ネパ-ルの楽しいトレッキング 第22回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その二十二

ランタンヒマ-ル・トレッキング 四回目

前回はランタンヒマ-ルのトレッキング開始。

 昔のトレッキング。自動車道路がまだない時代だったので、路線バスの終着町トリスリバザ-ル町から歩き始める。途中三泊してランタン村を通過して最終目的地のキャンジンゴンパを目指した。

 昔の1981年当時のランタン村は、十数軒の家があるだけで、宿泊するバティ(ロッジ)もなかった。そして、通過後数時間歩くと、ヤクのミルクから作るチ-ズ造りの家が一軒だけ、ポツンと立っているキャンジンゴンパに着く。

 ランタン村の少し手前くらいから、待望のランタンヒマ-ルに聳える尖峰の山々が見えだす。ネパ-ルのトレッキングは初めて。カトマンドゥから出発して、途中食事が喉を通らない食べ物のカルチャ-ショックを味わいながら。本当は1982年遠征の山を見に来たガッカリ感も失せるほどのヒマラヤ絶景だ。

 前回ランタンの写真で、2015年4月25日のネパ-ル大地震について、少し触れた。わたしの友人や知人の写した写真を加えながら、このネパ-ル大地震の被害を見てみたい。

 ネパ-ル大地震震源地は、首都カトマンドゥと第二の都市ポカラとの中間のゴルカ地方。このゴルカの王様は、カトマンドゥ盆地の三人の王様を戦争で破り。そしてネパ-ルを統一した王様の王宮がある町。

 

ネパ-ル全土で9千人の犠牲者を出した大地震

ランタン村についてのニユ-スは次の様に伝えられた。

 村民666人の内178人が死亡・行方不明。外人トレッカ-100人以上行方不明。ヤクと水牛の合い子のゾッキョ(ゾモ)を上部草地の放牧前で、多くの村民とゾモが犠牲になった。生き残った村民は、カトマンドゥのスワヤンブナ-ト近くのイエロ-パゴダへ避難。ランタン村の上部のキャンジンゴンパは氷河雪崩の爆風被害。

 

ランタン峪には多くのトレッカ-が詰めかけていた。前年の2014年10月14日の台風崩れの大型低気圧がネパ-ルを貫通し、一日で積雪120cmの猛吹雪。アンナプルナヒマ-ルのトレッカ-43名死亡。トレッキングの聖地アンナプルナを敬遠したトレッカ-はランタンに詰めかける。予約しないと泊まれないくらいの大混雑が伝えられていた。

ティルマン(H・W・Tilman)が云った「世界一美しい谷」ランタン峪はその上部のヒマラヤ山脈の氷河雪崩で大規模に破壊された。

ランタンの村と氷河雪崩後の状況を写真で見てみる。 

 

2015年4月25日大地震震源地ゴルカの町

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ゴルカの絵図

下の町にはミユ-ジアム

丘の頂上には旧王宮

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左に博物館 

右に1769年カトマンドゥを征服した第10代ゴルカ王、プリトゥビ・ナラヤン・シャハ王像

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下の町から見上げると丘の上に旧王宮が見える

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プリトゥビ・ナラヤン・シャハ王像と旧王宮

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ゴルカの土壁作りの農家の家、地震でどうなったろうか

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丘の上の旧王宮

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2014年10月14日 インド大陸に上陸し、北上した台風は大型低気圧となってネパ-ルからチベットへ抜ける

ネパ-ルのテレビ  

アンナプルナヒマラヤの大遭難を伝える

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1981年当時のランタン村 10軒ほどの家

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氷河雪崩後の旧ランタン村

一軒の家も無い

飛ばされたか氷と土砂の下か

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1981年当時の村は写真の右上に在る

ここは2002年の写真、トレッキングル-トにバティ(ロッジ)などと民家。手前には農地とカルカ(ゾッキョの放牧)

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氷河雪崩後の2002年当時の家々は無い

畑とカルカの跡が分かる

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ランタン村の下を流れるランタン川に氷河雪崩の氷と土砂が堆積

雪崩直後は川の対岸にまでせり上がっていた

2年後の2017年の写真でも、まだ氷と土砂が残っている

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第21回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その二十一

ランタンヒマ-ル・トレッキング 三回目

 

ランタンヒマ-ルのトレッキングは2コ-ス

1981年のポストモンス-ンにネパ-ルのランタンヒマ-ルにトレッキングした。

 トレッキングル-トのランタンは、2コ-スある。昔のコ-スは自動車道路がなかったので、ヒマラヤが見えるまで何日か地元の家々の前の歩道を歩く。わたしが歩いた時期には、ホテルやバティ(ロッジ)などほとんどなく、お土産屋さんもなかった。テント持参で、食事はコックが一緒に歩いて3食作ってくれた。

