ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百六回目
カトマンドゥ市内のボダナ-ト仏塔
ボダナ-ト Boudhanath その二回目
前回は、カトマンドゥ市内にあるボダナ-ト・ストゥパ-の写真を見た。
今回からは、ボダナ-トについての写真をいろいろと見てみたい。
そもそものボダナ-トの建設起源を辿ってみたい。が、しかし、文書で残存している資料がない。ただ一つ紐解いて見て、これではないか、と思われるのは、唐の国の玄奘三蔵が書き残した「大唐西域記」。この「大唐西域記」、わたしは見たことも読んだこともない。
伝え聞くところでは、玄奘三蔵がインドや現在のネパ-ルを訪れたことが叙述されている。そこには、お釈迦様のブッタとインドのアショカ王の跡を辿ったことや、見たことが記されている。
その内容は、「ブッタ生誕地のネパ-ル・ルンビニには、アショカ王が建立した石柱が建っていて、そこには古代文字でブッタの生誕地」と記されている。それと「大唐西域記」には、アショカ王の建立したストゥパ-一基と、他に4基のストウパ-がネパ-ル国内にある、と記されているらしい。
4基のストウパ-についは、前回まで写真を見て来たパタン市内に、アショカ・ストウパ-があるので、他の1基のストウパ-が、カトマンドゥ市内にあるボダナ-ト・ストウパ-かスワヤンブナ-ト・ストゥパ-になるのではないか。
わたしは、このボダナ-ト・ストゥパ-が、インドを最初に統一して支配したアショカ王が、ブッタの歩いた道を、自ら辿って石柱やストゥパ-を建立したものの、その一つではないのか、と考えている、のだ。
ゴ-タマ・シッダ-ルタ-(仏陀・釈迦牟尼)は、紀元前五世紀頃カビラヴァストゥ国のスッド-ダナ王を父に、麻耶マヤ夫人を母として、無優樹(沙羅樹)の下で母親の右脇から誕生。
釈迦の生誕年と没年は、紀元前566年・486年と紀元前463年・383年の二説ある。
アショ-カ王はブッダの足跡を辿る
インド亜大陸を統一した古代インド・マウリヤ朝のアショ-カ王は、仏教普及に熱心でブッタの生誕地に詣でた記念に石柱を建立。
アショ-カ王の在位は、紀元前268年頃~232年。
石柱には紀元前249年と記され、古代文字のパ-リ語で「王よ、神々の友たるものよ、温顔なる君は、戴冠式20年の後に親しくこの地に来訪し、敬意を捧げた。この地こそ釈迦族の聖人、仏陀生誕の地なればなり。ブッダ生誕地を記念し、租税を8分の一に減免する」と記されている。アショ-カ王(無憂(むう)王)は、ブッダの訪れた跡を辿って、紀元前249年と250年頃にルンビニと同時に、現在のカトマンドゥ市内パタンに4塚(仏塔)と、ボダナ-トやスワヤンブナ-トを建立。
玄奘三蔵は「大唐西域記」に、ネパ-ルでアショカ王の建立した石柱や塚を発見、と記述記
玄奘(げんじょうは、602年生、664年3月7日没。
玄奘三蔵は唐代の中国の訳経僧で、玄奘は戒名。俗名は陳褘(チンイ)。
629年陸路でインドやネパ-ルに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年、経典657部や仏像などを持って帰還。旅行記として「大唐西域記」を書き残す。
「大唐西城記」には、636年に三蔵法師がこの石柱を訪れ、アショ-カ王の石柱は落雷のために中ほどから折れていたという。
ドイツ人アロイス・アントン・フュ-ラは、「大唐西城記」をもとに石柱を発見
1895年(96年)ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)が書き残した「大唐西城記」をもとにルンビニの藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。
1995年にネパ-ル・インド・スリランカ・パキスタン・バングラディッシュ・日本の六カ国の考古学者がルンビニ・マ-ヤ聖堂を発掘。新聞記事ではマ-ヤ聖堂の石室の発掘でブッタの生誕地と判明した、と発表された。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ルの秘境ムスタンへの旅 ジュゼッペ・トゥッチ
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
ボダナ-ト Boudhanath
1950年代のボダナ-ト
周りの畑地に巡礼者用の宿屋が建ち並ぶ
紀元前249年、アショカ王建立の石柱
近くに土饅頭の塚
この時代、ただの塚でストゥパ-(仏塔)とは呼ばなかった