koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

あさがお 第8回目 西洋あさがお

朝顔の八回目 フライングソ-サ- 2009年栽培

前回は、2008年の西洋あさがおの花の模様と大きさ、そしてツルの長さと栽培方法などを見た。

今回は2009年栽培のあさがおを写真で見てみる。

西洋あさがおの種類は、何種類かあるらしい。これはフライングソ-サ-と名前がついている。

 この西洋あさがおの花は、ブル-色が霜降りやストライブの模様になる。真っ青や真っ白だけの花も咲く。一粒の種から咲く花は、全部同一の色と模様・紋様になるはず。しかし、一個の種のツルから咲く花でも、霜降りやストライブの紋様は、ストライブ状態は同一が多いが、霜降りの紋様これがすべて少しづつ異なる。花の大きさは10cm。

 あさがおは、日本の種類も西洋のも、花の咲く時間は数時間。一日花。日没後8~10時間後に咲き始める。札幌では、8月の暑い時期は午前11時前後にはしぼむ。9月の涼しい季節になると午後4時過ぎまで咲いている。花が薄くて花に含まれている水分が少なく、厚さで水分が損なわれると開いていられない。ブル-色が赤っぽくなって萎れ、縮む。

 路地植えで多く栽培する時は、100の発芽を植えこむ。背の高さで三分の二のツルの先を摘芯する。すると、その下部の本葉から脇芽が成長する。ゆうするに、一本が5~6本のツルに増え、その分花も5~6倍咲くことになる。

自家受粉

 植物は蜂などが、花の花粉を集めに来て、雄蕊の花粉を雌蕊に受粉させて種ができる。あさがおは、どういう訳か他人の助けを借りない。わたし達が朝に開花した朝顔を見た時は、既に受粉が済んでいる。開花前に自分で受粉をするらしい。

 

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あさがお 第7回目 西洋あさがお 

朝顔の七回目 フライングソ-サ- 2008年栽培

9月12日にあさがお6回目として、ネパ-ルのあさがおを写真で見た。

今回は2008年に植えた西洋あさがおの写真を見てみる。

 種はオランダ産で朝顔の名称がフライングソ-サ-。フライングソ-サ-は固有名詞なのか、又は西洋朝顔のことを指すのか、わたしにはまだ分からない。

西洋あさがおの花模様

 フライングソ-サ-の花は、ブル-か紫色が霜降り状態やストライブ状態が多い。青や真っ白だけの花も咲く。一粒の種から咲く花は、全部同一の色と模様・紋様。しかし、一個の種のツルから咲く花でも、霜降りやストライブの紋様は、ストライブ状態は同一だが、霜降りの紋様これがすべて少しづつ異なるのを見つけた。なかなか面白い。

花の大きさは10cm。日本の朝顔やネパ-ルの花の大きさが6cm前後なので大きい。

西洋あさがおは8mまで延びる

 西洋あさがおのツルは、4~5mくらいが普通のようだ。わたしは秋も深まって霜が降りる頃までツルを伸ばして、最大8mまで伸ばした。

いつまで栽培できるか

 あさがおは霜の降りる気温では、つぼみの開花は難しい。札幌では10月に初雪が来る。一度氷点下の気温になると、全体が枯れる。それで、霜の降りる前に根の少し上から切断して、ツルの巻き付いているロ-プを上手に外し、つぼみの付くツルを室内で育てている。根は無いので生け花状態。花屋さんで売っている生け花を長持ちさせる溶剤を入れている。つぼみの数だけ開花して、目も心も楽しませてくれる。

鉢植えも栽培しているので、これは家の中に入れて、種を取るまで水をやり続ける。

 

ここまで4mに育った西洋あさがお

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フライングソ-サ-の種子

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ネパ-ルの功徳 第4回目

ネパ-ル人の功徳生活 その四回目

 前回はネパ-ルでのご挨拶は、全体的には年齢差で違いがある。しかし、家のしつけ次第でヒンドゥ-教の教義に沿ったご挨拶をする子供達や青年達が居る、ことについて触れてみた。

