koyaken4852のブログ

ネパ-ル暮らしの日記や、主にネパ-ルの写真を掲載

ネパ-ルの楽しいトレッキング 第70回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その七十回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十一回目

 前回は、ガルマ-タ(エベレスト)の頂上の写真と、今年のプレモンス-ン季のエベレスト関連の遭難死亡について触れるた。

 「日本人の三浦雄一郎さんより高齢者エベレスト登頂を目指していたネパ-ル人の遭難死」と「エベレストの南西側隣の山ヌプッチェ峰Nuptse7861mの世界最強登山家の遭難滑落死」をとりあげた。

 今回はエベレスト街道の途中で、振り返って見た。ここソルク-ンブヒマラヤの西となりのロ-ルワリンヒマ-ルに聳えるカ-タン峰6853mの頂上の頭が見えた。

このブログ、次回はエベレスト街道トレッキングから少し横道になるが、カ-タン峰登山を写真で見てみる。

 

1982年に未踏峰の初登頂した山カ-タン峰を眺望

 このカ-タン峰6853m、わたしが1982年ポストモンス-ン季に、ヒマラヤ初遠征で登頂したヒマラヤ。

 ネパ-ル政府は、1979年に未踏峰数十峰を解禁。早速ネパ-ル政府に登山届出。この時代、ネパ-ルのヒマラヤ峰の登山は一シ-ズン一ル-トに一隊のみの登山許可していた。登山隊のダブルブッキングになったのは1990年から。後にこのネパ-ルの解禁峰発表は、日本国内でのヒマラヤ登山の大衆化と云われるようになる。1979年以前の日本の海外登山は、大学山岳部から日本山岳会の海外遠征一色で、要するにお金持ちだけの海外登山だった。1980年前後を境に、日本の勤労者(労働者)が金銭面で海外遠征費用を自前で工面できる労働環境に達したと云える。

 1978年地区連盟に海外登山委員会を新設してヒマラヤ登山隊の派遣を目指していた。わたしは連盟の理事長に就任したばかり。この時代を振り返ると、海外を目指したり一般市民への登山普及拡大をめざして、札幌と小樽に市民登山教室を開催を始める。他方山岳の自然保護活動として近郊の山一斉清掃登山を始めるなど、連盟としての活動の基礎を作った時代だった。

 エベレスト街道を歩いていた。タンボチェを歩き出してイムジャ・コ-ラ川沿いにディンボチェを目指して、振り返ったら眼前に、ここソルク-ンブヒマラヤと西となりのロ-ルワリンヒマ-ルの境を作っているヒマラヤの稜線から頭が見えた。この頭、1982年にの登った山カ-タン峰。苦労して登った山だったので、忘れることができない程の形。見つけて直ぐに判明。

 カ-タン峰の登山届は、10月30日までを登山期間としていた。ところが登山中に大量の降雪があり、ナイフリッジ状の北東稜の登攀に、日数がかかり過ぎていた。隊と一緒にベ-スキャンプ入りしていたネパ-ル政府の係官、リエソン・オフイサ-に登山期間の延長許可をもらって、11月1日未踏峰の初登頂。続いて副隊長のわたしを含めて11月2日に二次登頂した。

 

ベレスト街道からのカ-タン峰6853mの頭

クワンデ峰の頂稜から頭の頂上部分だけ

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カ-タン峰

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カ-タン峰6853m北東稜

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カ-タン峰キヤンプ2から眺望のエベレスト

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カ-タン峰を登るサ-ダ-(シェルパ頭)のテンリ・シェルパ

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カ-タン峰北海道登山隊メンバ-

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第69回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その六十九回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の三十回目

 前回は、ロブチェLobuche 4930mから次の宿泊地ゴラクシェプGorakshep 5150m を通り越して、一気にカラパタ-ル5550mまで歩いた。

 今回はカラパタ-ルから見たサガルマ-タ(エベレスト)と最近、プレモンス-ン季のエベレスト関連の遭難死亡について触れる。楽しいネパ-ルのトレッキングから少し横道を歩いて登山編とする。

 カラパタ-ルへは4人メンバ-が無事に到着。ガイドのバルクマル32歳とロ-カルポ-タ-のダヌ-・シェルパ17歳も元気に登頂。ダヌ-はトレッキング出発地のルクラで雇った農家の息子。

 

