koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの新型コロナウイルス情報・第6回目

ネパ-ルから入った新型コロナウイルスの情報、その六回目
 ネパ-ル政府は、5月18日付でロックダウンを6月2日まで延長を閣議決定し公表
 ネパ-ルの新型コロナウイルス陽性感染者は、5月15日現在292名と少なく、死亡者は2名と発表。
 ネパ-ル政府は、日本の成田エア-ポ-トに向けて、5月15日チヤ-タ-機を飛ばした。ネパ-ルから日本へ帰国したくてもできない10人と、日本に行かなければならないネパ-ル人、のためである。
 ネパ-ルは、国内便と国外便の全てのフライトの発着を今月5月末まで禁止している。ネパ-ルへの入国ビザは、東京のネパ-ル大使館と大阪の領事館でしか発行していない。が、原則ネパ-ルへの外国人の入国を禁止している。
 ネパ-ル着後の外国人の全ては、今月5月末までネパ-ルの自宅待機しなければならない。
資料 コスモトレック(株)・カトマンドゥ・ネパ-ル

 

ネパ-ルヒマラヤ ダウラギリⅠ峰 8,167m

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ネパ-ルのバザ-ル 第112回

ネパ-ルのバザ-ル・商店街・商売 第百十二目
12、ネパ-ル西部地域のバザ-ル 第20回
カリガンダキ川沿いのバザ-ルや商売 三回目
マルファ-村の川口慧海記念館・ミユ-ジアム

 

 ネパ-ルの首都カトマンドゥの西方、ネパ-ル西部地方のバザ-ル写真も20回目。
 カトマンドゥから西へ200kmのポカラから、自動車や飛行機で、アンナプルナヒマ-ルの奥地標高マルファ-村2,632mへ。
 マルファ-村のバザ-ル写真の二回目。
 今回は、川口慧海ミユ-ジアムの写真。
 川口慧海は、日本未伝の大乗仏教の経典を求めて、二度チベットへ行く。当時のチベットは、外国人の入国禁止で、川口はインドとチベツト交易に携わるネパ-ル人に変装して、チベツト潜入・侵入。
 第一回目は、明治30年に日本を出発、川口慧海31歳。インド経由でネパ-ル、チベツト入り。帰国は明治36年。明治37年には二度目の出発で、1914年大正四年に帰国した。
 古い地図と磁石で、国を閉ざしていたチベツトに入り、入国後は医者として名声を挙げ、ダライ・ラマに拝謁・謁見したが、日本人と見破られて脱出帰国した。
 二度のチベツト入りは、口述筆記「西蔵探検記」などの書物にまとめられ、世界的なチベツト資料として位置づけられている。1978年昭和53年に「チベツト旅行記」として出版。
 この川口慧海さんのネパ-ルでの滞在は、ここマルファ-村の一軒家に、当時の居住状態そのままに保存されている、から面白い。
 「西蔵探検記」には、インド――ネパ-ル――チベツトの滞在記があるが、現在私たちが読める「チベツト旅行記」は、ほとんどがチベツトでの様子しか触れていないため、ネパ-ルのマルファ-村の様子は分からない。
川口慧海の辿った行程
 川口慧海の著書「チベット旅行記」の「旅行の道程」では、次の様に記述されている。
 ダ-ジリン(インド)からラサ府まで大約2,490マイルばかり歩いております。まず明治32年1月5日にダ-ジリンを出発し、汽車に乗ってカルカッタを経てセゴ-リという所まで来て、ここからまた歩いて、2月5日カトマンドゥに着きました。セゴ-リからカトマンドゥまで約115マイルです。3月7日にここを立って、ポカラに着いたのが同月11日、14日にポカラを出発して、4月の16日にチベット国境からわずか18マイルを距(さ)っているロ-・ツァ-ランに着きましたが、カトマンドウからここまで歩いたのが、260マイルばかりです。このロ-・ツァ-ランに一年ほど滞在して、翌33年4月の6日にここを立って、チベット潜入の便宜上、再び前の方へ戻って来て、ド-ラギリ-山(ダウラギリⅠ峰8,167m)の東谿にあるマルパ山村に出て、6月12日にここを立って、ド-ラギリ-山の北の中腹の、殆ど二万尺の所を踰(こ)えて、西北原の方に進み、7月4日にチベット西北原のホルトショ州の山峡に達しました。ツァ-ランからマルパまで約70マイル。マルパからホルトシ州まで、大約155マイルほどあります。・・・・・・・それから12月5日に、シカチェ府のタシ・ルフンプ-寺に着き、三日間滞在して同地を出発して、明治34年3月21日に、ダ-ジリンを出てからちょうど二か年と三か月ばかりで、ラサ府のセラ大寺へ着しましたのです。ホルトショ州からラサ府までは、・・1,279マイルmも歩いております。
 わたしが考えるに、この記述の中に、「このロ-・ツァ-ランに一年ほど滞在して」がある。このロ-・ツァ-ランが現在のマルファ-村ではないか、と確証しているのだが、どうだろうか。
 1マイルは1.60934kmなので、なんと河口慧海僧侶は2,490マイル×1,60934km=4,007.2566km、往路約4,007kmを徒歩で歩き通したことになる。往復で8,014km。それも二度だ。
 せっかく、川口慧海の写真を見るのだから、川口慧海の著書「チベット旅行記」に掲載されいる、チベットの人たちの様子の二例を紹介してみる。
その1・日常的な男女間の婬風(いんぷう)
この辺の人々の無常の楽しみは何であるかといえば、女に戯れ肉を喰い、酒を飲むことであります。・・・・彼らが打ち寄って話をすることは、穢わしい男女間の話より他には何もございません。・・・デその心に熱心に欲するところは、男子は女子を求め、女子は男子を求めることで、これは老人から少年少女にいたるまでソウいう有様ですから、婬風(いんぷう)は実に盛んであります。
その2・着物は一年中洗わないで着っぱなし
着物はドンな汚い物を着ておってもかまわない。それも年に一度づつ新しい物と取り換えるに過ぎぬから、バタ-と垢(あか)で黒光りに光っておるのです。なお一年よりもニ年着ておれば豪(えら)いと讃(ほ)められるような風習であります。その間一度でも洗うということはない。