今回はヒンドゥ-教徒の功徳について、日本人として考えてみたい。

 ヒンドゥ-教は、輪廻転生の教義があって、死して動物に生まれ変わる。生れ変わる動物のうち、また人間として生まれ変わりたいと誰でも願望している。その願いを叶える最良の方法が功徳を積む日常生活。

 「功徳を積みなさい」というヒンドゥ-教の教義があるのかどうか。わたしには分からない。また、「人間に生まれ変わるための功徳」が教義にあるのかどうか、これも知らない。

功徳の生活は日常

 ネパ-ル生活をしていると、なんとなく、ネパ-ル人が功徳を積む生活に日々接っし見うけられる。毎朝、大家さんご夫妻がヒンドゥ-教神様にお参りする。灯明を灯して頭を垂れる。わたしにとっては、銅製品の鈴の音が早朝の目覚まし時計となっている。家から出かけるときは、子供も大人も、外の神を祀る小規模なストゥパにお参りする。

 

日本人の善意や援助の行為は、ネパ-ル人の貧富格差を助長

 日本人がネパ-ルに学校を建設、とテレビや新聞などで報じられている。ネパ-ルを訪れた日本人が、ネパ-ルの教育事情を知り、カトマンドゥ郊外やご自分の訪ねた地に学校の校舎建設をしている。

 わたしの友人のご兄妹も定年退職を機に、数百万円を日本のNGOに寄付し、そのNGOがネパ-ルに学校を建設した。ネパ-ルの地方の町村では、100万円で小中学校一校の建設費となる。開校当初の教員給与にも充てられる額。勿論、通う生徒の教材や学用品費も賄われる。わたしには、二度その学校を訪問して大歓迎されたと、語っていた。

 ネパ-ルでは20年ほど前から、国連や日本を含めた欧米の援助で、国内隅々まで学校建設が進んだ。家や両親は貧しくボロボロの衣服で生活する、その子供達が外国援助で国から支給された学校制服を着て、ノ-トや教科書を抱えて登下校する姿を見かける様になった。

 わたしがネパ-ル暮らしをしていて、少し解ってきたことがある。貧しい生活をする一家にとっては、労働力のある子供も働き手だ。勉学のための学校に行く時間も、その家庭にとっては収入や農業のための時間であるべき。

 学校の無い貧しい町村であれば、援助の学校建物と教員派遣は、大変ありがたい。だが、通学する子供の家庭の経済援助がなければ、結果お金持ちの子供だけが教育の機会に浴するのみ。貧富格差が増々開く教育制度援助活動になってしまう。

日本人の善意や援助の行為は、ネパ-ル人にとっては単なる功徳

 わたしの家には仏壇がある。両親から受け継いだ財産の一つ。信仰や宗教を受け継いだおぼえはないが。わたしの家の宗派は浄土真宗なのだが、わたしは信心が薄いといおうか少ない。

 信心の薄いわたしは、ネパ-ルのヒンドウ-教徒と友人関係で家族ごとお付き合いして、自分の生活する世界と全く異なる世界観社会を、少し分かるような気持ちをしている。いや、何時まで経っても、ネパ-ルのヒンドゥ-教社会が理解できないこと、を理解したと云えるのかもしれない。

 これは、わたしが勝手に考えることだが、ネパ-ル人は善意で学校建設援助した日本人に対して、決して「ダンネバ-ド」とは云わないだろう。

 テレビなどで仏教徒にごはんをあげる様子が放映されている。お坊さんは頭を下げることもなく、感謝して「ありがとう」とは決して言わない。だと、お坊さんは、どう思ってごはんを貰うのだろう。お坊さんの仕事は、テンプルでお読経する。ネパ-ルで生まれたお釈迦様が2500年ほど前に、インドで悟りを開いている。お坊さんも悟りを目指して読経に専念するのが仕事なので、生産性ゼロの世界。信心深い信者の托鉢があって、専念できるので、托鉢を施与する信者へ感謝する理性や心は深いと思われる。こう思うは、宗教心の薄いわたしの間違った思考や思想。