日本人の三浦雄一郎さんより高齢者エベレスト登頂を目指していたネパ-ル人の遭難死

 この春のエベレスト登頂を目指していた、ネパ-ル人のミン・バハド-ル・シェルチャンさんが、5月5日エベレストベ-スキヤンプで死亡した。死因は心臓麻痺。

 シェルチャンさんは、三浦雄一郎さんが75歳でエベレストに登頂した時に、三浦さんより数か月高齢で登頂し、エベレスト最高齢登頂者として、以後5年間歴史に名前を残していた。

 その後、三浦さんが今から4年前の2013年春に80歳で登頂したため、2014年からずっと再度の最高齢者登頂記録を目指してエベレストに挑んできた。

わたしの耳には、シェルチャンさんの友人など多くの人達が、後押ししている様子が伝わって来ていた。

 85歳でエベレストの登頂に挑む。果たして正当な登山なのかどうか。明らかに、ベ-スキャンプで死亡したことが無謀な登山を示している。高齢者登頂記録競争を越える、超高齢者には登山許可を出すべきではなかった。

遅すぎるネパ-ル政府の規則制定

昨年8月にネパ-ル政府は以下の事項のヒマラヤ登山規則制定に向けた検討を開始していた。

 1.ガイド等を伴わない単独登山の禁止。

 2.全盲、義足など身体に障害のある人々の安全確保の為原則登山禁止。 

 3.75歳以上の登山者の禁止。

 4.8000m峰の登山する登山者は7000峰登頂経験をもつこと。

 5.ヘリコプターは救助活動、ロープ等の登山用品を運ぶ以外にはベース・キャンプより上部では使用できない。

 3の「75歳以上の登山者の禁止」条項が該当する。半年以上も新規則制定の検討していたにも関わらず、その間に85歳のシェルチャンさんは遭難死してしまった。エベレスト高齢者登頂記録競争の犠牲者となってしまった。

 3と5については、三浦雄一郎さんが80歳でエベレストを登頂した後、下山時にレスキユ-ヘリコプタ-でキヤンプ2からベ-スキャンプへ降りた後、ネパ-ル政府がヒマラヤ登山規則新制定に向けて検討を開始してたこと。5は、エベレストのベ-スキャンプより上部ではヘリの使用を禁止するもの。ヘリはレスキュ-のみ認める規則を新設するための検討項目になっていた。

 一般の国際的なヒマラヤ登山の思考(思想)は、登頂後であってもレスキュ-された場合は登山の敗退とされている。ゆえに、ヘリを使用した場合は、ネパ-ル政府は登頂証明書の発行をしない様に改める。と云うこと。

 

世界最強登山家の遭難滑落死

 4月29日、スイス人のウエリ・ステクさんがエベレストの南西側隣の山ヌプッチェ峰Nuptse7861mを登攀中に滑落し死亡した。

 ウエリ・ステクさんは、現在の国際的登山界では伝説の人で世界最強の登山家と云われていた。ステクさんの今回のヒマラヤ登山は、ヌプチェ、エベレスト、ローチェを目指していた。、エベレストは無酸素で西陵を登り東南稜を下って一気にローチェ登山の予定。ヌプチェはその前哨戦だった。

遺体はヌプッチェのキャンプ2からヘリで搬出された。

ステクさん業績の主なもの

1)フランスの登山のアカデミ-賞と云われているピオレ・ドールを2回受賞
2)アンアプルナ南壁を単独28時間で登攀
3)アイガー北壁冬季10数回と2時間46分でのスピード登攀
4)アルプスの4000m以上の全82座を62日間で登攀
5)当然過去にエベレストを登っている

 

サガルマ-タ峰(エベレスト)8848m

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エベレスト8848m  頂上の下部、斜上するイエロ-バンド

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カラ・パタ-ル5550m 右下ガイドのバルクマルと右上ポ-タ-のダヌ-・シェルパ

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エベレスト・ベ-スキャンプ 5300m

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第68回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その六十八回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の二十九回目

前回は、エベレスト街道を写真で見るブログをちょっとお休みし、8月11日の日本の「山の日」を考えた。

今回はエベレスト街道トレッキングに戻る。

 目的地のカラパタ-ル5550mの二日手前の宿泊地ロブチェLobuche 4930mに到達した。ここロブチェの目の前に聳えるのがカラパタ-ルの裏山になるプモリ峰Pumori 7165m。

 プモリは7千m級のヒマラヤで、この山も登山の対象となる。わたしがトレッキングル-トを通過した時にも、この山とそしてこの山と稜線続きの山には、登山者の登る姿が見られた。登山者の姿を写るようにカメラのシャッタ-を押したのだが、残念ピンボケだつた。

 

