koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの食事 その2

 ネパ-ルの食事二回目。前回のネパ-ルの食事は、私のネパ-ル・カトマンドゥでの借家暮らしをしている時の朝食や、ホテルやロッジでの朝食を写真で見た。

今回もネパ-ルのホテルやロッジ、レストランなどで食べる食事を写真で見てみる。

 

カトマンドゥ市内のサンセットビュ-ホテルにあるHimalaya Soba のヒマラヤ蕎麦処

アンナプルナヒマ-ルのカリガンダキ川上流のマルファ-村周辺で採れるソバ

f:id:koyaken4852:20170219155209p:plain

f:id:koyaken4852:20170219155227p:plain

f:id:koyaken4852:20170219155303p:plain

f:id:koyaken4852:20170219155327p:plain

 

左からチャパティ 四種類のモモ(ギョ-ザ) フライドライス

モモは日本式の焼蒸しギョ-ザは珍しく、スチ-ムや揚げギョウザ

f:id:koyaken4852:20170219155843p:plain

 

ダルバ-ト

ダルバ-トはネパ-ルの唯一の定食で、どこの家庭でも一日二食のダルバ-ト

ダルはダル豆でス-プになっている。 バ-トはごはんで、ダルス-プをご飯にかけて右手で食べる

家庭では野菜の漬物やチキン肉のカレ-・ヨ-グルトなどがつく

これはダルバ-ト専門レストランのもの

f:id:koyaken4852:20170219160515p:plain

 

レストランのカレ-

このカレ-はパナスレストランのメニュ-にあるもの

パナスレストランは、今は2015年4月のネパ-ル大地震で全壊したビンセンタワ-(ネパ-ル語でダラハラタワ-)のすぐ近くのレストラン。奥様が日本人で私の友人のネパ-ル人経営、日本の千葉県にアジアレストランも経営している

ネパ-ルやインドでカレ-を食べる時は、ごはんかナンを選ぶ。ネパ-ルではネパ-ルカレ-とインドカレ-の二種類あり、値段は少々高いがインドカレ-の方が美味しい。高いといっても10円か20円

f:id:koyaken4852:20170219161821p:plain

 

日本食レストラン・こてつのランチボックス

カトマンドゥには純日本食レストランが8軒ある。ここ「こてつ」は鉄板焼きが主のレストラン。友人のオ-ナ-と副オ-ナ-の板前さんは日本人

お昼のランチメニュ-はランチボックスを含めて三種類あり、このランチボックスは日替わりでおかずが変わる

私はここ10年、札幌とネパ-ルを行き来して、なるべくネパ-ル人に迷惑をかけず、ネパ-ル在住の日本人にも迷惑をかけない様に静かに生活している。時にはヒマラヤを肌で感じるためにヒマラヤの山の中や麓まで足を延ばす。カトマンドゥでも毎日ヒマラヤを眺めることができる

私は特別にネパ-ル食を食べる目的でネパ-ル暮らしをしている訳ではないので、週に2・3度はランチボックスを食べている

f:id:koyaken4852:20170219163300p:plain

f:id:koyaken4852:20170219163328p:plain

お刺身に納豆もつく

f:id:koyaken4852:20170219163356p:plain

 

ネワ-ルレストランのモツ・カツ

日本の焼き鳥屋と同じ

串には刺していないが、精肉でなくモツやタン・ハツなどがメニュ-

ジャガイモのカレ-味など

左側はチュラと云い、炊いたご飯を一粒づつ平らにして乾燥させた保存所で行動食にもなる

f:id:koyaken4852:20170219164039p:plain

 

ピザ専門店のピザ

一人前の量が多いので、複数人数で食べる時は少なく注文して、追加する

f:id:koyaken4852:20170219164321p:plain

 

ビ-フステ-キ専門店

ネパ-ルはヒンドゥ-教の国。牛は神様の乗り物で神聖な動物。食べるなどもっての外

f:id:koyaken4852:20170219164809p:plain

 

コ-ヒ-専門ショップで昼食のサンドイッチ。店名ヒマラヤンカフェ

飲み物はチョコレ-トアイスで

f:id:koyaken4852:20170219165149p:plain

 

 

