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ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第8回 

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂おめでとう その八回目

魔の山 K2 その

 ネパ-ル人隊の世界第二位の高峰パキスタンのK2冬季初登頂の、おめでたいことから始まったこのブログ、もう8回目。

 K2登頂の日本隊20周年記念登山パキスタン・スキムブルム峰の氷河雪崩6名死亡事故から、ネパ-ル・アンナプルナⅠ峰氷河雪崩に、横道をしばらく歩いてしまった。

 ここで、パキスタンのK2峰に戻そう。

 世界の8千m峰14座の内、その山容から死亡率の高い山は、なんといってもネパ-ルのアンナプルナⅠ峰。それに次いで高所の為の酸素不足が原因と合わせて、急峻さの困難と雪崩が原因の死亡事故多発がパキスタンのK2峰だ。

 

1986年のK2

 わたしの所蔵する山岳書籍のうち、K2に関する本は数冊。勿論その全ての本はノンフイクション。その内の2冊について少し、ここでブログに書き込み掲載する。

その一冊目は「K2 嵐の夏」。

 パキスタンカラコルムに聳える世界第2の高峰K2峰・8611mは、その山容がピラミット型で、麓からピ-クへ辿る周囲全ての斜度は40度~65度。急峻なル-トゆえの転滑落事故に加え、8500mを超えるデスゾ-ンと呼ばれる酸素濃度が平地の三分の一の酸素不足事故。そして、降り続く雪は、斜面の傾斜角度が急峻がゆえに、その場所に留まらない雪崩の危険。3重要件の魔の山の条件が満たされている。

 本の題名「The Endless Knot」は、日本語版で「K2 嵐の夏」。日本語版出版は2000年9月で、著作者はクライマ-でオ-ストリア生まれの、8千m峰初登頂でも有名なクルト・ディ-ムベルガ-Kurt Diemberger氏。氏は1957年パキスタン・ブロ-ド・ピ-ク初登頂やネパ-ルヒマラヤのダウラギリⅠ峰・1960年スイス隊で初登頂など華々しい山行暦。

 著書の内容は、1986年K2登山の様子と、なんと13名の死亡者を出したK2夏シ-ズの詳細が詰まっている。13人のうち、パ-トナ-のジュリ-の死亡も。

 著者のK2登山は、1983年に撮影登山のパ-トナ-のジュリ-・トゥリス女史と、フランチェスコ・サントン率いるクォ-タ8000隊K2中国側登山隊に参加。この時は最終キヤンプで悪天に見舞われ、二人で撤退。

 その次の年、二人が参加するスイスK2登山隊は、登頂断念。二人はすぐ近くのブロ-ド・ピ-クに転進。8047mの頂上に立つ。

 1957年にヘルマンブ-ルと登頂したクルト・ディ-ムベルガ-は、二度目のブロ-ド・ピ-クだつた。25歳で一回目登頂のクルト・ディ-ムベルガ-は、52歳になっていた。

 1986年のK2登山でも、クルト・ディ-ムベルガ-(54歳)とジュリ-・テュリス(47歳)と撮影目的で参加。イタリア出身のアゴスティ-ノ率いるクォ-タ8000隊へ参加。登頂後に、嵐につかまる経験を経て、この著作となつた。

 この年のK2登山隊は、アブルッチ稜から頂上を目指す隊がフランス国際隊とオ-ストリア隊・韓国隊の3隊。そして、南南西稜がクォ-タ8000隊とアメリカ隊・ポ-ランド隊・レナ-トカザロット隊の4隊。北西稜のイギリス隊。南壁のドイツ隊。中国側のアメリカ隊。総勢10隊を含む14の企画隊と、世界のヒマラヤ登山の約半数がK2に集まった。この10隊のうち数隊は、パキスタン府から複数ル-トの許可をとっている。そして、多くの登山隊には、独自に単独で、複数名で行動する小グル-プがいる。

 著名な登山家、イエジ・ククチカやユ-ゴスラビアのトモチェセンなどがベ-スキヤンプに入村。

 「K2 嵐の夏」の内容は、クルト・ディ-ムベルガ-本人のK2アタック中にも、滑落や雪崩で死亡遭難事故が発生。本人が混成チ-ムとして頂上アタック後の、下山最中8千mキャンプが嵐に巻き込まれた。1986年夏のK2・8611峰は、なんと13人の犠牲者をその山に呑み込む、その詳細全て。

魔の山K2遭難事故3原因

 まずその一つ目は、急峻斜度が故の転落滑落。二番目は、これも急峻斜面の雪崩。そして三番目は、デス・ゾ-ンの酸素切れの高度障害と高山病。この三種の山岳遭難事故に結びつく原因は、ヒマラヤ遭難原因の殆ど100%近くを占める。

