koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの雪崩 その3 アンナプルナⅠ峰の2回目

ネパ-ルの雪崩 その三 アンナプルナⅠ峰の二回目

前回はネパ-ルヒマラヤのアンナプルナⅠ峰の雪崩について見てみた。

 今回は前回に続いて、世界の8千m峰14座のうち、初めて登られたアンナプルナⅠ峰の雪崩について,写真で見てみたい。

ネパ-ル・アンナプルナヒマ-ル

 アンナプルナⅠ峰は、ネパ-ルのヒマラヤのほぼ中央部分の50kmに及ぶ山脈。普通山脈と云えばほぼ真っ直ぐな連山を想像するが、ここのアンナプルナヒマ-ルは円形に6千m以上の山が15座も連なっている。円形でその中の内院に入る出入り口が一ケ所ある。

 ヒマ-ルが一望できる大きな街のポカラ市から見ると、マチャプチャレ峰6993mの山裾左側から内院への登路がある。マチャプチャレ峰から時計の逆回りに、カンダルバチニ峰6248m・ラムジュンヒマ-ル峰6983m・アンナプルナⅡ峰7937m・アンナプルナⅣ峰7525m・アンナプルナⅢ峰7555m・グレッシャ-ド-ム峰7069m・ガンガプルナ峰7454m・グレイシャ-ド-ム峰7193m・シングチュリ峰6499m・カングシャ-カング峰7485m・アンナプルナⅠ峰8091m・ファング峰7647m・アンナプルナソウス峰7219m・ヒウンチュリ峰6441mと続く。

 

アンナプルナⅠ峰の雪崩

前回、アンナプルナⅠ峰の初登頂はフランス隊が1950年、と書いた。

 この初登頂したフランス隊の二人は、下山時に雪崩に遭遇。また天候悪化のためにビバ-クを余儀なくされた。頂上付近で手袋を紛失たエルゾ-クと、もう一人のラシュナルは壮絶な下山を体験する。二人(モ-リス・エルゾ-グは両手の指全部とルイ・ラシュナルは10本)の隊員で合計30本の指を凍傷で失った。フランス隊の隊長モ-リス・エルゾ-グはベ-スキャンプからポ-タ-の背中でカトマンドゥまで運ばれた。

フランス隊の隊員全員はフランス帰国後に、スポ-ツ活動に貢献するガイ・ウイルデンシュタイン賞を受賞。エルゾ-クはネパ-ルのグルカ戦功勲章を受章。

その後エルゾ-グはフランスのスポ-ツ省大臣まで上り詰めている。

フランスの登山の歴史は、日本の明治時代に始まったアルピニズムより100年近く前を歩いていた。フランスは登山愛好者が大臣になる文化度と云えるだろう。

 

海外の高校生登山指導制度

 先日の高校生の那須温泉ファミリ-スキ-場コ-ス外雪崩死亡事故でも、事故直後から県警察が業務上過失の犯人捜しをしているような状況だ。検証する外部識者の検討委員会が始まっている。積極的な安全登山のための高校生講習会制度を提言してほしいものだ。

 イギリスでも高校生が大勢死亡する登山事故が発生していた。そのことがイギリスの高校生への指導体制の改革へと進んだ。イギリスの教育委員会にあたる組織は、高校生安全登山講習会指導方法を国家資格制度の指導員制度新設で改善した。日本の文部省や教育委員会も、より安全登山を目指して頑張ってほしいと願っている。

 

話が横道を歩き出したので、元に戻る。

アンナプルナはネパ-ル語でअन्नपूर्ण (annapūrṇa)で豊穣の女神の意味。

 登山活動から見てみると、北面は雪崩多発、南面は急峻な壁でここも雪崩と滑落の事故がおきそう。

死亡率が8千m峰14座で最高。登頂率は最低になっている。

 アンナプルナⅠ峰の初登頂は1950年フランス隊。この時は北面登攀だった。南壁の初登は、1970年5月イギリス隊で隊員はアメリカ人など21人混合隊。この時は、ヒマラヤの壁登攀競争が始まったばかりで、ドイツがナンガバルバットのルパ-ル壁、日本がエベレスト南壁を目指していた時代。

 

1970年イギリス隊でも雪崩死亡事故

 1970年イギリス隊がアンナプルナⅠ峰南壁遠征隊を決めた年は、ネパ-ルが全山の登山禁止をしていた4年間から、解禁再開して直ぐ。ネパ-ルヒマラヤの幾つかの頂上は、チベットと国境を接している。1968年ネパ-ルは4年間の登山禁止を解禁再開。チベット自治区中華人民共和国の建国以後、ダライ・ダマ14世がネパ-ル経由でインドへ亡命など、チベットとネパ-ル国境問題が続いていた。

 そして、1989年までネパ-ルの登山は、一山・一ル-ト・一シ-ズン・1隊ル-ルがあった。私達が1982年にロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰の登山申請をネパ-ル政府にしたのは、1979年だった。そして、1991年のアンナプルナⅠ峰北面の登山申請も2年前。1990年からル-ルが変わり。要するにダブルブッキングOKになった。3年も前に申請しなければ、他の国や他のパ-ティ-に先取りされるので、先着順だったのだ。

 1970年イギリス隊、アンナプルナⅠ峰南壁遠征隊は登頂したが、雪崩死亡事故に遭い遺体が発見できずに帰路のキャラバンを始めている。

 

1987年12月、日本隊がアンナプルナⅠ峰南壁冬季初登攀

登頂から下山中、二人が滑落死亡

 日本の群馬岳連はヒマラヤ遠征を度々成功させていた。アンナプルナⅠ峰南壁を1984年~85年にかけての冬季初登頂を目指すが、登頂できずに1987年に最チャレンジ。登攀途中のキャンプが予想通りに雪崩に襲われたが、隊員達は無事。

 12月20日に4人が登頂したが同日下山途中、帰りつくキャンプのテント間近で二人が「アイゼンが岩にこすれ、赤い火花が暗闇に散る、の報告書」滑落してしまう。

 

アンナプルナ地形図

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アンナプルナⅠ峰北面 ABC(アドバンスベ-スキャンプより)

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処女峰アンナプルナ エルゾ-ク著 世界で1100万部のベストセラ-

以後の写真はこの本より

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ポカラの国際山岳博物館展示写真

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1950年に130年間の鎖国を解いたネパ-ル

自動車が一台もなく、自動車道路は建設されていなかった

カトマンドゥからポカラまで200km。馬車も川の渡渉ができずに、徒歩で2週間かかった

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アンナプルナ南壁 ボニントン著

以後の写真はこの本より

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アンナプルナ南壁

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憧憬の白き壁 群馬岳連 冬季南壁初登攀

以後の写真はこの本より

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2枚一組の南壁写真

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ポカラ飛行場 砂利道の滑走路

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アンナプルナⅠ峰北面

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