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ネパ-ルのエベレスト街道を訪ねて

 2005年のポストモンス-ン季(雨季の後の季節)にエベレスト街道のトレッキングをした。この時に、私が1982年の登山隊のメンバ-として来た時の山を見ることができた。それと札幌から登山に必要な装備と日本から持って行った食料などを梱包したプラパ-ルをこの地で見かけたのである。懐かしい思い出になるくらいの昔の山とプラパ-ルだった。

 女房といつも女房のスケッチ旅行に同行するバルクマルガイド一人を連れて。ルクラで現地の青年をポ-タ-に雇い、4人が計画のスケジュ-ル表もなく、エベレスト街道トレッキングル-トの最奥地カラパタ-ル5550mを目指した。

 街道のナムチェからキャンジンを目指す途中、振り返って見るとクワンデ峰の稜線上に頭だけ出しているカ-タン峰を見ることができた。そして、カ-タン峰登山時に荷運びに使用したプラパ-ルにも出会うことになった。

 

「ヒマラヤ登山の大衆化」

 昔1982年の登山で登った山は、エベレストのあるク-ンブヒマ-ルの西隣にあるロ-ルワリンヒマ-ルにあるカ-タン峰6853m。

 この時は1979年にいくつかの未踏峰の山が解禁され、ソレ-とばかりにネパ-ル政府へ登山許可申請をした。私はこのネパ-ルの未踏峰・未解禁峰解禁は、日本人や日本の登山界のヒマラヤ登山大衆化に大いに役立ったと考えている。

 1960年代から1970年代にかけてのヒマラヤ登山は、この頃の街の山岳会は経済的理由で登山の目標をヒマラヤへ目を向けれない情況だった。

 1956年に日本隊がマナスルに初登頂し、以後日本中に登山の熱がまき散らされた様に、若者を中心に登山が国民の娯楽やスポ-ツへと花開いた。しかし、勤労者の職場環境は今のような週休二日はなく日曜日だけの休日で、登山のための有給休暇は許されない状況だった。正に右肩上がりの戦後経済から背伸びをしたいだけする様に、突っ走った時代だった。

 国内の登山でさえ長期登山が困難だったのだから、海外の登山は夢のまた夢。それが日本の高度経済成長で一変した。1970年代後半には、勤労者にもヒマラヤ登山が手に届く範囲に迫ったのだ。

 それまでのヒマラヤ登山の多くは、経済的に裕福な息子や娘の通う大学山岳部や日本山岳会の世界だった。勤労者が自分の給料の範囲内でヒマラヤ登山が出来る状況と、登山の醍醐味である、誰も手を付けていないル-トやその頂上を目指す、ネパ-ルの未踏の山の解禁が重なった。これが「ヒマラヤ登山の大衆化」だと私は考えている。

 

再びカ-タン峰に逢う

 1982年のポストモンス-ン季、ルクラ飛行場から歩き始め、ク-ンブヒマ-ルとロ-ルワリンヒマ-ルの境になるモロラ(ラは峠)を越えてキャラバンが始まる。未踏峰だったので登山ル-トの資料はない。

 前年に偵察隊を派遣。私も偵察隊の一員だったのだが、カトマンドゥからルクラへのフライトが三日間続けてキャンセル。双発プロペラ機が有視界飛行で飛ぶので、天候が悪い場合は飛べない。

 4人のメンバ-の内、有給休暇の日数を延ばせる一人を残して三人は、他のコ-スにトレッキング。ようやく残った一人が偵察、登頂できる登山ル-トを見つけることができた。

 登山は、予定していたル-トの北東稜に新雪が大量に積り、ナイフリッジの登攀に日数を費やし過ぎ、リエゾンオフイサ-に登山計画の延長許可をもらって、ようやくの登頂。初登頂の快挙だ。

 2005年のエベレスト街道トレッキングでは、このカ-タン峰を見ることができた。カ-タン峰の登攀中は、北東稜以後は毎日エベレストを見ながら登攀だったので、エベレスト街道のどこかで見ることを楽しみにしていた。なんと、頂上がちょこっとだけ覗いた姿だった。もう少し大きく眺められると思っていたので残念。手こずった北東

稜が見えなかった。

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ヤクに背負われたカ-タン峰登山隊のプラパ-ルを見る

 1980年代は、ほとんどの遠征隊は日本からネパ-ルに送る荷物をプラパ-ルに入れていた。私たちの登山隊も大小の二種類のプラパ-ルを用意した。ネパ-ルに到着した荷物は全てが輸入税の対象になり、全ての装備や食料を中古品として百分の一の値段で申告する。インチキだったが、これがすんなりと税関を通ってしまう。

 空輸する荷物の入れ物は今では、布のバックやプラスチックの樽状の入れ物になっている。

 カ-タン峰登山隊のプラパ-ルは、北海道らしく熊の顔を書いている。そのプラパ-ルがエベレスト街道のトレッキングか登山か分からないが、どこのチ-ムだろうか。見て直ぐに分かった。23年ぶりに出逢う。

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