ネパ-ルの楽しいトレッキング 第18回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十八

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 四回目

標題では「ネパ-ルの楽しいトレッキング」だが、しばらくはネパ-ルの登山等を見てみる。

 前回は、1953年エベレスト初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパについて少し見てみた。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれている。チベットから移り住んだ民族の末裔だ。

 そこで、ネパ-ルのトレッキングとはだいぶん離れて、横道を歩き出すが、シェルパ族のテンジン・ノルゲイが育ったダ-ジリンの街や、その周辺の国などの歴史を辿ってみたい。

 

ダ-ジリン紅茶

 ダ-ジリンは紅茶のダ-ジリンで有名。インドがイギリス・大英帝国の植民地だったので、現在でもイギリスの紅茶会社が有名になっている。イギリス・大英帝国がダ-ジリンで紅茶栽培する前は、現在の中国から紅茶を輸入していて、大枚の外貨を充てざるを得なかった。

 ダ-ジリンの紅茶と一言で云うが、標高が300m位のダ-ジリンとは違う市町村地域にも茶畑があり、標高2千mのダ-ジリン市まで、延々と茶畑が続くのだから圧倒される。

 ネパ-ルからダ-ジリンへは、ネパ-ルの最東の町カ-カルビッタKakarbhittakのイミグレ-ションで出国し、国境の川に掛かる橋を渡って、インドのイミグレ-ションの名前はダ-ジリンなのだ。このインド西ベンガル州の税関からは、ダ-ジリン市まで直線で70km標高差1700mもある。さすが世界のダ-ジリンティ-で、隣接市町村栽培茶を総称するる。

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 ダ-ジリンへ向かう交通機関は、標高差が激しいのでジ-プが良い。しかし、昔からここには蒸気機関車列車が運行されている。ダージリン・ヒマラヤ鉄道(Darjeeling Himalayan Railway)と云い、ネパ-ル語दार्जिलिंग-हिमालय रेलवे表示もされている。又の名をトイ・トレインと云って世界中の蒸気機関車フアンに親しまれている。この列車、小さい。おとぎの国に迷って来たような錯覚さえ覚える。機関車の車輪を支えて走るレール幅は軌間610mmと狭い。ナロゲ-ジ610と云うらしい。当然客車も機関車に合わせて小さく、小人の国の列車に乗車している様で面白い。

ここで質問。何故小さな機関車なのか?

解答。

 標高差1700mを平地からダ-ジリン町へ50kmを登攀しなければならない。途中あらゆる場所でS字カ-ブがあり、多くの場所でジグザク走行する。ときにはル-プ状のレ-ル軌道を一回りする。ジグザクして高度を稼ぐ登り方では、先頭の機関車を突っ込んで止まり、次にバックして突っ込み、そして又機関車を先頭にして出発したりだ。分かるかな。

 

 私の乗ったジ-プは、のろのろとダ-ジリン目指して登って行く。そこえこのダージリン・ヒマラヤ鉄道の列車が追い越したり追い越されたりで、さすがインドのダ-ジリンに来たことの楽しさを味あわせてくれた。列車の中の乗客は狭い小人の国列車内で大きく見える。

 この鉄道、紅茶の運搬だけが役割だったわけではない。インドは亜熱帯気候。私もここに来る途中や、ネパ-ルの西方のタライ平野で45度Cの気温を味じわったことがある。そうです。ダ-ジリンはインド人の避暑地なのです。一年中ク-ラ-の設置がいらない涼しく暮らせる。その為に鉄路を開いた。

 

ダ-ジリンの波乱万丈

 ダ-ジリン地域が植民地だったり、現在では隣州のシッキム州の一部で民主化の波で国王を憲法から排除したり、色々と歴史の波に浮いたり沈んだりの地域だった。

その歴史を箇条書する。

昔はシッキムの一部だった。 

1642年チベツトがダライ・ダマ政権により統一されると、チベット仏教ニンマ派の高僧と同派を奉ずるチベット人 の一部がシッキムの地に亡命。シッキム王国を建国。

1780年代後半、ネパ-ルから来たグルン族がダ-ジリンとカリンポンに侵攻、1788年までに一帯を支配。

イギリス領インド帝国時代、イギリス東インド会社がネパールに侵攻したグルカ戦争1814年~1816年でスガウリ条約が結ばれる。

シッキムの王ツグプ・ナムゲルがダージリンとカリンポンの奪還に成功。

1849年シッキムは南部のダージリン地方を当時の3万5千RSルピ-でイギリスへ割譲。

 