 ごはんを貰う側のお坊さんは、感謝するとかしないとか、一切の理性や感情はないのだろう。その代り、托鉢を施与する信者は一回徳を積んでいる。功徳の世界がここにはある。

 日本人がネパ-ルに学校を建設する。この善意と云おうか援助活動は果たして感謝されるのだろうか。否、ヒンドゥ-教社会では、援助する日本人が一回功徳をするのみで、ネパ-ル人は感謝するとかしないとか、そんな理性や感情は存在しない。強いて言えば、功徳を一回積ませてあげたので、日本人はネパ-ル人に感謝すべき、と思っている。わたしはこの様にネパ-ルの社会を感じているのだが、信じられるだろうか。本当だろうか。10年もネパ-ルで暮らし、ネパ-ル人と付き合っているが、本当のところまだまだ分からない。

 日本人がネパ-ルに学校建設するのなら、自分でコンクリ-トを練り、レンガを積み、波トタンの屋根を葺き、窓やドアを作り、机や椅子を作り、そして学校の先生をしなければ感謝の対象にはならないだろう。ただお金を出しただけ。

ダンネバ-ド=ありがとう

 

ヒンドゥ-教のお参り

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神像が三体 灯明 チャリンチャリンの鈴

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家内安全祈願の儀式 

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サル像にお参り

テンプル内やお参り時は靴やサンダルを脱いで

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お祭りの儀式

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ネパ-ル人の友人一家

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ネパ-ルの功徳 第3回目

ネパ-ル人の功徳生活 その三回目

前回は、ネパ-ルのあさがお2007年を写真で見た。

今回は前々回の「ヒンドゥ-教の教義、輪廻転生に墓は必要ない」の続き。

 その二回目で、「ナマステ」や「ダンネバ-ド」ネパ-ルの言葉は、お年寄りと若い人ではニアンスが異なるように思われる、と書いた。

 ネパ-ル人の大勢と接していると、そのように感じられるのだが、わたしがネパ-ルでお付き合いしている人達は、両親と同様なしぐさで挨拶をしてくれる子供達がいる。それは、どうも両親の信仰しているヒンドゥ-教生活が大きく影響して、子供に対する一家のしつけ次第なのではないか、と考えている。子供達も赤ちゃんの時からヒンドゥ-教生活なのだから、それはあたりまえなのだろう。

 子供が、わたしに対する挨拶で、しっかりと胸や顔の前で手を合わせて「ナマステ」とあいさつする。そのしぐさは、「こんにちは」ではなく、「あなたの心にこんにちはのあいさつをします」なのだ。丁寧さと云おうか雰囲気が大人びいている。

 ちなみに、ネパ-ル語のナマステは、「こんにちは」「今晩は」「お早う」など、どんな挨拶にも使われる。

 ネパ-ル人のあいさつで受ける側のニアンスは、ヒンドゥ-教の功徳生活をしている家族と、そうでない宗教観の薄い生活をしている家族で異なるのだろうか。日本人のわたしにはまだまだ分からないことがあるようだ。

 

 

わたしがネパ-ルに住み始めた頃のネワ-ル族一家の家内安全儀式 

毎年一回恒例に、占い師二人が家内安全の儀式を執り行う 

儀式に必要な供物。バナナやりんごの果物、米、ヨ-グルト、花、灯明、お香

占い師は分厚い本を見ながら、ゆっくりと時間。時にはお茶の時間を挟んで

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幼い次女が神妙に両親にお付き合い

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前の写真の幼かった二女が少女になって、弟にティカの儀式

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長女が弟に七色ティカ

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店子のネパ-ル服に着飾ったアメリカ人女性にティカ

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お祭りの儀式終了写真 ティハ-ル祭(光の祭り)

一家父親は、自分の妹にティカをしてもらうためにポカラへ行って毎年居ない 

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あさがお 第6回目 東洋あさがお 

朝顔の六回目 日本とネパ-ルの東洋あさがお

 前々回と前回は、ネパ-ルの功徳について、ヒンドゥ-教社会の輪廻転生のための功徳生活を考えてみた。

 今回は2007年に栽培した、ネパ-ルから種を持ち帰って植えたネパ-ルあさがおの写真を見てみる。

また、日本のあさがおと同じ種類なのかどうか、写真を見比べて見てみたい。

日本のあさがおとネパ-ルのあさがおは、比較した結果は同じ種類。

 オランダ原産の西洋あさがおは、大きさが10cm前後で、色をブル-基調として霜降りや柄など千差万別に咲く。それに比較して、日本とネパ-ルのあさがおは、6cm前後の大きさで、紫色が多く、赤っぽい柄が何種類か。