ネパ-ルの食事

 ネパ-ルの食事。今日のネパ-ルの食事は、ネパ-ルのカトマンドゥで借家暮らしをしていて、その朝食を写真で見る。

借家暮らしと云ってもネパ-ルではフラットを借りることになる。

 ネパ-ルの家は鉄筋コンクリ-ト造りの3階・4階建の家が多く、私の借りている家は1階部分・2階部分などがそれぞれ独立した作りで、10年前に借りたのは一階フラット部分全部。ベットル-ム二部屋、バストイレ二部屋にキッチンとダイニングル-ムと居間の続き部屋。バストイレは四畳半もある広さ。その後二軒目は、二階にバストイレ付の寝室3部屋を借り、大家さんのキッチンを使わせてもらった。

 昨年借りた借家は、最初の家の隣の一階フラット部分。ここは大きな寝室と大きなバストイレの部屋、それとキッチンとダイニングル-ムと居間の続き部屋。

 朝食用のパンは多くのパン屋さんから美味しいパンを購入。マホロバベ-カリ-とフジベ-カリ-の角食パンと菓子パンが美味しい。マホロバベ-カリ-はバトバティニス-パ-マ-ケットのブレッド売り場の一角にある。バトバティニス-パ-マ-ケットは五階建てのデパ-ト級建物で、カトマンドゥ市内に4店舗ある。フジベ-カリ-はカトマンドゥの隣のパタン市にあり、店主や従業員達全員が長野県でパン作りの修行をしている。カトマンドゥで唯一の路線大型バスで片道30分かけて週に一回出かける。

 近くの商店で牛乳を買い、ミルクティ-用の茶葉はネパ-ルティ-ハウスかサカルマタティ-ハウスで仕入れる。

朝食の写真は自宅のものと、ホテル・バティ・ロッジなどの朝食。

 

ネパ-ルの自宅の朝食  シナモンロ-ルバン・ヨ-グルトにバナナ・オレンジジュ-ス・コ-ヒ-・トマト

f:id:koyaken4852:20170218200700p:plain

 

札幌の自宅の朝食

f:id:koyaken4852:20170218200746p:plain

 

ネパ-ルのホテルやロッジなどの朝食

f:id:koyaken4852:20170218200914p:plain

f:id:koyaken4852:20170218200940p:plain

 

コ-ヒ-や紅茶はビックボトルで、ヨ-グルトはバクタプル市内で作られ美味しい

f:id:koyaken4852:20170218201134p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170218201805p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170218202002p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170218202228p:plain

 

 

2月11日土曜日、飲み仲間五家族が集まって毎年恒例の飲み会

 2月11日土曜日に飲み仲間五家族が集まって毎年恒例の飲み会が開催された。遅い新年会かな。

 ここでの飲み会の話題。ネパ-ルに滞在していて、その滞在期間中にお世話になるガイドと友達になれるのかどうか。

 日本人同士なら簡単だが、日本人と外国人の友人関係の話。単純に考えたら、互いに友人だと思えばそうなのだが。互いでなく、例えば私だけがネパ-ル人の彼や彼女を友人と思えば、友人関係が成立するのかどうか。この話題を話し合った飲み仲間の彼は、日本的にネパ-ル人ガイトと友達になれると主張している。

 私は2007年9月からカトマンドゥの借家でネパ-ル生活を始め、10年間ネパ-ルと札幌を行き来している。そして私は数人のネパ-ル人家族と友人の関係でお付き合いをしている。そこで気が付いたことが二点あり、ネパ-ル人ガイドに賃金を払う私と雇われているネパ-ル人の関係。他の一つはネパ-ルの社会生活に根付いているヒンドゥ-教のカ-ストだ。

 

飲み会の「ネパ-ル人と友達になれるか」の話題を話し合った相手

 私は1981年に初めてネパ-ルを訪れ、登山目標の山の偵察を行った。この時から今日までネパ-ル人のガイドを雇用して、ネパ-ル国内の各地の案内をしてもらっている。最近ではガイドよりも私の方がネパ-ル国内の様子が詳しいので、ガイドにはもっぱら通訳をお願いしている。飲み会の私の話し相手は、私よりも10年も早くネパ-ルを訪れている人で、なんと1970年代の大学山岳部時代のこと。1970年代以前は日本人にとって日本から海外に出るのがとても困難な時代で、持ち出し外貨が500ドルと限られていた。この500ドルで海外滞在期間中の衣食住を賄わなければならない。この人はパキスタンからインド経由でネパ-ルに入り、登山目的でネパ-ルに数か月滞在している。

 

私とネパ-ル人カイドの関係は?

