ネパ-ルの楽しいトレッキング その二十四
ランタンヒマ-ル・トレッキング 六回目
前回と前々回はネパ-ルのランタンヒマ-ルを襲った大地震の被害を写真で見てみた。
今回は1981年ポストモンス-ン季のランタンヒマ-ルのトレッキングに戻ってみる。
約10軒しかなかったランタン村は、当時バティ(ロッジ)は一軒も無く、素通りして目的地キャンジンゴンパまで歩いた。
ネパ-ル語のバティの意味は、日本の宿場とレストランを兼ねたロッジのこと。
昔のトレッキングは大勢で、ガイドやポ-タ-達と一緒に行動していた
1981年当時のネパ-ルヒマラヤのトレッキングは、ガイドを連れ、コックを連れて三食調理した食事を食べていた。食材はカトマンドゥを出発する時に多少は持参する。そして、トレッキング途中で地元の食材を買い足して、コックとカンチャと呼ぶコック見習が調理する。ですから、カトマンドゥから調理器具と食器を持って行くのだから、トレッキング出発地でのポ-タ-の雇用は多人数になる。
ガイドやコックなどは、自分の荷物はあまり持たずに、お客さんのわたしと同じ位の荷物しか持たない。宿泊地やお昼ご飯を食べる頃には、地元の農家などの庭先や取り入れが終わった農地で、コックが煮炊きをする。たき火の焚き木は、そこの農家から分けてもらいことになる。大きな町ではバティがあるので、そこに宿泊するときもあるが、昔のトレッキングは必ずコックの調理した食事をとった。バティに宿泊の時は、そこのレストランの調理場・台所を借りて調理していた。
最近のトレッキングのポ-タ-選びは大変
最近のトレッキングは様変わりだ。一部カンチェンジュンガ峰エリアなどを除いて、ネパ-ルのトレッキングル-トは要所ようしょにバティが建てられている。なので、お客さんのわたし達はコックを連れずに最後まで歩くことができる。最近のエベレストコ-スを歩いた時は、私と女房の二人のお客さんに、ガイドが一人とポ-タ-が一人だった。
ポ-タ-は、飛行機がルクラ飛行場に着くと多くのポ-タ-達が雇ってくれと云って集まるが、わたしは地元の農家の息子をあえて雇った。ガイドが一人の場合は、そのガイドは身元の分からない何処のだれか分からないポ-タ-だと、ポ-タ-の担いだお客さんの荷持が心配で付きっきりになる。要するにわたし達お客さんのガイドは二の次になる。そして、地元の職業ポ-タ-は、歩いている途中でポ-タ-賃金の値上げを言い出すのだ。
わたしは、ポ-タ-選びについて、プロのポ-タ-よりも身元のしっかりした素人でも良いと思っている。普通はネパ-ル人のガイドがポ-タ-を探してくるのが仕事なのだが、わたしはトレッキングの出発地を歩き出す時間が少し遅くなったとしても、一緒に歩いてくれるポ-タ-を探すように、ガイドに指示する。トレッキングの最良のシ-ズンは、農家が農作物りの取り入れを終えた後の乾季なので、荷担ぎのポ-タ-は農家の息子か娘が良い。こずかい稼ぎには丁度良いだろう。
では、ランタン村から、ヤクやゾッキョの牛乳から作るチ-ズ工場が一軒あるだけのキャンジンゴンパへ。写真で見てみる。
ランタン村の子供達と
標高3500mは高山植物の宝庫
エ-デルワイス 薄雪層
モンス-ンの雨季に花が咲き、ポストモンス-ン季には押し花みたいな枯花
そのまま家まで持ってきたエ-デルワイス
キャンジンゴンパ Kyangjin Gompa 3800m
ランタン・リルン峰をバックに総勢11名
左後列の4人と右の女性2人はポ-タ- 一家で荷担ぎ
真ん中の前列はコックとカンチャ
真ん中後列はガイド
ポ-タ-二人とカンチャはまだ子供
テント設営
放牧されているヤク(左)とゾッキョ(中)
ランタン川を挟んでランタン・リルン峰 Langtang Lirung 7234m
ナヤ・カン峰 Naya Kang 5844m