ここでダ-ジリンは終了するが、シッキムが気になるので次に見てみる

1866年シッキムやダ-ジリンはイギリス・インド総督府の避暑地となった。

 1888年茶葉栽培のためにネパ-ル人が労働力として大量に移住し、1642年以前からの原住民ブティヤ人を凌ぐ人口を擁するようになった。シッキムの茶葉はダ-ジリンから輸栽培されたので、味がダ-ジリンと同じ。

 1947年にインド連邦がイギリス植民地から独立すると、シッキムにおけるイギリスの地位はインドが継承することとなった。1950年にシッキムはインド・シッキム条約を結び、外交と防衛、通信をインドに委ねる保護国になった。また同条約に基づき、シッキム王国は民主化を進めることが規定。

 以後シッキム王国はインドとの関係を保ちつつ、激しい民主化運動と国王の必死な王国存続の綱引きを展開する。なにせ人口の75%と多数がネパ-ル系シッキム人、最終の民主化成功を導き出した。

 1950年ここから、シッキム王国の民主化が始まる。そして、その民主化がブ-タン王国へ移り、その後1990年前後からネパ-ルの民主化が始まる。

 

地続き3国の民主化、鍵握るネパ-ル人

ブ-タンの民主化は?

シッキム王国は1975年に国王退位。ネパ-ル王国は2008年に国王が退位した。 

 ブ-タン王国にはネパ-ル系ブ-タン人は15%だったので、数で劣る民主化運動派のネパ-ル系ブ-タン人は異教徒として国外追放される末路となった。

 日本の江戸時代にキリスト教徒に踏み絵をして異教徒狩りをしているが、ブ-タン王国のヒンドゥ-教異教徒狩りは、国王警察の拷問だと聞いている。国王はチベット仏教のみを信仰していた。

 国外追放されたヒンドゥ教徒10万人は、現在ネパ-ルのブ-タン避難民村で暮らしている。当時のブ-タンの人口は85万人と云われていたが75万人に減じた。

 その後ブ-タンは国王絶対制を憲法改正して立憲君主制に変更、チベット仏教を国教と規定。まだ国王としては若いブ-タン国王は息子に王位を譲って隠居してしまった。

国王と国民の決定的対立。血を流す民主化は二勝一敗。

 ネパ-ル最東の隣がインドのシッキム州とダ-ジリン市、その隣がブ-タン王国。その3国今なおネパ-ル語とデバナガ-リ文字(ネパ-ル語の文字)が国民の言語となっている。

イヤ-、「楽しいネパ-ルトレッキング」が大分横道に逸れて歩いてしまった。

次回はネパ-ルヒマラヤのトレッキングをぜひ見てみたい。

 

参考文献

エベレスト登頂  ジョン・ハント

シエルパ  根深誠

わが山エベレスト  テンジン自伝

ヒラリ-自伝  エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル  トニ-・ハ-ゲン

  

トイ・トレイン ダ-ジリン鉄道

自動車道路の車と抜きつ抜かれつ

 

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機関車に人  坂道上りで空回りしない様に砂を線路にまく

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ネパ-ルからインドへ入国

ダ-ジリン市まで70kmあるが、イミグレ-ションオフイスの名称はダ-ジリンDarjiling

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ダ-ジリンの街からカンチェンジュンガ峰Kanchenjunga8586m

山の頂上の左側はネパ-ル。右側はインド・シッキム州

ダ-ジリン市はインド・西ベガル州 

ダ-ジリンの左隣の町は国境を挟んでネパ-ルのイラム町、続く茶畑に国境の線は見えない、イラム茶はネパ-ルのお茶、イラムの西隣ダンクタ茶も売出し中

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ダ-ジリンの街

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ダ-ジリンで一番大きなお茶屋さん

大量に茶葉を買う

以後10年くらい毎年ダイレクトメ-ルが来た

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ダ-ジリンの茶畑

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インドの標高300mの町バグドグラ町の茶畑

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ネパ-ル・イラムの茶畑

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ダ-ジリンのお茶工場

茶葉は4月1日が刈取り開始日

ちょうどこの日にダ-ジリン滞在

早速工場見学

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ネパ-ル暫定憲法2007年発布

ネパ-ルの国王退位2008年

ブ-タン絶対王政から立憲君主へ2008年7月

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