ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その百一回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その二十九回目
パタン市内の寺院と仏塔 アショカ・ストゥパ-
前回は、ゴールデン・テンプルの二回目の写真を見た。
今回は、パタン市の北東側、バグワティ-河に近いアショカ・ストゥパ-の写真を見てみる。
パタン市内には四か所のアショカ・ストゥパ-が存在している。わたしはその内三か所を訪れている。
今では仏塔(ストゥパ-)と呼ばれているが、建立した当初はただの土饅頭の塚でしかなかった。建立年は紀元前250年。なんと今から2268年前のこと。
建立したのは、インド亜大陸を始めて政治的に統一したアショカ王。
アショカ王のネパ-ル訪問
インドを統一したアショカ王は、仏教を守護した大王で仏教に関心を持っていた。仏教に関するインドやネパ-ルの各地を訪れて、その記念に石柱を建てていた。
アショカ王は紀元前250年に、ブッタ(お釈迦様)の生誕地であるネパ-ルのルンビニを訪れる。このころ、まだインドとネパ-ルの国境が画定していなかったので、インド国内と同様の巡回(巡礼)だったのかもしれない。
お釈迦様のブッタはインドで悟りを開いているが、インド各地を歩いていて、ルンビニから数百キロmのネパ-ルのカトマンドゥにも来た。インドの王様アショカは、このブッタの足跡をたどってカトマンドゥにも来ていた。
アショカ王は、現在のパタン市内の四か所のアショカ・ストゥパ-と、カトマンドゥ市内のスワヤンブナ-トに、土饅頭型の塚を作った。
わたしは、カトマンドゥ市内のボダナ-トもスワヤンブナ-トと同様に、アショカ王が建設したのではないか、と考えている。
アショカ王石柱建立の歴史的証拠
アショカ王が現在のネパ-ルを訪れていた歴史的証拠が、文字など数々ある。
アショカ王は、サンスクリット語でअशोक 。仏教を守護したとされているが、関心の薄かったのが、戦争(カリンカ戦争)に勝利して深い関心を示すことになったらしい。
アショカ王の釈迦の縁の地周りには、他に目的があった。それはアショカ王の統治形態の法(ダルマ)政治の実行にあるとされている。ようするに、国王の絶対権力政治ではない法による統治・政治をめざしたとされる。そのために、「法の巡幸(行)」でインド各地を訪れていた。
どうもアショカ王の「法」は、「仏教の教え」と重なるのではないかと思われる。法の宣伝や施行に、国の機関として法大官(ダルマ・マハ-マ-トラ)を設置している。
アショカ王の建立した石柱は、アショカ王柱やアショカ王塔と呼ばれる。その幾つかに、ストゥパが同時建設されている。
釈迦の生誕の地(ルンビニ)は、石柱が発掘された事で特定された。石柱には、ここがブッダの誕生地であることと、租税を八分の一に免除することが古代文字で書かれていた。これによって、釈迦が伝説上の存在ではなく、歴史上実在したことが認められた。石柱ではブッダとなっている。
ネパールのルンビニ(ルンミンディ)とその近くのニガ-リ-サ-ガルの石柱は即位後20年の紀年があり、アショーカ王自身が仏陀生誕の地であるここに巡礼したことを記している点で、他の碑文とは性格が違う、とされている。
アショカ王石柱の発掘は、中国の唐の玄奘三蔵のインドへの旅を記した「大唐西域記」による。
「大唐西域記」は、紀元629年から645年の17年間にインドや現在のネパ-ルの旅行記。旅行の目的は仏教の仏典の収集があった。
唐の玄奘三蔵は現在のネパ-ル・ルンビニを訪れ、アショカ王の建てた石柱を発見。石柱には、ここがブッダの誕生地であることと、租税を八分の一に免除することなどが古代文字で書かれていた、と「大唐西域記」に書かれている。
インド人アロイス・アントン・フュ-ラは、「大唐西城記」をもとに石柱を発見
1895年(96年)ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルンビニの藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
アショカ・ストゥパ-
ネパ-ルのビニルン
遺跡を保存するマ-ヤ聖堂 2003年建立
発掘された遺跡
七層の煉瓦から成る基壇
15室から成る
古代王朝グプタ期に作られた生誕浮き彫り石像
イスラム教徒によって削り取られたとされている
1895年(96年)ドイツの探検家アロイス・アントン・フュ-ラは、石柱の下部を発見