ネパ-ルの楽しいトレッキング その四十二回目
エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol khumbu)の三回目
前回はネパ-ルヒマラヤのトレッキングの高度障害や、エベレスト街道トレッキングにあたって、その計画と出発地ルクラを写真で見てみた。
このルクラ飛行場、世界でも最も危険な飛行場で有名。現在はテンジン・ヒラリ-飛行場ネパール語でतेन्जिङ-हिलारी विमानस्थलと正式名称がつけられている。テンジンとヒラリ-は1953年に、エベレストに初登頂した、シェルパ族のガイドとイギリス隊の登山隊員のお二人のお名前。
世界で一番危険な飛行場
ここのルクラ飛行場の滑走路は、ネパ-ルの他の山岳飛行場の滑走路の中でも特にデンジャラス。カトマンドゥから飛行時間35分。V字の渓谷を上流に向かって飛行し、九十度方向転換して、登り坂の坂道を駆け上りながら着陸する。この滑走路460mしかない。ランニングすると間髪を入れずに急ブレ-キをかけないと止まらずに上部の斜面に激突する。
離陸でフライトする時は、下りの傾斜した滑走路を駆け下って飛び立つ。双発プロペラ機は滑走路の一番端に停まり、ブレ-キをかけたままエンジンを全開にして、ブレ-キを解除して一気に勢いをつけ、滑走路の端の断崖絶壁寸前で飛び立つ。そして、V字渓谷へ急ハンドルして飛び立つ。
ランニングに成功すると、搭乗者全員が「ホッ」として、パイロットに大きな拍手喝采。
全てのフライト予約者が飛ぶまで飛び続ける
このルクラエアボ-ト、ネパ-ルの他のフライト事情とは異なる。カトマンドゥからルクラへのフライトをする会社は4会社。搭乗予約で断られることがない。普通のフライトは、事前にフライト時間が決まっていて、搭乗希望者は飛行機会社へフライト時間を指定して予約する。しかし、この飛行機のフライト出発時間は、早朝の日が昇る時間から始発となる。そして、その会社の飛行機台数にしたがって、飛び立つ時間差で二便・三便となる。
ここからが他の飛行場のフライトと違うところ。ネパ-ルのエベレスト街道は、全世界の登山愛好者のトレッキングコ-スであり、また登山と関係のない人々の観光の憧れの地。世界で一番多くの人が訪れる山岳地なのだ。
飛行機会社のルクラ飛行機全機が飛び立った後にも、多くのフライト予約者が待っている。折り返し運転で、全てのフライト希望者をルクラへ運ぶことになる。予約して登場できないキャンセルになる人は、日没による有視界飛行困難が原因に限られる。
天候悪化でフライトキャンセルが続く
カトマンドゥ発ルクラ行のフライトは有視界飛行。悪天候ならフライトがキャンセルになる。一便は好天でフライトOKでも、次の便が飛べるわけではない。トレッキングシ-ズンに3日から4日続けてキャンセルなら、カトマンドゥやルクラでそれぞれ3千人も行き帰りの予約者が溜まるこになる。カトマンドゥから行く人は良い。帰りのルクラ初の人達は、カトマンドゥから自分の国へのフライト日を過ぎてしまうことになる。会社勤務など、困るを越えて大変なことになるのだ。
天候悪化などでフライトキャンセルになったチケットの取り扱いはどうなるのだろう。次のフライトできる日の一番早い便に振り替えてくれる。一番機に予約していた人のチケットは、キャンセルチケットの振替後の便に自動的に変更になる。どの便が一番機かは、フライトの会社の人やパイロットしか知らないので、搭乗者たちは出発時間が遅れたらしいくらいしか分からない。
エベレスト街道の使用物資のほとんどを運ぶ飛行機
機のフライトは有視界飛行なので、日が昇る時間から日が落ちる時まで、折り返し運転が続く。この飛行機、お客様の搭乗者だけを乗せるわけではない。貨物機ではないのだが、貨物専用機に変身もする。
世界中から押し寄せるトレッカ-や観光客が、ルクラの町とそれより上部のエベレストの眺められる町村に滞在するのだから、その人達の衣食住を賄わなければならない。それらの衣食住の品々は、その殆どをカトマンドゥからフライトで運ぶことになる。飛行機一機の貨物室や乗客室が瓶ビ-ルで満載のフライトがあったりするのだ。
ネパ-ルの飛行機事故の歴史
過重飛行の事故で荷物重量制限
カトマンドゥ発ルクラ行のフライト事故が発生した。事故調査の結果、一機に搭乗する人と荷物の合計が過重だったと判明。以後のネパ-ル国内フライトは、厳重な重量制限となり、搭乗前には一人ひとりの重量を計り、荷物の重量との合計が厳重に管理される規則となる。
特に滑走路の危険なルクラ行のフライトは、預ける荷物と機内持ち込み荷物の合計重量が最大15kgになった。オ-バ-チャ-ジを支払っても15kg以上はダメ。
運ぶ荷物が15kg以内の規則に、登山隊は大困りだ。ネパ-ルのエ-ジェントは、ルクラに倉庫を借りて、登山隊の必要品を事前に調達するようになる。
ネパ-ルの航空機事故歴史
ここ20年間(1992年から2010年)でネパールは66回の航空機事故をおこしており、その42回はツインオッター、アブロ等の固定翼機によるもので乗客、乗務員の生命が奪われた。
ネパールの主な航空機事故
1950年 130年間の鎖国を解き開国、飛行機どころか車も数台しかなかった
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1955年3月3日 |
DC-3 |
KalingaAir |
ネパール北西部シムラ |
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ネパールでの最初の航空機事故 |
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1969年7月12日 |
DC-3 |