日本とネパ-ルのあさがおを「東洋あさがお」と名前を付けてみた。

 

ネパ-ルのあさがお 2007年

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ネパ-ルあさがお 開花した時には、既に受粉が完了

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ここから日本のあさがお 2017年9月 ご近所

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ネパ-ルの功徳 第2回目

ネパ-ル人の功徳生活 その二回目

前回は、ヒンドゥ-教の国ネパ-ル人の功徳を考えてみた。

日本人の読経とネパ-ル人の読経の違い、に次いでネパ-ル人の功徳生活の二回目。

 

ヒンドゥ-教の教義、輪廻転生に墓は必要ない

 ヒンドゥ-教の教義は色々ある。民族や職業、それを決定する上下関係の身分を現すカ-スト制度。そしてヒンドゥ-教の神様シヴァ・パ-ルヴァティ-神の乗り物の牛の神聖化。

等々ある中で、輪廻転生はヒンドゥ-教徒の生涯や一日いちにちの生活を縛る教義。

 死して生まれ変わるのであれば、又人間に生まれ変わりたい希望のために功徳を積まなければならない。希望というよりも、人間の性(さが)を利用する教義なのだろう。日本人のわたしには理解不能。

この功徳生活も又、輪廻転生から派生する細部の教義となるのかどうか。

 毎朝必ず神に祈りの儀式はあたりまえ。よくテレビに映し出される仏教徒が僧侶へ食事を振舞う様子。祈りや僧への食事は、日本人であれば祖先への敬いや善意の行為生活に写るが、ヒンドゥ-教の世界では功徳、そのものなのだろう。

 わたしはネパ-ルで生活していて、ネパ-ル人の生活を理解するように努めている。しかし、残念なことに理解できない様子は、この功徳行為の生活だ。日本人の善意は、ネパ-ル人の善意ではない。

 例えば、日本人がネパ-ル人に善意で何かをしてあげたとする。受ける側が日本人なら、必ず「ありがとう」と感謝される行為が、ネパ-ル人にとっては、なんとも感じていないのだ。

 ネパ-ル語で感謝の言葉は「ダンネバ-ド」。このダンネバ-ドの感謝言葉には、若者と齢よりとでは全く異なる意味があるようなのだ。

神様に感謝のダンネバ-ド

 若者達は、なんのこだわりも無く、食事の後に食器を返却しながら「ごちそうさまダンネバ-ド」と云う。だが、いくらか年を取った人達は、余ほどのことでない限り「ダンネバ-ド」の言葉を使わない。どうも「ダンネバ-ド」には、神様に感謝する、の意味があるらしい。

 日本人のわたしが、ネパ-ル人に感謝を伝える言葉としては、「タンキュ-」と云うようにしている。サンキュ-のネパ-ル方言のタンキュ-。

 ネパ-ルのお年寄達が「ダンネバ-ド」を云う時は、たぶん「あなたの心の神に感謝」との意味あいなのだろう。

 ダンネバ-ドの意味がヒンドゥ-教の国では、相手の人間ではなく神になっているのと同様のことがある。

挨拶の「ナマステ」も

 ネパ-ルの若い人達は、誰にでもナマステ、と挨拶する。しかし、年寄り達は、かしこまって両手を胸や顔の前で合わせて、しっかりとナマステのあいさつをする。ナマステの「ナマ」は南無妙法蓮華教や南無阿弥陀仏の「ナム」にあたり、これも神様に挨拶するの意味があるようなのだ。両手を合わせてナマステは、あなたの心にご挨拶します、の心を込めた「こんにちは」なのだ。

