ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 二百四十二回目
30.エベレスト街道の寺院とチョルテン(仏塔)
前回は、「30.エベレスト街道の寺院と仏塔」の三回目、エベレスト街道の各所に見られる、チベット仏教のタルチョ-の写真を見た。
今回は、エベレスト街道のチョルテンの写真を見てみる。
チョルテンについて、少し調べてみた。
チョルテン
紀元前から仏教国には、チョルテンが多い。日本へは、古代インドから中国を経由して伝わり、五重塔などがある。
現在のインドやネパ-ルでは、チョルテン(仏塔)のことをストゥ-パと呼び、チベットではパゴダとも呼ぶ。
そもそもチョルテンの仏塔(ぶっとう)とは、仏舎利のことで、お釈迦様の遺体・遺骨、またはその代替物を安置した仏教建築のこと。仏塔の他に、卒塔婆(そとば)、塔婆(とうば)、塔(とう)、ストゥ-パ(サンスクリット語・Stūpa)、供養塔などとも呼ばれる。
サンスクリット語のストゥ-パ(स्तूप, stūpa)とは、「高く顕れる」という意味。仏教の世界観である涅槃(死後)の境地を象徴している、らしい。
西洋では「仏塔」を指す語に、二種の異なる語のストゥ-パ( stūpa)とパゴダ(pagoda)がある。パゴダは意味が広く、仏塔に限らず層塔のような設計をした通常の宗教建築を指す。チベット仏教の寺院はパゴダと呼ぶ。
ブッタ(釈迦)の遺骨
ストゥ-パはもともと、仏教の開祖の釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚である。 釈迦入滅後に仏舎利は8個に分けて配られ、容器と灰土を合わせて10基のストゥ-パが造られた。
紀元前のこと、初めてインド全土を治めたアショ-カ王は、それらのストゥ-パを壊して8万4000に細分化し、各地に新たなストゥ-パを建設したといわれている。 その後、仏教が各地へ広まると、仏教の盛んな地域にもストゥ-パが建てられ仏舎利を祀るようになった。
その後、ストゥ-パが増え仏舎利が不足すると、宝石や教文、高僧の遺骨などを、しかるべき読経などをしたうえで仏舎利とみなすようになった。
アショ-カ王時代のストゥ-パの原型は、円筒形の台基の上に覆鉢と呼ばれる半球体を乗せたド-ム状の構造物の塚だつた。覆鉢の頂点に平頭と呼ばれる仏舎利を収めた箱、その上に傘蓋が付けられた。 紀元前250年に現在のカトマンドゥを訪れたアショ-カ王は、カトマンドゥ市内にボダナ-トとスワヤンブナ-トを建立。そして、現在のカトマンドゥ隣町パタンに4塚のアショ-カ王4ストゥ-パを建立した。
古代インドでは、貴人の頭上に傘蓋(さんがい)をかざして歩いたことから、傘蓋は尊貴のシンボルとされ、やがてストゥ-パに対する供養としての傘蓋は幾重にも重なり、楼閣・塔となっていった。 インドから中国や朝鮮半島を経由して、わが国で建立された五重塔などがこれ。
塔の頂部につけられる相輪は、原初的な仏塔にある傘蓋の発展したものと言われる。 こうした原初的な形態に近いストゥ-パが改良・改築を加えた代表的なのはネパ-ルのスワヤンブナ-トやボダナ-トだ。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館・ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
エベレスト街道・ナムチェバザ-ル3,440m入口の仏塔(チョルテン・ストゥ-パ)
エベレスト街道・タンボチェの入口の仏塔(チョルテン・ストゥ-パ)
エベレスト街道・コン・デリ峰6,187mと仏塔(チョルテン・ストゥ-パ)
エベレスト街道・アマ・ダブラム峰6,856mと仏塔(チョルテン・ストゥ-パ)
エベレスト街道・クムジユン村からアマ・ダブラム峰6,856mと仏塔(チョルテン・ストゥ-パ)
1992年 タンボチェゴンパ3,887mと仏塔(チョルテン・ストゥ-パ)
現在のタンボチェ村3,887mの仏塔(チョルテン・ストゥ-パ)
エベレスト街道・ナムチェ村3,440mの壁画とタルチョ-とチョルテン(仏塔・ストゥ-パ)
ネパ-ルの首都カトマンドゥのボダナ-ト・ストウ-パ
インドのアショカ王が紀元前250年に土饅頭の塚を建立、
ネパ-ルの首都カトマンドゥのスワヤンブナ-ト・ストウ-パ
インドのアショカ王が紀元前250年に土饅頭の塚を建立、
カトマンドゥの隣町パタンのアショカ・ストゥ-パ
紀元前250年に土饅頭の塚を建立、インドのアショカ王がパタン4ケ所に建立