 わたしが歩いたコ-スは行き止まりコ-スで、起点となるトリスリ村から東北方面へ向かった。チベットとの国境に聳えたつ6千m~7千m級のヒマラヤを眺めてピストンする。

 他のコ-スは、トリスリバザ-ルから歩き始めるのは一緒。途中のドゥンチェ1950mまで同じコ-スを歩いた以後は南方向へ歩き、小さな湖があるゴサインクンド4380mを目指す。

 ゴサインクンド・レイクのここから引き返すトレッカ-がほとんどだが、このまま南へ進んで、4610mのラウルヒナヤク・パスの峠を越えてカトマンドゥ盆地へと下るコ-スがある。起点のトリスリまでカトマンドゥから路線バスで一日の行程なので、そこを歩くのだから、長期間のトレッキングを覚悟しなければならない。

 わたしの女房が、わたしの歩いたル-トとカトマンドゥへのル-トの2コ-スを一度で歩いている。札幌で開催している絵画の個展のためのスケッチ旅行だ。

では三回目のランタン・トレッキングを写真で見てみる。

 

ドゥンチェ村Dhunche1950mから 段々畑とヒマラヤ

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リバ-サイドロッジからヒマラヤ

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墜落したヘリコプタ-の残骸

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羊飼いが牧草を求めて

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ドッコを背負ったポ-タ-達が行く

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ランタン村L angtang 3500m 1981年当時

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1981年当時のランタン村は右上に見える

2002年のランタン村  

バティ(ロッジ)など、大きな村が造られた

 この二つの村、2015年4月25日のネパ-ル大地震で、右上部からのヒマラヤ氷河雪崩でほぼ全滅する

 2014年10月14日のビッグ低気圧通過がアンナプルナ・ヒマ-ルに一日で120cm積雪の大吹雪・トレッカ-43人死亡の被害

 この日以降多くのトレッカ-がアンナプルナエリアを敬遠し、ここランタンに詰めかけた。ここランタン村に滞在のトレッカ-たちが地震の被害で多くの犠牲者をだす

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ランタン村近く  標高が高くなり家畜のヤクの群れ

このヤク、標高の低い場所に降りると死ぬそうな

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第20回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その二十

ランタンヒマ-ル・トレッキング 二回目

 前回は、1982年ポストモンス-ン季にロ-ルワリンヒマ-ルのカ-タン峰6853mアタック、のための偵察山行のために初のネパ-ル訪問。だったのだが、目的地ルクラへのフライトが三日間続けてキャンセルになった。ネパ-ルはエベレストの聳えるヒマラヤの国。ロ-ルワリンヒマ-ルの位置は、有名なエベレストのあるク-ンブヒマ-ルの西となりになる。

 キヤンセル続きのフライトで、エ-ジェントと相談。一人職場の休暇の取れるメンバ-をフライト待ちさせて、3名がランタンヒマ-ルのトレッキングとなった。

では、写真を見る。

 

路線バスでカトマンドゥ発  トリスリバザ-ルへ

途中、バスが故障 運転手と助手がバス下に潜り込んで数時間

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夜にトリスリに到着、水田にはホタルが飛び交う

朝、水力ダム発電所のあるトリスリでテント撤収

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ガイドが5名のポ-タ-を連れて来た

荷物をポ-タ-に振り分けて出発  

一家で来たポ-タ-  

まだ子供がドッコを担ぐ

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トリスリ町の学校 220名の生徒に12名の先生

この前写真の少年ポ-タ-は学校に行けないの

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歩き出して桜の花

ポストモンス-ンは日本の秋

カトマンドゥの桜の木も、春と秋に花が咲く

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穀物脱穀

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羊の毛で機織

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トレッキングパ-ミットのチェックポスト

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ヒマラヤに咲く花 岩ぶくろ?

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第19回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十九

ランタンヒマ-ル・トレッキング

 「ネパ-ルの楽しいトレッキング」は、トレッキングから始まり、途中でヒマラヤトレッキングや登山に同行するネパ-ルメンバ-について見てみた。続いて、ネパ-ルメンバ-のガイドとポ-タ-を見てみたが、その中でエベレストに1953年初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパを少し見てみた。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれ、チベットから移り住んだ民族の末裔だった。

1920年代からエベレスト登山が始まり、イギリス隊の初登頂までシェルパ族の活躍があった。

 最後に、シェルパ族のテンジン・ノルゲイが育ったダ-ジリンの街や、その周辺の国などの歴史を辿ってみたい。インドとチベットに挟まれた、ネパ-ル王国やその東側の国シッキム王国、そして又シッキムの東側に隣接するブ-タン王国などを見た。

