地のルンビニを訪れ、石柱を建立。その石柱に古代文字で、「アショカ王がブッタの生誕地を訪れ、地元民の租税を八分の一に減額する」と書いてあった。

 この「大唐西域記」のアショカ王記述がなければ、アショカ王が現在のネパ-ルを訪れたことや、お釈迦様(ブッタ)がネパ-ル生まれだったことも判明しなかったこと。最近まで、ブッタ生誕地がインドかネパ-ルかの論争が続いていた。

ネパ-ルのルンビニで、お釈迦様(ブッタ)生誕施設を発掘

 1895年~96年、ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルミンディの藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。

 1995年にネパ-ル・インド・スリランカパキスタンバングラディッシュ・日本の六カ国の考古学者がルンビニ・マ-ヤ聖堂を発掘。新聞記事ではマ-ヤ聖堂の石室の発掘でブッタの生誕地と判明した。

 

参考資料

在ネパ-ル日本大使館ホ-ムペ-ジ

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

ネパ-ル 地球の歩き方

カトマンドゥ・デイ・ドリ-ム 佐々木幹郎

ネパ-ル紀行 三瓶清朝

ネパ-ル アジア読本 

NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局

 

アショカ・ストゥパ(仏塔)

 

パタン地図の南側のアショカ・ストゥパ

ここが、1950年代に写真を撮ったトニ-・ハ-ゲンの写真の場所

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パタン地図

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パタン地図の北東側のアショカ・ストゥパ

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パタン地形図の西側のアショカ・ストゥパ

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1950年代のアショカ・ストゥパ、土まんじゅう型塚

パタン市内の仏塔、現在は周りが住宅や商店街で埋め尽くされているが1950年代は畑だったのだろう

トニ-・ハ-ゲン撮影

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1895年~96年、ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルミンディの藪の中で、古代文字で詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見

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1995年、ネパ-ル・インド・スリランカパキスタンバングラディッシュ・日本の六カ国の考古学者がルンビニ・マ-ヤ聖堂を発掘。新聞記事ではマ-ヤ聖堂の石室の発掘でブッタの生誕地と判明したとある

636年、玄奘三蔵がこの石柱を訪れたことを記した大唐西域記」で、ブッタの生誕地としていた。

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ルンビニ・マ-ヤ聖堂発掘と同時に、ブッタ生誕石像も発見

 

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