 

川口慧海記念館 ミユ-ジアム
ホテル・マウントビラでチケット販売

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チベツトのニヤ-トンの守関長より与えられた通行書

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この箱に諸物を入れて、竹籠のドッコで運んだのだろう

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明治時代のカメラ

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川口慧海の旅行姿

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マルファ-村

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ネパ-ルのバザ-ル 第111回

ネパ-ルのバザ-ル・商店街・商売 第百十一目
12、ネパ-ル西部地域のバザ-ル 第19回
カリガンダキ川沿いのバザ-ルや商売 二回目
マルファ-村のロツジとバザ-ルと川口慧海ミユ-ジアムとチベット仏教僧院

 

 ネパ-ルの首都カトマンドゥの西方、ネパ-ル西部地方のバザ-ル写真も19回目。
 カトマンドゥから西へ200kmのポカラから、自動車や飛行機で、アンナプルナヒマ-ルの奥地標高マルファ-村2,632mへ。
 この村の様子、家々の壁には白色ペンキでお化粧を施している。街全体が真っ白で、ネパ-ルの他の市町村には見られない特徴だ。ほとんどの家は古く、鉄筋コンクリ-トの柱はないだろう。壁は日干しレンガみたいなもの。現在は街から100mほど離れたところに自動車道路があり、旧街道沿いに数百mのロッジやお土産物屋が点在する住民の街並みがある。
 マルファ-村は、古くは中世以前から、チベツトとインドの貿易の中継点としての役割で、それなりの繁栄があったのだろう。ここ一帯カリガンダキ川沿いの村々は、チベットとの交易に深く関係してたので、チベット仏教徒がほぼ100%で、50年前ごろまでは、チベット仏教僧院が多く存在していたらしい。現在では、僧院も朽ち果ててどこに在ったのかも分からないくらい。
 この村、三つの特徴がある。その一つは、ヒマラヤ8千m峰ダウラギリⅠ峰8,167mのベ-スキャンプへ向かう道の起点。他には、日本の明治時代に僧侶の川口慧海が、ネパ-ル人に扮装してチベットへ仏教経典を求め、長期滞在した。最後の特徴の一つは、この村の上流の村ジョムソン村と同様に、リンゴ園がある。
リンゴ園があって、ここのホテルにはリンゴ酒が販売されている。マルファ-の特産物のアップル・ブランデ-もある。
 マルファ-村のロツジとバザ-ルと川口慧海ミユ-ジアムとチベット仏教僧院の写真は、以後数回に分けて見てみる。

