朝顔の花がひらく 二回目
今日、あさがおの花が10花咲く。
20年間の朝顔栽培で、初めてだった、7月の開花
7月29日(日)、あさがおの花が三花咲く。
西洋朝顔を栽培して、かれこれ20年。一番早く花が咲いたのは、いつも8月第一週目。
何となんと今年は一昨日の29日、朝起床して鉢植え栽培に水やりをしようと、見たら青い花が2つと白花が咲いているではないか。
オランダ原産の種子で、5月中頃に種から芽を出させ、ことしも8月に入ってから咲くのかな-、と考えていた。
新記録だ。
今年は、フライングソ-サ-に、もっと青さが深い、紫色に近いヘブンリ-ブル-も植えてみた。
さて、どうなることか、青い大輪の花と紫の大輪の朝顔は、チョット見ものだと思う。
乞うご期待。
青は青でも色いろな青
白青の縞
蜜を求めて昆虫が
青でも彩色が面白い
突然変異 本当はブル-の花なのに、なぜか真っ白
2015年のあさがお
2006年の朝顔
ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百四回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その三十二回目
パタン市内の寺院と仏塔 1952年のパタン市内寺院と王宮広場写真
7月22日のパタンの王宮と寺院や仏塔その三十一回目で、パタンの写真の最終回だったが、1952年のパタン王宮広場の写真を見て見たいので、今回が最終回。
1952年にネパ-ルの調査で、ネパ-ルを訪れたイタリア人のジュゼッペ・トゥッチさんの写真をアップ。
ジュゼッペ・トゥッチさんは、イタリア中東極東研究所の調査研究活動でネパ-ルを訪れている。その時の探検記として「ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅」を出版。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情
1952年のクリシュナ寺院 Krishna Mandir
手前が現在のクリシュナ寺院 Krishna Mandir
1952年のルトラヴァルナ大聖堂の顔が馬の神像
現在のルトラヴァルナ大聖堂の顔が馬の神像
ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百三回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その三十一回目
パタン市内の寺院と仏塔 豪華絢爛のネワ-ル文化
前回は、アショカ・ストッウパの写真3回目を見た。
31回に亘って見て来たパタン市内の寺院や仏塔。王宮も見た。
パタン市内には、他にも多くの寺院や仏塔がある。それらは中世期からの建造物で、歴史的に貴重な物ばかり。そして、それらの一つひとつが文化的価値がある。
ネパ-ルのカトマンドゥ盆地には、先住民としてネワ-ル族が住み、ネワ-ル文化の華がひらいている。
ここパタン市内には、中世期からの王宮や寺院、そして仏塔などのネワ-ル建築文化が見られた。そして、パタンには昔から代々続く職人達が、今も住み作成し続けている。
ヒンドゥ-教の最高位カ-スト
ネワ-ル族は氏がシャルマなどと呼ばれる人で、ヒンドゥ-教の教義カ-ストの最高位カ-スト。ちなみにネパ-ルの最高位カ-ストは、2民族。インドからヒンドゥ-教と共にネパ-ルへ移住した、氏がシャルマなど呼ばれるブラ-マン族で、インド系ネパ-ル人。もう一つは、ネパ-ル系ネパ-ル人のネワ-ル族になる。インド系ネパ-ル人は、その顔立ちで日本人のわたし達にも直ぐに見分けられる。
2015年4月25日のネパ-ル大地震で、多くの歴史文化遺産が壊れ倒壊した。その一部は完全に破壊されて一部修復困難なものがある。
修復復元可能な建築物などは、現在も修繕作業が行われている。その作業に従事するネパ-ル人は、全て100%がネワ-ル族なのだ。
仏像制作に従事していたのは、ネワ-ル族でも氏がシャキャと呼ばれる人達。昔も現在でも同じ民族の職人が政策している。
現在のパタン市内を歩いていると、道路沿いに店屋が並ぶのを見る。店先に並ぶ手作りの品物の多くは、ネワ-ル族の職人が作成している。
パタン市内の寺院
周りの市民に親しまれている
パタンの商店街 一階は店舗で2階以上は住宅
銅製品の水瓶が店頭に並ぶ
モンス-ン雨季のマネキン
パタン商店街 一番遠くにはパタン王宮の尖塔が見える
商店店舗の一階部分 木の柱の木彫彫刻はネワ-ル文化
パタン市内の額縁屋