 私のネパ-ル滞在は、1981年に登山の偵察、そして次の年の1982年にロ-ルワリンヒマ-ルの6,853m峰登山。次いで1985年には小学一年と四年制の息子達の家族4人、そして北海道自然保護連合の事務局を手伝っていた大学生3人を引き連れたアンナプルナ3週間トレッキングと続いた。私の女房はこの時のネパ-ル行でのスケッチを基に、第一回ネパ-ル絵画展の個展を開催した。以後個展は7回を数えるまで続く。

 ネパ-ルのガイドは昔から現在まで変わらない。ネパ-ル国内のエ-ジェントの会社に雇われ所属し、そこの社長などの指示でトレッキングや登山や国内旅行のガイドを行つている。私はネパ-ルで行動する時は、登山・トレッキングや旅行でエ-ジェントにパックで依頼したことがない。最近は自分でバス会社へ出向きチケットの購入や、行先のホテルへ電話予約をしてガイドなしの旅行も多い。

 以前はエ-ジェントに、ガイドとバスやフライトの予約のみをお願いしていた。この時のガイドの役割は、もっぱら宿泊手配や食事の手配に限り、要するにネパ-ル語と英語の通訳をしてもらっている。その他の行動については自分で決定してガイドへ伝えるのみ。エ-ジェントにパックでお願いすると、その日程通りに行動し限られた宿泊場所や食事をするなどの制限がある。私の場合は気に入った場所では複数泊したり、思いきって二日行程を一日で歩いたりで、帰着が予定よりも一日二日早かったりする。この場合は帰りのフライトをキャンセルして路線バスに変えたりする臨機応変に対処する。時にはガイドを借りるだけで、ガイドの賃金も自分で支払うこともある。

 私のネパ-ルでのパックでない行動は、例えばホテルや食事の料金の高すぎるものを安価に抑えることが可能だし、何と言っても行動が自由なのが良い。トレッキングをエ-ジエントに依頼してパックにするのと、私の様にほとんどを自分で行う支払うお金の違いは歴然となる。例えば2009年に女房と二人、カトマンドゥ発着で、アンナプルナヒマ-ルのカリガンダキ川最奥のジョムソン村まで往復した。普通はカトマンドゥ――ポカラ間とポカラ――ジョムソン間はフライトになるが、ここをバスにする。10泊11日の料金は、パックで飛行機を使うと一人約1000ドル掛かる。私が企画実行すると路線バスのみの乗車で一人総額300ドルで済ませた。行く先々でガイドは大忙しだったろう。なんの予約もしないトレッキングで、お客の私達二人の安全と満足を満たさなければならないのだから。

 2014年ポストモンス-ンに女房と親戚一人と友人一人の4人一緒にアンナプルナヒマ-ルのトレッキングをした。この時のガイドには今まで通りに主に通訳の役割をしてもらった。エ-ジェントにカトマンドゥ――ポカラ、ポカラ――ジョムソン間のフライト予約をお願いしたところ、一日でフライト乗り継ぎでジョムソンまでのチケットは取れないと断られてしまった。私の取った行動は、ポカラに着き直ぐにガイドにジョムソン行きフライトの空き席を調べに行かせた。なんと往路搭乗客なしで復路に満席になるフライトが今直ぐに飛ぶとのこと。ガイドには次の日のチケットで5人搭乗OKになる様に交渉させた。フライト出発直前だったので、5人の荷物重量を計る暇なく機は飛び立つ。ジョムソンに着いて、私がカトマンドゥで予約していたポカラホテルに予約日変更の電話を入れることとなったが。私とネパ-ル人ガイドとの関係をお分かりになっただろうか。

 

飛び乗ったポカラ発ジョムソン行16人乗飛行機  貸し切りだった  ガイドはエベレスト登頂7回のシェルパ

f:id:koyaken4852:20170217204357p:plain

 

