koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの樹木と花 第23回目 ネパ-ルのエ-デルワイス・薄雪層 その1

ネパ-ルに咲く樹木の花と植物の花 その二十三回目 

ネパ-ルのエ-デルワイス・薄雪層 その一回目

 

2017年の9月から「ネパ-ルの樹木と花」を写真で見てきた。

 前回までのネパ-ルの木や花は、ジャカランダ・マンゴ-・ラリグラス・ハイビスカス・月桃・ブ-ゲンビリア・コ-ヒ-・柿・バナナ・オレンジ・ザボン・紅茶・りんご・蕎麦・我が家のシャコバサボテンとお金のなる木・クリスマスの木・ネパ-ルのポインセチア・パパイヤ・ブル-ポピ-。

 今回は、ネパ-ルのエ-デルワイス薄雪層を写真で見てみる。ネパ-ルでのエ-デルワイス生息分布は、標高3千五百m前後が多いようだ。

 わたしがネパ-ルで薄雪層を観たのは、1981年のランタンヒマ-ルと1991年のアンナプルナヒマ-ル、それと2005年のソルク-ンブ(エベレスト街道)地域の三地区。

 

ネパ-ル・ランタンヒマ-ルのエ-デルワイス

 ランタンヒマ-ルでは、ランタン村(LAngtang)3,500mを過ぎて直ぐ、道端に可憐に咲くエ-デルワイスを見ることができた。そこから、ランタンリルン峰(Langtang Lirung)7,234mの麓にあるキャンジン・ゴンパ(Kyangjin Gompa)3,800mまで花を見ることができる。

 現在では、ランタン村もキャンジン・ゴンパもトレッキングの宿泊場になっているが、1981年には宿泊のバティ(ロッジ)はなかった。ランタン村は現地の人が住み、キャンジン・ゴンパはヤクの牛乳から作るチ-ス工場の小さな家が一軒だけ。わたしがトレッキングした時代は、宿泊用のテントを持参し、三食の食事を作ってくるコックを同伴。

 当時3人のトレッキングだったが、食糧や衣食住を担ぐ大勢のロ-カルポ-タ-などを連れた大名行列だった。

 

ランタン村の現状

 このランタン村、2015年4月25日お昼頃に発生した、ネパ-ル大地震でほぼ全滅した。ランタン村の最上部に聳えるランタンリルン峰尾根にある懸垂氷河が、地震の揺れで崩れ落ちた。その氷河の氷が、落下する過程で小さな氷に粉砕され、途中の土砂と混じりあって落下。ランタン村は旧村と新村の二か所あるが、その両方の村の真上に落ちて、その下部のランタン川を埋め尽くした。

 この地震の年の約半年前には、インド大陸へ上陸した台風が、インドを北上、ネパ-ル経由して中国チベットへ抜け。ネパ-ルのアンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルに大雨・大風雪をもたらした。2014年10月13日から14日の一日で、なんと120cmもの積雪と暴風。アンナプルナトレッキング中の、トレッカ-43名が死亡。その大低気圧災害のため、次年の2015年は、アンナプルナ方面のトレッキングを敬遠したトレッカ-がランタンヒマ-ルに詰めかけていた。地震でハンググレッチャ-崩落し、ランタン村周辺だけでも、トレッカ-達100名以上が行方不明になっていた。

生き残ったランタン村住民は、全員がカトマンドゥへ避難。地震がお昼ころだったので、家畜のヤクや羊を、ランタン村より上部の草地へ連れて行った人達が、たまたま助かっている。

 

ランタンヒマ-ルのランタン・リ峰も地震で崩れる

ネパ-ル大地震時、わたしの友人がランタンヒマ-ルのランタン・リ峰をアタックしていた。地震による氷河崩壊の氷は、ベ-スキヤンプを襲うが、登山隊全員無事。ネパ-ル軍のヘリコプタ-が救助に駆けつけ、キャンジンゴンパまで空輸。到着したキャンジンゴンパは氷河雪崩の爆風で壊滅の被害。

 

ネパ-ルのエ-デルワイスの写真紹介が、ランタンヒマ-ルの昨今に及んだ

ネパ-ル・ランタンヒマ-ルのエ-デルワイス

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ランタンヒマ-ルのエ-デルワイス群落とランタンリルン峰

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1981年ランタン村 旧村

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2002年の新ランタン村 右上に旧村が見える

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2015年4月25日の地震から三日目のランタン村 ヘリから