 この本の著者は、暴風雪と低酸素で凍傷になり、登山の後遺症の突発性肺塞栓症に罹り、帰国航空機内ではマラリアの伝染病にまで罹患してる。

手指の凍傷原因や下山の様子を著書で次の様に記述してる

 K2に登頂後、C4に下降できずに8,400mでビバ-ク。ようやくC4に辿り着いた8月4日の午後4時から暴風が吹き荒れることになる。5日間も7800mのC4テントに閉じ込められ、テント内の燃料のガスボンベ残量はゼロ。もちろん食料は尽きていた。

 「8月9日、K2にとりついて12日目、C4。・・・目覚めてはじめて気が付いた‐‐片手を雪の中に突っ込んだまま眠っていた。何本か、指先の感覚がまるでない。凍傷になっている。」「中指の先端が、青黒くぷっくり膨れている・・・こいつは、もう手遅れだ」。

 「この指みたいに、少しずつ死んでいくなんて、ごめんだ。いや、本当にこいつは、先行きを暗示しているのだろうか? 外には。相変わらず嵐が吠え猛って--今のところ、逃げ出せる可能性は皆無だ」。

 8月9日の上部と連絡の取れないベ-スキヤンプでは、上部に居る筈の7名全員が遭難死、と判断していた。

 8月10日、「荒れ狂っていた天気が、ようやく青空を見せた。必死の下山が始まる。テント内の隊員は、動こうともしないし、歩き始めた者も、朦朧と歩きを止める」。6人中テントで死亡したジュリ-以外の5人が下りの深雪ラッセル。途中3人になり、次のキヤンプに辿り着いたのは2人だけ。

魔の山K2 1986年のK2は27名が登頂、遭難死亡者は13名

K2女性初登頂

 1986年のK2は、大量の遭難死者をだしたが、一方では27人の大量の登頂者も。そしてここで特記するのは、女性のK2初登頂者。

 6月18日にベ-スキヤンプを出発。6月23日10時15分、。ポ-ランド人女性のワンダ・ルトキェヴィッチが登頂。なんと、その頂上直下200mの所で、リリエンヌ・バラ-ルとモ-リス・バラ-ル夫妻が、ス-プを飲んでいて、彼女はその二人を見ながら休息をとらずに頂上を目指した。リリエンヌ・バラ-ルは、K2がまだ誰一人女性の登頂者がいないことを、十分すぎるくらい熟知していた筈なのに。

 前夜2人用テントで4人が泊り、一睡もせずに歩き出し、頂上直下で休まざるを得なかったくらいの女性第二登のリリエンヌ・バラ-ルは、下山中に死亡。

 そして、これらの事柄は物語にもなっているほど。

 作家であるミッシェル・パルマンティ絵は、このフランス隊4人パ-ティの遠征費用の半分を負担し、リリエンヌ・バラ-ルの女性K2初登頂者物語を書き、出版する予定だった、のだ。バラ-ル夫妻が女性のワンダ・ルトキェヴィッチにフランス隊へ加わる呼びかけ、を聞いた作家ミッシェル・パルマンティエが、怒り狂った、そうな。この話は、次回にでも。

6月21日午前5時30分

 突然だつた、登山ル-ト上部で桁外れな雪崩発生。なだれた斜面は、そっくり積雪がなく、登山ル-トを含めて灰色氷だけ。アメリカ人のアラン・ペニトンとジヨ-ン・スモ-リッヒの2人が巻き込まれていた。ジヨ-ン・スモ-リッヒは何万トンのデブリに埋没。アラン・ペニトンの遺体が発見され、ベ-スキヤンプ近くの「ギルキ-追悼ケルン」に埋葬。K2遭難死の13番目と14番目の犠牲者なった。アメリカ隊は解散。

 6月23日、ポ-ランド女性のワンダ・ルトキェヴィッチとパリのジャ-ナリスト、ミシェル・パルメンティエの2人がK2登頂。そしてモ-リス・バラ-ルとリリエンヌ・バラ-ル夫婦の2人。合計4人が登頂。

 また一方、南南西稜からバスク隊の2人も登頂。

 ワンダとミシェルが7700まで下って来て、上のバラ-ル夫婦が8300mに二日間ビバ-クして下山困難と著者クルト・ディ-ムベルガ-に伝えた。

 その後、リリエンヌ・バラ-ルが雪崩のデブリの中に発見。モ-リスは見つからなかった。これで4人が死亡。

 7月3日にベ-スキヤンプを出発したイエジ・ククチカとタデゥシュ・ピョトロフスキ-は、南壁から8日に初登頂。8300mでビバ-ク。C3へ下降中、ピョトロフスキ-の両足アイゼンが外れて滑落。死亡した。

