koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第4回

ネパ-ル人の2登山合同隊がK2・8611mの冬季初登頂、おめでとう その四回目

 前回までの3回は、ネパ-ル人だけのパ-ティが中国とパキスタンの国境に聳えるK2峰8611mの冬季初登頂したこと。そして、K2の登山史。前回は世界第2位の高峰K2に、第二登を果たした1977年の日本隊の様子、だった。

 今回は、1977年の日本隊の登頂者たちが、その20年後の1997年に、20周年を記念して企画実施したパキスタンのスキムブルム峰の遭難事故について触れてみる。

スキム・ブルム峰氷河雪崩遭難事故

 1977年のK2日本隊の第二登の成功の20年後。20周年記念のパキスタン・スキム・ブルム峰登山隊は、神奈川ヒマラヤ登山隊。7360m峰の隊長がK2登頂者の広島三朗と以下16名。

 8月17日に8人が登頂し、19日にベ-スキヤンプへ全員下山。その日の夜中20日1時15分にスキム・ブルム峰の氷河が崩壊し、急傾斜斜面をもんどりうって転がり落ち、氷が雪状の爆風となってベ-スキャンプを襲った。

 神奈川ヒマラヤ登山隊のベ-スキヤンプを、時速200kmで駆け抜けた猛吹雪の爆風雪崩は、就寝中のテントを吹き飛ばし6人死亡、4人負傷の大惨事となった。

 爆風で40m飛ばされた2人用テントで、一人が死亡し、もう一人は助かる、という生死が偶然であったらしい。

 K2登頂の様子は「白き氷河の果てに」の書籍で、このスキム・ブルム登頂と遭難事故は「夢は白き氷河果てに」の本になっているらしいのだが、わたしは読んだことがない。

世界と日本の雪崩分類

 我が国には、原則として氷河はない。万年雪が氷河なら、在るのかもしれないが、ヒマラヤやヨ-ロツパアルプスの氷河に匹敵するものはない。

 日本の雪氷学会や国内雪崩講習会の雪崩分類には、氷河雪崩はないし、説明も省かれている。しかし、今回のスキム・ブルム氷河雪崩のような国際的な雪崩分類には、氷河雪崩が含まれている。

 わたしが北海道雪崩講習会の講師を担当したときは、中級クラス教室の雪崩説明に氷河雪崩を説明したし、ヒマラヤの氷河雪崩の様子の動画を、受講者に見せていた。

 ネパ-ル人だけの登山隊が、冬季K2初登頂おめでとう、のブログが、だいぶん横道を歩き出してしまった、のだが、次回も横道を歩こう。

 氷河雪崩は、わたしも1991年に経験してる。1991年、ポストモンス-ン季節のネパ-ル、アンナプルナⅠ峰8,091mのベ-スキヤンプが襲われた写真を次回に見てみたい。この動画が在るのだが、ブログに動画掲載の方法が解らず、写真を見てみる。

 

パキスタン・スキム・ブルム峰 7360m(テレビ放映の写真)

 

f:id:koyaken4852:20210212132734j:plain

f:id:koyaken4852:20210212132754j:plain

神奈川ヒマラヤ登山隊

f:id:koyaken4852:20210212132838j:plain

f:id:koyaken4852:20210212132902j:plain

f:id:koyaken4852:20210212132910j:plain

f:id:koyaken4852:20210212132936j:plain

雪崩死亡者

f:id:koyaken4852:20210212133002j:plain

f:id:koyaken4852:20210212133027j:plain

スキム・ブルム峰 7360m 新聞記事

f:id:koyaken4852:20210212133400j:plain

f:id:koyaken4852:20210212133628j:plain

日本ヒマラヤ協会の日本隊氷河雪崩遭難事故表

パキスタン・スキム・ブルム峰 7360m事故の以前にも多くの氷河雪崩遭難事故

f:id:koyaken4852:20210212134326p:plain

北海道雪崩講習会のテキスト・雪崩分類表

f:id:koyaken4852:20210212134406j:plain

1991年 ネパ-ル・アンナプルナⅠ峰、氷河雪崩のテレビ放送

f:id:koyaken4852:20210212134451j:plain

 

ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第3回

ネパ-ル人の2登山合同隊、K2・8611mの冬季初登頂、おめでとう その三回目

 前回と前々回は、ネパ-ル人だけの、中国とパキスタンの国境に聳えるK2峰の冬季初登頂を書いた。

 そして、それは外国人に雇われて登山する姿から、自分のお金でアルピニストとして高峰登山への歴史となつた。

 1921年から始まったイギリス隊のエベレスト・エックスペディションに雇用されて、高所ポ-タ-から始まったネパ-ルのシェルパ族の、外国隊の雇用要員としての登山が、100年もの歴史へ経てようやく自ら享受する登山文化国の仲間入りだ。

 K2の標高は8,611m。世界のテッペンのエベレスト8,848mに次いで、世界第2位の高峰。そしてK2は「魔の山」と呼ばれ、世界のアルピニストに恐れられる山でもある。その山容を観れば一目瞭然。山の麓から頂上まで、傾斜角度が40度から65度と急傾斜のK2峰。それと比較して、ネパ-ル側とチベット側の両方から、ノ-マルル-トは容易な登攀路を見いだせるエベレスト。

この「魔の山K2」は後日に触れることとしたい。

 今回は、前回K2の登山史に触れ、第二登を果たした日本隊の様子を少し書いた、その内容の間違いに気付いたので、訂正したい。

 今回は、K2の第二登を果たした日本隊の様子を書いた書籍を見てみたい。なぜか、わたしのところにK2遠征隊の様子を映画にした「白き氷河の果てに」のご家族優待割引券がある。

K2・8,611m,第二登の日本隊

 K2の初登頂はイタリア隊。1954年7月31日、イタリア隊が隊員11人と撮影班7人の18人が南東稜から、リ-ノ・ラチェデッリとアキッレ・コンパニョ-ニの2人が初登頂。AM6時C9の8050mを出発PM6時に登頂。PM11時にC8の7630に帰着。現地ロ-カルポ-タ-は502人。

 そして、そのご23年後1977年に、日本隊が登頂する。前回、日本隊の隊員数を31人としたが、これが間違っていた。本当は39名だった。

 この日本山岳協会隊は、遠征登山報告書が出版されているのだろうが、わたしのところには無い。わたの持っているのは、この登山の登攀隊長の広島三郎さんの書籍「K2登頂 幸運と友情の山」。この「K2登頂 幸運と友情の山」の本に書かれているのは、総隊員数39名でそのうち実際に登攀するのは34名。名誉隊長など登攀しない5名がいた。そして、加えてこの登山隊は、長編記録映画の撮影にヒマラヤ登山未経験な9名と、パキスタン人のリエゾン・オフイサ-2名に加え登攀隊員3名。実際にベ-スキヤンプには39+9+5=53名だった。

K2日本隊の登山申請

 K2登頂を目指して、パキスタン政府に登山申請したのは1975年。昔、1990年以前のネパ-ルやインド・パキスタン・中国などのヒマラヤ圏の国々の登山許可は、1シ-ズン、1ル-ト、1登山隊、のル-ルがあった。これは、ヒマラヤ高峰登山が、このK2登山隊の隊員数の53名に代表されるようなヒマラヤ登山が普通だったから。現在の高峰登山は、高所順応を他の容易に登れる山で済ませて、一気に目標の山の登頂を目指す登山方法で、昔の高峰登山は極地方と呼びれる、登山隊員全員でベ-スキヤンプからキヤンプ1を設営。そして、C1へ全員で荷揚げ。次いで、C2建設と、段々と頂上を目指す。