わたしの女房がネパ-ルで描いた絵画 額に入れる前のネパ-ル・パタン市内の水彩画
水彩画 コバン村からダウラギリⅠ峰 8167m
スズメバチの巣二か所を除去
本日7月21日、午前11時過ぎだった。西洋朝顔を栽培していて、晴天続きだったので水やりに家の外に出ていた。ちょっとカ-ポ-トを見上げると、ふだん見かけない景色が目に入ってきた。
ハチの巣がある。丁度握りこぶしを2~3個位の大きさ。
ススメバチに違いない。刺されては大変と家の中に避難する。
わたしの家のカ-ポ-トは、車が二台駐車できる大きなもので、特別注文で建てたもの。上部は二階から行き来できる様に、木の板を敷いて遊べるようになっている。その真下の鉄板の平らな面に、ハチの巣。
直ぐに区役所へ電話連絡。土曜日にも関わらずすぐに職員が出てくれた。
民間のハチの巣除去業者の電話番号を聞き、次に直ぐに業者へ連絡。
午後1時には、ハチの巣を取り除く業者の担当者が到着。
わたしが見たのとは違うところに、もう一か所の巣を発見してくれる。さすがにハチ業者、わたしには分からなかっただろう。
30度Cの熱いさなかに、オ-バ-ホ-ルみたいな頭からスッポリと被った暑苦しい恰好で、ものの10分で二か所のハチの巣を取ってくれる。一安心だ。
元々は北海道にいなかった黄色スズメバチ。
料金一か所で10,800円。二か所だったので追加料金4千円。
わたしが発見した巣は、二日前くらいから巣造りを始めたらしく、大きさは小さかった。
中に女王蜂を発見。働き蜂の二倍の大きさ。
女王蜂が居ない場合は、巣を除去しても、新たに女王蜂を中心に巣が造られるらしい。女王蜂が居たので、ここの前のハチの巣と云ったり来たりしていたハチは、もう来なくなるそうな。
前の巣と云ったり来たりしているハチが、二日間くらいは来るので、巣のあった場所には近づかないで、とのこと。
カ-ポ-トの下の鉄板に黄色スズメバチの巣
二番目の巣
カ-ポ-トの天井側面に小さなハチの巣
黄色スズメバチの巣を回収
黄色スズメバチの巣 二日間でこの大きさに
左 働き蜂二匹 右 女王蜂
ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百ニ回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その三十回目
パタン市内の寺院と仏塔 アショカ・ストゥパ- その三回目
前回は、パタン市の北東側、バグワティ-河に近いアショカ・ストゥパ-の写真を見た。
パタン市内の王宮と寺院の第1回目に王宮の南側、バスストップの近くのアショカ・ストッウパの写真を見たのに続いて、前回に2回目のアショカ・ストッウパの写真を見た。
今回は、アショカ・ストッウパの写真3回目。
カトマンドゥ市内からバグマティ-川を渡って市内に入り、バスストップ手前の道路脇にもアショカ・ストッウパがある。
スイス人のトニ-・ハ-ゲンが、ネパ-ルの鎖国政策から開国した1950年にネパ-ルの調査をしたときに写した写真が、どこのストゥパなのか分からないが、第一回目か今回のどちらかだろう。
トニ-・ハ-ゲンの写したパタンやカトマンドゥの写真には、広々とした畑がある。
カトマンドやパタン市内は畑ばかりの年代
ヒンドゥ-教の教義カ-ストの最高位カ-スト、ネワ-ル族は家の一階部分で雌牛を飼っていた
1950年代のカトマンドゥやパタン市内は、ほとんどが畑だった。カトマンドゥの先住民族のネワ-ル族は、ヒンドゥ-教の教義カ-ストの最高位カ-ストで、ほとんどが農業を営んでした。そして、家の一階部分では雌牛を飼い、住み込みの牛飼いが一階に住んでいた。現在のパタンやカトマンドゥ市内は、ビッシリと家々が建ち並んでいて牛の牧草になる土地が見当たらない。
人口の増加が、牛の餌場の牧草地を減らし、牛を飼う家が減り続けたのだろう。
わたしが11年前から借りているフラットの借家前には、牛の餌になる草が茂る広場になっている。数等の牛は、定期的にこの広場に現れて草を食んでいる。昔のカトマンドゥ市内は牛だらけだった。自動車道路の真ん中に、ドシリと寝転んだ牛が車の通行を妨げていた。
牛刑法があって、牛を傷つけたり殺した場合は、懲役刑にさせられたヒンドゥ-教が国教時代のこと。
ネパ-ルの民主化後、新しく牛を放し飼いにすることを禁止する法律ができた現在でも、裏道には牛が食べる草を探してウロウロしている。
アショカ・ストゥパ-
トニ-・ハ-ゲン「ネパ-ル」1950年代の写真
パタン市内地形図の西側のアショカ・ストゥパ-
自動車道路とアショカ・ストゥパ
ネパ-ルの自動車道路に寝っころがる牛
