ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その八十七回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その十五回目
パタン旧王宮広場 9回目
王宮西側の寺院群 クリシュナ寺院 Krishna Mandir ガル-ダ石柱像
パタン市の中心にあるパタン旧王宮広場の写真9回目。
前回は、ビシュヌ寺院Vishnu Templeと、すぐ北隣にある二重寺院ジャンガナラヤン寺院Jnganarayan Templeの写真を見た。
今回は、ジャンガナラヤン寺院のすぐ北隣の、ガル-ダ石柱像とそのすぐ前のクリシュナ寺院の写真を見てみる。
クリシュナ寺院は、シッディナラヤン・マッラ王時代に建造。1637年に2階の像が設置されているので、17世紀頭初と思われる。
寺院の前には、ヴィシュヌ神の乗り物であるガル-ダの石柱像がある。
クリシュナ寺院は、ヒンドゥ-教のヴィシュヌ神の化身であるクリシュナが祀られている。クリシュナとは、マハ-バ-ラタ戦争の際に正義のために戦ったとして、ヒンドゥ-教徒に人気がある神様。
この寺院は、ネパ-ルでは珍しい石造建築で、インドのムガール帝国の影響のシカラ建築の建物。
寺院の壁と2階、3階には、「ラ-マ-ヤナ」の物語が刻まれている。
寺院内には21の祠がある。
毎年8月から9月にかけて行われるクリシュナ神の生誕祭クリシュナ・ジャンマスタミ祭には、インドからも多くの巡礼者が訪れる。
ネパ-ルの神仏習合
ヒンドゥ-教寺院のクリシュナ寺院内には、ブッダ像が祀られている。神様とお釈迦様、神社と寺院が仲良くする、隣り合わせになっていたり一緒になっているのを神仏習合と呼ぶ。ネパ-ルでは、どこに行っても、どこの寺院でも、隣り合わせの神仏習合が見られる。人々市民達も一向に気にせずにいる。
ヒンドゥ-教は一見すると、仏教の範囲に入るのか、と考えるが、そこに祀っているのは全てが神様。
ネパ-ルでは、日本の神社なのに寺院と公称していて、仏教と間違える。
日本の神仏習合
それでは、日本の神社と寺院は、どうなっているのか。神様とブッタの関係を見てみる。
日本は天照大神の時代から、神様の国だった。
それが、6世紀552年に仏教伝来する。現在の中国のクララから仏像を持ちこんで、地方豪族たちに新しい文明としての仏教が広まる。
日本の神様と仏様の関係は次のようになる。クララでの仏様は人々のつらさを解放する役割だった。そして、日本の神様も仏様と同様な人々のつらさを解放する、新たな役割を担った。
近畿の豪族達から始まった仏教は、8世紀前半までに東北や四国・九州にまで広がり、寺院が建てられた。
その内に、仏様を守るために神様の存在価値が高まる。具体的には、奈良の東大寺大仏建造時、地方の神様・八幡さまが協力。そして、八幡神が奈良の大仏を拝むようになると、752年大仏開眼で、大仏の守り神として八幡神が招かれ。東大寺に隣接して手向山八幡宮(さぬきやまはちまんぐう)が建造される。正に神様と仏様が仲良く暮す神仏習合時代真っ盛り。
日本の神仏分離
千年以上も続いた神社と寺院が仲良くする時代が、一瞬にして崩壊する。
1868年3月28日、神仏分離令。
明治維新後の王政復古により、天皇中心の天皇家理想の政治が復活したことが始まり。
今から150年前、明治維新政府は神仏習合禁止の神仏分離令を発布。
天皇中心の国家神道国となり、事実上の天皇絶対政治が始まる。神仏分離の政治は、1 945年8月15日の第二次大戦敗戦まで続き、仏教・寺院・仏像・経典など、全ての仏教が神社や神と切り離される。
神仏分離令を発布の三日後からは、神社にあった仏像やお経を放擲(ほうてき)放り投げ、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)焼き捨てられた。
歴史的には、天皇神の美しい古代信仰の復活と位置づけられるだろう。神輿からは仏教色が排除され、日本全国いたる所の仏像の首が切られ、顔がはぎ取られた。
神仏分離令の証拠が残っている。八幡宮神社の看板をようく見ると、「八幡宮寺」の「寺」の字が消されている。また、滋賀県大津の日吉大社(ひよしたいしゃ)の一階下殿の土の中からは、仏鏡が発掘。日吉大社でも仏教儀式・僧侶法要が営われていたことを窺わせる。仏教信者が神仏分離令に反して、仏教仏を隠したのだ。
戦後の日本、又神様と仏様が仲良く暮す日が訪れる日が来るのだろうか。残念、日本国憲法条文に天皇の章が残ったためなのか、神仏分離令は廃止されたが、神社と寺院が仲良くする政治には戻らなかった。
ネパ-ルの寺院や仏塔の写真を見るのだったのに、横道を歩き出してしまった。元に戻ろう。
クリシュナ寺院 Krishna Mandir ガル-ダ石柱像
ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その八十七回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その十五回目
