koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの楽しいトレッキング 第15回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十五回目 

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 一回目

 前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング六回目、ネパ-ルからの帰りタイのバンコクで一遊びを見てみた。

 今回は、5月20日の「ネパ-ルの楽しいトレッキング」で、ネパ-ル人のガイドとポ-タ-について見てみたことで、ネパ-ル人の登山案内人のガイドと登山に運びのポ-タ-の歴史を見てみたい。

 現在のネパ-ルでは、私達がヒマラヤ登山やトレッキングでお世話になるネパ-ルメンバ-達がいる。

 

山岳ガイド

 まずガイド達。二種類のガイドがいる。それは、トレッキングの案内をしてくれるガイドと、登山で高所のガイドをしてくれる高所ガイドに分けることができる。

 

ガイドの序列

 このネパ-ルヒマラヤの案内人のガイド達、最初からガイド資格があるわけではない。ほとんどのガイドは、最初にポ-タ-から始まる。そして順序では、コック見習いのカンチャを経験してコックに昇格する。そして最終のガイドになる。

 

ガイドの仕事

 私がネパ-ルの登山やトレッキングで経験した事柄からの、ガイドの仕事内容は、まず地元の人やバティ(ロッジ)使用の時の通訳。バスやチャ-タ車の運転手との通訳と行先の支持。車から徒歩に変わる時に雇用する地元のポ-タ-の確保。そして、行く先々の宿泊バティの予約などが主な仕事になる。

 こう説明すると、お客さんへのガイドはどした、となる。そうなのです。ネパ-ルのガイドは、市町村や寺院・仏塔などの歴史や内容の解説・説明はしないのです。結論から言うと、支払う日当の額からは、あまりにも少額過ぎて多くを期待できないのが現実。

 少し以前数年前までのガイドの賃金は、一日500RSルピ-だった。その頃のネパ-ルの公務員の初任給が18,000RSだったので、それ相当な額と思える。しかしだ、私のカトマンドゥでの借家は一か月30,000RSなので、いかにネパ-ル人の賃金ベ-スが安いかお分かりになるだろう。1RS=1円

 

観光とトレッキングガイドの仕事の内容

 これまでのガイドの仕事は、トレッキングや観光のガイド。次いでヒマラヤ登山のガイドを私なりに説明したい。

 私はパックの登山やトレッキングをしたことがない。日本国内の旅行業者のパック旅行は例外扱いとして、ネパ-ルのエ-ジェントを利用しての登山とトレッキングの場合、私はガイドとネパ-ル国内のフライトの手配だけをエ-ジェントにお願いする。時にはガイドの給料も私が払うことが多い。

 

正式なパックの場合。お客様である私達がエ-ジェント会社に総額のお金を支払う。

その内訳は、①国立公園などの入園料、 ②トレッキングシステムTIMS登録料金、 ③フライト・バス料金、 ④都市のホテル料金、 ⑤ガイドの日当と食事代金、 ⑥ポ-タ-の日当、 ⑦お客さん自分のバテイ料金と食事代金、 ⑧ガイドとポ-タ-の傷害保険代金、 ⑨エ-ジェントのハンドリングフイ-(手数料)①~⑧の合計の10%、

 ⑥のポ-タ-の日当は、ポ-タ-自身が自分の食糧を持参することが多いので、ガイド日当よりも金額が多い。又、ガイドとポ-タ-の宿泊費はタダが基本。宿泊の部屋は取らずに、食堂などでシュラフに潜り込んで寝る。私はガイド連れで都市の宿泊をする場合は、ホテルのオ-ナ-と直接交渉して、お客の部屋以外で宿泊できる部屋を無料で使わせてもらえる様に交渉をすることにしている。ホテル内レストランなどでごろ寝させる訳にはいかない。

 このパックの場合は、出発前にガイドと日程の相談をする。ですので、ほとんどのトレッキングは決まった日程通りにこなすことになる。

 

パックでない私の場合。私がネパ-ルで行っている方法。パックの①②③のみエ-ジェントに依頼する。その他は、ガイドを通訳として私自身が都度交渉しながら歩いている。ガイドには食事ごとお腹いっぱい食べるように言いつけて出発する。そして、都度の支払のために、ガイドに数万RSルピ-を事前に預けて、支払いを任せている。