 

マルファ-村の街並み

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マルファ-入り口の門 

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ダウラギリⅠ峰8,167mのベ-スキャンプへの登路

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ダウラギリⅠ峰 8,167m

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ホテル・マゥントビラ 
道を挟んだ向かいにある川口慧海ミユ-ジアムの入場チケット販売してる

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ホテル・マウントビラの食堂

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マルファ-りんご園 

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地元生産物のリンゴ手作ったアップル・ブランデ-やアップル酒など

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ネパ-ルの背負いかごのドッコを背負った女性達

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わたしが良く泊まるホテル・サンライズ

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ホテル・サンライズの食堂で夕食
ネパ-ルの定食ダルバ-ト

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ホテルの食堂で朝食

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わたしのトレッキング中に、マルファ-村で出会ったネパ-ル人の友人達と

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ホテル・サンライズの食堂でチャ-(ミルクティ)

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ネパ-ルのバザ-ル 第110回

ネパ-ルのバザ-ル・商店街・商売 第百十目
12、ネパ-ル西部地域のバザ-ル 第18回
カリガンダキ川沿いのバザ-ルや商売 一回目
ジョムソン村のリンゴ売りとロツジのバザ-ル

 

 ネパ-ルの首都カトマンドゥの西方、ネパ-ル西部地方のバザ-ル写真も18回目。
 カトマンドゥから西へ200kmのポカラから、自動車や飛行機で、アンナプルナヒマ-ルの最奥地標高2743mジョムソンへ。
 アンナプルナヒマラヤとダウラギリヒマラヤに挟まれた大河、カリガンダキ川が流れ下る。その川の最上流は、あの秘境ムスタン。
 ムスタンエリアは、一時独立自治区として入域禁止地区だった。そのムスタン郡の南端の村がジョムソン村。
 ジョムソン村は、1990年代までは自動車道路がなく、飛行機の離着陸するエアポ-ト前には、ホテルやロッジが無かった。小さな村は、川の少し上流に歩くとあり、午前中にフライトで到着した外国人もネパ-ル人も、すぐに目的地へ向かって歩き出したもの。
 現在では、自動車道路開通に合わせて、旧ジヨムソン村の下流に、空港前がホテル・ロッジ群の街になっている。
 ここジョムソンは、トレッキングや登山隊の一時的中継地のホテルなど以外の商売はなく、日本人の援助でリンゴ園があるだけ。
 わたしは、アンナプルナⅠ峰8,091mの登山目的で、1991年にポカラからフライトでジョムソン着。すぐに川の下流に向かって歩き出し、一日かけてレテのロッジ着。この時のリンゴの値段を今も覚えている。ジョムソンやその下の村のマルファ-にリンゴ園があり、マルファ-村で購入するリンゴ1個の値段が1RSルピ-だった。そのリンゴの値段が、マルファ-から村一つ離れると2RSになり、二つ目の村では3RS。村を一つ分の輸送費が、1個につき1RSづつ高くなる仕組み。1991年当時のレ-トは、1RSルピ-=4円だった。現在のレ-トは4倍の円高で1RSルピ-=1円。

ジョムソンのリンゴ売り 

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ジョムソン村のリンゴの苗木が植えられたカルカ
カルカは、動物が植物を食べに入らないような囲いをしたところ

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ジヨムソン村のリンゴ園

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ジョムソン ホテル・スノ-ランド
2000年以降、ポカラ――ジヨムソン間の自動車道路開通後にホテル・ロッジの街並み

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ジョムソン飛行場とニルギリ峰北峰7,061m

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チベット仏教僧院のマニ車 手で一回転するとお経一巻の功徳

