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ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの楽しいトレッキング 第9回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その九 アンナプルナヒマ-ル九回目

 前回までのネパ-ルの楽しいトレッキングは、ネパ-ルの道路について、山岳の昔からある生活道路と新しい自動車道路を見てきた。第1回目から8回目までアンナプルナヒマ-ルとダウラギリヒマ-ルに挟まれたカリ・ガンダギ河沿いのトレッキングの写真を見てきた。

 今回からは、続いてアンナプルナエリアの1985年のトレッキングを見てみたい。この頃はまだ自動車道路計画はなかった。そこに生活している住民の生活道路と古くからチベットとの交易のための道路で使われていた道が、私達の楽しいヒマラヤトレッキングで歩いた。

 現在のネパ-ルのトレッキングは、トレッキングル-トのほとんどがネパ-ル語でバティと呼ばれるロッジに宿泊する。トレッキング中の食事もそのバティの食堂メニュ-で食べるのが普通になっている。

 

1985年当時のネパ-ルトレッキング

 私が1985年に行ったトレッキングは、ネパ-ル人メンバ-として、ガイドとコックそしてコック見習いのカンチャを引き連れ、現地の出発地では日本人メンバ-の荷物とネパ-ルメンバ-の荷物を運ぶロ-カルポ-タ-を雇用した。

 この総荷物には、出発地で購入した食事の食材は勿論、包丁や料理に使用するキッチンセット一式を含んだものに宿泊用のテントがあり、今では考えられないほどの荷物になった。

 ネパ-ルの登山では、ベ-スキャンプから登頂までの衣食住と登山装備の全てを運ぶ。私はネパ-ルの本格的な登山を二度行っているが、二度ともポ-タ-数は100名を超えた。昔のK2登山隊の報告書を見ると、なんと600名のポ-タ-が荷を運んでいる。今回のトレッキングも登山と同様だった。私を含んだ7名の日本人の衣食住荷物を運ぶことになる。

 ちなみに、現在のネパ-ルトレッキングは、現地のバティを利用するので、コックを連れないので食材やキッチンセットなし、テントなしで、お客さんの日本人の荷物を運ぶだけ。

 宿泊施設やレストランが確りと完備していることが、お客さんである私達の出費を節約することにもなっている。

 

ロ-カルポ-タ-とハイポ-タ-

 ネパ-ルのホテルなどでは、お客様が到着し宿泊部屋までホテルのポ-タ-が荷を運んでくれる。このポ-タが一般的なポ-タ-。ネパ-ルにはチップ制度がないので、ポ-タ-の仕事が終わったらありがとう(サンキュ-)の一言で良い。

 ネパ-ルヒマラヤでは登山やトレッキング時のポ-タ-が必要になる。ヒマラヤトレッキングや登山のベ-スキャンプまでのキャラバンの荷運びは「ロ-カルポ-タ-」と呼ぶ。他方、高所ポ-タ-は、ヒマラヤ登山時、高所登山に必要なアイゼン・ピッケルが使え、ロ-プワ-クが出来てBCから上部キャンプへの荷揚げを行う者のこと。

 

トレッキングガイドと登山ガイド

 エベレスト街道エリアに住むシェルパ族は1930年代から、イギリス隊のエベレスト遠征のポ-タ-やガイドを担っていた。1953年にイギリス隊がネパ-ル側からエベレストを初登頂した時、ヒラリ-と共に登頂したのがテンジン・ノルゲイシェルパ

 以後、多くの危険と困難を物ともせずに多くのシェルパ族が登山のガイドを勤めてきた。そして、今日では「シェルパ」が国際語の「案内人」と云われるようになっている。

 しかし、この国際語の案内人の意味は、登山の案内人とは区別される。日本人でネパ-ルの登山やトレッキングで出かけていく人達の中には、山の案内人をシェルパと云っている。現在のネパ-ル登山やトレッキングの案内を担っているのは、シェルパ族は少数になった。他の民族出身者が大勢を占めている。私が知っているのは、ライ族とグルン族。ネパ-ルに住む60以上の民族で、山の案内人はほぼこの3民族だろう。

 私は登山やトレッキングの案内人を、それぞれ区別して、トレッキングガイドやクライミングガイドと云うようにしている。決して一色たんにしてシェルパとは云わない。どうしてかと問われると困るが、なんと云おうかシェルパ族に失礼だと思うのだ。

 シェルパ族は1930年代から外国人に雇われて、登山の知識と技術を身に着け、危険個所はお客さんの前に出てル-ト工作をしてきた勇敢な歴史がある。テンジンはインドのダ-ジリンに登山学校を開校して、シェルパ族に登山の知識と技術の継承を行ってきた。

 現在でも、例えばエベレストの最終キャンプまで3民族のガイドが混合で活躍したとする。この最終キャンプから頂上へ雇い主の登山隊を案内するのはシェルパ族が優先されのである。

 

 それでは、自動車道路もなく、宿泊施設も整っていなかった昔のネパ-ルヒマラヤのトレッキングを写真で見てみる。

現在はネパ-ル第2の都市になってるが、当時は3番目の人口だったポカラ市から出発する。

 

地図右下のポカラから出発する 地形図

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千歳発 成田経由 タイ・バンコク経由 

ネパ-ル・カトマンドゥ・トリブバンエア-ポ-ト着

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カトマンドゥのエ-ジェント事務所で

まずチャイ(ミルクティ)をごちそうになる

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カトマンドゥ→ポカラ

ポカラ出発 7名分の荷物 ガイド・コック・カンチャの荷物とキッチンセット 食糧など、竹を編んだドッコに入れて

ポカラでポ-タ-を雇う

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まずフェディ1220mから急登で一日歩く

ノ-ダラ1500mで一泊

朝 小雨のノ-ダラ出発

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ノ-ダラ村からカ-レ村へは尾根状を歩く

現地で雇ったポ-タ-に手を取られて歩く

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羊の群れ

ちょっと雨宿りで一本とる

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村の家の屋根はスレ-トスト-ン(薄い石を敷く)

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二泊目はテント泊

チャンドラコット村1580m

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チャンドラコット1580mからモディ・コ-ラ(川)へ下りビレタンティ村1100m

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