パックでないトレッキングは臨機応変な行動

 予定ではルクラからトレッキングを始めて9日目になる。ところが高度障害で診療所に寄ったりで、二日余計にかかっていた。ロブチェの次の宿泊地ゴラクシェGorakshep 5150m で一泊してからカラパタ-ルに向かう予定を変更した。

 ここロブチェを朝暗いうちに出発してカラパタ-ルをピストンして、日程の短縮を図ることとする。全体の日程が詰まっている訳ではなかったのだが、帰路にも余裕を持たせる都合だ。

 日本の旅行業者やネパ-ルのトレッキング会社のパックトレッキングでは、こうした予定変更はできない。わたしの登山やトレッキングは、フライトやバスの予約をエ-ジェントにお願いする他は、その他のことを全て自分で企画している。ゆえに、トレッキング途中の行動も自由自在となる。景色や村の雰囲気の良い所では、複数泊して楽しむ。そのかわり詰まらない場所の宿泊予定地は、通過して次の村まで歩いたりする。

 ガイドはエ-ジェント所属の、私の女房が絵のスケッチ旅行に連れて歩くいつものガイド。今回のトレッキングを終えて、帰カトマンドゥしてエ-ジェントの会計担当ネパ-ル人は、トレッキングリ-ダ-のわたしの女房に「今回はハンドリングフイ-はいりません」。

 

氷河のモレ-ンを登る

 ロブチェから暗い午前4時には歩き出す。外の気温はマイナス20度C。無風なので耳たぶや小鼻が凍らないのが幸い。

 ヘッドランプで足元を照らしながらの歩行。氷河のモレ-ンを歩いている。この氷河の名称はク-ンブ氷河Khumbu Gracier 。エベレストへの登路はサウスコル経由。このサウスコルはT字路になっている。T字路の左稜線を登るとエベレストの頂上。右側稜線からはロ-ツェ峰へ至ることになる。この氷河の氷は、このエベレストとロ-ツェ、そしてサウスコル一帯から流れ下り、ク-ンブ氷河となってロブチェのその下流トゥクラThokla 4830mまで流れ下っている。

 エベレストベ-スキャンプからキャンプ1までのセラック帯がある。ここの斜面は急斜面のため、氷河がガタガタになっている。セラック(氷の柱)とクレパスが入り乱れて、流れ下る。そしてエベレストベ-スキャンプは流れが緩やかになった、標高5300mの氷河の右岸端に造られる。

 ここ数年のプレモンス-ン季には、世界中から30隊以上がテントを設営する。外人とネパ-ル人合わせると500名から1000名にもなる一大ベ-ス村が、2か月間以上の間生活を共にすることとなる。

 わたし達の目指すカラパタ-ルはこのベッスキャンプよりも250m高い場所で、ベ-スキヤンプを見下ろすことができる。

 ロブチェLobuche4930mを出発、4時間でゴラクシェプGorakshep5150mを経由して1時間30分でカラパタ-ル登頂Kala pattar5550m。

 ゴラクシェプが近づくとエベレストの頂上が、ゴラクシェプを過ぎるとエベレストのサウスコルがすぐそこに現れる。標高差にして見上げる3300m上にエベレストの頂上が聳え立つ。

 

右上部がエベレスト

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ロブチェのロッジからプモリ峰7165m

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ロブチェピ-ク 肉眼では登攀中の人達が見えるのだが

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ク-ンブ氷河脇のモレ-ン右岸を歩く

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エベレスト街道最終人家 ゴラクシェブのバティ(ロッジ) ここから標高300m登るともカラパタ-ル5550m

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エベレストから流れ下る氷河 ゴラクシェブのロッジが見える

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カラパタ-ルへの最後の登り

ゴラクシェブに泊まったトレッカ-達がぞくぞくと登ってくる

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エベレスト周辺のヒマラヤの尖峰郡

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エベレストから流れ下る氷河 氷河の脇右岸にエベレストベ-スキャンプ

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エベレストEverest8848mとサウスコル

ネパ-ルではサガルマ-タ峰Sagarmatha

チベットではチョモランマ峰Chomolungma

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第67回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その六十七回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の二十八回目

前回は、エベレスト街道から次の宿泊地ロブチェLobuche 4930mまでを写真で見た。

今回はちょっとエベレスト街道をお休みする。

昨日は日本の「山の日」だった。昨年から山の日の祝日が一日増えた。

 この「山の日」、山岳団体がスクラムを組んで、政府や法律制定の国会に働きかけて実現したもの。その意義は「山に親しみ、山の恵みに感謝する」としている。協力し合った主な山岳団体は、日本山岳会や当時日本山岳協会日本勤労者山岳連盟など。

