ネパ-ルの王宮と寺院や仏塔 その三十回目
寺院と仏塔 その十三回目 カトマンドゥ旧王宮広場の寺院と仏塔 その十二回目
前回は、ビメレシュワラ寺院の写真を見た。
今回は、以前に写真を見た王宮を再び。カトマンドゥ旧王宮広場内の王宮の写真を見てみる。
ネパ-ル系ネパ-ル人のネワ-ル族は、ヒンドゥ-教最高位カ-スト
ここカトマンドゥ盆地に昔から住んでいるのはネワ-ル族。インドから現在のネパ-ル南側へ移住して住み着いたのは、インド系ネパ-ル人。
このインド系ネパ-ル人、インドの宗教ヒンドゥ-教を持ちこんだ。ヒンドゥ-教の教義カ-ストを持ちこんだ、と云っても良いだろう。ネパ-ルに移り住んだインド人、元々ネパ-ルに住んでいた貴族や農業地主などと交渉を始める。
インド人の最高位カ-ストのブラ-マン族は、ネパ-ルの王様や貴族・大地主農家などと交渉を深め、ヒンドゥ-教を持ちこむOKを取る代わりに、ネパ-ルの王様や貴族・大地主農家の支配階級族を自分と同等の最高位カ-ストにする提案をする。そのころから、ヒンドウ-教の教義カ-ストの最高位カ-ストは、ネワ-ル族とインド系ネパ-ル人のブラ-マン族の二族となった。ネパ-ルの支配階級のこの2族のカ-ストは、今日まで延々と、冨と権力や名誉を不平等に分配支配してきた。
「カ-スト」と平等
「今日まで」、との表現は相応しくないかもしれない。1990年ごろからのネパ-ルの民主化は、徐々にではあるが支配層を憲法上排除し、平等の概念を根付かし始めている。
話が横道を歩き出しそうだが、このネワ-ル族文化が、15世紀ごろからカトマンドゥ盆地で花開いた王宮や寺院の建築様式だつた。
カトマンドゥエリアにはネパ-ル系ネパ-ル族のネワ-ル族が多く住み、三国時代はネワ-ル文化花盛りの時代でもあった。
ネワ-ル族文化を築いた時代
ネワ-ル文化は、王宮や寺院などの建築様式から始まり、仏像制作、金銀細工などの工芸品等々、ネパ-ルのあらゆる先進文化を築いた。カトマンドゥ盆地三国時代とネワ-ル文化が丁度時代的な重なりを見て、現在でもネパ-ルの文化遺産であり、国際連合ユネスコの世界文化遺産登録されている。
2015年4月25日のネパ-ル大地震はカトマンドゥ盆地の貴重な文化遺産に大きな打撃を与えた。その建築物などの修復作業が始まっている。現在でも、ネワ-ル族の建築した文化財の修理修復作業は、全てネワ-ル族が携わっている。
わたしのネパ-ルのライ族の友人が、わたしに聴いてきた。「なぜ王宮や寺院の修復は、全員ネワ-ルなのか。」
ネパ-ル人が、自分の国の歴史や文化を知らない現実。わたしは、友人にネパ-ルの歴史や文化を語ることになる。
なんで、日本人のわたしが、ネパ-ル人にネパ-ルの歴史と文化を?
細密で華麗な、金銀細工や木彫など、そしてレンガと木を組み合わせた建築などがネワ-ル族の専売特許。
今回の写真は、このネワ-ル様式の建築とは全く異なる西洋様式の王宮の写真。
カトマンドゥ市内の建物はレンガ積のレンガ色の建物がほとんど。その中にあって、非常に珍しいこの王宮建物は白く輝いている。
7.ガッディ・バイタック Gaddhi Baithak
ナラヤン寺院やシヴァ・パルヴァティ寺院の東側にある白い建物。
シャハ国王から武力で政権を奪ったラナ家の統治時代、1908年に宮殿として建てられた。、西洋建築様式で、周りのネワール様式の建物とは一風変わった印象を受けるこの建物は、イギリスびいきのラナが、隣の国イギリス領インドの建物の真似をして、イギリス風建築で建てたもの。
それまでも使用していた、両脇隣接のネワ-ル様式の王宮と共に、その一部として使用。
2015年4月25日正午直前のネパ-ル大地震で、レンガ造りの建物は大破。現在は、アメリカの援助で修復が行われている。
カトマンドゥ王宮のガッディ・バイタック
2015年4月25日 ネパ-ル大地震の前と後
地震前のナラヤン寺院と王宮
王宮前で音楽会
右側のネワ-ル様式の王宮と左側のイギリス様式の王宮
2015年4月25日 ネパ-ル大地震後
右側のナラヤン寺院の姿は地震で全壊
白い壁の中はレンガ積み
コンクリ-トの柱は一本もない