 パックでなく日程も自由。私は、ガイドと日程について打ち合わせはする。だが、出発してしまうと日程は自由。泊まる村の様子が良ければ連泊。予定の宿泊村に早く着き、泊まりたくない様子の村なら、次の村まで歩くことにする。おそらくガイドは大変な忙しい目に合うだろう。宿泊場の予約はできない。

 こうして、全日程通りに行動したことがない。日程より早く、帰りのフライトをキャンセルして、路線バスで帰ったこともあり、次の日のフライトチケットで一日早いフライトをしたりだ。この場合、ガイドには通訳をしてもらうが、私よりもガイドの交渉力が試される。

 

パックトレッキングと私のトレッキングの金額差。例を挙げて説明しよう。私の友人一人の7泊8日のトレッキング費用は1、190$ドルだった。私と女房の二人のカトマンドゥ発着10泊11日のトレッキング費用は合計700$ドル。決してけち臭い訳でない。おそらくだが、三分の一くらいの料金でトレッキングができる。私にとっては、高い安いは別としてもなんとも自由なのが一番良い。

 

トレッキングのポ-タ-

 何回もネパ-ルヒマラヤのトレッキングをしていると、ポ-タ-についても選択偽が増えてくる。フライトやバスなどでトレッキング出発地に到着すると、ポ-タ-達が集まってくる。初めのうちはガイドが選ぶポ-タ-を連れて歩くことになる。

 ガイドが一人の時は困ることが発生する。ポ-タ-がガイドの知人なら良いのだが。ほとんどはその時に会ったポ-タ-を雇う。するとガイドは、お客様の荷物を知らないポ-タ-に背負わせることになり、これがガイドにとっては心配。結果は、ガイドはお客さんをほったらかしにして、荷物が心配のためポ-タ-に付きっきりになってしまったりする。

 ポ-タ-はヒマラヤの景色を眺める必要もなく、スタスタと目的地目指して一目散。するとガイドも、ゆっくり歩くお客さんを置き去りにして先行してしまう。

 これが現地で雇用するポ-タ-の弊害といえる。これを防ぐにはカトマンドゥからポ-タ-を連れて行くのが良い。バス代金が掛かるが安心で楽しいトレッキングが保障されるだろう。

 又は、現地で親子か夫婦のポ-タ-を雇用すると少しは安心だ。ポストモンス-ン季のトレッキングであれば、集まってきたポ-タ-を雇わずに、近くの農家に出かけて農繁期を終えた家族に直接交渉する。年寄農家なら息子や娘をポ-タ-として雇うのも面白い。

 

次回はヒマラヤ登山の時のガイドとポ-タ-について見てみたい。

 

1981年 ランタンヒマ-ル トレッキング

お客さん3名 ガイド1人 コック2人 ポ-タ-5名

女性のポ-タ-も

まだ自動車道路のないランタンヒマ-ル

水力発電所のあるトリスリ・バザ-ル村にバスが着く

一泊した出発地のテント撤収

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目的地キャンジン・ゴンパ 3,800m

 ヤクのチ-ス作りの家が一軒ある

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ソルク-ンブヒマ-ル(エベレスト街道)

ポ-タ-がドッコに30kgの荷を背負い

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ヤクが荷運び ポ-タ-30kgの二倍60kg

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ルクラ町2840mの農家

11月なのに農地を一家で耕す

左の婦人の背には赤ちゃんが

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カラパタ-ル 5、550m  すぐ眼前にエベレスト8848m

後ろの山はブモリ峰 7165m

お客二人 ガイド一人 ポ-タ-一人

ポ-タ-は農家の息子

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サガルマ-タ(エベレスト)8848m

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第14回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十四 アンナプルナヒマ-ル十四回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング五回目を見てみた。

 続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング六回目だが、ネパ-ルからの帰りタイのバンコクで一遊び。

 この頃の日本の金融機関は12月31日が一年の最大の繁忙日。私の勤務していた所は、夕方5時ころに渉外担当者がお客様の所に出かけ、お客様の金庫を空にして戻ってくる。それからお客様から集めた現金・小切手などを締め前入金する。普段の日は締め前入金は3時で締める。

