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ネパ-ルの世界遺産 ルンビニ世界文化遺産 その2

 ネパ-ルの世界遺産 ルンビニ世界文化遺産は1995年の発掘で、ブッタの生誕地と判明した。しかし、多くの歴史学者や専門家からは、既に色々な歴史証拠で疑えれないと断定されていた。

では、紀元前566年、紀元前6世紀の出来事を顧みる。

 ブッタが誕生したときの氏名はゴ-タマ・シッダ-ルタ-。その後ブッタ(仏陀)と云われるようになり、ゴ-タマ・ブッタが現代の適切な名前。日本の漢字では仏陀、又は釈迦牟尼

 ブッタの生誕時代のことが叙述されている最古の歴史的文化的文書は、紀元前七世紀以降紀元前100年ころまでの間のキランティ諸族の統治時代に書かれている。

 ア-リア人の書物であるヴェ-ダ祭詞集や二つの大ヒンドゥ-叙事詩の一つのマハバラ-タ。マハバラ-タによると、初めて北東ヒマラヤ山地の住民がキランティ諸族で、今のネワ-ル族やライ族とリンブ-族の祖先とされている。

 仏教の開祖ブッタは、紀元前五世紀頃カビラヴァストゥ国のスッド-ダナ王を父に、麻耶マ-ヤ夫人を母として、無優樹(沙羅樹)の下で母親の右脇から誕生したと云われている。

私は母親の右脇から誕生した、この右脇に興味がある。

 ヒンドゥ-の教えに、マニ石を歩く時やマニ車を廻しながら歩く時、必ず右回りなのだ。右肩が尊いと云われ、マニ石やマニ車に右肩を近づけるのが良いとすること。又左手が不浄と云われ、食べ物を口に入れる手は右に限られていること。これらのヒンドゥ-の教義とブッタが母親の右脇から誕生したことの関連が合致していると考えている。どうだろうか。

 不浄の左手だが、料理人は右手でナイフや包丁を握るが、調理する物を握ったり持つのは左手。不浄の左手で魚や肉・ダイコンなどの食物を持つのは教義にはないのだろうか。食べる時のための仕来たりに調理完成までのプロセスは関わらないのだろうか。考えると面白い。

 現在のルンビニでは、麻耶が淋浴したと言われるブシュカ-リ(プスカリニ)池のそばに菩提樹がある。

 ブッタの生誕年と没年は、紀元前566年・486年と紀元前463年・383年の二説ある。私はこの二説について、確定しないところが又面白いと思っている。実在したがその生誕や生涯が闇に包まれる様なところが在ることで、実存そのものがボャっと倍加してる様に感じられるのだ。

紀元前の出来事が細部にわたって明白になる資料や証拠がないことも覗える。

 

 それでは考古学者が1995年に現在のルンビニを発掘場所とする根拠について視てみよう。

 ルンビニとは関係しないが、1898年イギリス駐在官w・ベッペが、ネパ-ル国境に近い北インドのピララ-ワで古墳発掘調査時にブッタの真骨を発見している。

 1895年(96年)ドイツの探検家で考古学者のアロイス・アントン・フュ-ラは、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した「大唐西城記」をもとにルミンディ(ルンビニ)の藪の中で、詔勅文の刻まれた石柱の下部を発見。

 インド亜大陸を統一した古代インド・マウリヤ朝のアショ-カ王(在位紀元前268年頃~232年)が、仏教普及に熱心で、ブッタの生誕地に詣でた記念に建立した。石柱には紀元前249年と記され「釈迦の誕生地を記念して住民の税を八分の一に減免する」と古代文字のパ-リ語で書かれている。

 ブッタは現在のネパ-ル各地を回り、ネパ-ル渓谷(現在のカトマンドゥ)を訪れ、その後北インドへ仏典を求めて訪れている。

 アショ-カ王(無憂(むう)王)もブッタの訪れたその跡を辿って、紀元前249年と250年頃にルンビニと同時に、現在のカトマンドゥを訪れ、市内パタンに4塚(現在の仏塔)と、ボダナ-トやスワヤンブナ-トを建立している。このカトマンドゥの建立物については、世界文化遺産カトマンドゥ谷で後々に触れる。

 その後、唐の玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が書き残した書物「大唐西城記」にも、636年に三蔵法師がこの石柱を訪れたことが記されている。「大唐西城記」によると、アショ-カ王の石柱は落雷のために中ほどから折れていたという。

 アショ-王についてルンビニとは直接関係ないが、ブッタが悟りを開いたインドのバラナシにもアショカ王が訪れている。ここにも石柱を建立し古代文字がある。その後石柱は破壊され3分割に折られ、現在は博物館に保存されている。

 

 

 14世紀以降、この地ルンビニ一帯ははその後インドやネパ-ルを席巻したイスラム勢力によって破壊され廃墟となるのである。

1895年考古学者フユ-ラのルンビニ発掘以後もさまざまな考古学発掘が続いた。

1970年観光開発目的に国連本部にルンビニ国際委員会を設置。

 1995年にネパ-ル・インド・スリランカパキスタンバングラディッシュ・日本の六カ国の考古学者がルンビニ・マ-ヤ聖堂を発掘。新聞記事ではマ-ヤ聖堂の石室の発掘でブッタの生誕地と判明した、と発表された。

1997年世界文化遺産登録。

 

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インドのアショ-カ王がブッタ誕生地訪問を記念して石柱を建立

落雷で折れた石柱を唐の玄奘(げんじょう)が訪れる

現代に発掘

その後再建

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マ-ヤ聖堂内部の発掘された遺跡  七層の煉瓦から成る基壇15室から成る

 

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遺跡を保存するマ-ヤ聖堂2003年建立  現在の外壁はレンガ色から白色になっているらしい

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発掘された古代王朝グプタ期に作られた生誕浮き彫り石像  

表面が削られているが14世紀以降にイスラム教徒によって削り取られたとされている 

「解説」 王妃マ-ヤが無優樹に手をかけ、その右下に誕生した王子ゴ-タマ・シッダ-ルタが立っている。王妃の隣には妹のマハ-プラジャパティ-、そしてその横にヒンデゥ-教のブラフマ-神とインドラ神

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生誕像 大理石のレプリカ

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