 ようするにヒマラヤ圏の国々の登山事情は、大部隊多隊員数の登山隊がベ-スキャンプに入るキャラバン中のポ-タ-確保など、どうしてもダブルブッキングの数隊が同時に登山できる事情になかったのだ。

 1975年に登山申請した日本隊だったが、同時にポ-ランドやフランス・カナダなどが申請をだぶっていた。ここで、日本隊に登山許可がでたのは、これはわたしが勝手に考えたことだが、パキスタン人のリエゾン・オフイサ-2名に加え登攀隊員3名を加えて、日本・パキスタン合同登山隊としたこと。実際にパキスタン人の登山者一人が登頂して、パキスタン山岳会が国際登山界に仲間入りするキッカケになっている。

 このころの高峰登山隊は、その費用の捻出に苦労してる。1970年日本エベレスト隊は、多額費用を出してくれる後援団体に毎日新聞社。1973年第二次RCC(ロッククライミングクラブ)エベレスト南壁隊は朝日新聞社。1975年田部井淳子さん登頂のエベレスト女子隊は読売新聞社、だった。K2登山隊は、

 全国紙3社ではない西日本新聞社創刊100周年を記念して多額の拠出をした。この時、中日新聞北海道新聞にも後援の申し込みをしていた。北海道新聞が講演していたら、その後の登山界と北海道新聞社の関係が築けたのに、と全く残念。北海道札幌に住むわたしの感想だ。このころの地方紙3社は友好関係にあったらしい。その後、日本自転車振興会から2千2百万円の補助金が集まる。

前年に試登隊派遣

 1974年12月にK2登山計画を立案。1976年に試登隊が、1909年イタリア・アブレッツィ公隊3人が登頂めざして、東南稜6250mに達した、後に東南稜はアブレッツィ稜と呼ばれるル-トを偵察。

 この時の、7人の試登隊は、登山料として700ドル・21万円をパキスタン在大使館に支払っている。1977年の本隊の費用は1億円を超す。隊員39人の一人の拠出するお金は100万円だった。本隊を日・ネ合同隊としたが、勿論全額日本隊が費用を負担した。

 試登隊は、ポ-タ-60人でベ-スキャンプ入り。7100mまでの試登。

先発・本隊が日本出発からK2登頂

 1977年4月11日、3人の先発隊が船便の隊荷物受け取りのため日本出発。5月5日・6日、ラワルピンジへフライト。

 5月26日、スカルドから800人のポ-タ-と共に隊員出発。ボ-タ-は800人を雇用するが、まず最初に300人雇用の人選に1000人が集まる。パキスタンでは一家が一か月生活に要する費用は150RS~200RSルピ-なのに、このキャラバンでポ-タ-一人に払うのは1000RS(3万円)。

BCまでのキヤラバを3隊に分けて出発

 バルトロ氷河経由でゴドウィン・オ-スチン氷河にベ-スキャンプBC、300人のポ-タ-に支給する食料を運ぶのに、70人のポ-タ-が必要。

6月11日、標高5200mバルトロ氷河上BCに一次ポ-タ-隊到着。

6月16日、先発隊はC2へル-トメイキング中、他の全員BCに到着。

6月24日、C3建設。

7月12日、7420m、C4建設。

7月22日、7940m、C5。

8月2日、8130m、C6。

8月4日、第一次登頂隊・出発するが1時間後に天候悪化で引き返す。

8月8日、二次登頂隊、マイナス22度微風でAM5時C6を出発。PM6時登頂。PM11時30分C6帰着。

8月9日、3次隊4人は5時C6出発。PM2時15分登頂。この時に「K2登頂 幸運と友情の山」の本を出版した広島三郎さんも登頂。パキスタン人のアシュラフ・アマンも登頂。BCに居たリエゾン・オフイサ-のメジャ-・カマ-ルが、トランシ-バ-でアマンに「君はパキスタン登山に新しい歴史を作ったんだ」と呼び掛けている。この日、広島他3人はC5へ戻る予定だったが、下りに酸素が無くなり、幻想を見ながらの下山。2人はC6に行き着くのがやっとだった。