 こうして金融機関職員は、1月1日の空が明るくなるころに帰宅。年末に有給休暇は取れず、おのずと3週間のネパ-ルトレッキングは後ろの日にずれ込む。小学生の二人の息子は冬休み明けの登校日には、まだネパ-ルに居ることとなった。

冬休みに入って、早々と千葉の友人宅へ女房と子供二人。デイズニ-ランドで遊んでいた。

  

ネパ-ル・アンナプルナヒマ-ルトレッキングからの帰りはタイのバンコク

バンコク・エアポ-トのホテル案内所に寄り、飛行機内で一緒の女性と同じホテルにチェックイン

北海道自然保護連合事務局の大学生3名は別行動、タイの有名海岸アユタヤビ-チへ

我々はバンコクの寺院めぐり

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門番・タイの兵隊さん

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バンコクの露店 朝ごはんから夕ご飯まで、いろいろな屋台が

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バンコクの果物屋

この南国の果物、千葉の友人宅へ大量に持ち込む

子ずれ家族は成田空港の税関を何のチェックもなく素通り、もしかして、輸入禁止

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第13回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十三 アンナプルナヒマ-ル十三回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング四回目を見てみた。

続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング五回目、ポカラからカトマンドゥへ路線バスで戻る。カトマンドゥ観光。

 

カトマンドゥ

ホテルのレストランで夕食

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ボダナ-ト

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ボダナ-トの台座からガネッシュヒマ-ルを望む

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スワヤンブナ-ト

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パタンの旧王宮広場

案内してくれる赤いセ-タ-のガイドは、1982年北海道ネパ-ル遠征のサ-ダ-

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第12回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十二 アンナプルナヒマ-ル十二回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング三回目を見てみた。

続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング四回目。

 

狩猟用の鉄砲

食用の野生動物はいないので護身用なのだろう

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ダンプスホテルDhampus 1799m

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水牛とマチャプチャレ峰6993m

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ダンプスは尾根状  アンナプルナヒマ-ルを眺望

左からマチャプチャレ峰 アンナプルナⅣ峰 アンナプルナⅡ峰 ラムジュンヒマ-ル

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ダンプス村からフェディPhedi 1220mへの下りに広がる段々畑

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フェディ着 河原で昼食

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フェディから出発地ポカラまで歩いてすぐ

ポ-タ-出発

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アンナプルナヒマ-ルのトレッキング出発地ポカラに戻る

ポカラ飛行場出入り口の道路を挟んだ向かいのホテル着

出かけるときは曇っていたポカラ、今日の天候はクリヤ-

ホテル中庭からヒマラヤの絶景

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ポカラ発 カトマンドゥ行路線バス

子供達とガイドはバスの屋上に乗って、途中のトイレタイムまで

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第11回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十一 アンナプルナヒマ-ル十一回目

前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキング二日目を見てみた。

続きのアンナプルナヒマ-ルのトレッキング三日目。

 

朝 又石楠花林を歩く 標高が高く雪道

ダウラギリⅠ峰の遠望やアンナプルナヒマ-ルを眺めるプ-ンヒルPoon Hill 3198m目指して

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もうすぐプ-ンヒルの展望丘

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プウ-ンヒル着

右のアンナプルナ・サウスAnnapurna South 7219mを背に

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マチャプチャレM achhapuchhare 6993m

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中央のアンナプルナ・サウスAnnapurna South 7219m

右はヒウンチュリHiunchull 6441m

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早朝のプ-ンヒルからロッジに戻る

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凍てつく小川で顔洗い

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タダパニ村Tadapani 2721m

段々畑  家の屋根は薄い石を敷いている

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ガンドルンGhandrung1951mのスノ-・ビュ-ロッジ