わたしの借りているフラット(三階建)の前の牛
ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百一回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その二十九回目
パタン市内の寺院と仏塔 アショカ・ストゥパ-
前回は、ゴールデン・テンプルの二回目の写真を見た。
今回は、パタン市の北東側、バグワティ-河に近いアショカ・ストゥパ-の写真を見てみる。
パタン市内には四か所のアショカ・ストゥパ-が存在している。わたしはその内三か所を訪れている。
今では仏塔(ストゥパ-)と呼ばれているが、建立した当初はただの土饅頭の塚でしかなかった。建立年は紀元前250年。なんと今から2268年前のこと。
建立したのは、インド亜大陸を始めて政治的に統一したアショカ王。
アショカ王のネパ-ル訪問
インドを統一したアショカ王は、仏教を守護した大王で仏教に関心を持っていた。仏教に関するインドやネパ-ルの各地を訪れて、その記念に石柱を建てていた。
アショカ王は紀元前250年に、ブッタ(お釈迦様)の生誕地であるネパ-ルのルンビニを訪れる。このころ、まだインドとネパ-ルの国境が画定していなかったので、インド国内と同様の巡回(巡礼)だったのかもしれない。
お釈迦様のブッタはインドで悟りを開いているが、インド各地を歩いていて、ルンビニから数百キロmのネパ-ルのカトマンドゥにも来た。インドの王様アショカは、このブッタの足跡をたどってカトマンドゥにも来ていた。
アショカ王は、現在のパタン市内の四か所のアショカ・ストゥパ-と、カトマンドゥ市内のスワヤンブナ-トに、土饅頭型の塚を作った。
わたしは、カトマンドゥ市内のボダナ-トもスワヤンブナ-トと同様に、アショカ王が建設したのではないか、と考えている。
アショカ王石柱建立の歴史的証拠
アショカ王が現在のネパ-ルを訪れていた歴史的証拠が、文字など数々ある。
アショカ王は、サンスクリット語でअशोक 。仏教を守護したとされているが、関心の薄かったのが、戦争(カリンカ戦争)に勝利して深い関心を示すことになったらしい。
アショカ王の釈迦の縁の地周りには、他に目的があった。それはアショカ王の統治形態の法(ダルマ)政治の実行にあるとされている。ようするに、国王の絶対権力政治ではない法による統治・政治をめざしたとされる。そのために、「法の巡幸(行)」でインド各地を訪れていた。
どうもアショカ王の「法」は、「仏教の教え」と重なるのではないかと思われる。法の宣伝や施行に、国の機関として法大官(ダルマ・マハ-マ-トラ)を設置している。
アショカ王の建立した石柱は、アショカ王柱やアショカ王塔と呼ばれる。その幾つかに、ストゥパが同時建設されている。
釈迦の生誕の地(ルンビニ)は、石柱が発掘された事で特定された。石柱には、ここがブッダの誕生地であることと、租税を八分の一に免除することが古代文字で書かれていた。これによって、釈迦が伝説上の存在ではなく、歴史上実在したことが認められた。石柱ではブッダとなっている。
ネパールのルンビニ(ルンミンディ)とその近くのニガ-リ-サ-ガルの石柱は即位後20年の紀年があり、アショーカ王自身が仏陀生誕の地であるここに巡礼したことを記している点で、他の碑文とは性格が違う、とされている。
アショカ王石柱の発掘は、中国の唐の玄奘三蔵のインドへの旅を記した「大唐西域記」による。
「大唐西域記」は、紀元629年から645年の17年間にインドや現在のネパ-ルの旅行記。旅行の目的は仏教の仏典の収集があった。
唐の玄奘三蔵は現在のネパ-ル・ルンビニを訪れ、アショカ王の建てた石柱を発見。石柱には、ここがブッダの誕生地であることと、租税を八分の一に免除することなどが古代文字で書かれていた、と「大唐西域記」に書かれている。
インド人アロイス・アントン・フュ-ラは、「大唐西城記」をもとに石柱を発見
1895年(96年)ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルンビニの藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
アショカ・ストゥパ-
ネパ-ルのビニルン
遺跡を保存するマ-ヤ聖堂 2003年建立
発掘された遺跡
七層の煉瓦から成る基壇
15室から成る
古代王朝グプタ期に作られた生誕浮き彫り石像
イスラム教徒によって削り取られたとされている
1895年(96年)ドイツの探検家アロイス・アントン・フュ-ラは、石柱の下部を発見