二次隊と三次隊と合わせて7名が登頂

 この時点で、K2登頂者数はイタリア初登頂2名を加えて9名。ちなみに、エベレストは1953年の初登頂ヒラリ-とテンジン2名を入れて60名。

次回は、このK2に登頂した広島三郎さんらが、その後パキスタンのスキムブルム峰遭難死を見てみる。

広島三郎さんの書籍「K2登頂 幸運と友情の山」

f:id:koyaken4852:20210130174932j:plain

f:id:koyaken4852:20210130175001j:plain

f:id:koyaken4852:20210130175019j:plain

映画「白き氷河の果てに」のご家族優待割引券

f:id:koyaken4852:20210130175055j:plain

K2 8611m

f:id:koyaken4852:20210130175214j:plain

K2 地図

f:id:koyaken4852:20210130175251j:plain

K2 登頂の様子 (テレビ映像)

f:id:koyaken4852:20210130175430j:plain

f:id:koyaken4852:20210130175439j:plain

広島三郎さん

f:id:koyaken4852:20210130175509j:plain



町内会の雪だるま

札幌・川沿第二町内会の雪だるま

毎年、恒例のように雪だるま雪像が造られる。

 札幌市南区の川沿第二町内会のゴミ置き場の近く。ここに毎年12月か1月に大きな雪だるまの雪像が現れる。今年は少し小さめ。昨年までは今年の雪だるまと比較して、二倍以上の大規模な雪像。この雪だるま、雪像の隣に、いつもの文字書き。「振込詐欺にご用心」など、世間に注意喚起の文章が書かれている。

 今年の雪だるまの標題は、連年と少し異なって、「コロナに勝つ」。これ以上良い標語はないだろう。

f:id:koyaken4852:20210128112309j:plain

f:id:koyaken4852:20210128112325j:plain

f:id:koyaken4852:20210128112340j:plain

f:id:koyaken4852:20210128112355j:plain

f:id:koyaken4852:20210128112428j:plain







ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう 第2回

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂おめでとう その2回目

 前回、2011年1月16日、遂に世界二位の高峰K2が冬季初登頂された、ことをアップした。それも、世界の登山界で登山文化国の仲間入りを目指していたネパ-ル人隊の快挙。これで、ネパ-ル登山界も発信力や発言力など、登山文化国国際水準になるのだろう。

ネパ-ルが国際登山文化エリアへの仲間入り

 ネパ-ルは、世界8千m峰14座のうち8座が鎮座する国。1950年に130年の鎖国を解いて開国した国内は、ヒマラヤ登山や観光などの概念さえもなく、エベレス初登頂を目指すイギリス隊のポ-タ-やガイドの仕事しかなかった時代。勿論、欧米の先進的文化や産業技術にも遅れ、自動車はネパ-ル国王や高級官僚などの玩具の役で、自動車道路もない状況だった。ネパ-ル国が登山に対して、観光業としてのガイドやポ-タ-の生業の政策を確立するのは1970年代に入ってから。ごく最近までエベレストに登頂するネパ-ル人のほとんどが高所ガイドや高所ポ-タ-の仕事上の登頂だった。ネパ-ル人のアルピニストは皆無だったのだ。

 わたしのネパ-ル人の友人に、エベレストとK2の両峰を登頂したグルン族の彼がいる。そのグルン族の彼、K2の登頂は日本勤労者山岳連盟のK2登山隊の高所ガイドとして雇われての日本人隊員等の、ル-トメイキングやポ-タ-としての登頂だった。その後彼は、ネパ-ル山岳協会役員時代に、グルン族サガルマ-タ・エクスペディションとしてエベレストにアタック。家庭を支える経済的生業ではなく、アルピニストとしてついに登頂した。