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ネパ-ルのバザ-ル 第109回

ネパ-ルのバザ-ル・商店街・商売 第百九目
12、ネパ-ル西部地域のバザ-ル 第17回
ゴルカのバザ-ルや商売 その二回目
町に三軒の内のホテル・ゴルカイン

 

 前回と今回は、ネパ-ルの首都カトマンドゥから西へ約100km、ゴルカ町のバザ-ル写真を見る。
 ネパ-ルでゴルカ、といえばなんと云ってもシャハ王が有名。そして、ゴルカは勇敢な兵士の代名詞。
 1768年9月、ゴルカのシャハ王がカトマンドゥ盆地の三王国を攻めて勝利。ネパ-ルを統一してネパ-ル王に即位。この時から2008年5月28日ネパ-ル議会で国王制度廃止で国王退位するまで、ネパ-ルの王の座に就いていた。ネパ-ルシャハ王朝の終焉だった。わたしは、この国王廃止の制憲選挙の時、ネパ-ル滞在してた。
 1768年当時のネパ-ルは、全国に24の小国があり、ゴルカはこの24にも入らない微小国だったらしい。
グルカ兵と言えば、イギリス軍の雇用兵で有名
 時代は1814年に遡る。シャハ王率いるのネパ-ル軍はイギリス東インド会社と戦闘状態。イギリスはネパ-ルの植民地化でグルカ戦争に突入。1816年イギリス軍が勝利し、ネパ-ル国土の三分の一をイギリス領としたが、植民地化に失敗。
 イギリス軍はネパ-ル兵の勇敢な戦いの前に、ネパ-ル国をイギリスの保護国とするに留まる。1923年、ネパ-ルはイギリスと友好条約締結し、イギリスの友好国から国際的にも独立国となる。
 イギリスはこの時代から、植民地化できなかったくらいのネパ-ル軍隊の兵士の勇敢さを評価。イギリス軍の雇用兵として、ネパ-ル人を雇うこととなった。
 現在でも、イギリス軍のネパ-ル人兵士は年に500人が退役し、新たに500人が雇用されている。新らたな雇用兵は、約20年間イギリス兵として戦闘最前線に居て、退役後イギリスの永住居住権とイギリスドルでの年金が支給されている。
 わたしは、13年前からネパ-ル生活をしてる。わたしのネパ-ル人の友人の関係者にイギリス軍雇用兵の退役軍人がいる。
 ちなみに、シャハ王の出身地はゴルカなのに、グルカ兵とは。ネパ-ル語のゴルカが、イギリス語になって、訛ってグルカに。
イギリス軍の雇用兵隊グルカ兵・その1
 わたしのネパ-ル人グルン族の友人がいる。その友人の奥様の父親が、元イギリス軍グルカ兵。先日も友人宅へ遊びに行くと、そのお爺ちゃんの元イギリス軍グルカ兵が、ネパ-ルの正装服を着て、わたしにごあいさつ。この友人の家、三階建ての鉄筋コンクリ-ト造りで2009年に新築。
 このグルン族の友人、実は私が借家から街に出かけるとき、細い裏通りを歩いていると、バイクに乗った彼が声をかけてきた。日本語で「あなたは日本人ですか、すぐ近くにわたしの事務所があります。来てチャ-(お茶)でもいかがですか」。
 現在では、このグルン族の彼の6人家族と家族同士の付き合いをしてる。彼の新築の家は、わたしの借家から徒歩7~8分の距離。家を建てた土地は、奥さんの父親から資金を出してもらって購入。ネパ-ルのカトマンドゥの治安の良い地域の住宅地、の地価は日本とほとんど変わらない程高い。さすが、イギリス政府から年金を支給されている金持ちネパ-ル人だ。
イギリス軍の雇用兵隊グルカ兵・その2
 もう一人、わたしのネパ-ル人ライ族の友人がいて、その彼の叔父さんが元イギリス軍グルカ兵。このライ族の元グルカ兵、日本びいき。子供の名前を「ジャパン」と名付けている、ジャパン・ライさん。
 元イギリス軍グルカ兵でインド勤務だったため。インドがイギリスから独立して、こんどはインド軍の雇用兵になったらしい。
 このライ族のネパ-ル人の友人、実はわたしが2006年10月~11月にネパ-ル生活を始めるため、カトマンドゥ市内の借家探しを手伝ってくれたのが付き合いの始まり。約10日間毎日午前10時ころから夕方まで、カトマンドゥの治安の良い住宅地を彼と一緒に、足を棒にして歩き回ったのを想いだす。