村全体が氷河雪崩の土石氷に吹き飛ばされ埋まった

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懸垂氷河崩落によるランタン村を押し流し、ランタン河を埋め尽くした土砂氷

カトマンドゥ大学教授の伏見氏ホ-ムペ-ジより

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右上のランタンリルン峰・懸垂氷河と下部のランタン村(グ-グルア-ス画像含)

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1981年

キャンジンゴンパからランタンリルン峰 

ロ-カルポ-タ-達は、子供も混じって一家で 

男のポ-タ-はネパ-ル帽子のポピ-をかぶり 女性はマフラ-を帽子代わりに 

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2002年 キャンジンゴンパ

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キャンジンゴンパとガンチェンポ峰6,387m

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地震から三日後のキヤンジンゴンパ  

地震による氷河雪崩の爆風で屋根が吹き飛ばされた

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キャンジンゴンパ住民は近くにテントへ避難

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再建されたキャンジンゴンパのバティ(ロッジ)

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地震前のランタン・リ峰と登山隊ベ-スキヤンプ

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上の写真 地震前 

下の写真 地震後 頂上南壁の氷河が崩れている  稜線左のピ-クの形状もギザギザに変形

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キャンジンゴンパの上部

放牧されているヤク

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ヤクの放牧地にテント

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ネパ-ル語のバビシェは「未来」

ネパ-ル語でf:id:koyaken4852:20180114133507p:plainバビシェと云えば未来と翻訳される

昨日、バビシェ・マウンテン・クラブの創立10周年記念パ-ティ

 

 昨日、2018年1月13日(土)にススキノのPANTERA NEGRA パンテラ・ネグラで、バビシェ・マウンテン・クラブ(Babishe Mountain Club)の創立10周年記念祝賀会が催された。会員と来賓合わせて114名が参加。

ちなみ、ネパ-ル語の f:id:koyaken4852:20180114133530p:plainは、名詞的な使い方ではバビッシャと発音する。

 開会に先立ってのあいさつで、バビシェ会長さんは、会の活動10年を振り返って、次のような苦労会運営を語ってくれた。

 創立時15名で出発。会の登山活動は山菜取りからヒマラヤまで。最初の年は、まず最初の入会者が30台の人で、会員総出で新人教育を行う。会の教育制度の柱は、新人を一人前の登山愛好者に育てること。登山の知識と技術を体得させること。初年度一年間に20台と30代の新人10名が入会。

 2007年発足で、2017年末で会員数115名に達した。初年度の若者が入会した状況が、二年目以降の新人対応運営を確立させる元になった。

 山ガ-ルブ-ムに乗って、北海道新聞社出版部から北海道初の「山ガ-ル」総編集を任されて出版。内容改編の再販まで行った。

発足初年度から、会山行方針にのっとって、ヒマラヤ遠征を毎年続けている。

 土曜日・日曜日に会社を休めない会員のため、平日山行部の専門部を設けて、会員の登山要求に応えている。これは、わたしが目指している労働者の登山、まさに勤労者山岳連盟加盟団体に相応しい活動の一端と見うけられる。

等など、楽しいバビシェの登山活動と共に、多くの苦労話であった。

 来賓のごあいさつには、10年間で山岳事故遭難が多い、事故を減らす活動に力を入れてほしい、との指摘が、わたしの気持ちと合致した。山岳団体の死亡事故は、自分の首を絞めることは勿論、一般社会に登山は危険な危ない活動と非難対象になってしまう。登山愛好者の山での死亡は、何よりも、亡くなる本人の無念や、家族の生活や心身の破壊に直結する。来賓の祝辞にしては、遠慮のない話。山岳連盟と加盟山岳会の垣根のない関係が覗える。

10年で100名を超える会員を擁し、登山活動旺盛な会活動が紹介された。

パワ-ポイントの山行の写真や映像。楽しい3時間を過ごさせていただいた。

 

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祝賀会参加者へのお土産 Tシャツのバビシェ・クラブのロゴマ-ク

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祝賀会参加者へのお土産 ネパ-ルの財布

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ネパ-ル語 デバナガリ文字

 

 

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ネパ-ルの樹木と花 第22回目 ブル-ポピ-

ネパ-ルに咲く樹木の花と植物の花 その二十二回目 

ブル-ポピ-

 