 ネパ-ル人隊のK2・8611mの冬季初登頂は、世界の登山文化圏への仲間入りを果たしただけでなく、アルピニズム国のネパ-ルとしての地位を確固とするのだろう。

 実は、わが国日本は、このネパ-ルと同様な登山の歴史があった。江戸時代の鎖国政策により、欧米の経済産業や文化と遮断されていた時代、アルピニズムや山岳ハイキングなどの文化はなく、明治時代になって初めて欧米人が日本の山を登るガイド役、で登山を始めた。そして、当時日本の上流社会人に初めて登山文化が芽生えた歴史がある。信仰登山から山頂の登頂を目指すアルピニズムへの変遷、この話は後に機会があったら触れたい。                                                                                            

今回は、2峰8,611mについて少し調べてみた。

 K2峰8611mは、パキスタンと中国の国境に聳える山。中国名は大きい山を意味するチョゴリ喬戈里峰。

 登山は、比較的容易に登れるパキスタン側から多く行われている。K2はパキスタンのギルギット・バルティスタン州のカラコルム山脈に位置する。

 イギリスの統治時代、インド測量局のト-マス・ジョ-ジ・モントゴメリ-が1856年から、カラコルム山脈の測量を開始。カラコルムKaraoramの頭文字のKを取って順にK1、 K2、K3、K4、K5と測量番号を付けた。その後、K2以外の山には新たに名前が付けられたり、現地の名前が採用されたりしたが、K2だけは測量番号がそのまま山名に残った、とされている。

 ちなみに、K1からK5の山の名前は、K1、マッシャ-ブルム。K3、ブロ-ドピ-ク。K4、ガッシャ-ブルムⅡ峰。K5、ガッシャ-ブルムⅠ峰。

K2は、世界の屋根と呼ばれるエベレストの8,848mに次ぐ、世界第二位の高峰8,611m。

K2の登山史

◎1902年、イギリス・オ-ストリア・スイス3国合同オスカ-・エッケンシュタイ     ン隊6人。東面5700mにC10設営し、東北稜6525mまで。初めてのK2アタック。

◎1909年、イタリア・アブレッツィ公隊3人。東南稜6250mまで。後に東南稜はアブレッツィ稜と呼ばれる。

◎1938年、アメリカ隊が当時イキリス統治時代のダ-ジリンから6人のシェルパ族を引き連れて7530mにC7。7900mまで。

◎1939年、アメリカ隊6人とシェルパ族ガイド9人。8380mまで。C7スティのヴオルフとシェルパ3人が行方不明。

◎1953年、第二次大戦後アタック再開。アメリカ隊8人とフンザのガイド6人。7700まで。隊員ギルキ-死亡。この年イギリス隊のエベレストとナンガパルバットにヘルマンブ-ルが登頂。1990年まで1シ-ズン・1コ-ス・1隊の許可制限が続く。

◎1954年7月31日、イタリア隊が隊員11人と撮影班7人の18人が南東稜から、リ-ノ・ラチェデッリとアキッレ・コンパニョ-ニの2人が初登頂。AM6時C9の8050mを出発PM6時に登頂。PM11時にC8の7630に帰着。現地ロ-カルポ-タ-は502人。
◎以後1960年にアメリカ・ドイツ・パキスタン合同隊が7300mまで。インド・パキスタン戦争を挟んで。1975年にアメリカ隊が6700mまで。1976年、ポ-ランド隊18人が8400mまで。

◎1977年8月8日、日本山岳協会31人隊は、7人が登頂。

8月4日の第一次登頂アタック隊が失敗後。第二次登頂アタック隊の広重恒夫・中村省爾・高塚武由の3人が登頂。8月9日、広島三郎・小野寺正英・山本英夫パキスタン隊員アシュラフ・アマンの4人が登頂。パキスタン人のアシュラフ・アマンは、パキスタン人の初登頂。日本から15トンの隊荷物を送り、ポ-タ-が800人。ホ-タ-の食料運搬に新たにポ-タ-70人が雇われた。