今回は、ネパ-ルの楽しいトレッキングに戻ろう。

 

最初の海外が最初のネパ-ルヒマラヤ

わたしの最初に海外、最初のネパ-ルヒマラヤのトレッキングを見てみたい。

 1982年のポストモンス-ン季に、ネパ-ルのロ-ルワリンヒマ-ルに聳える6853mカ-タン峰遠征計画が進行中。当時わたしは山岳連盟の理事長で、連盟内にヒマラヤ遠征を目的の海外委員会を新設置。丁度その頃ネパ-ル政府が1979年に未踏峰を解禁。

 海外委員会の委員長を隊長に、わたしは何となく副隊長になってしまって、参加しないわけにいかなくなった。

 それで、遠征の前年1981年に目的の山の偵察隊が取り組まれる。ネパ-ルでは良くあることで、国内フライトが何らかの理由でキャンセルになる。首都カトマンドゥからロ-ルワリンヒマ-ルの近くの飛行場ルクラへ飛ぶのだが、天候不良で三日間連続でキャンセル。職場の休暇日数があり、偵察が困難。それで休暇延長できる他の隊員に偵察を任せて、トレッキングを楽しむことにした。

 

職場の登山有給休暇取得で半分遠征が成功

 わたしは金融機関に勤めていた。日本の経済は右肩上がりで、高度経済成長の真っ盛りだった。だから、金融機関職員は毎日残業でその半分はサ-ビス残業。有給休暇は病気以外に取ることは許されない。3週間の有給休暇は、「辞めて行ったら」と支店長の言。今考えるにどうしてこの境地を潜り抜けたのか定かでない。

 本番の1982年の遠征隊には40日間の有給休暇が必要。この時も「辞めて行ったら」と云われたはず。登山は初登頂し、札幌の小学校生とカトマンドゥの小学校生との絵画の交流など、新聞紙上で取り上げられたことで、職場はなんとか収まったように記憶している。

 二年連続で登山休暇を取ると、今度は「次はいつどこを登るのか」と職場。以後次々と休暇取得となる。1985年に家族アンナプルナヒマ-ル・トレッキング。1987年ソ連・パミ-ル・コルジェネフスカヤ峰7105m遠征。1991年アンナプルナ1峰8091m遠征と続く。

 

1950年代後半から1960年代の登山ブ-ム

 11年間で5回の海外登山をする幸運が訪れるとは考えもしなかった。もちろん、それまでに登山の知識と技術を身に着け、研究と実践してきたたまもの。

 わたしは高校生時代に札幌近郊の冬山を始めていた。今の高校生は、学校の登山部活動での岩登りや冬山登山は禁止されている。なんとかわいそうなことか。その延長に海外登山があるのだから。

 1956年に日本隊が8千m峰マナスルを初登頂し、日本中が登山やハイキング熱旺盛な時期だった。海外遠征の夢も持たない登山活動など、わたしには考えられなかっただろう。現在の高校生の登山活動は、国民体育大会で競って一番・二番を決める登山を行っている。歩き方やテントの設営方法など、いちいち点数を付けられるのだ。自然の中での衣食住を背負っての山中生活にどうやったら点数がつけられるのだろうか。

 山岳会や登山愛好者の学習研究活動と実践登山は、危険を困難に変え、目指すは「楽しい登山」だけで良い。「楽しい登山」の登山文化は私達市民一人一人の生活を充実させるだろう。

 

10年前から山ガ-ルで、再度の登山ブ-ム到来

 服飾メ-カ-が火をつけたと云われている「山ガ-ル」。若者達の登山ブ-ムが10年前から始まった。それまでの夏山の登山道には中高齢者登山者が溢れていた。若者はどこに行ったのか、どこに居るのか不思議な登山の世界だった。最近の札幌近郊の夏山は中高年者を探すのがゆるくない。20歳代30歳代の登山者で溢れている。頂上では若者達が、ビニ-ルを敷いてガススト-ブでインスタントラ-メンやコ-ヒ-を煎れる光景が見られてほほえましい。

 若者の登山ブ-ムは、高齢化で衰退著しかった山岳会や登山クラフの将来を輝かしく照らしている。山岳運動具店やアウトドア店などは、増々忙しそうだ。

ヒマラヤ・トレッキングの話が横道を歩き出しているので、元の道に戻ろう。

 

遠征隊の偵察山行が、一転ヒマラヤ・トレッキングに

 偵察山行と書いたが、わたしたち登山者は、日常行っている登山を「山行」と呼んでいる。ハッキリと明確な説明ではないが、山行には登山と下山があるからなのだろう。ゆえに、わたしは下山中に死亡したり、ドクタ-ストップでヘリコプタ-下山した人を、登山成功とは云わず登山敗退と呼んでいる。又々横道に行きかけた。