わたしの所属する山の会の加盟している地区連盟主催で、「山の日」の記念イベントとして藻岩山親子登山会が行われた。全国の山岳団体が同様な市民対象の山に親しむ行事を行って祝日を盛り上げた。

今日の北海道新聞でも社説に「山の日」記念を掲載した。その中でアラスカのデナリ(マッキンリ-)で遭難消息を断った植村直己さんの出版物の一文が載っていたので、ここでも掲載する。

北海道新聞2017年8月12日朝刊の社説

「山に親しむ」 植村直己さんの文書・「どんな小さなハイキング的な山であっても、登り終えた後も深く心に残る登山が本当だ」

 

ネパ-ルのエベレスト街道で出会うヒマラヤの峰々

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第66回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その六十六回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の二十七回目

前回は、エベレスト街道のペリチェ診療所で診察を受け、ダイヤモックス錠を飲んで高度障害の頭痛解消した。

 4千mの高度に適応した身体になった。1981年からネパ-ルのヒマラヤ山岳地帯を歩いて、いつも4千mをクリヤ-するのにゆるくなかった。何とか高度順応して後は、以後他のメンバ-が高度障害に苦しんでいても、わたしは6千m・7千mも平気で登って登頂していた。

 診療所のあるペリチェを出発。既に森林限界を超えて草原に近いエベレスト街道を、次の宿泊地ロブチェLobuche 4930mを目指す。

 ロブチェは登山隊やトレッキングの人以外は通らない。ここに定住しているネパ-ル人の居ない所。バティ(ロッジ)の外観は普通の建物に見えるが、中に入ると柱は細く、二階に人が住めるのか、疑う様な建築物だった。ここに往路と帰路、二泊することになる。

 

アイランドピ-ク峰(イムジャツェ峰)Imjatse 5198m

 アイランドピ-クは登山で登る人は多い。この山については、又違った目的で登る隊が多い。エベレスト街道の途中に出会うこの山。エベレスト登山のための高度順応のために、この山の頂上(付近)にテントを設営して泊まる登山隊がある。

 ここでの順応は、エベレスト・ベ-スキャンプ5300mに近く、この山での順応がベ-スキャンプ入りを保障してくれる。

 

今日の出発地、診療所のあるペリチェ

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アイランドピ-ク峰(イムジャツェ峰)Imjatse 5198m

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ロブチェの手前 トゥクラ(tukla)4620mとアマ・ダブラム峰

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トゥクラ(tukla)4620mのバティ(ロッジ)

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歩き始めるとタウチェ峰Tawche 6542m

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エベレストで遭難死した高所ガイドや高所ポ-タ-の墓標が並ぶ

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エベレストで遭難死したガイドの墓標とプモリ峰Pumori 7165m

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ロブチェのロッジ

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バティ(ロッジ)の二階を支えるお粗末な柱

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第65回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その六十五回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の二十六回目

 前回は、エベレスト街道の出発地ルクラから、登山隊やトレッカ-の荷物、そして各地のバティやレストランの必要物資を運ぶゾッキョやヤクを写真で見た。

 今回は今日の目的地ディンボチェまで。そして、ルクラから軽い高度障害で頭痛が直らないので、ディンボチェDingboche 4350mから別ル-トを30分戻りペリチェPeriche 4252mへ行くことにする。

 ペリチェには高山病の治療施設の診療所がある。エベレスト街道には出発地ルクラに大きな病院がある他には、ここペリチェの診療所しかない。ペリチェ診療所はポストモンス-ン季からプレモンス-ン季まで、ネパ-ル人でなく外国人の医師が常駐して、主に登山やトレッカ-の高山病に対応している。

 

ペリチェ診療所で高度障害の頭痛解消

 わたしは朝早くディンボチェを出発して、早々にペリチェの診療所で診察してもらった。利尿剤のダイヤモックス錠をもらって、この日はここペリチェで行動終わり。早速錠剤を一錠飲む。この日は忙しくトイレに通い、おしっこが出るわ出るわ。翌日の朝、今までの頭痛はスッキリ。

 わたしは1981年に初めてネパ-ルに来たときから、都度4千m前くらいから高度障害に悩まされた。ロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰6853mのアタックは、次の年の1982年。この時は最悪だった。4300mのベ-スキャンプに入ってすぐに軽い高山病を発症。この時も出発がルクラで2800mから一気に4300mに上がったのがいけなかった。歩行困難な症状で、コック見習いのカンチャのナムゲル・シェルパに担がれて、標高500m以上を下ろされた。岩場の下降で、メンバ-のロ-プ確保で慎重に下山。3日間ドクタ-と一緒に羊などが草を食むカルカで過ごすことになる。