 7月12日に登山開始したポ-ランド隊のレナ-ト・カ-ザロットは、14日にC3に到達。16日にベ-スキヤンプのゴレツタ夫人とのトランシ-バ-通信が途絶え。

 16日午後7時、下山中に40m滑落したクレパスからベ-スキヤンプへ救助要請。救助隊はロ-プ下降し救出。救出中にレナ-ト・カ-ザロットは死亡。

 8月3日18時、ポ-ランド隊登頂。

 23時30分、ポ-ランド隊のヴォイチェフ・ヴルシはフイックスロ-プ伝いに下降中に、滑落死亡。8100m付近の韓国隊が設置したフイックスロ-プの末端が何も処理されていなく、下降器かカラビナがスッポ抜けて滑落。

 この後、著者のクルト・ディ-ムベルガ-は登頂した後、ロ-プの一番下の末端に大きな結び目を作って下降してる。

ギュウギュウ詰めテントで出発を一日延期が大遭難に

 オ-ストリア隊が7800mのC4より上部にフイックスロ-プを張る仕事をする代わりに、韓国隊のテントに同居してもらう約束をして、3人がC4に上がってきた。韓国隊テントは3人様一張に3人居るのだ。韓国隊員一人下山する。あとのオ-ストリア人2人は、著者のクルトとジュリ-の2人用テントに3人目のオ-ストリア人が入ってきた。もう一人のオ-ストリア人は、少し下に張ってあるアラン・ラウスとムロフカの2人用テントに3人目として入った。

 このオ-ストリア隊のテント無し行動が、以後の大量遭難に。著者は「失われた登頂日」としている。

 8月3日、オ-ストリア隊は登頂すべく7800mのC4を出発が、夕方引き返した。それで、この日もC4のテントは寝れないほどの超過密となる。

 韓国隊は酸素ボンベを使用して、16時15分登頂。

 8月4日7時、C4の6人が出発。

 2人のオ-ストリア隊のヴィリ・バゥア-とアルフレット・イミツァ-が登頂。

アラン・ラウスが登頂するがムロフカは途中で疲労困憊し下山。

 ムロフカを途中で抜いた著者のクルトと相棒のジュリ-の2人、午後5時30分登頂。頂上は灰色のマントに包まれつつあった。

 午後6時に下山開始、下山途中雪崩に流されたが無事。

 下山途中でビバ-クとなる。

 8月5日、C4のテントに全員帰着する、が13時30分、6人は最悪の悪天に捕まってしまう。

 降雪によりクルトとジュリ-のテントが潰され、3人用テントに4人が入ることとなる。

 8月8日朝、暴風雪に閉じ込められたC4のテントの中で、著者クルトのパ-トナ-のジュリ-・トゥリスが死亡。

 8月8日、天候回復して晴天。

 テント内で死亡のジュリ-を残し5人下山開始。

 2人が100m下ったあたりで、オ-ストリア隊アルフレット・イミツァ-が雪面にうつ伏せに、そしてハンネスの動きが止まり2人死亡。

 8月10日、クルト・ディ-ムベルガ-はC3から7250mへ下降の途中、右手指の凍傷で、小便するズボンのジッパ-が下げられず。

6700mのC2へ午後10時着。ヴィリが水を作ってくれた。ヴィリの両手指は凍傷。著者クルト・ディ-ムベルガ-の右手親指だけセ-フ。左足の感覚なし。

 ムロフカがC2に下山せず死亡確認。ムロフカの遺体は、次の年の日本隊がフイックスロ-ブに垂れ下がる死体を発見。ギルキ-追悼ケルンに埋葬。

2人だけ生存生還

 8月11日、クルト・ディ-ムベルガ-は下降に便利な自分のエイト環を発見し、正午にC2出発。夜中、オ-ストリア隊のヴィリ・バゥア-がベ-スキヤンプへ下山して寄越してくれた、救助隊のジム・カランのヘットライトの目映ゆい光芒が闇を貫いて、こちらに投げかけられ、著作者クルト・ディ-ムベルガ-のK2高度差2700mの生 還行が終わる。

 

魔の山K2についての書籍「K2 嵐の夏」に続いて、次回は5人ののK2登頂者女性クライマ-についての「非情の頂」。

 

ギルキ-追悼ケルン

 1953年、K2登山中に行方不明になった、アラン・ギルギ-の追悼ケルン。

K2のベ-スキヤンプ近くに、石を積み上げて作られ、その後に遭難事故死亡者の名前板レリ-フ場所となる。

 

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K2頂上直下の懸垂氷河

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ギルキ-追悼ケルン

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チムニ-を登攀するリリエンヌ・バラ-ル

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K2女性初登頂者のポ-ランド人女性ワンダ・ルトキェヴィッチ、イエジ・ククチカと 

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右側2人、著者のクルト・ディ-ムベルガ-Kurt iembergerとパ-トナ-のジュリ-・トゥリス

著書から

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