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ネパ-ルのタバコ「ビリ-」の葉の植物

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1985年当時 ネパ-ルで販売されていたタバコ

Ganesh Biri ガネッシュ・ビリ-

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お昼ご飯

コック見習いのカンチャがお湯を沸しミルクティ作り

トレッキングや登山のチャイ(ミルクティ)は粉末のミルクを使う

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天気も良く、ゆっくりの昼食

ネパ-ル人は一日二食

 午前9時ころに朝食

 午後8時ころに夕食  

 朝起きるとチャイと簡単なおやつ

 3時・4時ころにもチャイとおやつ

ガイドやコック(カンチャ)達はこの昼食と夕食時に食べる。日本人の2倍以上の量を食べる

ポ-タ-達は、各自背負っているお客さんの荷持つの上に自分の食糧を背負っている。ゆえにガイドが二食付の賃金なので、自分で食糧を持参するポ-タ-賃金の方が高い

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ネパ-ルヒマラヤのスケッチ

この時のスケッチブックから、第1回ネパ-ル絵画展を開催

以後、2007年まで7回のネパ-ル個展を開催

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第10回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十 アンナプルナヒマ-ル十回目

 前回は1985年1月のアンナプルナヒマ-ルのトレッキングを見た。このトレッキング、私の家族、女房と小学校5年生と一年生の息子で4名。それと北海道自然保護連合の事務局を手伝っていた大学生3名を加えて7名パ-ティ。

連合の大学生にちょっと声をかけただけで、すぐに行くと。親のすねが細くなっただろう。

 このトレッキング、帰ってきたら北海道新聞社の記者から取材したい、とのこと。文化面に大きく取り上げてもらった。このブロク掲載のために当時の新聞を読んだら、なんと一家4名で総費用160万円も掛かっていた。8千m峰の遠征一人分とほぼ同額。

 前回ネパ-ルのポ-タ-やガイドについて少し触れた。イギリスのエベレスト登山隊にネパ-ルガイドのテンジン・ノルゲイさんがいる。このテンジンさんに触れたいのだが、このブログの字数が多くなるので次の機会に譲ることとする。

ではネパ-ルのアンナプルナトレッキングを写真で見てみる。

 

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ビレタンティのつり橋

現在はここのつり橋手前まで自動車道路が完成している

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1月なのに取り入れ後の農耕地を耕す

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1350m標高のカトマンドゥとほぼ同標高のバナナ畑

1月 たわわなバナナ

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チベットとの交易道路、ドンキ-(ロバ)

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お昼のランチ、キッチンセットを持参したトレッキング

毎昼食は1時間30分間

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小川に掛かる木の橋 地元の人達がドッコを背に

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ウレリUlleri 2120mで一泊後

ラリ-グラスの林を歩く 大木の石楠花

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ゴラパニ村Ghorepani 2853m 到着

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プ-ンヒルロッジ

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第9回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その九 アンナプルナヒマ-ル九回目

 前回までのネパ-ルの楽しいトレッキングは、ネパ-ルの道路について、山岳の昔からある生活道路と新しい自動車道路を見てきた。第1回目から8回目までアンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルに挟まれたカリ・ガンダギ河沿いのトレッキングの写真を見てきた。

 今回からは、続いてアンナプルナエリアの1985年のトレッキングを見てみたい。この頃はまだ自動車道路計画はなかった。そこに生活している住民の生活道路と古くからチベットとの交易のための道路で使われていた道が、私達の楽しいヒマラヤトレッキングで歩いた。

 現在のネパ-ルのトレッキングは、トレッキングル-トのほとんどがネパ-ル語でバティと呼ばれるロッジに宿泊する。トレッキング中の食事もそのバティの食堂メニュ-で食べるのが普通になっている。

 

1985年当時のネパ-ルトレッキング

 私が1985年に行ったトレッキングは、ネパ-ル人メンバ-として、ガイドとコックそしてコック見習いのカンチャを引き連れ、現地の出発地では日本人メンバ-の荷物とネパ-ルメンバ-の荷物を運ぶロ-カルポ-タ-を雇用した。

 この総荷物には、出発地で購入した食事の食材は勿論、包丁や料理に使用するキッチンセット一式を含んだものに宿泊用のテントがあり、今では考えられないほどの荷物になった。

 ネパ-ルの登山では、ベ-スキャンプから登頂までの衣食住と登山装備の全てを運ぶ。私はネパ-ルの本格的な登山を二度行っているが、二度ともポ-タ-数は100名を超えた。昔のK2登山隊の報告書を見ると、なんと600名のポ-タ-が荷を運んでいる。今回のトレッキングも登山と同様だった。私を含んだ7名の日本人の衣食住荷物を運ぶことになる。