 話がネパ-ルのガイドと友達になれるかどうか、なのに少し横道に逸れてしまった。本題にもどそう。

 私は10年間札幌とネパ-ルを行き来して、ネパ-ル人数家族とお付き合いしている。まったくの親しい友人関係だ。娘の誕生日なので今晩来て。今日からお祭りなので今日来て、など食事などに誘われる。よくよく考えるとこの友人達、私が雇ったことも賃金を払ったこともない人達なのだ。

 昔も今もそうなのだが、欧米の人達のガイドとの関係は、ガイドには賃金相応の働きを求める関係が保たれているように思える。日本人とはチョット違う。

 飲み仲間で私と「ネパ-ル人ガイドは友人になれるか」の話し相手の彼は、日本人の登山家やトレッカ-は寝食を共にするガイドとは友人の様に仲良くしたいと考えている。私も友人は多いほど良いし、トレッキングや登山で一週間から2ケ月も一緒に過ごしているのだから友達になれるような気もするし、彼の思いと同じ。

では何故ネパ-ル人ガイドと友人関係になれないのだろう。

 トレッキングを終えて帰国すると、追って雇ったガイドからハガキや手紙が来て「又来てください」と書いてある。これを友人関係の芽生えと思ったら大間違い。雇用主のエ-ジェント社長からの業務命令での、お礼と再来お願いの手紙なのだ。勘違いして又同じガイドを指名しネパ-ル行をする日本人も多い。だが、ネパ-ル人ガイドと友人になれなく手紙の真意が判るのだ。

 私の女房は1985年のトレッキング以後、毎年のようにスケッチ旅行で約一か月のネパ-ル通いをしてきた。毎回同じガイドを連れて歩いているので、食事など一緒にしている。これこそ同じ釜の飯を食べる、寝食をおなじくすることになる。がしかし、女房の連れて歩くガイドは友達にはなってくれなかった。日本人のこちら側が友人関係を望んでも、相手がいること。、相手が賃金をもらう側の意識が強いと、なかなか友情には発展しないことが分かる。

 

ネパ-ルのカ-ストとの関係

 賃金を払う側と賃金をもらう側に少し関係し、似ていると思われるネパ-ルのカ-スト制度。このカ-ストはヒンドゥ-教の教義の一つ。

 カ-ストの端的な説明をすると、最上級カ-ストの男の権力と富と名誉などを維持拡張する制度。世襲制で厳格なカ-ストと云う階層社会のことで、カ-ストごとに職種がある。なんとインドでは紀元前200年からのヒンドゥ-教社会制度で、インド人がネパ-ルに持ち込んだもの。男と云ったのは、ヒンドゥ-教の男尊女卑原則があるから。

 例えば、数十年前のカトマンドゥでは、最上級カ-ストの家には下位のカ-ストが雇用されていた。一階には雌牛が飼われていて、その牛の面倒を見る牛飼い。牛飼は牛のエサを集め、二階にある台所の土床の掃除を牛糞で行う。その他にも雇用されている下位カ-ストは、トイレ掃除専門。トイレ以外の清掃。門番。お手伝いさんなどなど。トイレ掃除人は不可触カ-ストで、神聖な場所の台所を覗くことを禁止されていた。もしも覗くと、その家の人は台所の水や食べ物を食べることができなくなる。

 これらの雇用人の給料はいくらぐらいか。高給取りの公務員の1991年当時を見ると、大学卒初任給が2,320RSルピ-。課長・部長の最初給料は3,040RSルピ-。5ツ星ホテル会計職が大学卒10年勤務の女性で2,800RSルピ-だったので、押して分かるだろう。下位カ-ストの子供達は小中学校を卒業できれば御の字の家計状態。1RSルピ-=4円。

 最上級カ-ストの職業は地域社会の司祭や大地主農家など。他に公務員の役員や教員など。要は賃金を払う側のトップがブラ-マン族やネワ-ル族の上級カ-ストとなる。

 1990年ころからのネパ-ル民主化でこのカ-スト制度が若干民主的になった。1990年制定のネパ-ル王国憲法第5条では、ネパ-ルはヒンドゥ教の・・・・王国である。と規定し、第11条で宗教や人種、性、カ-スト、部族、思想によって人を差別してはいけない。差別する法律制定もダメ、と規定された。

