ネパ-ルの王宮と寺院(神院)
ネパ-ル語でダルバ-ルは宮廷のこと。
カトマンドゥ市内には、2008年に国王を退位した場所の旧王宮と、カトマンドゥ盆地内に1769年まで国王が支配していた旧王宮が三か所ある。
その他にも、ネパ-ル国内には王様が居た自治地域があって、その場所にも旧王宮が存在する。アンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルの奥地、中国のチベットと国境を接する、ムスタン郡には昔からムスタン王が居た。
ムスタン王は、2008年のネパ-ル国王の退位と同時に、自治区支配者としての王を退位した。
ネパ-ルには、数多くの王宮がある。いや、この言い方では少し間違っている。
ネパ-ルの王宮の全ては、旧王宮。
現在は、ネパ-ルの憲法に国王の規定がないので、旧王宮と呼ぶのが相応しい。
2007年1月15日に暫定憲法が下院議会で定められた。同時に議会決議の内容は、新憲法を制定するための制憲選挙の実行と、選挙後の議会開会時に国王の退位を決定すること。
同年12月27日、暫定議会において、ロ-ヤル・ネパ-ル国を連邦民主共和国にする暫定憲法改正が承認された。
2008年4月10日、全国統一制憲議会選挙。
5月28日、ネパ-ル制憲議会招集。
ここまでの経緯を経て、初回の議会開催において、国王がただの市民になった。
政体を連邦民主共和国とし、王政廃止を議会決議。ギャネンドラ国王が退位し、ネパ-ルの最後の国王となった。
わたしが自分の目で見た感想では、ネパ-ルの民主化の経過では、多くの国民の血が流されたが、最後の段階で無血革命が成功したと考えている。国王の絶対支配に、国民と議会がスクラムを組んでの民主化革命が、わたしの目の前で行われた。この目で見ることが叶った。しかし、ネパ-ルの国教だった宗教のヒンドゥ-教がネパ-ルからなくなった訳ではない。
国王や支配層の支配根拠となっているヒンドゥ-教、ネパ-ル国民を社会的に縛る宗教は今後もネパ-ルに存在することになる。
ネパ-ルとネパ-ル国王と宗教の関係は後日、詳しく触れたい。
ネパ-ルの民主化
わたしはネパ-ル生活を始めて11年目になる。
このネパ-ルの激動期から、ネパ-ル生活を始め、この政権選挙の時にもネパ-ル滞在していた。わたしは統一選挙日に、整然と選挙が行われたのを見ていた。それは、ヘリコプタ-の飛行停止、ツ-リスト車以外の車両運行停止、と選挙妨害を未然に防止する方法がとられ、街々で投票権用紙を持参した国民市民が、主権在民のための投票をしていた。
わたしのネパ-ルでの日常は、首都カトマンドゥ市内はいつもバイクと車にあふれ、大通りは排気ガスで通行できないので裏通りを歩くようにしている。
選挙の日の大通りは、車の通行がまる一日なく、徒歩で歩き廻ることができた。
1990年代のネパ-ルの民主化
ネパ-ルの歴史や民主化の歴史は、在カトマンドゥの日本大使館ホ-ムペ-ジにアップされている。その年代順を少し説明する。
ネパ-ルは、1950年に130年間の鎖国を解いて開国した。
ネパ-ルの民主化の始まりを見る前に、少しネパ-ルの中世の歴史を見る。
13世紀マッラ朝がネパ-ルを統治する。国王制度の始まり。
1450年頃、バクタプル王からカトマンドゥ国王が独立。
1619年、カトマンドゥ王からパタン国王が独立し、三国時代となる。
1769年、第10代ゴルカ王のプリトウビ・ナラヤン・シャハ王が、、バクタプル国とカトマンドゥ国・パタン国の三国を攻め、ネパ-ルを統一する。シャハ王朝時代の始まり。2015年4月25日に発生したネパ-ル大地震の震源地が、この国王の出身地のゴルカ町だった。