 ちなみに、現在のネパ-ルトレッキングは、現地のバティを利用するので、コックを連れないので食材やキッチンセットなし、テントなしで、お客さんの日本人の荷物を運ぶだけ。

 宿泊施設やレストランが確りと完備していることが、お客さんである私達の出費を節約することにもなっている。

 

ロ-カルポ-タ-とハイポ-タ-

 ネパ-ルのホテルなどでは、お客様が到着し宿泊部屋までホテルのポ-タ-が荷を運んでくれる。このポ-タが一般的なポ-タ-。ネパ-ルにはチップ制度がないので、ポ-タ-の仕事が終わったらありがとう(サンキュ-)の一言で良い。

 ネパ-ルヒマラヤでは登山やトレッキング時のポ-タ-が必要になる。ヒマラヤトレッキングや登山のベ-スキャンプまでのキャラバンの荷運びは「ロ-カルポ-タ-」と呼ぶ。他方、高所ポ-タ-は、ヒマラヤ登山時、高所登山に必要なアイゼン・ピッケルが使え、ロ-プワ-クが出来てBCから上部キャンプへの荷揚げを行う者のこと。

 

トレッキングガイドと登山ガイド

 エベレスト街道エリアに住むシェルパ族は1930年代から、イギリス隊のエベレスト遠征のポ-タ-やガイドを担っていた。1953年にイギリス隊がネパ-ル側からエベレストを初登頂した時、ヒラリ-と共に登頂したのがテンジン・ノルゲイシェルパ

 以後、多くの危険と困難を物ともせずに多くのシェルパ族が登山のガイドを勤めてきた。そして、今日では「シェルパ」が国際語の「案内人」と云われるようになっている。

 しかし、この国際語の案内人の意味は、登山の案内人とは区別される。日本人でネパ-ルの登山やトレッキングで出かけていく人達の中には、山の案内人をシェルパと云っている。現在のネパ-ル登山やトレッキングの案内を担っているのは、シェルパ族は少数になった。他の民族出身者が大勢を占めている。私が知っているのは、ライ族とグルン族。ネパ-ルに住む60以上の民族で、山の案内人はほぼこの3民族だろう。

 私は登山やトレッキングの案内人を、それぞれ区別して、トレッキングガイドやクライミングガイドと云うようにしている。決して一色たんにしてシェルパとは云わない。どうしてかと問われると困るが、なんと云おうかシェルパ族に失礼だと思うのだ。

 シェルパ族は1930年代から外国人に雇われて、登山の知識と技術を身に着け、危険個所はお客さんの前に出てル-ト工作をしてきた勇敢な歴史がある。テンジンはインドのダ-ジリンに登山学校を開校して、シェルパ族に登山の知識と技術の継承を行ってきた。

 現在でも、例えばエベレストの最終キャンプまで3民族のガイドが混合で活躍したとする。この最終キャンプから頂上へ雇い主の登山隊を案内するのはシェルパ族が優先されのである。

 

 それでは、自動車道路もなく、宿泊施設も整っていなかった昔のネパ-ルヒマラヤのトレッキングを写真で見てみる。

現在はネパ-ル第2の都市になってるが、当時は3番目の人口だったポカラ市から出発する。

 

地図右下のポカラから出発する 地形図

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千歳発 成田経由 タイ・バンコク経由 

ネパ-ル・カトマンドゥ・トリブバンエア-ポ-ト着

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カトマンドゥのエ-ジェント事務所で

まずチャイ(ミルクティ)をごちそうになる

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カトマンドゥ→ポカラ

ポカラ出発 7名分の荷物 ガイド・コック・カンチャの荷物とキッチンセット 食糧など、竹を編んだドッコに入れて

ポカラでポ-タ-を雇う

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まずフェディ1220mから急登で一日歩く

ノ-ダラ1500mで一泊

朝 小雨のノ-ダラ出発

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ノ-ダラ村からカ-レ村へは尾根状を歩く

現地で雇ったポ-タ-に手を取られて歩く

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羊の群れ

ちょっと雨宿りで一本とる

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村の家の屋根はスレ-トスト-ン(薄い石を敷く)

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二泊目はテント泊

チャンドラコット村1580m

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チャンドラコット1580mからモディ・コ-ラ(川)へ下りビレタンティ村1100m

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