 

 初めてのヒマラヤはネパ-ルのランタンヒマ-ル。この頃、ランタン峪は世界一美しい渓谷と云われていた。

現在は地元住民の生活道路である自動車道路が開通していて、トレッキング途中まで車で入る。

 1981年当時は、ガイドとコックを連れてテントを持ち、大人数と大荷物のトレッキングだった。わたしたち3人に、ガイド1名、コック1名、コック見習いのカンチャ1名、現地で雇ったポ-タ-5名、総勢11名。

 ポ-タ-は家族一同だったと思う。ゆえに、女性のポ-タ-や子供に近い坊やも居る。ネパ-ルでは、女性のポ-タ-をシェルパニと云う。

 ホタルが飛び交う水田と大きな水力発電所のあるトリスリバザ-ルの町から出発し、目指すはキャンジンゴンパ村。村と云ってもヤクのミルクのチ-ズ作りの家一軒だけ。

では、写真で見てみる。

 

トリスリTrisuli――ドゥンチェDhunche1950m――シャブルベンシ-Syabru Bensi1460m――ラマホテルLama Hotel2340m――ゴラタベラGhora Tabera3020m――ランタン村Langtang3500m――キャンジンゴンパKyangjin Gompa3800m

 

カトマンドゥのホテル・ナラヤニ

現在もこのホテルはある

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カトマンドゥのエ-ジェント女社長の家

今ではこのご夫婦や息子夫婦たちと友人お付き合い

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初めてのネパ-ルの牛

額に第三の眼をもつシヴァ神の乗り物

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1981年当時はタクシ-よりもリクシャ-

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カトマンドゥ市内路上でアイスクリ-ム

氷入りをぐるぐる回し、コンデンスミルクで

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カトマンドゥ在住の友人

朝食にパンをかじりながらバナナを買う

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偵察行の大量の小銭のお金

ポ-タ-賃金や食料買い出しのため

1991年の大きな遠征隊は、ザック2個のルピ-

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次年登攀の山の偵察行

4人分の荷物の整理

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ルクラへフライトの荷物

機内へ乗り込み

有視界飛行のため天候悪化で三日間続けてフライトがキャンセル

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カトマンドゥ市内 レストラン

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第18回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十八

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 四回目

標題では「ネパ-ルの楽しいトレッキング」だが、しばらくはネパ-ルの登山等を見てみる。

 前回は、1953年エベレスト初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパについて少し見てみた。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれている。チベットから移り住んだ民族の末裔だ。

 そこで、ネパ-ルのトレッキングとはだいぶん離れて、横道を歩き出すが、シェルパ族のテンジン・ノルゲイが育ったダ-ジリンの街や、その周辺の国などの歴史を辿ってみたい。

 

ダ-ジリン紅茶

 ダ-ジリンは紅茶のダ-ジリンで有名。インドがイギリス・大英帝国の植民地だったので、現在でもイギリスの紅茶会社が有名になっている。イギリス・大英帝国がダ-ジリンで紅茶栽培する前は、現在の中国から紅茶を輸入していて、大枚の外貨を充てざるを得なかった。

 ダ-ジリンの紅茶と一言で云うが、標高が300m位のダ-ジリンとは違う市町村地域にも茶畑があり、標高2千mのダ-ジリン市まで、延々と茶畑が続くのだから圧倒される。

 ネパ-ルからダ-ジリンへは、ネパ-ルの最東の町カ-カルビッタKakarbhittakのイミグレ-ションで出国し、国境の川に掛かる橋を渡って、インドのイミグレ-ションの名前はダ-ジリンなのだ。このインド西ベンガル州の税関からは、ダ-ジリン市まで直線で70km標高差1700mもある。さすが世界のダ-ジリンティ-で、隣接市町村栽培茶を総称するる。

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 ダ-ジリンへ向かう交通機関は、標高差が激しいのでジ-プが良い。しかし、昔からここには蒸気機関車列車が運行されている。ダージリン・ヒマラヤ鉄道(Darjeeling Himalayan Railway)と云い、ネパ-ル語दार्जिलिंग-हिमालय रेलवे表示もされている。又の名をトイ・トレインと云って世界中の蒸気機関車フアンに親しまれている。この列車、小さい。おとぎの国に迷って来たような錯覚さえ覚える。機関車の車輪を支えて走るレール幅は軌間610mmと狭い。ナロゲ-ジ610と云うらしい。当然客車も機関車に合わせて小さく、小人の国の列車に乗車している様で面白い。

ここで質問。何故小さな機関車なのか?

