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ネパ-ル雑感

 今日もカトマンドゥからヒマラヤの峰々が眺められる。遠望というのではない。カトマンドゥは盆地で゛全部ではないが周りを低い山に囲まれている。その低山のすぐ上に聳えている。低山といってもカトマンドゥが標高1350m。

 真っ白な尖峰をチラチラと観ているのがなんとも心地よい。道を歩きながら。脳裡に焼付く様で、以後数時間・数日も心安らかでいられる。

 私がヒマラヤを意識したのはもう34歳と齢を喰っていた。山岳連盟が北海道の山々では飽き足らないというか、会員の登山要求か海外に目を向け始めた。現在の札幌北稜クラブがヨ-ロッパアルプスの岩登りに取り組んでいたし、札幌ピオレ山の会の会員が全国連盟ヒマラヤ遠征に隊員として参加した。

 ようするに北海道の山で登山の知識と技術を身に付け、研究と実践を繰り返した結果にヒマラヤを目指す実力が付いたと云える。1978年も前のことだ。

 私が丁度山岳連盟の理事長に就任して直ぐに海外委員会を立ち上げ、ヒマラヤ遠征3年計画が連盟総会で承認され、34歳で現実となった。私にとっては1970年代後半の出来事が、いまネパ-ルで生活する黎明期と云える。20代前半にピオレの前身の札幌勤労者山岳会西ブロックに入会した時の札幌労山の組織はハイキングクラブだった。登山とは面白いもので、ハイキングでもその時に登った山の素晴らしさに魅せられ、より高い・より困難な山、登山を目指すようになる。これが登山の特徴だ。他のスポ-ツでも同様のものがあろう。

 初めて登った山や登山の素晴らしさは、今日カトマンドゥからヒマラヤの峰々を眺めて感じる素晴らしさと共通している、と私は感じている。

 私が山岳連盟の理事長に就任したのは30歳だ。今もそうだが、この若い時にも思っていた。子供が山岳連盟の運営の責任者をしている。今も友人でいる当時20歳代後半の私達は、以後飲み会などで話し合うたびに、子供が山岳連盟の運営をしていた、と話題になる。今では笑い話だが本当のこと。登山に夢中だつた。

 1981年に偵察隊。1982年ヒマラヤ遠征。ネパ-ルは面白い所とのイメ-ジが作られ、1985年には小学生の息子2人と女房でヒマラヤトレッキング。北海道自然保護連合の事務局を手伝っていた大学生3人に声を掛けたら行きたいと7人になつた。

 女房はネパ-ルやヒマラヤにはまってしまい、以後毎年のようにネパ-ル通いとなり、ネパ-ル絵画展の個展を計7回重ねることとなる。

 1981年のネパ-ルは、今は様変わりだ。特に食べ物で当時は、外人の口に合う味の食事が少なかったように思う。食べ物がカルチャ-ショックだった。ダルバ-ト※のダルス-プの味が不味く食べられなかったのを思い出す。今はネパ-ルの友人宅にお呼ばれして普通のネパ-ル食を美味しく食べれる。今回私の友人も同行し、一緒に友人宅で食事をしたがやはり彼は食べられなかったみたいだ。最初から半分にしてもらった。私はおかわり。

 当時のロ-カルポ-タ-※は民族衣装を着た子供連れの家族総出のメンバ-。今はジ-パンをはいた若者だ。

 

ダルバ-ト※ 

 ネパ-ル人の定食。インディカ米のごはん、つけもの、鶏肉の煮物、野菜の煮物、そしてダル豆のス-プ。一日二食、毎回ダルバ-ト。

 

ロ-カルポ-タ-※ 

 トレッキングの荷物運びや登山のキャラバン中の荷物運び人。登山は高所ポ-タ-と呼ばれる、登山技術を兼ね備えた登山中の高所荷物運び人もいる。

 

カトマンドからガネッシュヒマ-ル

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ポカラの街からのアンナプルナヒマ-ル

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