輪廻転生のヒンドウ-教徒に墓は無い、の説明がだいぶん横道を歩いてしまった。元に戻そう。

 簡単だ。生まれかわるのだから、本人は死後の世界はない。残された家族にとっても、生れ変るのだから、祖先としてお墓などにお参りする必要はない。ヒンドウ-教徒に墓がないのは必然で当然。

ヒンドゥ-教徒にとって、遺体が無ければ輪廻転生できない

 2015年4月25日にネパ-ルは、大地震に見舞われた。エベレストベ-スキヤンプで19人が死亡した。その一年前にもエベレストベ-スキャンプとキャンプ1間のアイスフオ-ル氷河帯でネパ-ルメンバ-が13人死亡、3人行方不明になった。上部の懸垂氷河が地震の震動や自然発生で氷河雪崩になって落下した。ベ-スキャンプへは爆風となって襲い、アイスフオ-ルへは人が埋まる雪状の雪崩。

 この行方不明者3人について、問題なのだ。ネパ-ル人と山岳事故を話題にしていたら、行方不明者は輪廻転生できない、と云うではないか。

 通常、遺体は日本と同様に火葬にする。墓がないので、カトマンドゥであればバグマティ川に遺灰を流す。こうして輪廻転生する。遺体がなければ輪廻転生までのプロセスせず、結果が生じないのだそうな。

 

パシュパティナ-ト(世界文化遺産

 国際空港トリブバンエア-ポ-トの東に近く、ヒンドゥ-教寺院に隣接したガ-ト(火葬台)を複数備える火葬場がある。灰は川に流される。バグマティ川はヒンズ-の聖地であるインドのバラ-ナシを流れるガンジス河に通ずる支流にあたるため、ここのガ-トで荼毘に付せば母なる大河ガンガ-へと戻ってゆくと考えられている。ゆえに、遺灰をこの川に流すのがネパ-ルのヒンズ-教徒の願望。

 

 

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エベレスト・ベ-スキャンプ

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エベレスト・アイスフオ-ル

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ネパ-ルの功徳

ネパ-ル人の功徳生活

前回は、西洋あさがおのフライングソ-サ-について、写真で見てみた。

ネパ-ルの道端に咲いてるネパ-ルのあさがおの種を、札幌に持ち帰って植えてみた。日本のあさがおとネパ-ルのあさがおは、ほとんど変わりなく、色と柄そしてサイズもほぼ同じ。西洋あさがおは色がブル-で、大きさも柄も全く異なることが分かった。日本のあさがおとネパ-ルのあさがおが、ほぼ同種に見えて、西洋あさがおに比較してアジアあさがおなのだろう。

さて、今回はネパ-ルのことがらに再戻りして、ヒンドゥ-教の国ネパ-ル人の功徳を考えてみる。

 

日本人の読経とネパ-ル人の読経

 ネパ-ルでは、どこを歩いていても、どこに居ても、目につく功徳がある。それは、チベット仏教寺院や僧侶などの読経だ。僧侶がお経を読むのは、信心もあろうが、それがその僧侶の一生の仕事でもある。ネパ-ルでは僧侶以外の一般市民も、熱心に読経をしている。そして、「マニ車」をクルクルと廻して、それがお経を唱えたと同じ功徳とされている。「マニ車」は、クルクルと回る回転式のお経が書き込んであったり、回転筒の中に経典が収められているもの。大きさは10センチmくらいから数mの大きなものまで様々。手に持ってクルクル廻したり、寺院入口などのマニ車部屋に巨大マニ車が収められている。

 チベット仏教五体投地も功徳の一種類なのだろう。チベットカイラスへ巡礼へ向かう途中、五体投地は一歩進むごとに前方へ身体を投げ出し、お経を唱えながらの巡礼方法。カイラス巡礼に限らない、巡礼目的地への進行(信仰)方法。

それでは、この読経がとうして功徳なのだろうか。考えてみたい。

 日本人とネパ-ル人で、全く異なる生活がある。日本人も、例えば私の家の宗派が真宗大谷東本願寺派では「南無阿弥陀仏」を唱えると仏教経典を読んだのと同等の功徳があるとされている。日本人が仏壇の前でロ-ソクに火を灯し、線香を焚き読経するのは、ほとんどが先祖に対するお参りの意味。宗教的にはこのことが功徳となつている。

