ネパ-ルの王宮と寺院(仏塔) 二百三十四回目
カトマンドゥ盆地より西部にある寺院と仏塔
28.ブツタの生誕地ルンビニ その一回目
前回は、ネパ-ル第三の都市バイラワ市Bhairahawaue 内の仏像や寺院の写真を見た。
今回から数回に亘って、お釈迦様の生誕地ルンビニLumbinikの様子や寺院群の写真を見てみる。ルンビニは世界文化遺産の登録地。色いろな歴史遺産や文化遺産の多い地。写真も多く、3回4回くらいに膨らませて見てみる。
今回は、お釈迦様ブツタ生誕に関わる写真。そして、お釈迦さまの生誕地ルンビニを紹介する。
日本ではお釈迦さまと呼ばれているが、仏教国での呼び方は「ブッタ」。
ルンビニ ( ルムビニ)Lumbini
世界文化遺産のルンビニは、1997年に国際連合のユネスコ(教育科学文化機関)が登録。
ネパ-ルの首都カトマンドゥの南西約250kmバイラワ市の西方22km、北にヒマラヤを見上げるタライ平野に位置しインドとの国境までは10kmと近い。
現在ではブッタ生誕にちなんで、インドとルンビニを含む仏教の四大聖地の一つとなっている。
他の聖地は全てインド国内の、ブッタの成道の地インド・ピハ-ル州ブッタ・ガヤ-。そして、初めて説法したインド・ウッタルプラデ-シュ州サ-ルナ-ト。もう一つは入滅の地のインド・ウッタルプラデ-シュ州クシ-ナガルである。これらのインド国内の聖地は、ブッタがインド北部を訪れたことで聖地となった。勿論、紀元前の話。
ブッタがインド北部を歩いているが、布教目的で歩いた訳ではない。紀元前のこの頃の仏教に布教と云う概念や布教の行為はなかったのだろう。
ブッタ生誕は紀元前。この頃の生誕地ルンビニは、インドとネパ-ルの国境の境界線は不明で、現在のルンビニはインド文化圏だったと云われている。この頃そもそも現在のネパ-ルと呼ぶ国は存在せず、その後にカトマンドゥ地域をネパ-ルと云っていた時代時期があるくらい。
梵語(サンスクリット語)と古代文字のパ-リ語のルンビニは土俗語でルミンディと言われていたらしい。
ルミンディのその意味は「受胎を祈願する地母神の名前」。
ブッタの氏名はゴ-タマ・シッダ-ルタ。
ブッタを直訳すると「目覚めた人」。
ごく最近、ブッタの生誕地がインドかネパ-ルかの論争があった。ごく最近まで不明なままだった、様に受け取られる出来事。ルンビニ文化遺産は1995年の発掘でブッタの生誕地と判明した、と報道されたが。この論争に終止符が打たれたかに見られるが、だがしかし、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した書物「大唐西城記」には、636年に三蔵法師がこの石柱を訪れたことが記されている。636年に唐の玄奘(げんじょう)が、ブッタ生誕地を確認する書物が、最初で最後の史実、と言うのが現実。論争は不要不毛だったのである。
「大唐西城記」によると、紀元前にインドのアショカ王がブッタ生誕地を訪れてアショ-カ王・石柱を建立、その石柱が落雷のために中ほどから折れていたという。
1895年(96年)ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルミンディ(ルンビニ)の藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。これが、史実としてブッタ生誕地とする、最も重要なこと、とわたしは考えているが、どうだろう。
1995年の発掘時に出土したブッタ(ゴ-タマ・シツダ-ルタ)誕生石像
王妃マ-ヤが無優樹に手をかけ、その右下に誕生した王子ゴ-タマ・シッダ-ルタが立っている。王妃の隣には妹のマハ-プラジャパティ-、そしてその横にヒンデゥ-教のブラフマ-神とインドラ神
参考資料
在ネパ-ル日本大使館・ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
ブッタ(ゴ-タマ・シツダ-ルタ)誕生石像
発掘石像の復元レプリカ大理石像
ルンビニ世界遺産地域の正門から入るとすぐのネパ-ル寺Nepal Buddha Temple
この中にブッタ生誕石像が安置されている