解答。

 標高差1700mを平地からダ-ジリン町へ50kmを登攀しなければならない。途中あらゆる場所でS字カ-ブがあり、多くの場所でジグザク走行する。ときにはル-プ状のレ-ル軌道を一回りする。ジグザクして高度を稼ぐ登り方では、先頭の機関車を突っ込んで止まり、次にバックして突っ込み、そして又機関車を先頭にして出発したりだ。分かるかな。

 

 私の乗ったジ-プは、のろのろとダ-ジリン目指して登って行く。そこえこのダージリン・ヒマラヤ鉄道の列車が追い越したり追い越されたりで、さすがインドのダ-ジリンに来たことの楽しさを味あわせてくれた。列車の中の乗客は狭い小人の国列車内で大きく見える。

 この鉄道、紅茶の運搬だけが役割だったわけではない。インドは亜熱帯気候。私もここに来る途中や、ネパ-ルの西方のタライ平野で45度Cの気温を味じわったことがある。そうです。ダ-ジリンはインド人の避暑地なのです。一年中ク-ラ-の設置がいらない涼しく暮らせる。その為に鉄路を開いた。

 

ダ-ジリンの波乱万丈

 ダ-ジリン地域が植民地だったり、現在では隣州のシッキム州の一部で民主化の波で国王を憲法から排除したり、色々と歴史の波に浮いたり沈んだりの地域だった。

その歴史を箇条書する。

昔はシッキムの一部だった。 

1642年チベツトがダライ・ダマ政権により統一されると、チベット仏教ニンマ派の高僧と同派を奉ずるチベット人 の一部がシッキムの地に亡命。シッキム王国を建国。

1780年代後半、ネパ-ルから来たグルン族がダ-ジリンとカリンポンに侵攻、1788年までに一帯を支配。

イギリス領インド帝国時代、イギリス東インド会社がネパールに侵攻したグルカ戦争1814年~1816年でスガウリ条約が結ばれる。

シッキムの王ツグプ・ナムゲルがダージリンとカリンポンの奪還に成功。

1849年シッキムは南部のダージリン地方を当時の3万5千RSルピ-でイギリスへ割譲。

 

ここでダ-ジリンは終了するが、シッキムが気になるので次に見てみる

1866年シッキムやダ-ジリンはイギリス・インド総督府の避暑地となった。

 1888年茶葉栽培のためにネパ-ル人が労働力として大量に移住し、1642年以前からの原住民ブティヤ人を凌ぐ人口を擁するようになった。シッキムの茶葉はダ-ジリンから輸栽培されたので、味がダ-ジリンと同じ。

 1947年にインド連邦がイギリス植民地から独立すると、シッキムにおけるイギリスの地位はインドが継承することとなった。1950年にシッキムはインド・シッキム条約を結び、外交と防衛、通信をインドに委ねる保護国になった。また同条約に基づき、シッキム王国は民主化を進めることが規定。

 以後シッキム王国はインドとの関係を保ちつつ、激しい民主化運動と国王の必死な王国存続の綱引きを展開する。なにせ人口の75%と多数がネパ-ル系シッキム人、最終の民主化成功を導き出した。

 1950年ここから、シッキム王国の民主化が始まる。そして、その民主化がブ-タン王国へ移り、その後1990年前後からネパ-ルの民主化が始まる。

 

地続き3国の民主化、鍵握るネパ-ル人

ブ-タンの民主化は?

シッキム王国は1975年に国王退位。ネパ-ル王国は2008年に国王が退位した。 

 ブ-タン王国にはネパ-ル系ブ-タン人は15%だったので、数で劣る民主化運動派のネパ-ル系ブ-タン人は異教徒として国外追放される末路となった。

 日本の江戸時代にキリスト教徒に踏み絵をして異教徒狩りをしているが、ブ-タン王国のヒンドゥ-教異教徒狩りは、国王警察の拷問だと聞いている。国王はチベット仏教のみを信仰していた。

 国外追放されたヒンドゥ教徒10万人は、現在ネパ-ルのブ-タン避難民村で暮らしている。当時のブ-タンの人口は85万人と云われていたが75万人に減じた。

 その後ブ-タンは国王絶対制を憲法改正して立憲君主制に変更、チベット仏教を国教と規定。まだ国王としては若いブ-タン国王は息子に王位を譲って隠居してしまった。

国王と国民の決定的対立。血を流す民主化は二勝一敗。

 ネパ-ル最東の隣がインドのシッキム州とダ-ジリン市、その隣がブ-タン王国。その3国今なおネパ-ル語とデバナガ-リ文字(ネパ-ル語の文字)が国民の言語となっている。