 この後も高度に弱い体質で、1987年1991年と続くヒマラヤ遠征では、1991年のアンナプルナⅠ峰北面遠征時、メンバ-が先を急ぐのに、わたしはガイド一人と一緒に皆より三日間遅れでベ-スキャンプ入りしたものだ。

 

カンテガ 6779m(6685m) Kangtega

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診療所のあるベリチェ  右奥にロ-ツェ峰 8516m

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ペリチェの診療所

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振り返るとアマ・ダブラム峰 6856m

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ペリチェのバティ(ロッジ)、ガイトとロッジの従業員達

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ロッジのキッチン

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第64回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その六十四回目

エベレスト街道・トレッキング(ソルク-ンブヒマラヤSol  khumbu)の二十五回目

 前回は、エベレスト街道のタンボチェから歩き出し、イムジャ・コ-ラ川沿いにティンボチェTingboche 4350mを目指す。途中のパンボチェ村で一泊することにする。

外国人の善意のネパ-ルに学校建設と、ヒンドゥ-教社会との思考と現実の乖離を見てみたる。

 今回はトレッキングの出発地ルクラから、登山隊やトレッカ-の荷物、そして各地のバティやレストランの必要物資を運ぶゾッキョやヤクを写真で見る。

 ゾッキョは水牛とヤクの合ういの子。ヤクは標高3千m以上に住む家畜。ネパ-ルやチベツトでは高地の畑を耕す家畜として、又各地の必要物資を運ぶ家畜としてヤクが飼育されている。エベレスト街道では、ナムチェバザ-ル周辺の村辺りからヤクが飼われていた。

 ナムチェからほとんど標高差のない道を、2時間ドウド-・コシ川を遡ったタ-メ村に、わたしの友人のペンパツェリン・シエルパが住んでいる。彼の奥さんは、二頭のヤクを飼い、登山隊の隊荷を運んでいる。

 

ナムチェバザ-ルに住むシェルパ族やヤクは高度順応がいらない

 ナムチェの標高は3440m。ここに住むシェルパ族の人々もヤクも、わたし達がほとんど0mに住むのと同様に、3440mの標高に順応している。これを高度順化(高所順化)と云う。わたしが札幌の0mからトレッキングして5550mのカラパタ-ルまで行く過程で行う高度順応とは異なる。出発する3440mが0mとなり、カラパタ-ルの5550mまでの標高差は2110mとなる。わたし達が2110mの山に登るのと変わらない。高所順化しているシェルパ族やヤクは高度順応がいらないのである。実際にはナムチェからカラパタ-ルまでは、歩いて最速で5日かかる。ヤクは例え一日で行ったとしても高山病にはならないのである。

 高高度に住むヤクは低地に降りてくると死ぬと云われている。実際に下りてきて死んだ例は聞いたことがないが。どうなのだろうか。

 古い高所登山医学書には、人間の定住できる高所は5400mが限度と書いてある。実際に人家があり、住んでいる高度なのだろう。

 

ヤクは人間の2倍稼ぐ

 ヤクが荷を運ぶ量は60kg。ロ-カルポ-タ-は、登山隊であれば最高で一人30kgに制限されている。ヤクは人間の2倍の賃金を稼ぐことになる。人間は一日二食を食べるが、ヤクはそこら辺の無料の草を食むので食事代がかからない。 

 ロ-カルポ-タ-は、このブログでも写真で見たが、登山隊やトレッカ-のためには一人30kgだが、その他の荷物は一人50kgは担いでいるだろう。ガス満タンのシリンダ-を担ぐポ-タ-を写真で見た。

 

ゾッキョやヤクが通る時は山側に一時避難する 

 ゾッキョやヤクが通る時は、必ず山側に避難して待たなければならない。このヒマラヤを歩く鉄則を忘れると、谷側に転滑落して痛い目に合うことになる。痛いだけなら良いが、エベレスト街道でポ-タ-が滑落死している。

 

では、エベレスト街道のゾッキョやヤクを写真で見る。

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ゾッキョやヤクが通る時は山側に一時避難

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ゾッキョは毛が短いのですぐ分かる

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ヤクは毛が長い

 

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手前にゾッキョ 後姿のヤク

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子供のヤク

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ドライバ-の云うこと聞かない

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