ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 二百三十五回目
カトマンドゥ盆地より西部にある寺院と仏塔
28.ブツタの生誕地ルンビニ その二回目
前回は、お釈迦様の生誕地ルンビニLumbinikの写真のブッタ生誕石像を見た。
今回は、お釈迦様ブツタ生誕に関わる、その真実の歴史、そして、お釈迦さまの育った家や発掘された諸々の写真を見てみる。
ネパ-ルの世界遺産 ルンビニ世界文化遺産は1995年の発掘でブッタの生誕地と判明した、かに思える。しかし、多くの歴史学者や専門家からは、既に色々な歴史証拠で疑えれないと断定されていた、らしいのだ。
では、紀元前566年、紀元前6世紀の出来事を顧みる。
ブツタ生誕時代の事柄を少し調べてみた。
ブッタが誕生したときの氏名はゴ-タマ・シッダ-ルタ-。その後ブッタ(仏陀)と云われるようになり、ゴ-タマ・ブッタが現代の適切な名前。漢字では仏陀、又は釈迦牟尼だろう。
ブッタの生誕時代のことが叙述されている最古の歴史的文化的文書は、紀元前七世紀以降紀元前100年ころまでの間のキランティ諸族の統治時代に書かれている。
フッタ生誕時代の歴史書とブッタの誕生
それは、ア-リア人の書物であるヴェ-ダ祭詞集や二つの大ヒンドゥ-叙事詩の一つのマハバラ-タ。
マハバラ-タによると、初めて北東ヒマラヤ山地の住民がキランティ諸族で、今のネワ-ル族やライ族とリンブ-族の祖先とされている。
仏教の開祖ブッタは、紀元前五世紀頃カビラヴァストゥ国のスッド-ダナ王を父に、麻耶マヤ夫人を母として、無優樹(沙羅樹)の下で母親の右脇から誕生したと云われている。
ブッタが言うには「私は母親の右脇から誕生した、そして目覚めた」と。わたしは、この右脇腹に興味がある。これは、わたしが勝手に考え思うことなのだが、ヒンドゥ-の教えに、マニ石を歩く時やマニ車を廻しながら歩く時、必ず右回、と説く。
右肩が尊いと云われ、マニ石やマニ車に右肩を近づけるのが良いとすること。又ヒンドゥ-教徒の間では左手が不浄と云われ、食べ物を口に入れる手は右に限られていること。これらのヒンドゥ-の教義とブッタが母親の右脇から誕生したことの関連が合致していると考えている。どうだろうか。
発掘を終えた現在のルンビニでは、麻耶が淋浴したと言われるブシュカ-リ(プスカリニ)池のそばに菩提樹がある。1995年に国際発掘団の手で、発掘作業にじゃまな菩提樹が切り倒された史実もある。
歴史書では、ブッタの生誕年と没年は、紀元前566年・486年と紀元前463年・383年の二説ある。
私はこの二説について、確定しないところが又面白いと思っている。実在したがその生誕や生涯が闇に包まれる様なところが在ることで、実存そのものがボャっと倍加する様に感じられるのだ。
歴史学者は、紀元前の出来事が細部にわたって明白になる資料や証拠が、二通りあることを示している。と云えるのだろう。
ごく最近の生誕地がインドかネパ-ルかの論争と、その史実は?
それでは考古学者が1995年に現在のルンビニで発掘する根拠について視てみよう。
ルンビニとは関係しないが、1898年イギリス駐在官w・ベッペが、ネパ-ル国境に近い北インドのピララ-ワで古墳発掘調査時にブッタの真骨を発見している。
1895年(~96年)ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルミンディ(ルンビニ)の藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。これが、史実としてブッタ生誕地とする、最も重要なこと、とわたしは考えているが、どうだろう。
アショカ・石柱
インド亜大陸を統一した古代インド・マウリヤ朝のアショ-カ王(在位紀元前268年頃~232年)が、仏教普及に熱心で、ブッタの生誕地に詣でた記念に建立したのが石柱。
アロイス・アントン・フュ-ラが発掘した石柱には、紀元前249年と記され「釈迦の誕生地を記念して住民の税を八分の一に減免する」と古代文字のパ-リ語で書かれている。
ブッタは現在のネパ-ル各地を回り、ネパ-ル渓谷(現在のカトマンドゥ)を訪れ、その後北インドへ仏典を求めて訪れている。
アショ-カ王(無憂(むう)王)もブッタの訪れたその跡を辿って、紀元前249年と250年頃にルンビニと同時に、現在のカトマンドゥ盆地を訪れ、隣町のパタンに4塚(現在の仏塔)と、ボダナ-トやスワヤンブナ-トを建立してる。
その後、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した書物「大唐西城記」にも、636年に三蔵法師がこの石柱を訪れたことが記されている。「大唐西城記」によると、アショ-カ王の石柱は落雷のために中ほどから折れていたという。
アショ-王についてルンビニとは直接関係ないが、ブッタが悟りを開いたインドのバラナシなど多くの場所にもアショカ王が訪れている。多くの場所に石柱を建立し古代文字がある。バラナシの石柱は、その後破壊され3分割に折られ、現在は博物館に保存されている、らしい。
その後のルンビニの歴史
14世紀以降、この地ルンビニ一帯は、その後インドやネパ-ルを席巻したイスラム勢力によって破壊され廃墟となる。
1895年考古学者フユ-ラのルンビニ発掘以後も、さまざまな考古学発掘が続いた。
1970年観光開発目的に国連本部にルンビニ国際委員会を設置。
1995年にネパ-ル・インド・スリランカ・パキスタン・バングラディッシュ・日本の六カ国の考古学者がルンビニ・マ-ヤ聖堂を発掘。新聞記事ではマ-ヤ聖堂の石室の発掘でブッタの生誕地と判明した、と発表された。
1997年世界文化遺産登録。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館・ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
マ-ヤ-聖堂とプスカリニ池
ブッタ生誕地の発掘場所、ブッタの母親の名マ-ヤ聖堂と呼ばれる
遺跡を保存するマ-ヤ聖堂は2003年建立
現在の外壁はレンガ色から白色になっている
ルンビニ案内図
ルンビニ地図 発掘場所の他に世界各国が建設した寺院やエリア内のホテルなど
ブッタの生誕地表示板 WORLD HERITAGE SITE LUMBINI
The Birthplace Of Lord Buddha
地球の歩き方(2013~2014)より
紀元前4~2世紀・マウリヤ朝に建立の発掘跡
プスカリニ池
マ-ヤ聖堂手前の火葬台
紀元前4~2世紀・マウリヤ朝時代に建立の火葬台
マ-ヤ聖堂内部
貴重なお釈迦様生誕地証明を記した発掘石
マ-ヤ聖堂内部の発掘された遺跡 七層の煉瓦から成る基壇 15室からなる
1995年の国際発掘団の新聞記事
アショカ王・石柱
インドのアショカ王がブッタ誕生地訪問を記念して石柱を建立
落雷で折れた石柱を唐の玄奘(げんじょう)が訪れる
1895年ドイツの考古学者フユ-ラは石柱を発掘
その後再建