 しかし、法律が変わったがネパ-ル社会からヒンドゥ-教やカ-ストがなくなった訳ではない。

 賃金を払う側の人間が賃金をもらう側のネパ-ルガイドと友人になれるのか。ネパ-ルのカ-ストをその少しだけ説明しだ。理解できただろうか。人間関係としてなかなか友人にはなれない理由を理解できただろうか。日本や日本人には理解できないネパ-ル社会である。

 カ-スト以外にもネパ-ル人同士の関係で理解不能のことがあった。私のネパ-ルの友人でエ-ジェント社の社長の話。彼は事務所の鍵を持っている。社員は多く居るが鍵を預けれる信頼できる社員がいない。毎日朝早く開鍵のために事務所に行き、事務所の鍵を閉めるために又遅くに行かなければならない。給料を払う側と支給される側の関係だけの問題ではない。それ以上の「信頼関係」でも払う側ともらう側の間に大きな溝がある。

 日本人が是非ともネパ-ル人と友達になりたいなら、このネパ-ル社会を無視すれば良いだけのこと。と思われるが、しかし残念ながら相手がネパ-ル社会で暮らすネパ-ル人だった。

 

 

ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地   その⑤スワヤンブ-ナ-トの四回目

 ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地 काठमाडौं उपत्यका その⑤スワヤンブ-ナ-トの四回目

 スワヤンブ-ナ-トの一回目から三回目までは、スワヤンブ-ナ-ト地域とスワヤンブ-ナ-トの顔がその年で違うことなどを写真で見てきた。

今回は2015年4月25日のネパ-ル大地震の影響を見てみる。

 

 スワヤンブ-ナ-トの仏塔本体は、土饅頭型の土台が大きくひび割れたが修復され綺麗になっている。

f:id:koyaken4852:20170215152849p:plain

 

地震前のスワヤンブ-ナ-トなどの写真。

 スワヤンブ-ナ-トの両側に門の様に聳える塔。この塔はコンクリ作りでなく中はレンガを積み重ねて造られている。この塔が地震で途中から倒壊した。

 右端の二階建ての寺院もレンガ造りで倒壊を免れたが、柱や壁が倒壊寸前でその後解体され、中にあった仏像だけがトタン板に囲まれて陳列仏になっている。

f:id:koyaken4852:20170215153007p:plain

左端は寺院が立っていた場所。トタン板に囲まれた仏像が置かれている

f:id:koyaken4852:20170215153048p:plain

 

スワヤンブ-ナ-トを取り囲むように立っていた寺院は地震で半壊状態

f:id:koyaken4852:20170215153136p:plain

 

 

 

ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地   その⑤スワヤンブ-ナ-トの三回目

 ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地 काठमाडौं उपत्यका その⑤スワヤンブ-ナ-トの三回目

一回目と二回目はスワヤンブ-ナ-トエリアの様子を写真で見た。

 今回はネパ-ルのスワヤンブナ-トやボダナ-トには目の上、額の所に大きな色布の幕が垂れ下がっている。この幕は何と呼ぶのだろうか。

 私はスワヤンブナ-トの冠と目の間の大きな三色の垂れ幕をスカ-トとよんでいる。寺院の屋根の下の垂れ幕も同様の呼び方。他にふさわしい公称があれば直すのだが。

 このスカ-ト、訪れるたびに色が違う。又最近は目や鼻の書き方や位置も少し違う様に思える。以前は目と鼻がつながった書き方だったが、最近は少し離している。

スカ-トの色が違うスワヤンブナ-トを写真で見てみたい。

 

f:id:koyaken4852:20170214115703p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170214115749p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170214115830p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170214115916p:plain

 

上記の四写真とは目と鼻の位置が違う

f:id:koyaken4852:20170214120157p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170214120301p:plain

 

 

ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地   その⑤スワヤンブ-ナ-トの二回目

ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地 काठमाडौं उपत्यका その⑤スワヤンブ-ナ-ト

の二回目

前回はスワヤンブ-ナ-ト建立の歴史などを綴った。今回はカトマンドゥ市内を取り囲むように走っている、リングロ-ドからスワヤンブ-ナ-トエリア三か所ある出入口の一つから入り、400段階段を下りた出口までの地域内を写真で見てみる。

 

f:id:koyaken4852:20170213103631p:plain

 

