ネパ-ルの楽しいトレッキング 第19回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十九

ランタンヒマ-ル・トレッキング

 「ネパ-ルの楽しいトレッキング」は、トレッキングから始まり、途中でヒマラヤトレッキングや登山に同行するネパ-ルメンバ-について見てみた。続いて、ネパ-ルメンバ-のガイドとポ-タ-を見てみたが、その中でエベレストに1953年初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパを少し見てみた。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれ、チベットから移り住んだ民族の末裔だった。

1920年代からエベレスト登山が始まり、イギリス隊の初登頂までシェルパ族の活躍があった。

 最後に、シェルパ族のテンジン・ノルゲイが育ったダ-ジリンの街や、その周辺の国などの歴史を辿ってみたい。インドとチベットに挟まれた、ネパ-ル王国やその東側の国シッキム王国、そして又シッキムの東側に隣接するブ-タン王国などを見た。

今回は、ネパ-ルの楽しいトレッキングに戻ろう。

 

最初の海外が最初のネパ-ルヒマラヤ

わたしの最初に海外、最初のネパ-ルヒマラヤのトレッキングを見てみたい。

 1982年のポストモンス-ン季に、ネパ-ルのロ-ルワリンヒマ-ルに聳える6853mカ-タン峰遠征計画が進行中。当時わたしは山岳連盟の理事長で、連盟内にヒマラヤ遠征を目的の海外委員会を新設置。丁度その頃ネパ-ル政府が1979年に未踏峰を解禁。

 海外委員会の委員長を隊長に、わたしは何となく副隊長になってしまって、参加しないわけにいかなくなった。

 それで、遠征の前年1981年に目的の山の偵察隊が取り組まれる。ネパ-ルでは良くあることで、国内フライトが何らかの理由でキャンセルになる。首都カトマンドゥからロ-ルワリンヒマ-ルの近くの飛行場ルクラへ飛ぶのだが、天候不良で三日間連続でキャンセル。職場の休暇日数があり、偵察が困難。それで休暇延長できる他の隊員に偵察を任せて、トレッキングを楽しむことにした。

 

職場の登山有給休暇取得で半分遠征が成功

 わたしは金融機関に勤めていた。日本の経済は右肩上がりで、高度経済成長の真っ盛りだった。だから、金融機関職員は毎日残業でその半分はサ-ビス残業。有給休暇は病気以外に取ることは許されない。3週間の有給休暇は、「辞めて行ったら」と支店長の言。今考えるにどうしてこの境地を潜り抜けたのか定かでない。

 本番の1982年の遠征隊には40日間の有給休暇が必要。この時も「辞めて行ったら」と云われたはず。登山は初登頂し、札幌の小学校生とカトマンドゥの小学校生との絵画の交流など、新聞紙上で取り上げられたことで、職場はなんとか収まったように記憶している。

 二年連続で登山休暇を取ると、今度は「次はいつどこを登るのか」と職場。以後次々と休暇取得となる。1985年に家族アンナプルナヒマ-ル・トレッキング。1987年ソ連・パミ-ル・コルジェネフスカヤ峰7105m遠征。1991年アンナプルナ1峰8091m遠征と続く。

 

1950年代後半から1960年代の登山ブ-ム

 11年間で5回の海外登山をする幸運が訪れるとは考えもしなかった。もちろん、それまでに登山の知識と技術を身に着け、研究と実践してきたたまもの。

 わたしは高校生時代に札幌近郊の冬山を始めていた。今の高校生は、学校の登山部活動での岩登りや冬山登山は禁止されている。なんとかわいそうなことか。その延長に海外登山があるのだから。

 1956年に日本隊が8千m峰マナスルを初登頂し、日本中が登山やハイキング熱旺盛な時期だった。海外遠征の夢も持たない登山活動など、わたしには考えられなかっただろう。現在の高校生の登山活動は、国民体育大会で競って一番・二番を決める登山を行っている。歩き方やテントの設営方法など、いちいち点数を付けられるのだ。自然の中での衣食住を背負っての山中生活にどうやったら点数がつけられるのだろうか。