◎その後の日本人の登頂。

1981年、早稲田大学隊大谷映芳とジ-ル・サビルが西稜から初登頂。1982年、日本山岳協会合同隊の坂下直枝・吉野寛・柳沢幸弘が14日に。15日に4人の7人が無酸素登頂。中国側からの初登頂。1996年7月29日、戸高雅史が南東稜クラシックル-トから無酸素登頂。1996年8月12日と14日に日本山岳会青年部隊が12人の最大人数登頂。2000年7月30日、山野井泰史が南南東リブより無酸素登頂。2004年8月16日、北海道どさんこ同人会隊の松本政英含む5人が南南東リブより登頂。2006年8月1日、東海大学山岳部の小松由佳が女性8人目の登頂。青木達哉が21歳最年少登頂。

次回は、魔の山と言われるK2の遭難の歴史を辿ってみたい。

K2・8611m峰

f:id:koyaken4852:20210125171707j:plain

K2のル-ト図

  

f:id:koyaken4852:20210125171729j:plain

 

ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう

ネパ-ル人の2登山合同隊が、K2・8611mの冬季初登頂、おめでとう

 先日の2011年1月16日、遂に世界二位の高峰K2が冬季初登頂された。

 世界の登山界やヒマラヤニスト達が、地球上の高峰登山で最後に残されたK2の冬季登頂を目指していたのだ。

 それが、1920年代から賃金を得る職業として高峰登山に関わっていたネパ-ル人が、自ら登山享受する登山者として、世界中の挑戦真っ最中に、一番乗りでK2冬季初登頂。

 世界の登山史は、そのほとんどが経済先進国と言われる欧米や日本を含む国々が、そのペ-ジを埋めてきた。世界登山史の最終章と言われ続けてきたK2冬季初登頂、それが、経済発展途上国のネパ-ルが、登山ガイドや登山ポ-タ-達だったネパ-ル人が飾った。

 わたしはネパ-ルで14年前から生活し、ネパ-ルの登山関係者と付き合う中で、こんなうれしいことはない。本当におめでとう。

 

ネパ-ル民主共和国K2・8611m登山隊、冬季初登頂

 1月16日にK2冬季初登頂したのは、ネパ-ルのシェルパ族10名。いや、一人の名前がプルジャなので、シェルパ族九人とその他の民族一人かな。

 パキスタンと中国の国境に聳えるK2・8611mに挑んだのは、ネパ-ルの登山チ-ム2隊。プルジャ氏とミンマ・シェルパ氏率いる2隊は、K2の山頂8611mを目の前にして、2隊のメンバ-はそこから頂上までのル-トメイキングを合同で行うことにした。それから、商業登山のガイド登山隊メンバ-のソナ・シェルパも加わった。

 この登山隊を組織し計画した2隊の隊長の豪かったところは、世界の8千m13峰の冬季登頂がネパ-ル以外の国際隊だったことから、自国ネパ-ル国隊が世界の登山文化国に仲間入りする機会と捉えたこと。

 そして、K2エクスペディション費用は、勿論スポンサ-付きがだが、そのほとんどをクラウドファンディングなどで集金してるのも素晴らしい。

 こうして、二隊合同登山隊は急傾斜ル-トに協同でロ-プ・フイックスし、頂上寸前の場所、10名がネパ-ル国歌を歌いながらの登頂、だったらしい。

 ほんとうに素晴らしい、ネパ-ル登山隊おめでとう。

ネパ-ル民主共和国K2・8611m登山隊登頂メンバ-

 登頂者10名の名前は、前出の3名プルジャ、ミンマ・G・シェルパ、ソナ・シェルパ、の他にミンマ・デビット・シェルパ、ミンマ・テンジ・シェルパ、ゲルジェン・シェルパ、ペム・チリ・シェルパ、ダワ・テンバ・シェルパ、ダワ・テンジン・シェルパ、キル・ペンバ・シェルパ、の7名。

「ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂 おめでとう」標題は、次回に続く。

 

北海道新聞などの「ネパ-ル登山隊 K2・8611m冬季初登頂」記事

 

f:id:koyaken4852:20210123151005p:plain

1977年日本隊のk2・8611m

f:id:koyaken4852:20210123151359j:plain

 

七草がゆ

三日遅れの、それも昼食に七草粥

 七草がゆは、本当はお正月行事の最終日1月7日のお昼ご飯に食べるもの。

 それが、1月7日に三日遅れ、そしてお昼ご飯に美味しく食した。

 北海道では、内地と少し異なって、暮れからお正月料理を食べ始め、もうお正月の一週間は少し食べすぎぎみ。それで、お正月行事の最終日に野菜のみの粗食として、今年一年無病息災を願って食べるのが七草がゆ、だと思っていた。

七草粥」を少し調べてみた。

 一般的なお正月行事と思っていた七草粥だったが、内容が違っていた。

 七草粥の歴史は、古代中国の生活から、顧みなければならないらしい。1月7日の人日(じんじつ)の節句が始まり。人日とは文字通り「人の日」という意味。一月元旦から8日まで続く運勢を見る行事で、元日はトリ、2日はイヌ、3日はイノシシ、4日はヒツジ、5日はウシ、6日はウマ、7日は人の日としてそれぞれの占いをし、9日に穀を占って新年の運勢を見た。

 それが、人日の日には7種類の若菜を入れた汁物を食べて、無病息災を願う習慣があり、これが奈良時代の日本に伝わった。「若菜摘み」と言われる、年の初めに若菜を摘んで食べて植物の生命力をいただく。次いで、それが7種類の穀物でお粥を作る「七種粥」の風習と結びついた、とされている。

 七草は、早春にいち早く芽吹くので、邪気を払うことで、無病息災を祈って七草がゆを食べる。

 七草がゆが一般市民に広がったのは江戸時代。セリ・ナズナゴギョウハコベラホトケノザスズナスズシロが七草。ゴギョウハハコグサハコベラハコベスズナはかぶ、スズシロは大根のこと。この七草をおかゆにして1月7日に食べる。
日本全国どこでも、この7種類の野菜ではない。江戸時代から現代まで変化してきたし、その土地土地でも七草の種類は異なる。

 

代表的な7草の効能を調べてみた。

せり:鉄分が多く含まれているので増血作用あり。水辺の山菜で香りがよく、食欲増進に

なずな:別称はペンペン草。江戸時代にはポピュラーな食材。熱を下げる、尿の出をよくする作用。

ごぎょう(ハハコ草)。草餅の元祖。風邪予防に使われた

はこべら:はこべとも言う。たんぱく質が多く、目によいビタミンAとミネラルが豊富。腹痛の薬

ほとけのざ別称はタビラコタンポポに似ていて、食物繊維が豊富

すずな:カブのこと。ビタミンが豊富

すずしろ:ダイコンのこと。ジアスターゼが消化を促進します。風邪の予防にも

 

f:id:koyaken4852:20210110151749j:plain

f:id:koyaken4852:20210110151757j:plain

f:id:koyaken4852:20210110151814j:plain

f:id:koyaken4852:20210110151819j:plain

f:id:koyaken4852:20210110151832j:plain

 

新春 ネパ-ルの牛 第4回

謹賀新年 ネパ-ルの牛 その四回目

 

2021年は丑年。

丑年にちなんで、4日前からネパ-ルの牛の写真を見てる。

今回も続いて、ネパ-ルの牛の写真を見てみる。ネパ-ルのヤク二回目。

 