イヤ-、「楽しいネパ-ルトレッキング」が大分横道に逸れて歩いてしまった。

次回はネパ-ルヒマラヤのトレッキングをぜひ見てみたい。

 

参考文献

エベレスト登頂  ジョン・ハント

シエルパ  根深誠

わが山エベレスト  テンジン自伝

ヒラリ-自伝  エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル  トニ-・ハ-ゲン

  

トイ・トレイン ダ-ジリン鉄道

自動車道路の車と抜きつ抜かれつ

 

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機関車に人  坂道上りで空回りしない様に砂を線路にまく

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ネパ-ルからインドへ入国

ダ-ジリン市まで70kmあるが、イミグレ-ションオフイスの名称はダ-ジリンDarjiling

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ダ-ジリンの街からカンチェンジュンガ峰Kanchenjunga8586m

山の頂上の左側はネパ-ル。右側はインド・シッキム州

ダ-ジリン市はインド・西ベガル州 

ダ-ジリンの左隣の町は国境を挟んでネパ-ルのイラム町、続く茶畑に国境の線は見えない、イラム茶はネパ-ルのお茶、イラムの西隣ダンクタ茶も売出し中

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ダ-ジリンの街

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ダ-ジリンで一番大きなお茶屋さん

大量に茶葉を買う

以後10年くらい毎年ダイレクトメ-ルが来た

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ダ-ジリンの茶畑

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インドの標高300mの町バグドグラ町の茶畑

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ネパ-ル・イラムの茶畑

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ダ-ジリンのお茶工場

茶葉は4月1日が刈取り開始日

ちょうどこの日にダ-ジリン滞在

早速工場見学

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ネパ-ル暫定憲法2007年発布

ネパ-ルの国王退位2008年

ブ-タン絶対王政から立憲君主へ2008年7月

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第17回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十七

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 三回目

標題では「ネパ-ルの楽しいトレッキング」だが、しばらくはネパ-ルの登山を見てみる。

 前回は、ネパ-ル人山岳ガイドのシエルパ族を、イギリス隊エベレスト遠征の歴史から少し見てみた。

 今回は1953年エベレスト初登頂したネパ-ル人ガイドのテンジン・ノルゲイ・シエルパについて少し見てみたい。テンジン・ノルゲイは現在のエベレスト街道、エベレストの麓の村に生まれている。チベットから移り住んだ民族の末裔だ。

 

エベレスト8,848m

エベレストはインドがつけた言葉。ネパ-ルではサガルマ-タ、チベット語ではチョモランマ。

頂上に立って、東西に向って立つとどちらかの足がネパ-ルとチベットに立つことになる。

慣例によってビザは必要ない。慣例でも何でもないが。

誰でも判っていることだが、世界の山々の最高峰。地球のテッペンになる。

 その標高は8、848mで、インドの測量局が測量した数字になっている。その測量局長官のジヨ-ジ・エベレストにちなんで付けられた名称。2015年4月25日のネパ-ル大地震で沈み込んだか持ち上がったか。インドは再測量の用意があると発表している。この地震時に、エベレストベ-スキャンプがプモリ峰に堆積していた氷河の崩壊で、氷河雪崩発生。19人が死亡している。この時にBCに滞在していた札幌在住の女性が足を骨折。今年5月に再挑戦し、エベレスト登頂した。私の登山の指向(思考)とは少し異なっているガイド登山だ。

 ネパ-ル登山のガイドやポ-タ-の話なのに、チョット横道に歩き出すところだった。「登山」と「ガイド登山」は違うのかどうか、などの話は後日に。

 

エベレスト初登頂

エベレストの初登頂は1953年5月29日午前11時30分。イギリス登山隊のエドマンド・ヒラリ-とシエルパのテンジン・ノルゲィ。このお二人、今は天国に居るが、どちらが頂上に立ったのか一生語ることはなかった。二人して、一緒に、一二の三で同時に踏むことは考えられないから、二人共その偉業の大きさが分っていたのかもしれない。

二人が登頂する前の26日に第一次登頂隊が頂上を目指したがダメ。酸素ボンベの酸素が無くなり8749mで撤退。ヒラリ-とテンジンは頂上を目指す二番目のメンバ-だった。

 この登山隊の規模は、登山家としてイギリス人11名、ニユ-ジ-ランド人2名、ネパ-ル人2名、シエルパ20名、ポ-タ-362名、合計400名の大登山隊。

 1921年に第1回目の登山隊がエベレストを目指しているから、第9次の登山隊で、32年かかったことになる。1907年にイギリス山岳会創立50周年記念で、エベレスト遠征計画が持ち上がっていたので、発案からは46年。

 初登頂する一年前の1952年に、スイス隊が頂上に迫っていたので、紙一重の差が栄光と残念の両サイドに分かれる。人類が自然に挑戦し、世界の多くのクライマ-が夢見ていた。