しばらくぶりに前回から、「ネパ-ルの樹木と花」を再開。

今回は、ポピ-のうちでも、ブル-色のブル-ポピ-。

 わたしはブル-ポピ-を見たことがない。ブル-ポピ-を観れる場所は、ネパ-ルでもヒマラヤ地域の高度の髙い場所。高いと云っても氷河や雪のある高高度でなく、その手前の4千m前後の森林帯を越えた、低木地帯に限られる。そして、季節は雨期のモンス-ン季の夏に限られる。

 わたしは雨期にもネパ-ルで生活しているが、わざわざ山蛭ヒルの出る季節に、ヒルの居る地帯へ行く気にはなれない、のでブル-ポピ-の花を観る機会を逸している。

ポストモンス-ンに、ネパ-ルヒマラヤをトレッキングでブル-ポピ-の、開花時期を終えたものを写真で見る。

 

ネパ-ルヒマラヤのお花の季節は山ひるの出る雨季

 雨季のネパ-ルヒマラヤは、私たち人間にとっては嫌な季節でもある。いやなのは「山蛭ひる」。動物の血を吸って子孫を残すのだ。血を吸うことでは蚊と同類となる。草原や木の上で、近くをどうぶつが通るのを待ち構えている。

 ひるが多いのは森林限界以前の標高地帯。ヒマラヤ山岳地帯では2千m前後で、木の下部を歩行すると、動物の通る気配を感じて「ポトリ」とひるが落ちてくる。そして、草原では、ここでも動物の通る気配が分かって、足にへばりつく。

 高山植物に興味のある人や、ヒマラヤの花の撮影で、モンス-ン季のネパ-ルヒマラヤを訪れる人が居る。どうもわたしには理解しがたい人達のように思える。

 私がエベレスト街道を訪れた季節は10月~11月のポストモンス-ン季。エ-デルワイス(薄雪草)は枯れかかっていて、ちょうど見ご頃。エ-デルワイスはネパ-ルヒマラヤのどのコ-スでも、3千5百m前後の標高でこの頃見ることができる。

 

ヒマラヤの青いケシ 華の季節を終え種を作る季節  雨季にはブル-の花を咲かせる

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ブル-ポピ-( ケシ)の花のスケッチ

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ネパ-ルの樹木と花 第21回目 パパイヤの木

ネパ-ルに咲く樹木の花と植物の花 その二十一回目 

パパイヤの木

 

 このプログで、ネパ-ルの樹木と花を、2017年9月27日(水)~2017年11月27日(月)と2017年12月25日(月)に、20回写真を見た。

 その後に、沖縄の演舞やネパ-ルの借家の写真を見て、今回から又ネパ-ルの樹木と花の写真を見てみる。

今回は、ネパ-ルのパパイヤの木。

 ネパ-ルの気候は亜熱帯から熱帯気候に属するだろう。日本の沖縄から台湾あたりの緯度だから、沖縄の樹木や花と類似した植物分布になっている。

 ネパ-ルのわたしの住んでいるカトマンドゥ市内には、バナナやパパイヤの木が何処にでも育っている。一軒家の家の庭には、普通にパパイヤの木が生っているが、その実を食べている様子は、なかなか見ることがない。果物屋さんの店先には、いろいろな果物が処狭しと並べられ、パパイヤは実が熟す前の青いパパイヤと、熟した黄色のパパイヤが並べられて売られている。

 

青い果実のパパイヤと黄色い実のパパイヤ

パパイヤを少し調べてみた。

 その学名は、Carica papaya 。パパイヤでなくパパヤになっている。科名や 属名はパパイヤ科  パパイヤ属(カリカ属)。

 パパイヤは一本の木に、実が生る物とならないものがあるらしい。それは、品種として雌雄が異なる株と、一本で両性花を付け実を結実する、二種類ある。

 普通に食べるパパイヤは、黄色に熟した物で、乳臭い香りのもの。沖縄では、青い果実を収穫して、せん切りサラダで食べている。わたしは沖縄旅行の時には、安かな青いパパイヤを購入して、家でサラダにしい食べたことがある。ネパ-ルでも果物屋さんに、青いパパイヤが売られているので、サラダにするのだろう。

 

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どこの家の庭にもパパイヤやバナナの木

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果物屋には黄色いパパイヤの果実と青い果実

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花咲くパパイヤの木

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バナナの木の隣にパパイヤの木

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ネパ-ルの借家 第16回

ネパ-ルのフラット生活(ネパ-ル暮らし雑感) その十六回目

わたしの借家前は草地の空地。 ネパ-ル牛のえさ場

 