日本人の読経とネパ-ル人の読経は、一見同じに見える。

日本人とネパ-ル人では、功徳の意味が異なる

 わたしは10年前から、一年の内数か月をネパ-ルで生活している。この10年のネパ-ル暮らしから、ネパ-ル人の「功徳」の意味が、日本人のそれとは違うのではないかという印象を濃くしてる。

 ネパ-ル人の80%はヒンドゥ-教徒で、ヒンドウ-教の国と云われている。日本人でヒンドウ-教を信仰している人は、わたしの周りには居ない。ヒンドゥ-教の教義は、輪廻転生を教えている。

 輪廻転生とは人が死亡すると、動物に生まれ変わること。日本の宗教感では、死亡すると天国に行けるか地獄か、くらいにしか考えが及ばない。生前に善い行いをしたりお経を唱えて、天国に行く徳を積む思考だ。

 ネパ-ルのヒンドウ-教は、輪廻転生で生まれ変わる動物の内、また人間として生まれ変わるためには、功徳を積むことを強いている。ネパ-ル人の全員が人間以外の動物よりも、また人間として生まれ変わることを願っている。これが、わたしがネパ-ル生活で感じて得たネパ-ルのヒンドウ-教観だ。ネパ-ル人の生活観と云っても良い。

 人を傷つけたり物を盗んだりの悪事は、それまで積んできた功徳が一瞬のうちにご破算になり、振出に戻ることとなる。だから、人間に輪廻転生することを一心に願うヒンドゥ-教徒は、一生功徳を積む生活を願望する。そして、その一生の功徳生活自体が、その人の心安らかな日々となる。

 

日本の功徳としての読経

 佐々木幹郎さんの著書「カトマンドゥ ディ ドリ-ム」に面白い記述が有ったので紹介する。月刊誌や新聞の記事を一冊の本としてまとめて出版したもので、五柳書院発行、1993年初版。少し長文になるが。53pに。

日本の寺院(密教系)でときおり見かけるのだが、経典を収めた回転書庫というものがある。お経が詰まった書庫を轆轤(ろくろ)のように手で回転させながら、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、一回転させるだけで一切経仏教聖典の全て)を読んだのと同じ功徳がある、というものである。

これと同じ趣向のものに、例えば、僧が読経しながら、葛折(つづらお)りにした経典を右手から左手へ波打たせるようにして移し、(右手を高く上げているので、葛折りの経典はバサバサと音を立てて下げ落ちる)、次は経典を受け止めた左手を高く上げて右手へ移すことを繰り返す。という行為がある。お経を読む声はその間も続いているのだが、この両手の行為は回転書庫を廻すのと同じく、お経をたくさん読んだのと同じ効果を持つ、と考えられる。

ラフカディオ・ハ-ンは「怪談・奇談」の中で、回転書庫を轆轤のように廻すことが、「六千七百七十一巻の仏典」を読破するのと同じ功徳がある、という事例をあげて、これを「日本には古くからある奇妙な信仰」だ、というふうに紹介した。もちろん、「古くからある」ことは確かだが、こうした信仰は日本人が固有に編み出したものではなかった。密教文化が日本に入ってきてから、中世以降、日本式に変形したことは確かだが、もともとは仏教の発生したインドから始まり、ネパ-ル、チベット、中国を通じてもたらされた風習であった。

  

カトマンドゥのチベツト仏教寺院のストゥパ(仏塔)ボダナ-トにはマニ車が一周していて、夕方になると地元の人達が右回りにグルグルとお参りする

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ボダナ-ト 2015年4月25日のネパ-ル大地震で壊れ修復中

下部の一周するマニ車 一つの窓に5個のマニ車

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アンナプルナ街道・マルファ-の寺院にあるマニ車

マルファ-村には、明治時代に河口慧海チベットへ仏典を求め滞在   

河口慧海ミユ-ジアムがある

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スワヤンブナ-トは小高い丘の上に立つチベット仏教寺院

丘の下部には何百mにわたってマニ車が設置されている

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佐々木幹郎著 カトマンドゥ・ディ・ドリ-ム

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