 1953年以降にもスイスやフランスが登山許可取得していた。最初に取りついたイギリス隊が栄光に輝いたのは、順当だったのだろう。 

 ネパ-ルの登山許可制度は、1990年以前は1ル-ト・1シ-ズン・1隊制度があった。現在はどこのヒマラヤ登山でも、BCには何隊も居て、ダブルブッキングだ。今年のエベレスト・プレモンス-ンは30隊以上500名が頂上を目指しているそうな。

 

登頂者のヒラリ-とテンジン

 さて、初登頂したヒラリ-さんとテンジンさん。人類が挑戦してきただけあって、その栄光は華々しい。と云ってもお酒におぼれたり、お金使いが荒くなったり、などの成金とは違う。さすが精神と肉体のスポ-ツ、登山の栄光者は地道な人生を歩んでいる。

 現在のイギリス王女が父親の死で女王になり、その16ケ月後のこの年6月2日に戴冠式を控えていた。5月29日のニユ-ジ-ランド人のヒラリ-登頂ニユ-スは、なんと6月2日の早朝にイギリスに伝わり、結婚していた若干26歳の女王へのプレゼントとなった。

6月6日には、女王エリザベス2世がエベレスト隊とネパ-ルメンバ-への勲章授与を発表。

登頂者テンジンには特別にジヨ-ジメダルを授与。

 隊長のジョン・ハントと登頂者のヒラリ-には、大英帝国勲章ナイトの勲位を授与、サ-(Sir)の称号が与えられた。

ヒラリ-(Sir Edmund Percival Hillary)基金

 アメリカやイギリスは寄付の国と云われる。お金持ちの市民は、福祉や教育やスポ-ツ活動へのカンパ活動が盛ん。サ-と云われるようになったヒラリ-さんは、多くの寄付を集め、ネパ-ルの山岳地、特にエベレストの麓に住む就学児童への教育活動を始める。

ダ-ジリンのテンジン・ノルゲィ登山学校

一方、テンジンさんは、1954年にダ-ジリンに登山学校を設立。

 この頃、ネパ-ルでは、130年間の鎖国政策から1950年に開国し、国民に登山や観光などの概念はなかった。国民に無いのだからネパ-ル政府は関心さえもなかった。

 長い間チベット地域からエベレスト登山を行ってきた外国隊は、ダ-ジリンに居るシエルパ族を登山の案内人とし、隊荷物を運ぶのもシエルパ族だった。

 ネパ-ルがネパ-ルヒマラヤの登山隊を旺盛にする意図でヒマラヤン・ソサエティを1956年にカトマンドゥに設立。観光の意味も分からなかった政府官僚はなにをしたら良いのかも分からない始末。テンジンに入会依頼するが、インド国籍のテンジンから断わられる。ネパ-ル政府はダ-ジリンに出向いてシエルパ族をあつめざるを得なかった。

 ネパ-ルは1969年に政府内に観光省を新設。ヒマラヤン・ソサエティに代わってネパ-ル山岳会を設立。1977年に観光省登山課を新設。ようやく登山やトレッキングや観光が何なのか、国の役に立つのかが分かってきた。1998年にシャイレンドラメラジ・シャルマンさんが初代課長に就任。私の友人の経営するエ-ジエント会社にこのシャルマ氏の学友が勤めていた。

話は、又々横道を歩き出している。この続きは後程。

 

参考資料

エベレスト登頂  ジョン・ハント

シエルパ  根深誠

わが山エベレスト  テンジン自伝

ヒラリ-自伝  エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル  トニ-・ハ-ゲン

 

ヒラリ-とテンジン

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エベレスト 8848m

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テンジン登頂

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ダ-ジリンの街

後峰はカンチェンジュンガ峰(ネパ-ルとインドの国境の山)

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テンジン・ノルゲィ・シェルパ

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ダライ・ラマとテンジン一家

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女王エリザベス2世の勲章とメダル

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テンジン・ノルゲィ死去1986年5月9日

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ネパ-ルの楽しいトレッキング 第16回

ネパ-ルの楽しいトレッキング その十六 

ネパ-ル人ガイドとポ-タ- 二回目

 前回は、私達がヒマラヤ登山やトレッキングでお世話になるネパ-ルメンバ-のトレッキングガイドとポ-タ-を見てみた。

今回はヒマラヤ登山のガイドとポ-タ-を見てみる。

 

ネパ-ルヒマラヤ登山のガイドとポ-タ-の歴史はどうなっているのだろう。

ネパ-ルの登山メンバ-であるガイドの歴史は、それほど昔ではない。

ネパ-ルは130年間鎖国政策を取っていた。その鎖国を解いて開国したのは1950年。

この1950年前後のエベレスト登山とネパ-ル人ガイドの関係から調査してみた。

 