 わたしは10年と少し前からネパ-ルで生活している。わたしが初めてネパ-ルの首都カトマンドゥ市内に借りた借家前には草原の空地がある。ここは牛にとって丁度良いくらいの餌になる雑草の草原。

 

ネパ-ルの牛は、ヒンドゥ―教の神様シヴァ神の乗り物

 ネパ-ルの牛は、ヒンドゥ―教の神様シヴァ神(Shiva)の乗り物。そのため、神様ではないが神聖化されていて、神同様信仰の対象になっている。

 シヴァ神を少し解説。シヴァは、その額に第三の眼を持つ。手には三つ又の鉾を持ち、宇宙破壊神。ネパ-ルの多くの神様のうちでも、絶大な人気がある。

 シヴァ神の婦人である妃は、パ-ルヴァティ-神(Parvati)。パ-ルヴァティ-神は、ヒマラヤの娘と云われ良妻賢母の女神。

 シヴァとパ-ルヴァティ-の二人は、中国のチベット地方に聳えるカイラス山に住んでいる。

ネパ-ルでは、ヒンドゥ-教徒が80%。仏教が10%で、他の10%がその他の信教。

 信仰の対象になる仏像などは、わたしは何故なのか不思議に感じているが、ヒンドゥ-教は神さまで仏教は仏さまになっている。ヒンドゥ-教は仏教と同様の宗教なのに、どうして仏様でなく神様なのだろう。

 ヒンドゥ-教の神様は俗っぽい。古楽器のヴィ-ナや笛を吹く姿の神や、宇宙創造神が昼寝をする姿勢の神像など。

 面白い神像の話をひとつ。シヴァとパ-ルヴァティ-夫婦二人の息子である、商売の神様のガネ-シャ神(Ganesha)は、ゾウの顔を持つ。母親のパ-ルヴァティ-神が入浴中に、誰も近づけないように言いつけられ、父親のシヴァ神まで近づけなかった。父親が激怒。怒った父親が首を刎(は)ねてしまった。怒りから覚めた父親は、慌てて近くにいた像の頭をくっ付けた、のだそうな。

 

ヒンドウ-教の神様の乗り物、牛保護の牛刑法

ネパ-ルの民主化が始まったのは1990年ころから。

 ネパ-ル憲法には国王規定があり、国王はヒンドゥ-教でなければならない、の規定もあった。憲法の規定を国民に遵守させるためには、民法や刑法で具体的条項を設け、罰則規定も盛り込まれた。

 ヒンドゥ-教のシヴァ神の乗り物の牛保護のために、牛刑法があった。家畜の牛や野良牛を傷つけたり殺したりすると懲役刑に科せられた。

 1964年マヘンドラ王憲法から1990年ネパ-ル王国憲法までは、ヒンドゥ教の教えを一般国民の生活に根差すものとして、又強制力を持たせるための法律があった。牛刑法はほんの一例に過ぎない。

民主化で国教のヒンドゥ-教や国王は、憲法条項から削られた。牛刑法も廃止。

 しかし、ネパ-ルのヒンドウ-教は何も変わらない。牛の肉を食べる日本人は、カ-ストの最下位にも届かない身分扱い。ヒンドウ-教徒にとっては、日本人はアウトカ-ストにも属さない野蛮な階層に見られているのだろう。民主化が進んだためだろうか、私にもネパ-ル人の友人がいる。

 

現在は、新たな牛の放し飼いは禁止されている

 昔、1980年代のネパ-ルでは、道路に寝そべる牛や道路をゆっくりと歩む牛が多く見られた。

 昔は道路の真ん中で寝そべって昼寝をしていたくらいに、カトマンドゥ市内に多くの頭数がいた。好物の草のある住宅街には今よりも多くの牛がいたのだろう。多くの牛が生活できるくらいの草地の広さがあったといえる。1970年代以前のカトマンドゥ市内は、今みたいに住宅が密集してなく、上位カ-ストの家の一階には牛部屋があつた。雌牛を飼育していた。台所は2階が普通だったようだ。牛飼いが住み込みで居住していて、乳搾りや餌やりをしてた。

 ヒマラヤや古都の観光立国ネパ-ルの道路事情の改善が急務。現在では新たに牛の放し飼いが禁止されている。だが、裏小路や草地などには、まだ多くの牛が歩き回っている。

わたしの借家前の空地には、週に一度は草を食む牛の姿が見られる。

 

