ネパ-ルの楽しいトレッキング その二十八
ランタンヒマ-ル・トレッキング 十回目
ランタンヒマラヤのトレッキングを終えた。わたしが1981年ポストモンス-ン季に、キャンジンゴンパまでをピストンしたのと、2002年にわたしの女房が最奥のランシサ・カルカ4125mから、もう一つのル-トを下った写真を見てみた。2002年のル-トはカトマンドゥ盆地に下山するル-トだ。
わたしは、1981年に初めてネパ-ルを訪れた。この時は、次年の1982年にアタックするロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰の偵察行だった。ルクラ飛行場までのフライトが、有視界飛行のため気象悪化で三日間キャンセル。その為に、メンバ-の一人をルクラ行のフライト待ちさせて、他の三人がランタントレッキングとなった。
トレッキングを終えて帰国は、タイのバンコック経由で成田経由→札幌と戻ることになる。カトマンドゥ発のフライトに、マナスル峰8163mの登頂を終えた二人が同行することとなる。わたし達が初めて利用したネパ-ルのエ-ジェントは、その当時ヒマ-ル・トレック㈱。同じ会社を利用してマナスルを登頂したのは、加藤保男さんと尾崎隆さんの二人。
エ-ジェントの社長さん○○二三子さんが、「タモッちゃん、札幌からネパ-ル初めての三人を成田まで面倒を見てくれる」と、加藤保男さんにお願いしてくれた。
バンコクのホテルの部屋は、わたしと加藤さん、それと尾崎さんの三人。ホットシャワ-を浴びた加藤さんの両足を見てビックリ。足10本の指が無いばかりか、もっと上までない。2度のエベレスト登頂、をこの足が物語っていた。プレモンス-ンとポストモンス-ンの2シ-ズンエベレスト登頂。
帰国する次年の1982年のウインタ-のエベレストを目指す話が出る。
加藤保男さん
1982年12月27日、3シ-ズン全シ-ズン、エベレスト登頂の快挙。下山は日没のためサウスコルまで降りられず。サウスコルから救援で登った小林さんとビバ-ク。帰って来ることはなかった。
尾崎隆さん
2011年プレモンス-ンにエベレストアタック。頂上を目の前にして遭難。帰って来ることはなかった。
右手前・加藤保男さん 右奥・尾崎隆さん
1982年12月27日 加藤保男さんウインタ-のエベレスト登頂
エベレスト遭難の記事
1982年正月 加藤保男さんから年賀状
1982年10月 エベレスト出発直前に最終原稿を書いた
加藤保男 エベレストに死す
加藤保男さんの母親加藤ハナさん 追悼本