1846年、ジャンガ・バハドウ-ル・ラナが虐殺事件で宰相となる。ラナ家が実権を握り、シャハ王家は傀儡政権となる。
ネパ-ルの民主化はどのようにして始まったのか
1951年、王政復古。
1950年の開国に伴いインドに亡命していたトリブバン国王が帰国し王位につく。ラナ家支配が終わり、立憲君主制を宣言する。
わたしがネパ-ルの歴史を見て、民主化の始まりと判断したのは、このトリブバン国王の帰国と立憲君主制宣言に見られるように、絶対君主制からの民主化の芽が垣間見られること。
要するに、議会の必要制度がなかったネパ-ルが、実質国王と議会の権限争いの始まりと見られる状況になった。その流れ決定的になったのが、1991年から始まるのマオイストがネパ-ル警察とドンパチを始めたこと。
その前のネパ-ル政治を少し説明すると。
1959年、ネパ-ル初の総選挙で議会の政治改革主導が始まる。ヒンドゥ-教徒の国王の権限が強かった刑法や民法の法律改定が一挙に進む。
封建的諸制度の民主的改革期が始まるのだが、国王の反撃の始まりでもあった。
1960年、マヘンドラ国王のク-デタ-成功。議会を解散する。なんと全閣僚を逮捕し、政治活動を禁止した。
1962年、国王は新憲法を制定。政党活動の禁止。間接民主主義の「バンチャヤット制度」の制定。この「バンチャヤット制度」は、実質ヒンドゥ-教の国教化と国王に有利な政治の制度。
1980年、「バンチャヤット制度」の是非を問う国民投票。僅差で制度継続となる。
1990年2月18日、「バンチャヤット制度」廃止と複数政党制の復活を求めるジャナ・アンドランと呼ぶ民主化運動勃発。
4月8日、国王は複数政党制の復活を認める。
4月16日、「バンチャヤット制度」廃止を宣言。11月19日、議会は国民主権の新憲法制定。この新憲法「1990年憲法」と云う。
1991年5月21日、30年ぶりに議会総選挙。
1996年、ネパ-ル内戦始まる。ネパ-ル共産党毛沢東主義派閥(マオイスト)は、王制打破を主張し人民戦争開始。
2002年10月4日、ギャネンドラ国王ハク-デタ-成功。王党派のチャンドを首相に任命。
2004年6月、国民の大きな声に、再びネパ-ル会議派のデゥバを首相に任命。
2005年2月1日、国王は議会と内閣の権能を停止し、国王絶対君主制導入。戒厳令の非常事態宣言する。
12月、毛沢東派は他の7政党と連合を組み、ギャネンドラ国王と闘争に入る。
2006年4月、7政党と毛沢東派は、国民にゼネラルストライキを呼びかける。
4月24日、国王は議会復活と国民主権を発表し、コイララ制憲発足。
5月、毛沢東派のテロ指定を解除。
5月18日、議会は、国王賛美の国歌変更。ヒンドゥ-教の国教を廃止し政教分離を決議。
2007年1月15日、下院議会は暫定憲法を発布。
2008年4月10日、制憲選挙実施。
5月28日、 ネパール制憲議会招集され、新たな政体を連邦民主共和制宣言して正式に国王廃止。ギャネンドラ国王退位。元国王は、カトマンドゥの郊外に引っ越す。そして、今日まで自分で支払ったことが無い王宮の億単位の公共料金を支払うことになった。
ネパ-ルの制憲選挙の政党の総選挙風景 後方に国王像とカトマンドゥ・ダ-バ-スクエア
政党の宣伝隊
街の選挙風景
政党の政策宣伝紙
制憲選挙風景 2008年4月10日
選挙の投票用紙を持って集まる
制憲選挙日 車両規制で道路を走る車はない 2008年4月10日
まだ国王が入居している王宮前道路 制憲選挙日 車両規制されている
選挙日の王宮 現在はミユ-ジアム博物館