 山岳会や登山愛好者の学習研究活動と実践登山は、危険を困難に変え、目指すは「楽しい登山」だけで良い。「楽しい登山」の登山文化は私達市民一人一人の生活を充実させるだろう。

 

10年前から山ガ-ルで、再度の登山ブ-ム到来

 服飾メ-カ-が火をつけたと云われている「山ガ-ル」。若者達の登山ブ-ムが10年前から始まった。それまでの夏山の登山道には中高齢者登山者が溢れていた。若者はどこに行ったのか、どこに居るのか不思議な登山の世界だった。最近の札幌近郊の夏山は中高年者を探すのがゆるくない。20歳代30歳代の登山者で溢れている。頂上では若者達が、ビニ-ルを敷いてガススト-ブでインスタントラ-メンやコ-ヒ-を煎れる光景が見られてほほえましい。

 若者の登山ブ-ムは、高齢化で衰退著しかった山岳会や登山クラフの将来を輝かしく照らしている。山岳運動具店やアウトドア店などは、増々忙しそうだ。

ヒマラヤ・トレッキングの話が横道を歩き出しているので、元の道に戻ろう。

 

遠征隊の偵察山行が、一転ヒマラヤ・トレッキングに

 偵察山行と書いたが、わたしたち登山者は、日常行っている登山を「山行」と呼んでいる。ハッキリと明確な説明ではないが、山行には登山と下山があるからなのだろう。ゆえに、わたしは下山中に死亡したり、ドクタ-ストップでヘリコプタ-下山した人を、登山成功とは云わず登山敗退と呼んでいる。又々横道に行きかけた。

 

 初めてのヒマラヤはネパ-ルのランタンヒマ-ル。この頃、ランタン峪は世界一美しい渓谷と云われていた。

現在は地元住民の生活道路である自動車道路が開通していて、トレッキング途中まで車で入る。

 1981年当時は、ガイドとコックを連れてテントを持ち、大人数と大荷物のトレッキングだった。わたしたち3人に、ガイド1名、コック1名、コック見習いのカンチャ1名、現地で雇ったポ-タ-5名、総勢11名。

 ポ-タ-は家族一同だったと思う。ゆえに、女性のポ-タ-や子供に近い坊やも居る。ネパ-ルでは、女性のポ-タ-をシェルパニと云う。

 ホタルが飛び交う水田と大きな水力発電所のあるトリスリバザ-ルの町から出発し、目指すはキャンジンゴンパ村。村と云ってもヤクのミルクのチ-ズ作りの家一軒だけ。

では、写真で見てみる。

 

トリスリTrisuli――ドゥンチェDhunche1950m――シャブルベンシ-Syabru Bensi1460m――ラマホテルLama Hotel2340m――ゴラタベラGhora Tabera3020m――ランタン村Langtang3500m――キャンジンゴンパKyangjin Gompa3800m

 

カトマンドゥのホテル・ナラヤニ

現在もこのホテルはある

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カトマンドゥのエ-ジェント女社長の家

今ではこのご夫婦や息子夫婦たちと友人お付き合い

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初めてのネパ-ルの牛

額に第三の眼をもつシヴァ神の乗り物

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1981年当時はタクシ-よりもリクシャ-

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カトマンドゥ市内路上でアイスクリ-ム

氷入りをぐるぐる回し、コンデンスミルクで

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カトマンドゥ在住の友人

朝食にパンをかじりながらバナナを買う

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偵察行の大量の小銭のお金

ポ-タ-賃金や食料買い出しのため

1991年の大きな遠征隊は、ザック2個のルピ-

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次年登攀の山の偵察行

4人分の荷物の整理

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ルクラへフライトの荷物

機内へ乗り込み

有視界飛行のため天候悪化で三日間続けてフライトがキャンセル

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カトマンドゥ市内 レストラン

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