スワヤンブ-ナ-トエリアに入ると直ぐに三体の仏像

f:id:koyaken4852:20170213101453p:plain

f:id:koyaken4852:20170213101540p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170213101621p:plain

 

スワヤンブ-ナ-トの両脇の塔  右端には白い仏教寺院

f:id:koyaken4852:20170213101952p:plain

スワヤンブ-ナ-ト仏塔の両端の塔の化粧直し

f:id:koyaken4852:20170213102340p:plain

 

スワヤンブ-ナ-トの右端の白いチベット仏教寺院の仏像とダライダマ14世の写真

f:id:koyaken4852:20170213102606p:plain

 

400段階段

f:id:koyaken4852:20170213102809p:plain

f:id:koyaken4852:20170213102905p:plain

 

スワヤンブ-ナ-トの右端の白いチベット仏教寺院内部のダライダマ14世の写真

f:id:koyaken4852:20170213102633p:plain

 

400段階段下の仏像

f:id:koyaken4852:20170213101838p:plain

 

ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地   その⑤スワヤンブ-ナ-ト

 ネパ-ルの世界文化遺産 カトマンドゥ盆地 काठमाडौं उपत्यका その⑤スワヤンブ-ナ-ト Swayambhunath

 世界文化遺産カトマンドゥ盆地のスワヤンブ-ナ-トは、カトマンドゥのリングロ-ドのすぐ内側で中心街の西方3kmにあり、400段に近い階段の丘の上に建つストゥーパ(仏塔)様式の仏教寺院である。

東南アジア最古の文化遺産で、この寺院からはカトマンドゥの市街が一望される。

 全インドを最初に統一して帝国を築いたとされるアショ-カ王が紀元前約250年頃に建立している。アショ-カ王はブッダの生誕地ルンビニを訪れ、ブッダの辿ったカトマンドゥをも訪れ、カトマンドゥの隣町パタンにも4塚を建立している。
現在はサルが多いことから「モンキーテンプル」とも呼ばれている。

 ストゥーバ(仏塔)の高さは9m、直径18mで大きな目玉が描かれている。四面についた目は森羅万象を見通す仏陀の目で「みすえる知恵の目」である。

 現在のタルチョーの小布は、経文が刷られ黄、緑、赤、白、青の五色からなり、これらは黄が大地、緑が水、赤が火、白が風、青が大地で大宇宙を表わしている。

 スワヤンブ-ナ-トは万物の創造者と言う意味。直訳すると「自存者寺院」で、ブッタのシヤリラ(遺骨)が分骨された本物の仏舎利塔ではなく初念仏である。

 なおこの仏塔は正確にはストゥ-パではなく、マハ チャイテャと呼ばれる。チャイテャを直訳すると「塚」で、規模が大きく大チャイテャ。

 また仏塔の西北隅にある建築物のお堂は、その形状からヒンドゥ-教の寺院と思われ、仏教の仏塔とヒンドゥー教の寺院が共存していると思われるが、実はこの寺院は鬼子母神堂(ハリティ)と呼ばれる仏教寺院である。

 現在は仏塔の墓室を開くことは禁じられている。1825年に頭部の宝珠を支える木製の支柱が嵐で割れたことがあり、交換のために開かれたが仏塔の起源や建立年を記録した物などを調査しなかった。またとないチャンスを逃してしまった。

 2015年4月25日のネパ-ル大地震の際も土饅頭型土台が大きくひび割れ、改修名目での調査ができたがしていない。そもそも仏塔の開室禁止は現代の諾否の問題で、開室して調査することで、開室許諾の文書が見つかるかもしれない。

 

 このネパ-ル世界文化遺産が八か所点在するカトマンドゥ盆地は、国際連合ユネスコ世界遺産登録基準における以下の基準を満たし、1979年登録されている。

◎ 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証 拠。

◎ 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

◎ 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの。この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている。

 

f:id:koyaken4852:20170212112705p:plain

 

ハリティ鬼子母神

f:id:koyaken4852:20170212112751p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170212112818p:plain

 

f:id:koyaken4852:20170212112855p:plain

 

スワヤンブ-ナ-ト入場券 200ルピ- (2013年10月)

f:id:koyaken4852:20170212113041p:plain