パタン旧王宮広場 9回目
王宮西側の寺院群 クリシュナ寺院 Krishna Mandir ガル-ダ石柱像
パタン市の中心にあるパタン旧王宮広場の写真9回目。
前回は、ビシュヌ寺院Vishnu Templeと、すぐ北隣にある二重寺院ジャンガナラヤン寺院Jnganarayan Templeの写真を見た。
今回は、ジャンガナラヤン寺院のすぐ北隣の、ガル-ダ石柱像とそのすぐ前のクリシュナ寺院の写真を見てみる。
クリシュナ寺院は、シッディナラヤン・マッラ王時代に建造。1637年に2階の像が設置されているので、17世紀頭初と思われる。
寺院の前には、ヴィシュヌ神の乗り物であるガル-ダの石柱像がある。
クリシュナ寺院は、ヒンドゥ-教のヴィシュヌ神の化身であるクリシュナが祀られている。クリシュナとは、マハ-バ-ラタ戦争の際に正義のために戦ったとして、ヒンドゥ-教徒に人気がある神様。
この寺院は、ネパ-ルでは珍しい石造建築で、インドのムガール帝国の影響のシカラ建築の建物。
寺院の壁と2階、3階には、「ラ-マ-ヤナ」の物語が刻まれている。
寺院内には21の祠がある。
毎年8月から9月にかけて行われるクリシュナ神の生誕祭クリシュナ・ジャンマスタミ祭には、インドからも多くの巡礼者が訪れる。
ネパ-ルの神仏習合
ヒンドゥ-教寺院のクリシュナ寺院内には、ブッダ像が祀られている。神様とお釈迦様、神社と寺院が仲良くする、隣り合わせになっていたり一緒になっているのを神仏習合と呼ぶ。ネパ-ルでは、どこに行っても、どこの寺院でも、隣り合わせの神仏習合が見られる。人々市民達も一向に気にせずにいる。
ヒンドゥ-教は一見すると、仏教の範囲に入るのか、と考えるが、そこに祀っているのは全てが神様。
ネパ-ルでは、日本の神社なのに寺院と公称していて、仏教と間違える。
日本の神仏習合
それでは、日本の神社と寺院は、どうなっているのか。神様とブッタの関係を見てみる。
日本は天照大神の時代から、神様の国だった。
それが、6世紀552年に仏教伝来する。現在の中国のクララから仏像を持ちこんで、地方豪族たちに新しい文明としての仏教が広まる。
日本の神様と仏様の関係は次のようになる。クララでの仏様は人々のつらさを解放する役割だった。そして、日本の神様も仏様と同様な人々のつらさを解放する、新たな役割を担った。
近畿の豪族達から始まった仏教は、8世紀前半までに東北や四国・九州にまで広がり、寺院が建てられた。
その内に、仏様を守るために神様の存在価値が高まる。具体的には、奈良の東大寺大仏建造時、地方の神様・八幡さまが協力。そして、八幡神が奈良の大仏を拝むようになると、752年大仏開眼で、大仏の守り神として八幡神が招かれ。東大寺に隣接して手向山八幡宮(さぬきやまはちまんぐう)が建造される。正に神様と仏様が仲良く暮す神仏習合時代真っ盛り。
日本の神仏分離
千年以上も続いた神社と寺院が仲良くする時代が、一瞬にして崩壊する。
1868年3月28日、神仏分離令。
明治維新後の王政復古により、天皇中心の天皇家理想の政治が復活したことが始まり。
今から150年前、明治維新政府は神仏習合禁止の神仏分離令を発布。
天皇中心の国家神道国となり、事実上の天皇絶対政治が始まる。神仏分離の政治は、1945年8月15日の第二次大戦敗戦まで続き、仏教・寺院・仏像・経典など、全ての仏教が神社や神と切り離される。
神仏分離令を発布の三日後からは、神社にあった仏像やお経を放擲(ほうてき)放り投げ、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)焼き捨てられた。
歴史的には、天皇神の美しい古代信仰の復活と位置づけられるだろう。神輿からは仏教色が排除され、日本全国いたる所の仏像の首が切られ、顔がはぎ取られた。
神仏分離令の証拠が残っている。八幡宮神社の看板をようく見ると、「八幡宮寺」の「寺」の字が消されている。また、滋賀県大津の日吉大社(ひよしたいしゃ)の一階下殿の土の中からは、仏鏡が発掘。日吉大社でも仏教儀式・僧侶法要が営われていたことを窺わせる。仏教信者が神仏分離令に反して、仏教仏を隠したのだ。
戦後の日本、又神様と仏様が仲良く暮す日が訪れる日が来るのだろうか。残念、日本国憲法条文に天皇の章が残ったためなのか、それとも他に理由があるのか、神仏分離令は廃止されたが、神社と寺院が仲良くする政治には戻っていないような気がする。
ネパ-ルの寺院や仏塔の写真を見るのだったのに、横道を歩き出してしまった。元に戻ろう。
クリシュナ寺院 Krishna Mandir ガル-ダ石柱像
クリシュナ寺院
ガル-ダ石柱像
クリシュナ寺院 Krishna Mandir ガル-ダ石柱像
クリシュナ寺院 Krishna Mandir ガル-ダ石柱像 ヴィシュワナ-ト寺院 ビムセン寺院
ビシュヌ寺院 ジャガナラヤン寺院 クリシュナ寺院