ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その七十四回目
パタンの王宮と寺院や仏塔 その二回目
アショカ・ストゥパ
前回は、パタン市について、市内の寺院の写真など見た。
今回は、299年からパタンに人が住み始めたが、その550年も前の紀元前に、インドの王様アショカ王が建立した土饅頭型の塚の写真を見てみる。
パタン地域には、アショカ・ストゥパと呼ばれている4塚がある。紀元前249年~250年、初めてインドを統一したアショカ王が、現在のカトマンドゥ盆地を訪れて建立。
アショカ王はネパ-ルのブッタ(釈迦)の生誕地ルンビニを訪れ、その後ブッタが現在のカトマンドゥを訪れているので、アショカ王も現在のカトマンドゥ盆地に来てスワヤンブナ-トとボダナ-トを建立し、カトマンドゥの隣の街パタンに4塚を建立している。
紀元前のこのころ、インドの国境に近いお釈迦様生誕地ルンビニはインド文化圏であり、その後の現在のカトマンドゥはネパ-ルと言われていた。
アショカ王はここパタンで4塚と、現在のカトマンドゥ市内にスワヤンブナ-トとボダナ-トの、これも塚を建てている。この塚(現在は仏塔)はネパ-ル語でチャイチィヤと呼ばれ、パタン地域のアショカ王建立4塚は地球の4つの時代を表現していると云われている。
現在では「仏塔」と呼ぶが、当時はただの土饅頭の塚であったようだ。
わたしは10年間札幌とネパ-ルを行き来してきた。その間にこの地パタン市内を見てきたが、四塚在るとされるアショカ・ストゥパのうち三塚を見るだけ。残りの一塚はどこにあるのだろうか、探し続けている。
スワヤンブ-ナ-トは、万物の創造者と言う意味で、直訳すると「自存者寺院」。ブッタのシヤリラ(遺骨)が分骨された本物の仏舎利塔ではなく初念仏である。
スワヤンブ-ナ-トは規模が大きく、大チャイティヤ。
アショカ王は、インドのマウリア朝第3代の王。サンスクリット語でअशोक 。その意味は無憂〈むう〉。在位は紀元前268年頃から紀元前232年頃。漢訳では阿育王と書かれる。古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
どうしてアショカ王がネパ-ルを訪れたかは、中国の唐代の玄奘三蔵の著書「大唐西域記」に記されている。
玄奘三蔵は、629年にインド圏を旅し、経典などを収集して、645年に帰っている。その間に657部の経典や他に仏像などを持ち帰る。経典の三分の一を翻訳。その後、旅行記として「大唐西域記」を書く。
636年、玄奘三蔵がこの石柱を訪れたことが記されている「大唐西域記」には次の記述がある。
三蔵がお釈迦様の生誕地を訪れると、そこにはインドのアショカ王の建立した石柱が建っていた。
インドのアショカ王が、お釈迦様の生誕地のルンビニを訪れ、石柱を建立。その石柱に古代文字で、「アショカ王がブッタの生誕地を訪れ、地元民の租税を八分の一に減額する」と書いてあった。
この「大唐西域記」のアショカ王記述がなければ、アショカ王が現在のネパ-ルを訪れたことや、お釈迦様(ブッタ)がネパ-ル生まれだったことも判明しなかったこと。最近まで、ブッタ生誕地がインドかネパ-ルかの論争が続いていた。
ネパ-ルのルンビニで、お釈迦様(ブッタ)生誕施設を発掘
1895年~96年、ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルミンディの藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。
1995年にネパ-ル・インド・スリランカ・パキスタン・バングラディッシュ・日本の六カ国の考古学者がルンビニ・マ-ヤ聖堂を発掘。新聞記事ではマ-ヤ聖堂の石室の発掘でブッタの生誕地と判明した。
参考資料
在ネパ-ル日本大使館ホ-ムペ-ジ
ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン
ネパ-ル 地球の歩き方
カトマンドゥ・デイ・ドリ-ム 佐々木幹郎
ネパ-ル紀行 三瓶清朝
ネパ-ル アジア読本
NPO法人 DTACネパ-ル観光情報局
アショカ・ストゥパ(仏塔)
パタン地図の南側のアショカ・ストゥパ
ここが、1950年代に写真を撮ったトニ-・ハ-ゲンの写真の場所
パタン地図
パタン地図の北東側のアショカ・ストゥパ
パタン地形図の西側のアショカ・ストゥパ
1950年代のアショカ・ストゥパ、土まんじゅう型塚
パタン市内の仏塔、現在は周りが住宅や商店街で埋め尽くされているが1950年代は畑だったのだろう
トニ-・ハ-ゲン撮影
1895年~96年、ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルミンディの藪の中で、古代文字で詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見
1995年、ネパ-ル・インド・スリランカ・パキスタン・バングラディッシュ・日本の六カ国の考古学者がルンビニ・マ-ヤ聖堂を発掘。新聞記事ではマ-ヤ聖堂の石室の発掘でブッタの生誕地と判明したとある
636年、玄奘三蔵がこの石柱を訪れたことを記した「大唐西域記」で、ブッタの生誕地としていた。
ルンビニ・マ-ヤ聖堂発掘と同時に、ブッタ生誕石像も発見