エベレスト登山とネパ-ル人ガイド・シエルパ族

ネパ-ル民族の歴史

ネパ-ルにシェルパと呼ばれる民族が生活している。

 現在のネパ-ル人民族は、その歴史から三種に見て取れる。まずその一つは、インドからネパ-ルに移り住んだ民族。インド系ネパ-ル人と云われている。ヒンドゥ-教のカ-ストの最高位カ-スト・ブラ-マン民族など。

 そして、元々ネパ-ルに住んでいたタル-民族や、首都カトマンドゥ盆地の原住民ネワ-ル民族など。

最後に、チベットから移り住んだ山岳少数民族シェルパ族やライ族・グルン族など。

 現在では、案内人のことをシェルパと呼び、この言葉は国際語になりつつあるようだ。登山やトレッキング時にシェルパ族を案内人として雇用する。登山の案内人をシェルパと云う登山愛好者がいるが、私はガイドと呼ぶようにしている。その訳は、登山案内人にはライ族やグルン族などの呼び方が他の民族が居るから。それとシェルパ族はエベレスト登山で名をはせ、危険を伴うヒマラヤ登山で勇敢な案内人としての歴史もある。1950年前後のネパ-ル登山案内人は、シエルパ族しか居なかった。

 

エベレスト登山の歴史

 ネパ-ルヒマラヤの登山案内人のシエルパ族の説明には、エベレストの登山の歴史について触れないわけにはいかない。

イギリス隊のエベレスト遠征

第1回エベレスト遠征 1921年 以後17年間 チベット側から 起点はダ-ジリン

第2次エベレスト遠征 1922年

第3次エベレスト遠征 1924年

第4次エベレスト遠征 1933年

第5次エベレスト遠征 1935年

第6次エベレスト遠征 1936年

第7次エベレスト遠征 1938年 

第8次エベレスト遠征 1951年 初のネパ-ル側から

第9次エベレスト遠征 1953年5月29日午前11時30分登頂

 ジョン・ハント隊長の率いるエベレスト登山隊、ヒラリ-とテンジンが登頂

 

 イギリスは1921年初の登山隊派遣から32年を経た1953年に、エベレスト登頂の栄光に輝いている。

 いや、イギリスはイギリス山岳会創立50周年の1907年にエベレスト遠征計画が行われていたから、計画からは46年間とも云える。第一次世界大戦で計画がとん挫、大戦後に再びイギリス山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となってエベレスト遠征計画が再開する。

シエルパ族登場

1920年イギリスはネパ-ルへサガルマ-タ登山計画を提出するが、ネパ-ルはラナ時代 の鎖国政策中で不許可、ダメ。

 そこで、チベットのダライ・ダマに許可申請し許可される。ここでネパ-ル側からのキャラバンや登山ができず、チベト側からの遠征となる。チベットは独立国だった。

 ここで初めてシエルパ族が登場する。現在のインド・ダ-ジリンに居たシエルパ族は、チベツトから移り住んだ民族で、チベット経由のエベレスト登山に最適な山案内と隊荷物のボッカをするポ-タ-役となった。

現在のインド領ダ-ジリンは、それ以前にはシッキム王国の一部だった。

 当時、インドはイギリス政府の植民地で、標高2千mの紅茶の茶葉産地ダ-ジリンはカルカッタ政庁の夏の避暑地の拠点となっていた。

以後イギリスや各国の登山隊もダ-ジリンを拠点地とした。

 1924年から第4次エベレスト遠征の1933年まで9年間のブランクがある。第三次遠征隊が許可のないチベット・ロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ダマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山許可が出なかった。

1938年の8次以降は、第二次世界大戦の影響で登山隊の派遣が見送られた。

 1950年ネパ-ルが鎖国を解き開国。1951年にはインドの援助でインド亡命していたトリブバン王がネパ-ルへ帰り王政復帰する。

ネパ-ルは1949年に外務省を新設して登山隊の受け入れ態勢を整える。

 

参考文献

エベレスト登頂 ジョン・ハント

シエルパ 根深誠

わが山エベレスト テンジン自伝

ヒラリ-自伝 エドマンド・ヒラリ-

ネパ-ル トニ-・ハ-ゲン

 

ネパ-ル側のサガルマ-タ 8848m

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チベット側のチョモランマ

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テンジン・ノルゲイ・シエルパ  エベレスト初登頂

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1953年 登山隊長のジヨン・ハント

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エベレスト初登頂 エドマンド・ヒラリ-

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テンジン・ノルゲィ・シエルパ

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