ネパール航空 |
南部ヘタウダ |
死者35名 |
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1992年7月31日 |
A310 |
カトマンズ北の山 |
死者113名 |
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1992年9月28日 |
A300 |
パキスタン航空 |
カトマンズ近郊 |
死者167名 |
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1999年10月0日 |
AVRO |
ネコン航空 |
カトマンズ近郊 |
死者15名 |
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2000年7月27日 |
ツインオッター |
ネパール航空 |
ダレルドラ |
死者25名 |
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2002年9月29日 |
ツインオッター |
シャングリラ航空 |
カスキ |
死者18名 |
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2006年6月21日 |
ツインオッター |
イェテイ航空 |
ジュムラ |
死者9名 |
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2006年9月23日 |
MI-17ヘリコプター |
シュリー航空 |
東ネパール |
死者24名 |
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2008年3月3日 |
MI-17ヘリコプター |
東ネパール |
死者10名 |
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2008年10月8日 |
ツインオッター |
イエテイ航空 |
ルクラ |
死者18名 |
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2010年8月24日 |
ドルニエ |
アグニ航空 |
東ネパール |
死者14名 |
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2010年12月15日 |
ツインオッター |
タラ航空 |
東ネパール |
死者22名 |
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2011年8月25日 |
ツインオッター |
死者18名 |
2012年9月28日カトマンズ空港をルクラに向けて飛び立った国内線が離陸直後"わし”と思われる鳥に右側のエンンジンに直撃され空港近くに墜落した。事故機はシータ航空のカトマンズ空港早朝6時15分発のルクラ行きで搭乗していたネパール人7名、イギリス人7名、中国人5名全員19名が死亡した。
ネパールでの航空機事故は1946年以来46件683名が死亡している。ちなみに、ここ10年の9月に起こった事故は
1. |
1992年9月26日 |
ネパール・エアーウエイ |
ルクラ空港 |
負傷者 |
2. |
1992年9月28日 |
パキスタン航空 |
カトマンズ空港南10km |
167名死亡 |
3. |
1999年9月05日 |
カトマンズ空港西方数キロ |
15名死亡 |
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4. |
2006年9月23日 |
シュリー・エアー |
タプレジュン |
24名死亡 |
5. |
2011年9月25日 |
ブッダ・エアー |
カトマンズ近郊 |
19名死亡 |
6. |
2012年9月28日 |
シータ・エアー |
カトマンズ空港500m |
19名死亡 |
航空機事故
ネパール航空のツイン・オッター機がジョムソン空港でオーバーランし滑走路の先のカリガンダキ川に転落した。乗客、乗務員等22名を乗せて早朝8時10分にポカラ空港を離陸したツインオッター機には日本人も8名乗っていたが5名が負傷した。幸いなことに死者はなかった。
2014年2月17日 航空機事故
ネパール航空のツインオッター機がポカラからジュムラに向かっていたが行方不明になり森林に墜落しているのが発見された。同機には15名の乗客と3名の乗務員が搭乗していたが全員の死亡が確認された。
2015年3月4日早朝午前6時半 航空機事故
一番機イスタンブールからのトルコ航空機A330が滑走路を外れ着陸に失敗した。幸い死傷者は無かったがそれから4日間にわたりカトマンズ空港は閉鎖された。ネパール政府は航空機の移動の為インド政府に機材の提供などを要請し、インド空軍の航空機が資機材を運びようやく4日後の7日午後7時過ぎに空港は開港した。このため、約50000人を超える出国者とニューデリー、バンコク、ホンコン、ドバイ等の中継点ではカトマンズに向かっていた多くの観光客が立ち往生した。
2016年2月26日 航空機事故
ネパール西部カリコット地区で、乗客乗員11人乗りが墜落。操縦士2名死亡、乗客9名負傷。
2016年2月23日 航空機事故
ネパール中部ポカラから早朝7時45分にジョムソンに向かったタラ航空(9N-AHH)がミャグデイ郡ルプスに墜落乗客20名と乗務員3人全員の死亡が確認された。乗客の内外国人は2名(中国人・クゥエ-ト人)であった。 新聞記事では、ポカラから南方に100km。
テンジン・ヒラリ-空港 ルクラ飛行場
貨物機としてルクラ着