わたしの借家前の空地の牛

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裏小路で一休み、寝そべる牛

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借家屋上から

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ネパ-ルの借家 第15回

ネパ-ルのフラット生活(ネパ-ル暮らし雑感) その十五回目

わたしの借家は、ネパ-ルヒマラヤ登攀の若者達の宿屋。そして私のゲストが訪れる

 

 わたしは10年と少し前からネパ-ルで生活している。最初の2年6ケ月間は、3階建の一階部分フラットを賃借していた。その後、同じ家を借りたりで、3軒のフラットに滞在した。

前回に続いて、私の借家のフラットにゲストとして滞在した方々を、写真を見てみる。

 

大家さんご夫婦・長男と 借家の屋上で

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江別市の酪農大学生3人

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ネパ-ルの借家 第14回

ネパ-ルのフラット生活(ネパ-ル暮らし雑感)

わたしの借家は、ネパ-ルヒマラヤ登攀の若者達の宿屋

 

 わたしは10年と少し前からネパ-ルで生活している。最初の2年6ケ月間は、3階建の一階部分フラットを賃借していた。その後、同じ家を借りたりで、3軒のフラットに滞在した。

 

わたしの借家のフラットに、私のゲストを迎える

 ネパ-ルのビザ(査証)は、1月1日から12月31日の間で、最高で5ケ月間取得できる。わたしは最初の3年は、いっぱいの5ケ月間滞在した。その他の7ケ月間は、私夫婦の不在。フラットの鍵は、まず門から入るのに一個。そして三階建建物に入るのに一個。もう一つ、フラットの入口ドアに一個で3個の鍵が必要。建物に入ると2階や3階・屋上への階段がある。部屋数など、一階から三階まで同じ造りの建物で、大家さんが2階に居住。一階と三階のフラットを貸している。

 部屋に入るまで3個の鍵が必要で、2組の鍵があった。、わたしが札幌とカトマンドゥを行き来するのに一組。他の一組の鍵は、カトマンドゥでエ-ジェント会社を営む友人に預けて帰札していた。

 ネパ-ルの気候は、3分季類か4分季類になり、モンス-ンとその前後。そして、冬季になる。このモンス-ン季(雨季)が建物にとって問題になる。雨季は家の中の湿度が常に100%近くを維持して、茸が生えるくらい。それで、鍵を預けている友人に、部屋の窓を開けて換気をお願いしていた。

 わたしが滞在していた時には、わたしの借りているフラットに、私のゲストも同宿してた。ゲストはわたしの友人だったり、友人の友人だったり。そして、私の不在の7ケ月間には、エ-ジエント業の友人に預けた鍵で、多くのヒマラヤ北壁登攀を目指してネパ-ルを訪れる若者が、カトマンドゥのベ-スキャンプとして使っていた。

 

わたしの借家のフラットは、ネパ-ルヒマラヤ登攀の若者のカトマンドゥ宿

 ここ10年間の日本のヒマラヤ登攀は、世界的にも隆盛期と云えるほどで、その日本の若者達は、フランのピオレ・オ・ド-ル(黄金のピッケル賞)の受賞者が大勢出るほど。この日本の若者達、皆スポンサ-を付けない自助努力登山を目指す人が多い。結果、登攀そのものにはお金を掛けるが、それ以外を切り詰めた生活をせざるを得ない生活環境。

 若者達、ネパ-ルヒマラヤの北壁登攀で、ネパ-ルの首都カトマンドゥのトリブバンエアポ-ト着、直ぐにエ-ジェント事務所にに直行。開口一番、「カトマンドゥの安宿はどこ」。そこで、私の借りているフラットの鍵が役立つ。なにせ、無料の五つ星ホテル同様。家具・食器付き。自炊OK。ベットやテ-ブル・机・椅子等々、全てにホコリが付かない様に、ネパ-ル様式の布で覆い、覆っている布を除ければ直ぐに使用OK。

 鍵を預けておいて友人からは、現在、何所どこ登攀予定の誰々が使用中のメ-ルが入る。そして、後日に使用者から「ありがとう」のメ-ル。

わたしが不在中の滞在者達の写真は、残念ながらない。

 

左・最初に賃借した家  右・2016年に滞在の家

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わたしの借家フラットに滞在した方々

借家の屋上でスイカ割ゲ-ム

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友人の日本食レストランで

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友人宅で

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