ネパ-ルのヤク

前回に引き続き、同じ説明だが。

ヤクは、日本語で高山牛、といえば良いだろうか。

 ヤクは、高地に順化した動物。順化は高度順応とは違う。高地に代々飼育され続けた結果、酸素の薄い気圧の低い土地で生きていける。

 ヤクは、低地の気圧の髙い所に降りると死ぬとされていて、酸素濃度の薄い高地に適した臓器になっている。普通の牛と比較して、肺は2倍、心臓は1.4倍大きいらしい。

    ヤクは寒冷地に適した長い毛。ヒマラヤの標高の高い場所での生息は、ネパ-ルの低標高とは雲泥の差。暑いくらいの亜熱帯気候のネパ-ル、でもヒマラヤは雪や氷の世界。ヤクは低気圧や寒冷に適した、蹄近くまで伸びた毛むじゃらな風体型。このヤクの毛、季節に応じて生え変わる換毛はない。

ヒマラヤ高地の家畜ヤク

 ヤクは、ネパ-ルだけでなく、チベットやブ-タンなどでも、家畜として飼育されている。要するに、標高3千mを超すヒマラヤの地でなければ生存しない。

 「ヤク」の元々の語源はチベツト語で、チベットでは雄のみの名前で、メスは「ディ」と呼ぶらしい。

 ネパ-ルでは、地方によってヤクの飼育目的が異なる。ク-ンブヒマ-ルのエベレスト街道では、世界で一番お客が集まるトレッキング街道なので、その荷運びが主の役割。それに比べて、ランタンヒマ-ルでは、主にヤクのミルクから造るチ-ズ作りが飼育目的になっている。

 ヤクは、牛であって牛でない、とも言われている。牛と同じ体型で角もあるし、牛科牛属。しかし、鳴き方が「モ-」ではなく、唸り声なので。

 

ネパ-ル・ク-ンブヒマラヤ

エベレスト8.848mがロ-ツェ8.516mの南壁から頭を出す

右の山がアマダムラム6.856m

タンボチェ村3.867mのヤクの群れ

f:id:koyaken4852:20210105112853p:plain

ヤクの群れにはドライバ-が付きっきり

f:id:koyaken4852:20210105112944p:plain

f:id:koyaken4852:20210105113104p:plain

f:id:koyaken4852:20210105113133p:plain

f:id:koyaken4852:20210105113241p:plain

f:id:koyaken4852:20210105113300p:plain

ランタンヒマ-ルの4千m

ミルク搾乳のヤク放牧の中に、トレッカ-のテント

ヤクミルクはチ-ズ製品になる

f:id:koyaken4852:20210105113337p:plain

放牧中のヤクに降雪

このくらいの雪なら、陽が照ると一日で融雪

f:id:koyaken4852:20210105113356p:plain

ムスタン圏のジョムソン2.743mでヤクの群

ポストモンス-ン季なので、牧草を求めて低地に下りる

f:id:koyaken4852:20210105113712p:plain

子供のヤク

f:id:koyaken4852:20210105113747j:plain

ヤクドライバ-と行きたくないヤク

f:id:koyaken4852:20210105113827j:plain

f:id:koyaken4852:20210105113846j:plain

左のヤクと右のゾッキョ ゾッキョは水牛とヤクの混血

毛の長さで判別

エベレスト街道の宿泊施設に使う日用品の運搬か

f:id:koyaken4852:20210105113921p:plain

森林限界を越えて、登山隊の荷物

f:id:koyaken4852:20210105114110p:plain

イヤリングでおしゃれな飾り付けヤク

f:id:koyaken4852:20210105114147p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114210j:plain

f:id:koyaken4852:20210105114220p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114238p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114251j:plain

f:id:koyaken4852:20210105114303p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114313p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114321j:plain

f:id:koyaken4852:20210105114336p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114345p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114358p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114412p:plain

f:id:koyaken4852:20210105114426p:plain