 現在では、彼の4人家族と家族同士の付き合い。長女はバングラディシュのダツカ大学歯科学科を卒業し、カトマンドゥの歯科医勤務後に結婚。現在は若夫婦でオ-ストラリアに住んでいる。次女はカトマンドゥ工業大学建築家卒業。
 ちなみに、インドのイギリス植民地は、1857年にイギリス国王がインド皇帝を兼ねた時から、インドはイギリス領となった。
 1883年、全インド国民協議会結成し反英闘争が始まり、1945年当時のインドは、イギリス領だった。9月2日インドの第二次世界大戦が終わり、パキスタンとインドとの関係で真の独立が遅れ。1950年8月15日を独立記念日として、インドがイギリスから独立。
 わたしは、ゴルカ町には二度滞在。街に三軒しかないホテルのゴルカイン・ホテルの写真を見てみる。

ゴルカ・イン・ホテル

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ゴルカイン・ホテルの朝食

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第10代ゴルカ王・ブリトビ・ナラヤン・シャハ
1743年即位

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ゴルカ町の丘の上のゴルカ王宮

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グルン族の友人一家と

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ライ族家族と、夕食に呼ばれて

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オ-ストラリア在住のライ族の長女と携帯電話でお話し

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ネパ-ルのバザ-ル 第108回

ネパ-ルのバザ-ル・商店街・商売 第百八目
12、ネパ-ル西部地域のバザ-ル 第16回
ゴルカのバザ-ルや商売

 

 前回まで、ポカラのバザ-ルや商売の写真を15回目で見てみた。
 今回は、ネパ-ルの首都カトマンドゥから西へ約100km、ゴルカ町のバザ-ル写真を見てみる。

ゴルカ市内のバザ-ル
靴修理屋

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2006年、この年は日本隊マナスル峰登頂50周年記念の年
なぜかゴルカ町に記念のゲ-ト

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ゴルカ町の果物露天バザ-ル

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ゴルカ町の乾物屋

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 ゴルカ街中の水くみ風景
町中の水道施設はなく、各家庭は数カ所の蛇口から水くみ

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ネパ-ルのバザ-ル 第107回

ネパ-ルのバザ-ル・商店街・商売 第百七回目
12、ネパ-ル西部地域のバザ-ル 第15回 
ポカラのバザ-ルや商売の15回目
ポカラの中国・チベットからの難民キャンプのバザ-ル


 ポカラのフェワ湖Phewa Tal 湖畔一帯の外人街地域のバザ-ル写真やポカラ市内の見てみる。
 今回は、ポカラに住む中国・チベットからの、中国共産党チベット仏教弾圧で、中国ネパ-ルとの国境を越えてネパ-ルへの避難民キャンプのバザ-ル写真を見てみる。
中国人民解放軍チベット制圧とチベット人のネパ-ル・インドへの難民
 1950年、ネパ-ルが130年間の鎖国を解いて開国した年、自治チベットでは中国人民解放軍チベット東部を戦闘後開放。1951年一方的にチベツト全域を中国に併合。その後、自治国チベツトの精神的指導者のダライ・ダマ14世は、1953年に中国仏教協会名誉会長として、1954年中国全国人民代表大会チベット民族代表として参加、常務委員会副代表に就任。
 1959年、チベットは大規模デモを行い蜂起して独立自治を主張したが、中国解放軍の制圧に屈して、ダライ・ダマ14世がネパ-ル経由してインドへ亡命。
以後、チベット仏教への中国の弾圧で、チベット人のネパ-ルへの亡命が続く。
 現在のポカラ・チベット難民キャンプは、1959年からチベット人のネパ-ルへの難民が住み着いたもの。

ポカラに住むチベット人は、観光地ポカラの各地で店開き

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チベット避難民キャンプ

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チベット難民キャンプのマニ車

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