ネパ-ルの道路と道路工事
日本の工事現場と変わらないのだけれど、ネパ-ルの道路工事を写真で見てみたい。
年々人口が増大するカトマンドゥ市内は、その増加と比例して車やバイクが増加。私がネパ-ルを訪れたのは1981年。私が見て来た36年間、カトマンドゥ市内の道路網や道路幅は変わらないと思う。道路は同じだが車だけは一年一年と増加してきた。
私がネパ-ルで生活していて、ネパ-ルの道路が変化している所と、変わらない部分がある様に思われる。カトマンドゥ市内の道路状況は、36年前の頃と最近6~7年前まではほとんど変化がなかったと云っても良いだろう。昔は数か所の十字路には信号があった。その信号、現在は一日の停電時間が長時間のため無用の長物と化している。
市内の車の渋滞が日常化していて6年前くらいから、道路幅の拡張工事が始まる。それまでは、市内中心街周囲道路は片道一車線ばかりで、歩くのと変わらないスピ-ドの渋滞だった。
市の中心が外れた道、外周一回りしているリングロ-ドは1981年当時にあったし、市内からカトマンドゥ盆地の他の市町村への幹線道路は2000年くらいから拡張工事が始まつていた。
日本の経済援助の道路工事
市内から地方へ向かう大きな道路は3本ある。その一本西に向かう、第二の都市ポカラへのトリブバンハイウエ-。二番目は北西方向のカカニの丘を経由してランタンヒマ-ル方面へ向かう道路。それと市内から盆地内の東方向や東南方向へのアルニコハイウエ-がある。
このアルニコハイウエ-は、カトマンドゥが栄える以前に王宮があったバクタプル市から他の古都へ進む道路。10年くらい前に日本の間組が施工して完成させた。途中までは横断歩道があって車を減速させずに飛ばすことができるが、しばらく行くと矢張り十字路では止めなければならない。
ハイウエ-の名称だが、日本の高速道路とは違う。トリブバンハイウエ-はポカラまで200kmを7時間もかかる。私にはその意味は分かりかねるが、理由のない固有名詞なのだろう。
昔のレンカ道路
ネパ-ルでは、特に目につく道路がある。それは、カトマンドゥ市内やバクタプル市内のレンガ道路。道路幅全体にレンガを敷き詰めている。広い5~6m幅の道路は見事。カトマンドゥ市内の至る所に見られる道路幅2m位の、狭い歩道専用のレンガ道路などは、レンガの減り具合で、その建設された時代を彷彿される贅沢さを感じることができる。
レンガはアスファルト以前の時代のものだが、実は札幌にも時代を感じさせる面白い道路がある。それは、道庁前の通りで、現在は赤レンガ通りと呼ばれる200mくらいの道路。道路全体が赤レンガテラスになっていて、車の通行がストップになった。この道路、数年前に道路改築時に掘り起こしたら、なんと基礎に木が出てきた。それも、細い直径2~3cm角の四角い棒状を縦に並べたもの。掘り起こした時に丁度通って見ることができたが、その壮観さに見入ってしまった。道路工事で掘り起こした業者は、掘る前から判っていたのかどうか。分かっていなくてビックリしたのか新聞紙上で報道された。
チベットとの交易道路
ネパ-ルの道路で特に感心させられるのは、トレッキングやヒマラヤ登山のキャラバンで歩く道路。これが歴史を感じるもので、石を敷き詰めたもの。石の減り具合から千年は使われているのではないか、と感じている。一個の石を一人で運ぶのは困難な大きさや重量。何十kmの延々と続く道路なのだから驚く。
普通道路には、石油製品のアスファルトを敷きつめる。時代物のレンガ道路や石道路は、当然車が走ることを前提にしていないが、土の道路では雨季にグチャグチャになるし、乾季は土ボコリ道路になるのを防ぐことができる。ヒマラヤの裾を通る山岳の石道路は、チベットとの交易に活躍したことを物語っている。人は勿論、ドンキ-やヤクがチベットから塩、ネパ-ルから農作物を担いで歩いたのだろう。現在はトレッカ-や登山者のものを担いでいる。
この15年間で、この山岳歩道が自動車道路に変貌をとげてもいる。
カトマンドゥから東へアルニコハイウエ-
日本の間組が道路工事 飛行機から撮影
バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている
バクタプル市内のレンガ道路 陶器作りの広場につながっている
バクタプルの旧王宮広場もレンガ造り
石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル カロパニ村2520m
左上にアンナプルナⅠ峰
石畳のトレッキング街道 アンナプルナヒマ-ル
マルファ村2632m 明治時代にチベット仏教経典を学びに河口慧海僧侶が滞在していた
登山隊の荷を運ぶドンキ-(ロバ)
石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン
アンナプルナヒマ-ル ヒルンチュリ峰(左)とマチャプチャレ峰(右)
石は屋根にも使われている スレ-トスト-ン